2019.10.03

こつこつ、時代小説

10月3日(木)本所おけら長屋
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ブログの友人の紹介で読み始めたこの時代小説。
評判がよいのか図書館には一冊だけ置いてあったが、最初から読むといいと助言もいただいて、図書館の「取り寄せ」を申し込み、待つこと数か月。
取り寄せ本には順番指定ができるので、希望通り(1)から読み始めて(8)まで読んでいる。
その続きも4冊ほど申し込みしているので、この週末には手元に来る予定になってる。
貸出が二週間で他の希望者もいるらしく延長貸出は出来ない。
まあ二週間で4~5冊なので、だいたい2~3日で一冊となるが、これは「遅読」者の自分としては速いほうだ。
コンスタントに読み物が続くのは、けっこう精神衛生には良いのである。
もっとも苦痛をともなう「続き読み物」だとできないが、なかなか面白いので肉体的かつ精神的苦痛は皆無な小説だと思う。
しかし時代小説といっても、こりゃあ「落語」の世界を小説化したものだと思うし、映画「男はつらいよ」の時代小説版のようなものだと、納得する。
人情「おけら長屋」の可笑しく滑稽でありながら、人が人と寄り添うっていう、けっこう全体としの読後感は「生きる」ことの素晴らしさ、転んでもただでは起きない「はみだし者」のエネルギッシュさが、心に残る小説といっていい。
一話完了形の展開が、これまた「こつこつ暇時間読書」にはツボにはまる。
「世知辛い世の中」、きっと今も昔も生きがたい世はあったはずで、そうした中にちょっと頓馬でお馬鹿で金なし教養なし地位もないという長屋の面々の「お節介」話が、一服の清涼剤になる。
本が好きだとか嫌いだとか、人それぞれではあるが、楽しく読める時代小説であることは間違いない。
さてさて、ブログの友人いわく「主食というよりおやつ感覚で読んで」と紹介された、取り寄せ本の続きが楽しみである。

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2019.08.30

気ままな読書はエトセトラ・・・

8月30日(金)彷徨読書ってことで
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図書館で五冊ほど取り寄せしているが、順番待ちで待ちくたびれて、目につくタイトル本を借りている。

これと決めずに借りる本をながめると、なんとなく嗜好というか思想みたいなものが出て来るものだ。

6冊のうち「宮本常一」は取り寄せ本、「夕映え 上・下」はやっと見つけた宇江佐真理の文庫本、その他は気ままに借りた三冊。

〇「夕映え 上・下」宇江佐真理
江戸幕府が終焉を迎え、薩長連合の維新軍が江戸を攻め、明治時代を確立する時代背景のなかで、おでん屋稼業と十手持ちの夫婦、娘は青物屋に嫁ぎ、息子は彰義隊に参加する。
市井の家族が幕末期のなかで生きる姿、日々の暮らしから、激動期とからみあう。維新の英雄から時代をとらえる小説とは、ちょっと異なる庶民目線がこの本の面白味ともいえる。

〇「宮本常一 伝書鳩のように」
民俗学者、宮本常一のファンである。コツコツと日本中を歩きまわり土地々々に生きる人々の暮らしを記録した、この作者の本は学問が人の暮らしと直結していることを教えてくれた。久しぶりに読むが、新聞書評で知り取り寄せた本。
気になった一節があったので。
「ちかごろ、自分と立場を異にするものをつめたく冷ややかに見、その欠点をあげつらうことを批評と心得、批判精神が旺盛だと心得ている人が多いのだが、対象の中へとけこみその本質的なものにふれることなくして本当の批評というものがあり得るのだろうかと思っている」
「気のきいた言葉とその場その場を調子にあわせて生きていくことが、はたして本当の人間の姿であろうか。人生というものはそんなに浅くまた小波のたった流れのようなものであろうか」と。
もう遠い昔の著書であるが、物事に真摯に関り生きるという意味では、深く示唆に富んでいる一冊だった。

〇「宮部みゆきの江戸怪談散歩」
怪談ものは好きである。途方もない非現実的な「恐怖心」を思い起こされるような小説は、居心地がよいのであるが、一瞬の読書の間だけでも、陰鬱な実社会から遊離できるのが楽しい。
のであるが、怪談話の虚実にかかわらず、その恐怖心が「人間の心の闇」に結び付けれれていると、さらに怖くなる。
「曼殊沙華」という作品は傑作だと、曼殊沙華の花の中に見える「顔」が・・・ああ怖い!

残りのあと二冊を読み始めているが、貸出期間の延長をしなきゃならないだろうなぁ。

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2019.05.13

江戸の夢

5月13日(月)時代小説の面白味

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図書館から好んで借りている宇江佐真理の時代小説、もっぱら文庫本なのでとうとう棚の本が尽きてしまい、いよいよ単行本へと手をのばした。
ついでにエッセイ本「見上げた空の色」も今読んでいる。
「江戸情緒」と言われる風情は今の大都会東京にはないのだろう。
400年前の江戸時代の姿を残す建造物などは見られるが、情緒を感じるよりも観光都市の名所であり、そこから昔の姿を想像するにはちょっと無理がある。
むしろ映画やドラマの中の一つの風景の方が、江戸情緒を思い起こしやすいのだろう。
とはいえ、宇江佐真理の描く深川あたりの情景を当時の古地図などと見比べながら読むと、少しだけ情景も膨らむ。
そんな江戸時代の情景を思いながら、登場する町奉行や同心や商売人などが闊歩し話が展開されるのを、小説の醍醐味だと楽しんでいる。
宇江佐真理さんは言う「江戸時代から我々が学ばねばならないこと」は「人間の生き方にほかならない」と。
小説を学問と思う心意気はともかくとして、その学ぶべき「江戸時代」の情緒って何かと考える。
小説には「なさぬ仲」「割無い仲」の人々がけっこう登場する。
「なさぬ仲の母と娘」血のつながらぬ親子関係だったり、「割無い仲の男と女」理屈ではどうしようもできない男と女の情愛。
昔から今日に至るまで、市井の人々の持つ感情であり、心の在り様はきっと変わらないのだろう。
もっとも人間関係が希薄となったと言われる今、血縁なき家族の姿も珍しくないし、熱愛が突出するほどの関係を冷めた目で見る人も少なくないような気がするが・・・
情緒というのは人の感情をさすと思う。
恋愛感情に悶々としたり、なさぬ仲の家族に悩んだりというリアルな暮らしを経てきた人にとっては、小説のなかで描かれる人間関係にちょっと救われる気持ちになるのではないかと。
小説を読み終えたあとに残る清々しい気持ちは、宇江佐真理という作家の人間関係にたいする心の広さが深味としてあり、それが読後感として残るのだと思う。
そういうものを支えているのが江戸の町々の風景の描写であり、そこで暮らす登場人物の個々の心情である。
頭のなかで江戸の町々を思い浮かべ、人物が意気揚々とあるいは喜怒哀楽を持ち生きている姿を想像する。
映画やドラマで見る情景の裏側の人間模様とでも言えるだろう。
「糸車」はそうした江戸情緒を想わせる一つの作品であるが、作品を読み終えて改めてこの絵をみると、なるほどと納得するものがある。
絵だけを見ていても通り一遍の「小間物の行商をするお絹と町方同心持田」の町人と武士の姿でしかないが、自分の心情を登場人物に投影して読んだ後に見る絵はなかなか感慨深く、まるで生きているような二人に見えるものだ。
しかし歳を重ねると「感動」という気持ちも薄れるのは、自分の心持もあるが情緒なき社会の世情によるところも少なくない。
気持ちを新たにしたり感動したり爽やかさに心が動かされたり、時には落涙したり・・・若い頃には純情に反応した心持が、こうした小説を読むことで再び新鮮に味わえるのはなんと倖せなことだろう。
「江戸の夢」はどなたかの解説の中で宇江佐真理さんの小説は私たちを「しばし江戸情緒の夢に誘ってくれる」と言ってた。
まったくそうだと思うのだな・・・

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2019.03.11

あれから

3月11日(月) 普通に暮らせるありがたさ

8年前の2011年3月11日、東日本大震災で多くの方々が被災した。
あの日、職場のカウンター越しに来客対応をしていた。ゆっくりと揺れが来て、眩暈を起こしたのかと思った。
遠く東北地方の地震が名古屋でも感じられた日。
しばらくして、テレビ報道を見たYさんが「津波の被害が凄い、地獄のような・・・」たしか、そう言ってたことを思い出す。

その後しばらくして、福島の原子力発電所から水蒸気があがり爆発を起こした。
メルトダウンを起こしたら、もう汚染は拡散して、あのチェルノブイリの二の舞になると思うと、とてつもない恐怖や不安が襲ってきた。
あれから8年の歳月が経つが、復興も途上だしまだ故郷に帰れない方々もいる。
何にもまして、原発を廃棄して自然エネルギーなどへの転換が基本のはずが、「原発廃棄」という方向すら見えなくなって、いったいあの8年前に感じた思いはどうなったのだろうかと。
今でも思い続けているのは、何事もなく普通に暮らせることのありがたさであり、原発を廃棄して、自然エネルギーなどへと「エネルギー政策」の転換が未来への道、ということ。
何事も忘れずに、あの8年前の衝撃を心に持ち続けることだと思う。

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宇江佐真理さんの本を読み続けている。
最近面白いと思ったのは「十日えびす」。江戸の時代小説であって、実は現代小説の読後感だ。
引っ越しした先の裏店で繰り広げられる人間模様。もう、そのまま現代の親と子、兄弟関係、向こう三軒両隣、よくもまあ、こうした住人たちの暮らしぶりや人間関係を描いたものだと感心する。
貧しいけれど普通に暮らす、その普通の暮らしのなかの喜怒哀楽。
普通に暮らすために、人は我慢もしながら、情を交わせあうという、下町風情がある。
良いも悪いすべてを受け入れ、辛抱しながらも、人との交情を築いて行くという、普通の家族にあるしがらみを捉えるところが見事といえる。
そうした市井の裏店人生ともいえようか、人間っていいものだ!とちょっと心が洗われる思いの作品で、読み応えがあるのでおすすめ。

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2019.03.06

おきゃあがれ

3月6日(水) 啓蟄


大地が暖まり土の穴から虫が顔を出すというのが二十四節気「啓蟄」の意だという。
少し季節も穏やかになると、人間も虫におとらず、いろいろと顔をだす、「虫の居どころ」ってやつだ。

宇江佐真理さんの「髪結い伊三次捕物余話」シリーズを読み終え、あわせて他の小説も読んでいる。
前後したが最後に読み終えたのが「黒く塗れ」、ちょうどシリーズの五作目で、この中の「慈雨」という作品が読み終わりになった。

巾着切り(スリ稼業)の直次郎は惚れた娘お佐和のために、自ら指を潰し稼業から足を洗っていたが、惚れた娘を忘れられない。お佐和も同じである。
恩ある人の娘に「巾着切り」の過去をもつ直次郎とは添遂げさせるわけには・・・伊三次は悶々と悩むものの、最後には伊三次に見守られお佐和に意を告げに行く。

雨降るなか「抱き合う二人の姿は、まるで紗をかけた一幅の絵だった」。
この作品の文庫版によせてで、作者みずからが「あとがき」を書いている。
この「あとがき」がつくづく面白い。

読者から函館じゃなくて浅草の下町あたりに住んでじっくり下町情緒を学んではどうかと言われ「おおきなお世話」ときりかえし、巾着切りの直次郎を幸せにしてくださいと読者の悲痛な声が聞こえ、この「慈雨」で成就させている。

人の意見は聞かないほうだと自分を評しているが、どうしてどうして、今を生きる読者の声もちゃんと反映させた作品になっている。
こうした今も昔も変わらない市井の人情を見事に捉えているから、伊三次とお文はどう歳をとってゆくのかと気になる。

もっとも宇江佐さん自身があとがきで述べていたが、「宇江佐真理の作品には人情はあるが哲学がない」と言われたと。
なるほどなるほど厳しい指摘ではあるが、その市井に人情物語を構成するために、江戸の本所深川や日本橋や河岸などを細かく調べ、市井にとどまらぬ江戸時代文化などを調べたりと、とても精力的な成果と思う。

「哲学がない」言いえて妙ではあるが、江戸時代の下町文化を土台にしているから、読み重ねていると、実際には見たこともな「市井の街角や裏店に息づく人々が、絵のように動いているのである。
江戸の市井の人々の言葉使いにも目をみはる。粋でいなせと言われた「深川芸者」の言葉使いなど、なんともまあ面白い。
そんな中でほとんどの作品で出て来る「おきゃあがれ」という言い回しに、文化、文化というけれど、こういうのが「市井文化」の典型かもと思ってしまった。

「おきゃあがれ」、やめてくれ、ばかを言うな、よせやい、といった意味で、江戸言葉??
相手との会話のなかで成立する否定の言葉ではあるが、そこに溢れる愛情というか人情というか、ストレートな物言いばかりが目立つ昨今、少し気持ちの込められた会話が、肯定も否定も含めて、人間関係をつくり上げて行く・・・と思う今日この頃、人の思いは千差万別であるという、忘れがちな事実である。

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2019.02.16

行きつ戻りつ・・・

2月16日(土) ふたたび「髪結い伊三次捕物余話」の話

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寒かったり少し寒さがやわらいだり、季節が行きつ戻りつしながら春に向かっている。
文庫本「髪結い伊三次捕物余話」(宇江佐真理)を半分ほど読みえたところで、残りの四冊ほどを図書館の取り寄せで申し込んだ。

こういうシリーズ本は最初から読むのが普通だが、ちょうど真ん中あたりから読み始め前後しながら、やっと第一作の「幻の声」にたどりついたわけ。
頭書からこのシリーズを読んでみようとは思っていなかった。たまたま手にした「我、言挙げず」に心ひかれ、そこから始まった。
本を読むときは、だいたいそんなもので、その出会いがまるで人に会う、再会するようなものだと思っている。

小説の面白さを宇江佐真理さんは、「小説とは人間の人生を描くものである。部分的にせよ全体的にせよ、百人いれば百通りの人生があり、ひとつとして同じものはない(「雨を見たか」文庫本へのあとがき)」
と書いている。
小説の面白さを端的に表している。自分自身の人生など幾通りの人生の一つでしかない、しかし一つでしかないがゆえに大切にしたいと思うのである。
豊かな人生の物語、自分では経験することもない人生を「物語」を通して知る、そうしたものに共感したり、とまどったり、切なく哀しく思ったり、あるときは勇気というものに触れたり・・・

なんとまあ多様性を内包した芸術だこと。さて、これからシリーズ初めに戻って、コツコツと読み始めようと思う。まさに行きつ戻りつ「髪結い伊三次捕物余話」シリーズを楽しむわけだ。

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2019.01.27

髪結い伊三次捕物余話

1月27日(日) 寒い冬の日は心暖まる小説もいい

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宇江佐真理の「髪結い伊三次捕物余話」シリーズの文庫本を5冊ほど続けて読み、昨日は珍しく貸出延長なく図書館へ行き、新たに著者宇江佐真理のあれこれを借りる。
小説はほとんど読まない人もいれば、好きで何冊も読む人もいる。

作者にこだわって読む。
女流作家の時代小説がおもしろいと思ったのは杉本苑子以来の二人目だが、この二人の作家の特徴が類似しているかというと、そうでもないが、時代背景のなかで人物を生きいきと描いているのは共通する。

「髪結い伊三次捕物余話」は髪結い伊三次をとりまく登場人物の個性がおもしろい。
人情に厚いだけでなく、貧乏な下町人生をそれぞれに生きる人々。

とりわけ伊三次の妻「お文」、北町奉行同心不破友之進龍之進の妻「いなみ」「きい」といった女性たちのきっぷのよい優しさと芯の強さはこの小説の見応えのあるところだ。
こうした凛とした生き様は作者宇江佐真理その人の姿なのだろうかと思われる。

小説を読むのは面倒なことであり、一冊の活字をひろい読み終えるには、相当の時間もかかるから、映画やコミックなどに比べれば、慣れも我慢も忍耐も必要かもしれない。(もっとも楽しくて次は次はと期待に胸膨らむ本もあるが)

一枚のフォトを見てあれこれ思うには数分もあれば済むから、なんとまあ手間暇かかるのが小説という文芸スタイルではないか、現代の忙しい人たちには厳しいものもある。
しかし時間をかけてコツコツ読むから知り得るものもある。

小説の情景を想像し、そこに本当に生きているかのごとき登場人物を据え、それが時代とともに成長してゆけば、こんなにおもしろいものはない。
そういうある種の「情念」の世界に心底ふれることができるのも、コツコツじっくりの読み物だからとも言える。

髪結い伊三次捕物余話シリーズなどは、作者の歳月にあわせたように登場人物も歳を重ね、子は成長し、若さもすこしづつ衰えて行く主人公たち・・・

そういう「物語」のなかのリアリティこそが、時代を超えて「今」の人の情けの尊さを気付かせてくれるし、数少ない「心が洗われる」ことがらでもある。
小説は楽し!と思えるところに何気ない日常の幸せ感がある。
図書館にいったついでに宇江佐真理の小説がどれほど揃っているものかとブックオフに寄ったら、ついに3分の2ほどがコミック本コーナーとなり、文庫本の小説コーナーは縮小の一途。

学生さんらしき若者たちがコミック本を探していた。
手軽さや読みやすさ、視覚的な本の便利さが主流となっていく「本」の世界。面倒だと思っても、コツコツ時間をかけて、ゆっくり「本の世界「物語の世界」に没頭するのは時間の浪費と引換に手に入れるもう一つの「人生」だと思うと、浪費もよかろう、人生は楽し、というわけである。

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2018.12.14

図書館はありがたい

12月14日(金) 「老人の館」?

「師走」という文字をみただけでなんとなく忙しくなってしまう12月。

Photo あちこちで貰うカレンダーを今年のものの裏に重ねて吊るすと、毎月剥がして一年の最後に残った一枚がちょっとだけ寂し気になる。
一年の過ぎるのが早い。

今年も図書館の本にはお世話になった。12月は特別に貸出冊数が増えて10冊まで借りられる。
写真の浅田次郎と松本清張は読み終えて返却したし、今は他の図書館から取り寄せたものとあわせて8冊ほど借りている。
取り寄せ本も貸出延長もネットでできるので、便利というよりもありがたい。

【老人の館】
少し前の話題で図書館を利用する高齢者が増え、備え付けの新聞を読んだりして過ごすといった日課のような利用者も増え、そればかりか人集まれば新聞や席の取り合いとか、時には失禁もなど、行くあてのない高齢者の、まるで「老人の館」のような様相もあるという。
あらためて気にして見ると、たしかに閲覧席はいつも高齢者が多い。
「老人の館かぁ~」変なネーミングだ。

過って病院の待合室が「高齢者のサロン」となっていると言われ、次にやってきたのが「医療費の自己負担の増」だったのを思い出す。
図書館に高齢者が日課のように通うのは微笑ましい光景で、家に居てテレビがお友達の一日を過ごし、ひいては健康寿命も下がり、医療費の増加となるのならば、図書館が高齢者のサロンとなり、すくなくとも外に出て健康につながるならばそれでいいのではと思う。
図書館がどんどん委託化され、この先「貸出・閲覧」の有料化などと・・・そんな布石の話題作りでなければいいのだけれど。
【なるほど!と思った話】
友人と話していたおり読書の話となった。
友人曰く「最近はあまり本を読むことはない」という。それに続いて出た言葉が「本など読んでいる時間がもったいない」と。
なるほど「ほぉぉ~」と目から鱗であった。もっとも友人は釣りや登山や旅行などの趣味を持つから、家の中で「うじうじ」(そう言ったわけではないが)と本を読んでるのは趣きに反するということかも知れない。

死ぬまでにどれほどの本が読めるのか、好きな作家本でまだ読んでないものがたくさん残っているという、そんな発想が主な自分には、なるほど!と変に納得できる話であった。
暇な時間を潰すのであるならば、読書もスポーツも映画も絵画も旅も同じで、ちょっとでも体を動かす方がはるかに有益ということか?

日々の暮らしの中の「生活」と「暇」を同じこととして、楽しむことが出来ていればいいし、その生活の一部に「読書」を置いているというだけであって、そういう楽しみが他者と共有できれば、なお楽しいというだけだと思う。

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2018.06.13

新・水滸伝(吉川英治)を読み終える

6月13日(水) こつこつ・こつこつ読書

ほぼひと月ほどかかって吉川英治の「新・水滸伝」を読み終えた。

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寝る前の時間を使って読む、ストーリーを忘れて前に戻りなどして少々苦労する。
長編ものは忍耐も必要とするが、図書館本はネットで貸出延長ができるので、ほぼひと月ほど借りられるのが有難い。

もっとも面白いから続けて読める。これが解説本や知識本のつまらない本なら、忍耐どころか途中放棄となるに違いない。
小説は「つくり話」なので、知的好奇心から外れるのだろうけれど、どんな「本」であろうと読み手が何を感じ取るかが問題。

案外、いろいろな知識の詰まった本よりも、人の心の奥底の「心情」、社会と人間との関りについて知る・・・という意味ではこれも「知識本」なのかも知れない。

「つくり話」という概念が小説への壁になってるようにも思う・・・歴史本は真実で小説はつくり話だというが、真偽よりも人間の本質に迫るという面白さだと。
 
というわけで、新・水滸伝。中国の宋朝の時代というから1100年代ころの話。
ある宮廷将軍が108つの魔が封じ込められた開かずの祠を開き、この邪星妖星が人の世に飛び散り宿るという、まあ伝奇小説らしい始まりで、この108の魔星の一つ一つが人間になぞられ「梁山泊」という水郷地帯で一大勢力をかたちつくる。
 
脛にキズ持つ、あるいはなんらかの犯罪の過去を持つ、いわば社会からの「はみだし者」「漂泊者」「アウトサイダー」などなど、そうした者たちが「梁山泊」に集うという話が水滸伝の話の中心になっている。
 
官の腐敗と民の貧困が社会の常道である時代、こうした事への憤りから任侠、義侠、情と恩など尊び悪政をただす活躍を行う。
まあ、日本の水戸黄門の印籠的「世直し」に似てはいるが、お上による人情・正義話と、お上とは反対の側からの「世直し」の違いはある。
 
史実的には「宗史」などに、こうした民衆蜂起などの歴史があったと書かれていて、この時代には各地で頻発したらしい。
こうした話が民衆の中で語り継がれ、時代が流れるなかで「水滸伝」という物語として結実したようだ。
 
法よりも財と暴力が社会を支配していた時代に、こうした世には受け入れられない人々、漂泊の人生を余儀なくされた「はみ出し者」が、悪政により腐敗した官を正す痛快さが、人々の中に底流のようにあったということだ。
 
物語の一つ一つには艶恋沙汰や義憤や間抜けさといった俗社会のおもしろさがある。
その面白さはいつの時代でもある管理された社会や「世の常識」にどことなく違和感をもつ人々、それを「はみだし者」というならば、そうした人々の理解されざる、理解を超えた真実のおもしろさだと思うのだが・・・

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2018.05.19

借りる本、買う本

5月18日(金)「君たちはどう生きるか」(原作:吉野源三郎)
図書館に本の返却に行く。
二週間で6冊が借りられるが、最近は妻から「軽めな本」をと所望されアガサクリスティーの推理本をも含めて借りている。
今日は浅田次郎本の在庫を見ながら、少し軌道修正して吉川英治の「新・水滸伝」を借りる。
しかし活字を追うというのは歳とともに「厄介な」作業になるもので、集中力とかモチベーションとか・・・、ちょっとだけ「努力」という気持ちも必要になるが、我慢して読んでいて、突然パッと何か本質めいたものが見えることもあり、そういう時は嬉しくなる。
まあ、図書館で借りる本は無料なのでありがたいとはいえ、最近の人気本はほとんど見当たらないが、古くても新しくても、その本質のようなものは時代が変わっても、それほど大きな違いはないように思われる。
今年になってこの半年ほどで書店で購入した本は数冊だけで、それも娘との待ち合わせ時間の合間に新聞記事や広告などで知り買った本ぐらい。
そのうちの一冊が「君たちはどう生きるか」(原作:吉野源三郎)であり、200万部ほど売れているベストセラー。

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店頭の目立つところに平積みされていた。
何がそれほど多くの人を読ませているのか、読んでいる世代は若者だろうか、というのが率直な思いであった。
漫画半分、活字半分の内容で、タイトルの真面目さが今流ではないが、それもそのはずで原作は80年ほど前に出版され、時代背景としては日中戦争が始まり軍部の暴走が始まろうとするころの話である。
主人公コペル君と叔父さんが交わすノートのやり取り、自分を、友だちを、社会をどう見るのかという、そんな内容の作品であり、コペル君は浦川君という「貧しく」「いじめを受ける友だち」との関りを通して、いろいろ気付いて行く。
そんな成長の足跡をしっかりと「ノート」の中でいっしょに考えて示唆してくれるのが叔父さんというわけだ。

人生の半分以上が過ぎた世代、シニア世代にとって「君たちはどう生きるのか」という問いかけがどういう意味を持つのか・・・
今さら「どう生きるのか」と自問するよりも、過ぎてきた経験値や知識の多さをよりどころに、分かったような自己解釈を処世術の糧とすることのほうが一般的である。
そういう「老い」とともに頭をもたげる「思い込みの解釈で人生を説く」けれど、ほんとうは確信を得られない世代にとって、新鮮な「疑問」永遠の「疑問」なのが「どう生きるのか?」ということだと思う。
漫画という装丁が「読みやすさ」を求める若者や、けっこう真剣に生きることに悩む若者世代に読まれ、何十年と人間をやってきても「どう生きるのか」のう問いに答を出しあぐねているシニア世代にも、やはり「覗いてみたい真実」のような魅力になって、200万部も売れているのだろうか。
友人のOさんは原書を図書館に取り寄せているという。私より先輩世代のTさんはいち早く読んだと言っていたのでけっこう知る人は知る本のようだ。
あれこれ解釈することや知識を競うよりも、社会や人との関りのなかで、何をどう考え、いかに真実を求めて行くのか。

「つまらぬ知識」や「頑固な思い込み」「独りよがりの自己プライド」などが邪魔をして、「新鮮な気付き」という感覚も薄くなりがちである。
物事を広い視野でよく考えて自分の道を見つけなさい!と、残りの人生も多くはない自分に言い聞かせる今日である。
老いも若きも、考えさせられる一冊にちがいない。

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