2017.09.18

台風去りて

9月18日(月) 松本清張の短編集を読む台風の日

久しぶりに暴風の強い台風だった。通風孔からゴォーと風の音が聞こえるたびに、十数匹まで増殖した、めだかは生きてるかと窓から鉢を確認する。

「めだか、めだか」と毎日言ってると「何がそんなに・・・」と妻が言う。
あることに執念を持つ、別な言い方では「拘り」。そういう種族は概ね「変人」と言っていい。
「変人」というのも人を表す「属性」の一つである。

芸術というのも一つの属性に違いはないが、そうした「属性」を取り払ったときに残るのが人間の「本性」で、それが豊かなものかどうか?
「肩書」ほど人の本性を見誤らせるものはないが、それでも人はいろんな属性を好み、時には没頭し、命を懸け、人生をかける・・・

というわけで、台風を前後した二日間。松本清張の短編集を読む日々となった。

Img20170918_04410年ほど前に発行の文庫本なので赤茶けて活字が小さい。最近は小さい活字が読み辛くなった。

12編ほどの短編が収録されてる。その多くが学芸を職業とする・・・つまり学問と芸術を「生きる」主人公の物語といえる。

民俗学、考古学、詩歌、絵画、そうしたものに生活の全てをかける人が、現実社会から疎外され、あるいは受け入れられない「才能」に苦悩するという、いわば「不幸」を登場人物から知る。

現実から乖離する暮らしを支える「女性」が彼らを、かろうじて「実生活」に引き戻すあたりは、なんとも男女参画共同社会の今日からすると古い時代背景があるが。

学問・芸術はいつの時代も暮らしとの浸透性が少ないものであるが、そういう学芸という属性を引き剥がされて残る人間性がどんなものか?あまりにも薄っぺらなものだけが残るとしたら、はたして学芸そのものに、「人間」に迫る「才能」が本当にあるのだろうか。

・・・と、まあそんなことを思いながら、雨と風の台風の日を過ごしていた。
めだかは、成魚も稚魚も流されることなく台風一過のちょっと暑さの戻った秋晴れの空の下で元気に泳いでいた。
めだかはめだかであって、修飾はなくてもいいじゃないか。

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2017.09.07

神々の国

9月7日(木) 気晴らし読書

この夏はまともに読書ということも少なかった。

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子どもむけの絵本を読み聞かせ・・・、というよりも、適当に登場人物などを作って、話も超短縮して孫に読むと、意外と「受ける」のもわかったが、それにしても今年は活字から遠のいた夏だった。

前回の8月、図書館で借りた四冊のうちの2冊がこの聖書物語(旧約・新約)。

アダムとイブから始まる人間と神の物語が旧約ならば、新約はイエス・キリストの生誕から始まる物語だ。

気晴らしでほどほどに読んでいたが、挿絵の宗教画がおもしろい。古典の文書に沿って忠実に描いたのだろうが、そのエネルギーには「聖書」には縁遠い僕など、やはり面白いのである。

神々の国の歴史という「文化」としては、物語性のおもしろさ。人間が創り出す人間に似た「神」の姿を想像する楽しさといったら、キリスト教関係者に失礼だろうか。

まあ、日本に根付いた信仰心が、自然界に生きとし生けるあらゆる生命を根源としているとするならば、その自然観の違いが、その違和感としてあるのだろうが・・・

ほどほどに気晴らしに読む「神々の国」の物語としては、おもしろかった。
さて「読書の秋」もやってきたので、さしずめ松本清張の続きから始めようか・・・よく知られているがまだ読んだことの無い作品たち、こういうものの中からお宝発見と行きたいなぁ。

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2017.06.13

太宰治の忌日

6月13日(火) あの頃の自分は・・・

歴(こよみ)を見ていて太宰治を偲ぶ「桜桃忌」が6月19日で、玉川上水で情死したのが13日、その後発見された19日は、奇しくも太宰の生まれた日。

16日と19日の違い。なんともまあ無頓着に思い込んでいたことを知り、おもわず苦笑してしまった。
その日19日には三鷹の禅林寺で「桜桃忌」としてイベントが開かれるというが、現在でも開催されているのだろうか・・・

高校生だった頃のもっとも感銘を受けた作家が太宰治であり、筑摩書房から刊行された「太宰治全集」は、いつも教科書といっしょに鞄にいれるほどの愛読書であった。
多感な青年期というのは、一人の作家に思い入れを強く持ち、その小説世界と自分の心情が一体化するほどに愛好する。

おそらくそうした小説への没頭は、情報も文化も多様化し、いろんな価値観に接することができる現代とは、かなり違う時代だったのかも知れない。

孤高のナルシスト、負の十字架を背負った太宰、哀しみと優しさを書き連ねた作家・・・
そうした太宰の小説の世界は没頭するには十分な作品群で、その情死さえ破滅的な人生を歩んだ結末だと、そんなふうに美化して読んでいた・・・

若さとは思い込みの激しさなのだと、それはある青春期の「流行り病」のようなものだと、何十年も経ってから、やはり苦笑しつつ思い出す。
自分の人生と重ねて小説を読むことが普通だったあの頃。
ああ、自分も哀しさと優しさを持ち合わせた旗手として、人生を歩んで行くのだ・・・と、まあ、若かったなぁ。

しかし、そうして得られた人生観は心のどこかに今も続いているのだと、ふりかえるとそう思える。
だから青春期というのは、ものすごく速く走ろうとするのである。速く走ろうとするのはその好奇心と達成感と完成された「人生観」を体現したいという欲求が強いからに他ならない。
良いことなのである。青春の特権なのである。そういう時期を通過することによって、何かをつかむのである。

さて、その太宰治の世界は3年ほどで終わりを迎えた。没頭するように次から次へと読んでいた小説も、どこかに足らないものを感じ始めたということだった。
「社会性」とでもいうのだろうか。小説としてはとても気に入っていたが、読んでいる自分のほうが、もっと広い社会の歴史や思想や哲学や・・・そうしたものに視点が移っていったからに他ならなかった。

などと「あの頃」を思い出し、歳と共に感受性も乏しくなったと、今を思うのである。

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2017.05.25

図書館で本を借りる日々

5月25日 晴耕雨読といきたいが・・・

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【2週間で四冊、遅読の身には辛い、貸出延長になるなぁ】

いつも利用している区の図書館の民営化の話がでてるようだが詳細は知らない。公共施設の民営化が時代趨勢となってるが、はてさてどうなのか?
民営化が全てを解決する魔法の杖じゃあるまいし、はたして市民の文化よりも「経営」を優先した図書館へと変貌しないのか・・・ちょっと危惧する。

あいかわらず小説といえば浅田次郎で、もっか「天きり松 闇がたり」の第三冊を読んでいる。粋な老侠盗の松蔵が語る人情物語、登場する親分、兄ぃ達との秘話、生き様は悩める現代人にも通じる「何か」がある。

図書館で最初に一巻と二巻を借りて読み終えたが、三、四巻がなかなか棚にならばない。ちょうどブックオフで三巻が100円コーナーにあったので購入、四巻目がやっと図書館の棚に並んだ。
同じように楽しんで浅田次郎を読んでる人もいるのだなぁ~と、ちょっと親しみも持つ。

ところで「取り寄せ」という方法があるがまだ利用したことがない。
知り合いの方から面白い心理学の本を紹介していただいたが、いつもの図書館には蔵書がなく他の図書館にあることがわかったので、これは「取り寄せ」を利用するチャンスだと思ってる。

本も自宅の本棚がいっぱいになり、ダンボール箱に詰め込まれてる。これ以上「本を増やしてどうする!」ってわけで、極力買わない、増やさない、処分する・・・
ますます図書館を利用する機会が増えそうだ。

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2017.03.24

浅田次郎小説中毒中

3月24日(金) 桜便りが聞こえて来るが・・・

桜の開花予報も聞こえて来るが、寒さがぶり返し右肩痛が一向に良くならない。
寒いと筋肉も硬直するのだろうか、筋肉だけじゃなくて脳みそも硬直する!?なんてことは無いが。

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飽きもせず浅田次郎の小説を読み続けている。カミさんは私の倍のペースで読むので、本の仕入れ?が間に合わない。
ここ何日かは憲法の本やマニュアル本などを並行して読んでいた。
図書館への返却前に一応写真を撮っておく。これぞまさしくメモ写真に他ならないが・・・(笑)

「憑神」はなかなかユーモアのある作品で、先祖代々徳川家に使える下級武士が、ひょんなことから「貧乏神」「疫病神」そして最後に「死神」に憑りつかれるという話。
オカルトではないが、実にユーモラスである。
ユーモアに富むってのは、真面目に語るほど面白いという見本のような話だ。

憲法の本は戦後の小学生に語る憲法の話で勧められて読んだ本。とても易しく書かれているが歴史に沿ってその本質が語られている分だけ「科学的」で、そういう戦後の民主主義が反映されている。

新しく自転車のGPSを買い替えた。GARMIN社のGPSで、そのマニュアル本を苦労しながら読んでいる。
マニュアルというのは読むのと実践と合わせないと通り一編の文字で終わり、理解が追い付かない。
外国製品の味も素っ気も図柄もないマニュアル翻訳本(だと思うが)は、若い頃なら必死で読解を試みたが、歳を重ねるごとに、とてもいい加減になるのでミスの連続、そのミスというか誤りの数だけ、やっと覚えられるというものだ。

またまた図書館で浅田次郎本を借りた。4巻の分冊ものと1冊本で、4巻ものをカミさんに勧めた。先に読んでくれないと追われる羽目になるのである。

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2017.02.27

夜の読書風景

2月27日(月) 浅田次郎「プリズンホテル」などなど

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浅田次郎の「プリズンホテル」まで読んできた。
というか順番はランダムで手あたり次第に図書館本、ブックオフの100円本などを借りたり買ったり、文庫本ばかりだ。
先週も4冊ほど図書館で借りたので、そろそろ蔵書の少ない区の図書館では間に合わなくなりそうだ。しばらくはBookOff通いになるかなぁ。

しかし、思うに浅田次郎の小説の登場人物というと、どこか「はぐれ者」「アブノーマル」「渡世人」「任侠」といった、まあ、いわば社会からの「はみだし」人間が多い。
人生の正道(なにが正道かはわからないが)からすこし外れた、ちょっと哀しみを持つ人物たち、というわけだ。
そうした「はみだし人生」を生きる登場人物であるが、気持ちや心根は人間味豊かな人たちである。そのギャップのおもしろさ、人情味のおもしろさと優しさは一級品だと思う。

まだまだ、そうした作品は多々ありそうで、しばらくは「浅田次郎ワールド」を堪能しようと思っている。

夜、二階の部屋の六畳ほどの両側の端にそれぞれベッドが置かれ、そのそれぞれ枕元に読書用の蛍光灯が灯る。
仰向けになって、それぞれが文庫本を読んでいる。
なんというか病院の二つのベッドが並んでいるようでもあるし、棺桶が二つならんでいるようでもある。
夜の読書の風景。同じスタイルで妻と読書しているのにはちょっと可笑しさを感じる。
もっとも、違うのは僕の文庫本にはレザーのカバーがされ、妻のにはない。

こういう読書スタイルが普通になったのは昨年末くらいで、それまでは漫画本ばかり読んでいた妻である。浅田次郎の「鉄道員 ぽっぽや」あたりから、一緒に読み始めたというのが経過になる。

借りたり買ったりした浅田次郎の文庫を引っ張り出して勝手に読んでいるが、僕よりもずいぶんと速読であって、倍近い。「プリズンホテル」など四巻ものや上下巻ものは、先に読んでると、後ろから追いかけられる気分になる。 (笑)

読後感想などは滅多に話し合うこともない。せいぜい「おもしろかった?おもしろい!」といった程度に過ぎない。考えて楽しく読むという習慣であって、何かの「気づき」が読書のなかで培われれば、それでよいのだろうと思っている。

しかしこの読書の早さの違いには困りものである。
借りたり買ったりの文庫本が、読書スピードに追い越されそうで、「他にはないの?」とくるので、いやはや、「100円本を仕入れなくっちゃ」となるので、やっぱり困るのである。


 

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2017.01.24

おもしろい物語

1月24日(火)小説「蒼穹の昴」 浅田次郎


文庫本4冊の浅田次郎「蒼穹の昴」を読み終えて、なかなかおもしろい小説だと思う。

Photo清朝の末期の歴史を背景にした小説で、読み物としては傑作で、ときどき清朝の歴史本を参考にしながら読んだが、歴史と登場人物を小説としてまとめ上げる醍醐味が伝わってくる。

と言っても、読んでいない人にとっては「なんのこっちゃいな」ということになるが、いちいち物語のあらすじを書いても一読したほうが、下手な文章を読むよりおもしろいはずだと・・・

小説の概略を周りの友人に説明したものの、話下手のせいで上手くは伝わらない。むしろ、そういう友人らは、歴史本やエッセイや仕事に関わる本など、そういう類をたくさん読んでいるので、「小説」というのは、やはり「小説」でしかないようで、作り話の領域から引っ張り出すには、自分の能力の限界を超えている。

・・・が、いくつかの実務書やエッセイやそういう本はそれはそれで、現実を知る上ではとても貴重だと思い、「こういう本が良かった」と紹介されれば、メモしたり取り寄せたりしながら読んでいるが、やはり小説の方がおもしろい。

もちろん、おもしろくない小説もある。おもしろくないものは残らないというだけなので、消えて行く。
しかし、人によっては小説なんてと思ってる人も少なくない。「物語」なので、それよりも現実に即したものの方がはるかに知識欲を満たしてくれるのも事実だろう。

どちらがどうかとは言えないが、小説ってのは読む人の想像力を豊かにさせてくれると自分などは思っている。想像力なんて何か特殊なものじゃなく、あれやこれやの事実、人間もふくめたものの再構成ってことだろうか。

小説。歴史のなかの人々、現実というものの隙間を埋めるには、これほど楽しいものはない。いやいや、長編を読み終えた!という自己満足という自分にとっての楽しみもある凡人だ。

読み終えて、西太后、李鴻章、高宗乾隆帝、宦官、科挙、紫禁城などなど、登場する人物と情景が生きいきと描かれているので面白いと思う「蒼穹の昴」だった。

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2017.01.12

心の「ひだ」

1月12日(木) 浅田次郎の短編小説を読んでいる


週末には雪が降りそうだと天気予報が伝えいる。しんしんと寒さが骨身に堪える日は暖かい部屋で心まで暖まる小説を読むのも一つの過ごし方だと思うが。

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浅田次郎の図書館本、ブックオフの百円本、続けて読んでいるので、このまま文庫本化されてる小説を全部読んでみようかと、正月に思った。

しかし、読むのが遅いのでどれだけかかるのか。
最近は「何か読む本ない?」と妻からせがまれ、浅田次郎を中心に手元の小説を渡しているが、倍以上のスピードで読み終えるので「速読」だと思う。寝ながら読書の専売特許を奪われた格好になっている。

速読というと浅田次郎が面白いと言ってたYさんは年間100冊は読むと、3日に一冊の計算で通勤中とかに読むという、それにしても凄いものだと感心する。
本が好きでたくさん読んでいる人とは、どことなく話が合うことも多い。

浅田次郎の小説は時代小説の市井の人情話に通じるところが多い。内容の幅の広さは読んでいて飽きないが、もう一つ言えば「人の心のひだ」に敏感な作家ってところだろう。

「心のひだ」なんて言うと抽象的でわかりにくいけれど、知識とか技術とか論理とか感情とか・・・そういうもので言い表せない人の心の微細な部分に焦点をあて、小説として成り立たせているという気がする。

だから、自分が理解できる感覚を超えた面白さ。まあ、言うならば自分が理解できる感覚、解説できる感覚なんて、面白みに欠けるのである。理解を超えたものに出会う面白さとでもいおうか。

仕事をしていた頃、知識が豊富で行動力にとみ、判断力も自分よりずっと優れていた女性がいたが、その彼女に「ああ、彼女には『心のひだ』を理解できないからなぁ~」と言ってた先輩がいたのを思い出す。
それ以来「心のひだ」を理解しようとするのが、人との関係の中心ごとになった。

小説ってのは、そうした「心のひだ」が何たるものかを教えてくれる。分かったようで分からないのが人の心とその揺れ動き。分からないのは当たり前で、人はこれでもかというほど多様な存在なのだから。分かったつもりで自分の領域で納得しているよりも、分からないものにふれあう・・・良質な小説、読み物はとても楽しいのである。

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2016.12.10

泣かせ屋

12月10日(土)「鉄道員(ぽっぽや)」浅田次郎 集英社文庫

歳を重ねると涙もろくなるという若い頃には理解できなかったことも、人生の半分は優に超え、あとは残りの歳月に思いが行く歳になると、その真実味が妙になっとくできるようになる。
ほんの些細なテレビのシーンひとつにも涙もろくなるので、その気恥ずかしさに悟られないように横を向く。

場数。生きて来た分だけの「ものの哀れ」や「辛さ」などについつい心を同じくしてしまう自分がいる。なんだか生きて暮らすというのは辛いことのほうが、いや辛さも吐露できないことのほうが多いのだろうかと・・・

広島カープの黒田投手がプロ野球人生を振り返って「野球が楽しいと思ったことは一度もない」と話していたが、真摯なるがゆえの実感する言葉だと思った。
そういう、人が生きていく上での実感を振り返るのも歳のなせる技なのだろうか。
涙もろくなるのはそういう辛さや哀しさや楽しさを含めた感情の振り返りを自分と合わせることによるのだろうか。歳のせいばかりには出来ない自分の過去との対峙だろうか。

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浅田次郎の作品を初めて読んだのは「金鵄のもとに」で、少なからぬ衝撃を受けた。この「鉄道員(ぽっぽや)」は直木賞作品で20年ちかく前のもので映画化もされてるので「いまさら」ともいえるが、一人の老鉄道員の話だ。

8つの短編が収められた文庫版「鉄道員(ぽっぽや)」のそのどの作品も、人の世の情の深さに涙ぐむ。解説に著者浅田次郎をして「泣かせ屋」と評しているのは的を射ている。
そういう短編作品集なので、人がほろりとしてしまう、そうした世の中の姿をいまさらながら共有できる。

先の「金鵄のもとに」の読後感を話していたおりに「浅田次郎はいいですよ」と友人のYさんが言っていた。この本はおもしろいですよと紹介されると、本のおもしろさは勿論だが、それを紹介する人の心の一端を「本」を通じて知ることにもなる。

「いいですよ」というのは、その人のそこに共感する「何か」をも表しているのだと思う。
見たり読んだりすることは誰にでもできる。見て読んで何を感じるのか、考えるのかが、実は読書のもっとも魅力的なところである。

本を読んで感動して泣けることにはさほど意味を感じないが、それでも泣けるほど共感する心があることは素晴らしい。人の心に寄り添うというが、寄り添うにはそれだけの自分の心の豊かさを必要とする。
共感して「ものの哀れ」を自分と照らし合わせるよりも、人をなじることや批評することばかりが目立ち、泣言よりも強がりばかりが目立つ世相である。

本を読んで泣いて、自分の情けなさに泣言を言える、そうした実直さがあってもいいのだと思う。
涙もろくなってきたなぁという思いは年々強くなっているのである。




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2016.11.24

風邪と読書

11月24日(木) つれづれなるままに・・・


風邪も9割かた治ったが、鼻水がまだ・・・。
別に「風邪と」など題しなくてもいいけれど、つれづれなるままに一気書きしてみようと思う。

難儀をして読み終えたのが「一休」水上勉(中公文庫) 禅宗の一休和尚の生涯を書いたものだが、凄まじく難解。
その訳は禅宗という仏教の言い回しの難しさ、原典の訳の難しさと漢字の難しさ、もう読めないのだ。読めないから「多分こんな言葉だろう」と頭のいい加減な辞書をたよりに460ページ。教養と知識のなさを嘆きながら・・・、そうして諦めずに読み続けると、分かってくることもある。
テレビアニメの「一休さん」とはほど遠い一休和尚の生涯、権力の庇護のもと禅を知らず禅を語る当時の禅宗坊主への反骨心は凄まじい。地べたの民衆のあらゆる「煩悩」の苦をも、己に同居させ「風狂坊主」もなんのその、といった生き様には驚愕するところだ。
「有漏地より無漏地へ帰る一休み、雨ふらば降れ風ふかば吹け」一休和尚の作(といわれてる)この句に、集約されてるのか。「有漏」とは煩悩が有ることを意味する。
まあ、自分流に言えば、現世煩悩の境地から離れて、無の境地にたてども現実生活からは逃れられないので、立ち返る・・・その行ったり来たりの中で、ちょっと一休みの一休和尚。
と言ったところだろうか?雨も風も吹くなら吹いてちょうだいなと。

などと自己流に解釈して、とても頭が疲れて風邪だということも忘れてしまったので、すこし気分転換で読んだのが、「歩兵の領分」浅田次郎(講談社文庫)。高度経済成長期の日本の自衛隊に入隊した青春群像のようなもので、憲法9条のもとで、海外派兵など厳しく否定されていた時代の自衛隊員の隊内生活が描かれている。「自衛隊には二種類の階級がある。星の数と飯(メンコ)の数」という話が妙に納得する。つまり隊内の階級と入隊期間というわけだ。
作者の浅田次郎氏は自衛隊の経験があるという。案外、そういう見方が自衛隊という組織では貫かれているのだろう。もっとも、自衛隊ばかりでなく、普通の会社でも上司と部下に、年長者先輩というものが、色あいをだして絡みつくものだが・・・
人間が組織というものを作り出すときの人間関係の複雑さ。もっとも「かけつけ警護」が日程にのぼった現在の自衛官はどうなのだろうかと、ふと思う。
風邪で寝ていたが、毎日の日課である家事はそこそこやっていた。微熱でぼーっとしても「決められた毎日の作業」をしなければなんとなく落ち着かないという心情。ひととおり終える頃には、薬も効きはじめ寝たり起きたり本を読んだりという一日だった。

推理小説というものはほとんど読んだことがない。松本清張ぐらいかな。「東野圭吾がおもしろいですよ」と教えてもらい、入門小説として紹介してもらったのが「新参者」東野圭吾(講談社文庫)だった。
ほぼ一気に読み終えることができたのは、推理小説の謎解きの面白さだと思う。犯人は誰か?ということだが、見どころは市井の人情話が複雑に絡み合うところだろう。主人公の加賀刑事も含めて、登場する人物がみな「いい人」なのである。犯人さえ「いい人」なのだ。ほろりとする話でオムニバス物語として進行して行く。こういう推理小説もあるのだなと感心する。当然のことながら謎解きとしては横溝正史ばりの結果とはならないが、なんとなく安心できる読後感があった。

考えてみれば、ほとんどが文庫ばかりである。それには理由があって、ベッドのうえでゴロリと仰向けになって読むには単行本は重くて腕が疲れるからだ。文庫本というのは手軽にカバンに入れる事も出来るし、こうして仰向け読書の多い自分には好都合なのだ。
「老人と海」ヘミングウェイ(文庫光文社)。おやまあヘミングウェイですかぁ~と言われるほどよく知られた「老人と海」である。図書館でなんとなくもう一度読んでみようと借りた一冊。
いつもは少年と一緒に漁にでていた老人が、一人漁にでることになり、自分の小船よりも大きなカジキと格闘のすえ釣り上げたが、船にくくり帰港する途中でサメと戦いながら、すっかり骨ばかりになった獲物とともに、疲れ果てて帰ってくる・・・というお話。
年老いた漁師、諦めることなく必死に大海原で格闘する姿は、いつ読んでも感動する。老いた、歳を取った、足腰が・・・などと愚痴をこぼすことが多くなった最近だが、この老人(漁師)の矜持はどうだ!いい作品は心の底から感動という気持ちを生み出す。

というわけで、風邪も治りかけたところで読み始めたのが「怪奇小説日和-黄金時代傑作編」西崎憲編訳という海外の怪奇小説短編集。海外の小説というのは訳者によるのだろうか、日本の短編小説とくに私小説を好みとしている者にとっては、ちょっと勝手がちがうなぁと思うことが少なくない。
海外というところに行ったことがないので、風土や文化や情景がイメージしにくいということもある。ハリーポッターの怪奇版のようなイメージや子どもの頃に読んだ外国の子どもむけ作品から想像して読むことになるので、霊とか伯爵とか女王とか、まさに読む側の貧困さが起因しているのだと、そう自覚しながら読み進めている。(もっか、半分ほど)
アーサー・コナン・ドイルの「茶色い手」など実に面白い怪奇小説だと思うが、きっと忘れてしまうに違いない。3つ読んで2つ忘れてしまうという読書であるが、それでいいと思っている。小説を読んで何か「身になる」などとは、とうてい思えないので、つれづれなるままに読み耽って、それで良しとすればいいだけの話だと思う。(長文になったなぁ~)

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