2017.11.23

ジョージ・オーエルの本

11月23日(木)「1984年」「動物農場」

ジョージ・オーエルの小説2冊を読み終えた。

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図書館の書棚から一冊、もう一冊は取り寄せしたが、なぜジョージ・オーエルを読もうとしたのか、自分でも動機がよく分からない。

「1984年」は発行当時から30数年の後の1984年というから未来小説であった。
独裁体制下の全体主義国家における「反逆者」の洗脳の恐怖が描かれている。

他方「動物農場」は一種の寓話物語で、人間の営む農場から動物たちが人間を追い出し動物たち自身で農場という「楽園」を作って行くが、そこが自身の楽園になりえたのか・・・

一つの政治権力が創り出す世界。

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当時としてはスターリン体制下のソ連を想起させるものであろうが、この二作品は同じモチーフの異なる作品といえる。

政治権力が生み出す権力の構造と人間(動物)支配の物語は、今日のそうした独裁国家のとる政治手法と基本的には同じものといえるが、はたして「独裁国家」にのみ共通するものかといえば、そうとだけは言えまい。

「平和の名のもとに軍事体制の拡大」「繁栄を吹聴する裏で差別社会の拡大」「民主主義の仮面をかぶった独裁」、そうしたおかしなことをまことしやかな社会と描くには「嘘」と「監視」がつきものである。

実に読後感の悪さが残る本であるのは、小説の世界を微妙に現実社会と対比させてしまう自分のほうに根拠がある。

政治権力のおぞましさ、嘘と虚構を体制維持の方法とし暴力で洗脳する。
マインドコントロールの方法は知らず知らずに自分自身をその圧政の側の信望者と化して行く恐ろしさであり、何も他人から無理強いされているばかりではない・・・自発的にその「虚」を「真実」と思いこむところに恐怖がある。
本当のことを見抜く力を自分は養えるのか、という不安でもある。

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2017.11.02

恋情

11月2日(木) 読書の秋ですから・・・

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「読書の秋」というが、先日何かで「活字を読むことが苦痛だ!」という言葉に出会い、たしかに視覚や聴覚よりも「色気」がないものだと変な納得をする。

「活字」が勉強の延長にあり、「知識」を得ようと頑張ると堅苦しく、こりゃあ辛いものだ。

小説は「人間の感情」のあれこれを体験するもの。
人の感性とでもいうか、心のいろいろを享受するものだと思えば、知識にならない知識として、実は自分自身を豊かにしてくれるものだと、そんなふうに思っている秋の夜長。

NHKの連続テレビ小説「わろてんか」の中で、純情一筋のてんちゃんが夢は何?と聞かれ「お慕いしている人と墓場に入るまで添い遂げること」という意味のことを言っていた。

愛しい人と一緒になり、一生を添い遂げるという、きっと現代でも結婚する彼や彼女が最初は持つだろう、永遠の愛情の姿ではある。

一方、夫唱婦随で人生を送った夫婦の夫が亡くなる。
いよいよ残された妻が死の間際に、最期のお願いとして「私の骨は夫と一緒の墓には入れないで欲しい」と遺言する。

渡辺淳一の小説だったと思ったが、いやはや怖ろしい。
実に人間の感情の表裏や複雑さをそうしたものから垣間見ることができる。
「活字」であるがゆえに、じっくりと感覚に伝わってくるのである。

さて、このところは松本清張の短編小説を好んで読んでいる。
芥川賞を受賞した作品とか、よく知られた作品とか、文庫本の短編集にいくつも収録されている。

「恋情」という初期の短編があるが、ここで語られている「愛する」ことの複雑さは何ともいえない読後感だ。

簡単に物語を言えば、時代は明治初期。
華族に生まれた主人公は幼い頃の許嫁の律子に恋心をいだくが、その律子は彼がイギリスに渡航してる間に、宮家のもとに婚姻させられてしまう。
絶望の淵へと落ちた彼は放蕩暮らしの三年後に帰国する。

帰国し彼が知るのは、宮家に嫁いだものの、幸せな暮らしを送っていない律子の姿だった。
だが、彼は律子が発表する詩歌のなかに、自分との思いが綴られていることを知る。
当時の社会は宮家からの離脱は夫の死をもっての他はありえない。

悶々とする歳月が過ぎ、ますます律子への思いを確信するがどうすることも出来ない。
そして彼は待つことを選ぶ。白髪の生える歳になろうとも、彼は待ち続けることに愛を確信する。だが、その思いは叶うことなく・・・

人はそれまでして愛する人を待ち続けられるのだろうか。
そこには、純愛と言葉で言い尽くせない、愛することの奥深さを見ることができる。
明治期はポジティブな維新ものなどが多い。その対比的主人公を描く、松本清張にもこういう作品があったのだ。

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2017.09.29

推理小説

9月29日(金) 松本清張「黒い画集」

図書館で貸出延長していた松本清張の「黒い画集」を読み終えた。

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昭和30年代に発表された推理小説の古典とでもいうか・・・
7作品700ページの文庫本で読み応えがあった(時間的にだが)

これまで推理小説というジャンルはほとんど読んでこなかったが、謎解き小説のおもしろさはたしかにある。
全編ほとんどが殺人事件であり、おもしろいのはその動機が男と女の愛憎で、今日的に言えば「不倫」がその動機付けであり、今も昔もそこらあたりに潜むのは暗いイメージであり、あるいは反社会的な行為の背景にある満たされない生活からくる情念のようなもの。

肯定はしないけど、人はそこまで思い込むことが出来る!というあたりは、情感として理解できてしまうので・・・これはヤバイ(笑)

一人の作家にとりかかると、その作家の作品を出来るだけ読もうとしてしまうのは性癖なのかも知れない。
たくさん読むと、つまらないと思うものにも遭遇するが、その作家の世界観のようなものが見えてくる。

代表作や知られた作品だけでは、何かしら「まだ知らない部分」があるのではと思えてくる。
そうしたものがあればあるほど、もう少し読んでみようかとなる。なければ、まあこの数冊でお終いだな、となる。

小説を読みながら、この作家が何を世に問うているのか?と、そういうことも考えてしまうので、ある意味「不純」な小説の読み方なのかも知れないと思う。

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2017.09.18

台風去りて

9月18日(月) 松本清張の短編集を読む台風の日

久しぶりに暴風の強い台風だった。通風孔からゴォーと風の音が聞こえるたびに、十数匹まで増殖した、めだかは生きてるかと窓から鉢を確認する。

「めだか、めだか」と毎日言ってると「何がそんなに・・・」と妻が言う。
あることに執念を持つ、別な言い方では「拘り」。そういう種族は概ね「変人」と言っていい。
「変人」というのも人を表す「属性」の一つである。

芸術というのも一つの属性に違いはないが、そうした「属性」を取り払ったときに残るのが人間の「本性」で、それが豊かなものかどうか?
「肩書」ほど人の本性を見誤らせるものはないが、それでも人はいろんな属性を好み、時には没頭し、命を懸け、人生をかける・・・

というわけで、台風を前後した二日間。松本清張の短編集を読む日々となった。

Img20170918_04410年ほど前に発行の文庫本なので赤茶けて活字が小さい。最近は小さい活字が読み辛くなった。

12編ほどの短編が収録されてる。その多くが学芸を職業とする・・・つまり学問と芸術を「生きる」主人公の物語といえる。

民俗学、考古学、詩歌、絵画、そうしたものに生活の全てをかける人が、現実社会から疎外され、あるいは受け入れられない「才能」に苦悩するという、いわば「不幸」を登場人物から知る。

現実から乖離する暮らしを支える「女性」が彼らを、かろうじて「実生活」に引き戻すあたりは、なんとも男女参画共同社会の今日からすると古い時代背景があるが。

学問・芸術はいつの時代も暮らしとの浸透性が少ないものであるが、そういう学芸という属性を引き剥がされて残る人間性がどんなものか?あまりにも薄っぺらなものだけが残るとしたら、はたして学芸そのものに、「人間」に迫る「才能」が本当にあるのだろうか。

・・・と、まあそんなことを思いながら、雨と風の台風の日を過ごしていた。
めだかは、成魚も稚魚も流されることなく台風一過のちょっと暑さの戻った秋晴れの空の下で元気に泳いでいた。
めだかはめだかであって、修飾はなくてもいいじゃないか。

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2017.09.07

神々の国

9月7日(木) 気晴らし読書

この夏はまともに読書ということも少なかった。

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子どもむけの絵本を読み聞かせ・・・、というよりも、適当に登場人物などを作って、話も超短縮して孫に読むと、意外と「受ける」のもわかったが、それにしても今年は活字から遠のいた夏だった。

前回の8月、図書館で借りた四冊のうちの2冊がこの聖書物語(旧約・新約)。

アダムとイブから始まる人間と神の物語が旧約ならば、新約はイエス・キリストの生誕から始まる物語だ。

気晴らしでほどほどに読んでいたが、挿絵の宗教画がおもしろい。古典の文書に沿って忠実に描いたのだろうが、そのエネルギーには「聖書」には縁遠い僕など、やはり面白いのである。

神々の国の歴史という「文化」としては、物語性のおもしろさ。人間が創り出す人間に似た「神」の姿を想像する楽しさといったら、キリスト教関係者に失礼だろうか。

まあ、日本に根付いた信仰心が、自然界に生きとし生けるあらゆる生命を根源としているとするならば、その自然観の違いが、その違和感としてあるのだろうが・・・

ほどほどに気晴らしに読む「神々の国」の物語としては、おもしろかった。
さて「読書の秋」もやってきたので、さしずめ松本清張の続きから始めようか・・・よく知られているがまだ読んだことの無い作品たち、こういうものの中からお宝発見と行きたいなぁ。

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2017.06.13

太宰治の忌日

6月13日(火) あの頃の自分は・・・

歴(こよみ)を見ていて太宰治を偲ぶ「桜桃忌」が6月19日で、玉川上水で情死したのが13日、その後発見された19日は、奇しくも太宰の生まれた日。

16日と19日の違い。なんともまあ無頓着に思い込んでいたことを知り、おもわず苦笑してしまった。
その日19日には三鷹の禅林寺で「桜桃忌」としてイベントが開かれるというが、現在でも開催されているのだろうか・・・

高校生だった頃のもっとも感銘を受けた作家が太宰治であり、筑摩書房から刊行された「太宰治全集」は、いつも教科書といっしょに鞄にいれるほどの愛読書であった。
多感な青年期というのは、一人の作家に思い入れを強く持ち、その小説世界と自分の心情が一体化するほどに愛好する。

おそらくそうした小説への没頭は、情報も文化も多様化し、いろんな価値観に接することができる現代とは、かなり違う時代だったのかも知れない。

孤高のナルシスト、負の十字架を背負った太宰、哀しみと優しさを書き連ねた作家・・・
そうした太宰の小説の世界は没頭するには十分な作品群で、その情死さえ破滅的な人生を歩んだ結末だと、そんなふうに美化して読んでいた・・・

若さとは思い込みの激しさなのだと、それはある青春期の「流行り病」のようなものだと、何十年も経ってから、やはり苦笑しつつ思い出す。
自分の人生と重ねて小説を読むことが普通だったあの頃。
ああ、自分も哀しさと優しさを持ち合わせた旗手として、人生を歩んで行くのだ・・・と、まあ、若かったなぁ。

しかし、そうして得られた人生観は心のどこかに今も続いているのだと、ふりかえるとそう思える。
だから青春期というのは、ものすごく速く走ろうとするのである。速く走ろうとするのはその好奇心と達成感と完成された「人生観」を体現したいという欲求が強いからに他ならない。
良いことなのである。青春の特権なのである。そういう時期を通過することによって、何かをつかむのである。

さて、その太宰治の世界は3年ほどで終わりを迎えた。没頭するように次から次へと読んでいた小説も、どこかに足らないものを感じ始めたということだった。
「社会性」とでもいうのだろうか。小説としてはとても気に入っていたが、読んでいる自分のほうが、もっと広い社会の歴史や思想や哲学や・・・そうしたものに視点が移っていったからに他ならなかった。

などと「あの頃」を思い出し、歳と共に感受性も乏しくなったと、今を思うのである。

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2017.05.25

図書館で本を借りる日々

5月25日 晴耕雨読といきたいが・・・

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【2週間で四冊、遅読の身には辛い、貸出延長になるなぁ】

いつも利用している区の図書館の民営化の話がでてるようだが詳細は知らない。公共施設の民営化が時代趨勢となってるが、はてさてどうなのか?
民営化が全てを解決する魔法の杖じゃあるまいし、はたして市民の文化よりも「経営」を優先した図書館へと変貌しないのか・・・ちょっと危惧する。

あいかわらず小説といえば浅田次郎で、もっか「天きり松 闇がたり」の第三冊を読んでいる。粋な老侠盗の松蔵が語る人情物語、登場する親分、兄ぃ達との秘話、生き様は悩める現代人にも通じる「何か」がある。

図書館で最初に一巻と二巻を借りて読み終えたが、三、四巻がなかなか棚にならばない。ちょうどブックオフで三巻が100円コーナーにあったので購入、四巻目がやっと図書館の棚に並んだ。
同じように楽しんで浅田次郎を読んでる人もいるのだなぁ~と、ちょっと親しみも持つ。

ところで「取り寄せ」という方法があるがまだ利用したことがない。
知り合いの方から面白い心理学の本を紹介していただいたが、いつもの図書館には蔵書がなく他の図書館にあることがわかったので、これは「取り寄せ」を利用するチャンスだと思ってる。

本も自宅の本棚がいっぱいになり、ダンボール箱に詰め込まれてる。これ以上「本を増やしてどうする!」ってわけで、極力買わない、増やさない、処分する・・・
ますます図書館を利用する機会が増えそうだ。

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2017.03.24

浅田次郎小説中毒中

3月24日(金) 桜便りが聞こえて来るが・・・

桜の開花予報も聞こえて来るが、寒さがぶり返し右肩痛が一向に良くならない。
寒いと筋肉も硬直するのだろうか、筋肉だけじゃなくて脳みそも硬直する!?なんてことは無いが。

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飽きもせず浅田次郎の小説を読み続けている。カミさんは私の倍のペースで読むので、本の仕入れ?が間に合わない。
ここ何日かは憲法の本やマニュアル本などを並行して読んでいた。
図書館への返却前に一応写真を撮っておく。これぞまさしくメモ写真に他ならないが・・・(笑)

「憑神」はなかなかユーモアのある作品で、先祖代々徳川家に使える下級武士が、ひょんなことから「貧乏神」「疫病神」そして最後に「死神」に憑りつかれるという話。
オカルトではないが、実にユーモラスである。
ユーモアに富むってのは、真面目に語るほど面白いという見本のような話だ。

憲法の本は戦後の小学生に語る憲法の話で勧められて読んだ本。とても易しく書かれているが歴史に沿ってその本質が語られている分だけ「科学的」で、そういう戦後の民主主義が反映されている。

新しく自転車のGPSを買い替えた。GARMIN社のGPSで、そのマニュアル本を苦労しながら読んでいる。
マニュアルというのは読むのと実践と合わせないと通り一編の文字で終わり、理解が追い付かない。
外国製品の味も素っ気も図柄もないマニュアル翻訳本(だと思うが)は、若い頃なら必死で読解を試みたが、歳を重ねるごとに、とてもいい加減になるのでミスの連続、そのミスというか誤りの数だけ、やっと覚えられるというものだ。

またまた図書館で浅田次郎本を借りた。4巻の分冊ものと1冊本で、4巻ものをカミさんに勧めた。先に読んでくれないと追われる羽目になるのである。

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2017.02.27

夜の読書風景

2月27日(月) 浅田次郎「プリズンホテル」などなど

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浅田次郎の「プリズンホテル」まで読んできた。
というか順番はランダムで手あたり次第に図書館本、ブックオフの100円本などを借りたり買ったり、文庫本ばかりだ。
先週も4冊ほど図書館で借りたので、そろそろ蔵書の少ない区の図書館では間に合わなくなりそうだ。しばらくはBookOff通いになるかなぁ。

しかし、思うに浅田次郎の小説の登場人物というと、どこか「はぐれ者」「アブノーマル」「渡世人」「任侠」といった、まあ、いわば社会からの「はみだし」人間が多い。
人生の正道(なにが正道かはわからないが)からすこし外れた、ちょっと哀しみを持つ人物たち、というわけだ。
そうした「はみだし人生」を生きる登場人物であるが、気持ちや心根は人間味豊かな人たちである。そのギャップのおもしろさ、人情味のおもしろさと優しさは一級品だと思う。

まだまだ、そうした作品は多々ありそうで、しばらくは「浅田次郎ワールド」を堪能しようと思っている。

夜、二階の部屋の六畳ほどの両側の端にそれぞれベッドが置かれ、そのそれぞれ枕元に読書用の蛍光灯が灯る。
仰向けになって、それぞれが文庫本を読んでいる。
なんというか病院の二つのベッドが並んでいるようでもあるし、棺桶が二つならんでいるようでもある。
夜の読書の風景。同じスタイルで妻と読書しているのにはちょっと可笑しさを感じる。
もっとも、違うのは僕の文庫本にはレザーのカバーがされ、妻のにはない。

こういう読書スタイルが普通になったのは昨年末くらいで、それまでは漫画本ばかり読んでいた妻である。浅田次郎の「鉄道員 ぽっぽや」あたりから、一緒に読み始めたというのが経過になる。

借りたり買ったりした浅田次郎の文庫を引っ張り出して勝手に読んでいるが、僕よりもずいぶんと速読であって、倍近い。「プリズンホテル」など四巻ものや上下巻ものは、先に読んでると、後ろから追いかけられる気分になる。 (笑)

読後感想などは滅多に話し合うこともない。せいぜい「おもしろかった?おもしろい!」といった程度に過ぎない。考えて楽しく読むという習慣であって、何かの「気づき」が読書のなかで培われれば、それでよいのだろうと思っている。

しかしこの読書の早さの違いには困りものである。
借りたり買ったりの文庫本が、読書スピードに追い越されそうで、「他にはないの?」とくるので、いやはや、「100円本を仕入れなくっちゃ」となるので、やっぱり困るのである。


 

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2017.01.24

おもしろい物語

1月24日(火)小説「蒼穹の昴」 浅田次郎


文庫本4冊の浅田次郎「蒼穹の昴」を読み終えて、なかなかおもしろい小説だと思う。

Photo清朝の末期の歴史を背景にした小説で、読み物としては傑作で、ときどき清朝の歴史本を参考にしながら読んだが、歴史と登場人物を小説としてまとめ上げる醍醐味が伝わってくる。

と言っても、読んでいない人にとっては「なんのこっちゃいな」ということになるが、いちいち物語のあらすじを書いても一読したほうが、下手な文章を読むよりおもしろいはずだと・・・

小説の概略を周りの友人に説明したものの、話下手のせいで上手くは伝わらない。むしろ、そういう友人らは、歴史本やエッセイや仕事に関わる本など、そういう類をたくさん読んでいるので、「小説」というのは、やはり「小説」でしかないようで、作り話の領域から引っ張り出すには、自分の能力の限界を超えている。

・・・が、いくつかの実務書やエッセイやそういう本はそれはそれで、現実を知る上ではとても貴重だと思い、「こういう本が良かった」と紹介されれば、メモしたり取り寄せたりしながら読んでいるが、やはり小説の方がおもしろい。

もちろん、おもしろくない小説もある。おもしろくないものは残らないというだけなので、消えて行く。
しかし、人によっては小説なんてと思ってる人も少なくない。「物語」なので、それよりも現実に即したものの方がはるかに知識欲を満たしてくれるのも事実だろう。

どちらがどうかとは言えないが、小説ってのは読む人の想像力を豊かにさせてくれると自分などは思っている。想像力なんて何か特殊なものじゃなく、あれやこれやの事実、人間もふくめたものの再構成ってことだろうか。

小説。歴史のなかの人々、現実というものの隙間を埋めるには、これほど楽しいものはない。いやいや、長編を読み終えた!という自己満足という自分にとっての楽しみもある凡人だ。

読み終えて、西太后、李鴻章、高宗乾隆帝、宦官、科挙、紫禁城などなど、登場する人物と情景が生きいきと描かれているので面白いと思う「蒼穹の昴」だった。

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