2018.05.19

借りる本、買う本

5月18日(金)「君たちはどう生きるか」(原作:吉野源三郎)
図書館に本の返却に行く。
二週間で6冊が借りられるが、最近は妻から「軽めな本」をと所望されアガサクリスティーの推理本をも含めて借りている。
今日は浅田次郎本の在庫を見ながら、少し軌道修正して吉川英治の「新・水滸伝」を借りる。
しかし活字を追うというのは歳とともに「厄介な」作業になるもので、集中力とかモチベーションとか・・・、ちょっとだけ「努力」という気持ちも必要になるが、我慢して読んでいて、突然パッと何か本質めいたものが見えることもあり、そういう時は嬉しくなる。
まあ、図書館で借りる本は無料なのでありがたいとはいえ、最近の人気本はほとんど見当たらないが、古くても新しくても、その本質のようなものは時代が変わっても、それほど大きな違いはないように思われる。
今年になってこの半年ほどで書店で購入した本は数冊だけで、それも娘との待ち合わせ時間の合間に新聞記事や広告などで知り買った本ぐらい。
そのうちの一冊が「君たちはどう生きるか」(原作:吉野源三郎)であり、200万部ほど売れているベストセラー。

Photo_2


店頭の目立つところに平積みされていた。
何がそれほど多くの人を読ませているのか、読んでいる世代は若者だろうか、というのが率直な思いであった。
漫画半分、活字半分の内容で、タイトルの真面目さが今流ではないが、それもそのはずで原作は80年ほど前に出版され、時代背景としては日中戦争が始まり軍部の暴走が始まろうとするころの話である。
主人公コペル君と叔父さんが交わすノートのやり取り、自分を、友だちを、社会をどう見るのかという、そんな内容の作品であり、コペル君は浦川君という「貧しく」「いじめを受ける友だち」との関りを通して、いろいろ気付いて行く。
そんな成長の足跡をしっかりと「ノート」の中でいっしょに考えて示唆してくれるのが叔父さんというわけだ。

人生の半分以上が過ぎた世代、シニア世代にとって「君たちはどう生きるのか」という問いかけがどういう意味を持つのか・・・
今さら「どう生きるのか」と自問するよりも、過ぎてきた経験値や知識の多さをよりどころに、分かったような自己解釈を処世術の糧とすることのほうが一般的である。
そういう「老い」とともに頭をもたげる「思い込みの解釈で人生を説く」けれど、ほんとうは確信を得られない世代にとって、新鮮な「疑問」永遠の「疑問」なのが「どう生きるのか?」ということだと思う。
漫画という装丁が「読みやすさ」を求める若者や、けっこう真剣に生きることに悩む若者世代に読まれ、何十年と人間をやってきても「どう生きるのか」のう問いに答を出しあぐねているシニア世代にも、やはり「覗いてみたい真実」のような魅力になって、200万部も売れているのだろうか。
友人のOさんは原書を図書館に取り寄せているという。私より先輩世代のTさんはいち早く読んだと言っていたのでけっこう知る人は知る本のようだ。
あれこれ解釈することや知識を競うよりも、社会や人との関りのなかで、何をどう考え、いかに真実を求めて行くのか。

「つまらぬ知識」や「頑固な思い込み」「独りよがりの自己プライド」などが邪魔をして、「新鮮な気付き」という感覚も薄くなりがちである。
物事を広い視野でよく考えて自分の道を見つけなさい!と、残りの人生も多くはない自分に言い聞かせる今日である。
老いも若きも、考えさせられる一冊にちがいない。

| | コメント (1)

2018.05.02

心情を読む

5月2日(水) 浅田次郎の小説の世界

GW真っ只中だが雨。
雨にめだかの稚魚がやられた反省から雨除けには気を付ける。
メダカ鉢の上に透明なアクリル板で屋根を作った。
至れり尽くせりである、妻は少々呆れ気味だが、稚魚数十匹が早く成長して欲しいと願う気持ちは同じようだ。
というのも、もう少し育ったらひとり暮らしの義母宅に養子に出す予定だから。

もっぱら小説は図書館で借りる浅田次郎の本であるが、区の図書館の文庫本「あ」行「浅田次郎」のコーナーは読み尽くし、少々大きいが単行本を借りたりしている。
小説を読むことだけならば「文庫本」がベストである。

Img_0002


「日輪の遺産」は戦時中に日本軍が戦後復興の軍資金として隠匿した財宝をめぐる物語である。マレーシアの山下大将の隠し資金の話は何かの記憶があるが、それが密かに終戦間際に日本国内移送され隠されたというが、真実は知らない。
それをめぐる当時の女子学生たちや軍人の過去を解き明かすという物語。

「輪違屋糸里(上下)」は江戸末期の京都を舞台に「廓」世界で生きる花魁「糸里」と新選組の隊士らが繰り広げる一時代の物語。

浅田次郎の小説のおもしろさは「人の情」の結びつきであり、登場する個々の「人」の心情がとても豊かに描かれている。
単純な構図のなかに「人物」をあてはめる小説ほどつまらないものはない。筋立てだけで読ませる小説は読後感がすぐに失せてしまう。

しかし、人の心のありようとか心の気味というか・・・複雑な心情というのは奥が深い。
いったい、それらがどれほどのものかと考えると、たぶん日常の生活経験のなかだけでは、さして深く考えたり気付いたりすることは少ないと思える。

情の深さ一つ例えても、浅くもあり深くもあり広くもあって、そうしたものの奥へ奥へと入るには、想像する経験値としての小説はもってこいだと思う。
文字であるという制約がゆえに、視覚や聴覚では想像できない、頭の中の(心の中の)想像力が試される、というのも小説のおもしろさだと思っている。

上記の文庫本は返却して現在は単行本「月島慕情」(これも浅田次郎の短編集)を読み始めた。まだまだ読んでない小説も探せそうだが重いので仰向け読書には不向きだなぁ~。

| | コメント (2)

2018.01.15

つれづれに古典小説・森鴎外

1月15日(月) 図書館返却の凡ミスの日

しまった!月曜の休館日だったと気づいたのは家を出てからで、ときどきある凡ミス。

新年から松本清張の初期短編集の文庫本を4冊ほど読んでるが、もう10数人が殺されている。
「殺人」など続いていると気が滅入るものだが、なんというか人間の持つ「業」の深さややりきれない「哀れな情」などが淡々と語られている。
推理小説の類はそれほど読んではいない。
推理小説といえば、犯人捜しやトリックの巧妙さも面白いが、清張自身が言ってる「その動機」の追究が、人の生き様や暮らしを浮き彫りにしている、そこがおもしろい。

さて、その松本清張の文庫を読んでいて、森鴎外の「高瀬舟」の話がでていた。
Img20180115_052
はてさてどんな内容だったかと思い出そうとしても記憶の片隅にもない。題名は覚えているが・・・

という動機に基づいて図書館に向かった結果が休館日だったのである。
こういう古典の名作ならばBOOKOFFの100円棚にあるだろうと目星をつけて購入。
読書なんて、思い立ったが吉日、流れの赴くままに・・・

江戸時代、京都の罪人が遠島を言い渡され、高瀬川を小舟に乗せられて行く。
この小舟には町奉行の同心が護送のため乗船する。その罪人と交わす話のなかに、命の無常というか理不尽さを思うのが「高瀬舟」。

教科書に一部が載ってたような気もするが、古典の名作には時代を超えても失われない本質みたいなものがある。わずか数頁の短編だけど。

ついでに「山椒大夫」も読んだ。中学か高校の頃からずいぶん時が経ち、ちょっと懐かしい気持ちになる。
これは小学校の頃「安寿と厨子王」という絵本で読んで、盲目の老いた母が『安寿恋しや ほうやほれ。厨子王恋しや ほうれほれ。』と歌いながら鳥を追う絵に、ひどく哀しくなった想い出がある。

そんな純粋無垢な子どもの頃もあったが、いま再び読み返してみても、優しさと哀しさと仏教心が見事に表現されていると感心もする。
時が流れるように、一冊の本から無造作に他にうつり、気ままに読む面白さは格別のものがある。
さて残りも読んでしまおう。

| | コメント (2)

2017.12.27

何気なく手にした一冊

12月27日(水) 「母 住井すゑ」増田れい子著

Photo

住井すゑの「橋のない川」を読んだのは高校一年のときで、その後に映画化されたのを観に行ったが、もうずいぶん昔のことなので内容も曖昧になっている。

「橋のない川」は被差別部落を扱った小説で当時の思いとしては差別への憤りをヒューマニズムの思いから読んでいた記憶である。

その住井すゑの娘さんが著書の増田れい子さんになる。
母との暮らしのなかで住井すゑという作家が何を大切にし、どう生きていたのかがとてもよく分かる、いわば回想録とでもいう本。
人の人生、エピソードを通して、その人の生き方が伝わる。

図書館で何気なく手に取り読んだ一冊だったが、さすがに「橋のない川」の作者だと納得できる部分が多い。

人間が持つ差別的感情、その心の襞(ひだ)にまつわる話が、知的障害児の施設職員をしている方との対談として書かれているので、少々長くなるが紹介すると。

『住井 日本人は、どこかでひとを差別しないといられないないんですね。差別することによって、自分に加えられている差別をがまんしてる。そこが悲劇です。差別構造のなかにいるから差別に苦しむのです。だからこの構造をやめなければならないんです』

続けて幼い時の体験をこうも語っている。

『住井 幼いときに被差別部落に入って行きました。経済的に圧迫され排除され、いじめられているわけですから、そこは貧しい暮らしです。こども心にもふつうのまちとは違うとわかりますよね。すると小さな紙切れがコロコロと転がったんです。ところが、私の目には、何かワケのわからないものが、紙切れをコロがしている、とうつった。被差別部落だからそういうふうに紙がころがるんだ、と思ってしまったんです。・・・』

人間社会が不平等をつくり上げ、それが人の差別の心を生み出すという、こうしたものは現代の貧困や格差や差別のもとで生み出されることに通じている。
古い話ではなく、病める現代人に共通のことだと思う。

それらを学んだり観察したり関わったりしながら心に留める。
人の心の襞(ひだ)にとても敏感であるがゆえに、差別的感情に憤りを覚え、そうしたものが住井すゑの「橋のない川」の作品となっているのがよく分かる。

これはこの本の中で紹介されてる一つの話ですが、全体としては住井すゑという作家の「暮らし方」がいかに家族にも人にも愛情豊だったかを知ることができる。

年の暮れ。嬉しい一冊に出会うと自分自身が清々しくなる気がするのだなぁ。

| | コメント (2)

2017.11.23

ジョージ・オーウェルの本

11月23日(木)「1984年」「動物農場」

ジョージ・オーウェルの小説2冊を読み終えた。

Img20171123_050


図書館の書棚から一冊、もう一冊は取り寄せしたが、なぜジョージ・オーウェルを読もうとしたのか、自分でも動機がよく分からない。

「1984年」は発行当時から30数年の後の1984年というから未来小説であった。
独裁体制下の全体主義国家における「反逆者」の洗脳の恐怖が描かれている。

他方「動物農場」は一種の寓話物語で、人間の営む農場から動物たちが人間を追い出し動物たち自身で農場という「楽園」を作って行くが、そこが自身の楽園になりえたのか・・・

一つの政治権力が創り出す世界。

Img20171123_048


当時としてはスターリン体制下のソ連を想起させるものであろうが、この二作品は同じモチーフの異なる作品といえる。

政治権力が生み出す権力の構造と人間(動物)支配の物語は、今日のそうした独裁国家のとる政治手法と基本的には同じものといえるが、はたして「独裁国家」にのみ共通するものかといえば、そうとだけは言えまい。

「平和の名のもとに軍事体制の拡大」「繁栄を吹聴する裏で差別社会の拡大」「民主主義の仮面をかぶった独裁」、そうしたおかしなことをまことしやかな社会と描くには「嘘」と「監視」がつきものである。

実に読後感の悪さが残る本であるのは、小説の世界を微妙に現実社会と対比させてしまう自分のほうに根拠がある。

政治権力のおぞましさ、嘘と虚構を体制維持の方法とし暴力で洗脳する。
マインドコントロールの方法は知らず知らずに自分自身をその圧政の側の信望者と化して行く恐ろしさであり、何も他人から無理強いされているばかりではない・・・自発的にその「虚」を「真実」と思いこむところに恐怖がある。
本当のことを見抜く力を自分は養えるのか、という不安でもある。

| | コメント (2)

2017.11.02

恋情

11月2日(木) 読書の秋ですから・・・

Photo

「読書の秋」というが、先日何かで「活字を読むことが苦痛だ!」という言葉に出会い、たしかに視覚や聴覚よりも「色気」がないものだと変な納得をする。

「活字」が勉強の延長にあり、「知識」を得ようと頑張ると堅苦しく、こりゃあ辛いものだ。

小説は「人間の感情」のあれこれを体験するもの。
人の感性とでもいうか、心のいろいろを享受するものだと思えば、知識にならない知識として、実は自分自身を豊かにしてくれるものだと、そんなふうに思っている秋の夜長。

NHKの連続テレビ小説「わろてんか」の中で、純情一筋のてんちゃんが夢は何?と聞かれ「お慕いしている人と墓場に入るまで添い遂げること」という意味のことを言っていた。

愛しい人と一緒になり、一生を添い遂げるという、きっと現代でも結婚する彼や彼女が最初は持つだろう、永遠の愛情の姿ではある。

一方、夫唱婦随で人生を送った夫婦の夫が亡くなる。
いよいよ残された妻が死の間際に、最期のお願いとして「私の骨は夫と一緒の墓には入れないで欲しい」と遺言する。

渡辺淳一の小説だったと思ったが、いやはや怖ろしい。
実に人間の感情の表裏や複雑さをそうしたものから垣間見ることができる。
「活字」であるがゆえに、じっくりと感覚に伝わってくるのである。

さて、このところは松本清張の短編小説を好んで読んでいる。
芥川賞を受賞した作品とか、よく知られた作品とか、文庫本の短編集にいくつも収録されている。

「恋情」という初期の短編があるが、ここで語られている「愛する」ことの複雑さは何ともいえない読後感だ。

簡単に物語を言えば、時代は明治初期。
華族に生まれた主人公は幼い頃の許嫁の律子に恋心をいだくが、その律子は彼がイギリスに渡航してる間に、宮家のもとに婚姻させられてしまう。
絶望の淵へと落ちた彼は放蕩暮らしの三年後に帰国する。

帰国し彼が知るのは、宮家に嫁いだものの、幸せな暮らしを送っていない律子の姿だった。
だが、彼は律子が発表する詩歌のなかに、自分との思いが綴られていることを知る。
当時の社会は宮家からの離脱は夫の死をもっての他はありえない。

悶々とする歳月が過ぎ、ますます律子への思いを確信するがどうすることも出来ない。
そして彼は待つことを選ぶ。白髪の生える歳になろうとも、彼は待ち続けることに愛を確信する。だが、その思いは叶うことなく・・・

人はそれまでして愛する人を待ち続けられるのだろうか。
そこには、純愛と言葉で言い尽くせない、愛することの奥深さを見ることができる。
明治期はポジティブな維新ものなどが多い。その対比的主人公を描く、松本清張にもこういう作品があったのだ。

| | コメント (2)

2017.09.29

推理小説

9月29日(金) 松本清張「黒い画集」

図書館で貸出延長していた松本清張の「黒い画集」を読み終えた。

Photo

昭和30年代に発表された推理小説の古典とでもいうか・・・
7作品700ページの文庫本で読み応えがあった(時間的にだが)

これまで推理小説というジャンルはほとんど読んでこなかったが、謎解き小説のおもしろさはたしかにある。
全編ほとんどが殺人事件であり、おもしろいのはその動機が男と女の愛憎で、今日的に言えば「不倫」がその動機付けであり、今も昔もそこらあたりに潜むのは暗いイメージであり、あるいは反社会的な行為の背景にある満たされない生活からくる情念のようなもの。

肯定はしないけど、人はそこまで思い込むことが出来る!というあたりは、情感として理解できてしまうので・・・これはヤバイ(笑)

一人の作家にとりかかると、その作家の作品を出来るだけ読もうとしてしまうのは性癖なのかも知れない。
たくさん読むと、つまらないと思うものにも遭遇するが、その作家の世界観のようなものが見えてくる。

代表作や知られた作品だけでは、何かしら「まだ知らない部分」があるのではと思えてくる。
そうしたものがあればあるほど、もう少し読んでみようかとなる。なければ、まあこの数冊でお終いだな、となる。

小説を読みながら、この作家が何を世に問うているのか?と、そういうことも考えてしまうので、ある意味「不純」な小説の読み方なのかも知れないと思う。

| | コメント (2)

2017.09.18

台風去りて

9月18日(月) 松本清張の短編集を読む台風の日

久しぶりに暴風の強い台風だった。通風孔からゴォーと風の音が聞こえるたびに、十数匹まで増殖した、めだかは生きてるかと窓から鉢を確認する。

「めだか、めだか」と毎日言ってると「何がそんなに・・・」と妻が言う。
あることに執念を持つ、別な言い方では「拘り」。そういう種族は概ね「変人」と言っていい。
「変人」というのも人を表す「属性」の一つである。

芸術というのも一つの属性に違いはないが、そうした「属性」を取り払ったときに残るのが人間の「本性」で、それが豊かなものかどうか?
「肩書」ほど人の本性を見誤らせるものはないが、それでも人はいろんな属性を好み、時には没頭し、命を懸け、人生をかける・・・

というわけで、台風を前後した二日間。松本清張の短編集を読む日々となった。

Img20170918_04410年ほど前に発行の文庫本なので赤茶けて活字が小さい。最近は小さい活字が読み辛くなった。

12編ほどの短編が収録されてる。その多くが学芸を職業とする・・・つまり学問と芸術を「生きる」主人公の物語といえる。

民俗学、考古学、詩歌、絵画、そうしたものに生活の全てをかける人が、現実社会から疎外され、あるいは受け入れられない「才能」に苦悩するという、いわば「不幸」を登場人物から知る。

現実から乖離する暮らしを支える「女性」が彼らを、かろうじて「実生活」に引き戻すあたりは、なんとも男女参画共同社会の今日からすると古い時代背景があるが。

学問・芸術はいつの時代も暮らしとの浸透性が少ないものであるが、そういう学芸という属性を引き剥がされて残る人間性がどんなものか?あまりにも薄っぺらなものだけが残るとしたら、はたして学芸そのものに、「人間」に迫る「才能」が本当にあるのだろうか。

・・・と、まあそんなことを思いながら、雨と風の台風の日を過ごしていた。
めだかは、成魚も稚魚も流されることなく台風一過のちょっと暑さの戻った秋晴れの空の下で元気に泳いでいた。
めだかはめだかであって、修飾はなくてもいいじゃないか。

| | コメント (2)

2017.09.07

神々の国

9月7日(木) 気晴らし読書

この夏はまともに読書ということも少なかった。

Img_0001

子どもむけの絵本を読み聞かせ・・・、というよりも、適当に登場人物などを作って、話も超短縮して孫に読むと、意外と「受ける」のもわかったが、それにしても今年は活字から遠のいた夏だった。

前回の8月、図書館で借りた四冊のうちの2冊がこの聖書物語(旧約・新約)。

アダムとイブから始まる人間と神の物語が旧約ならば、新約はイエス・キリストの生誕から始まる物語だ。

気晴らしでほどほどに読んでいたが、挿絵の宗教画がおもしろい。古典の文書に沿って忠実に描いたのだろうが、そのエネルギーには「聖書」には縁遠い僕など、やはり面白いのである。

神々の国の歴史という「文化」としては、物語性のおもしろさ。人間が創り出す人間に似た「神」の姿を想像する楽しさといったら、キリスト教関係者に失礼だろうか。

まあ、日本に根付いた信仰心が、自然界に生きとし生けるあらゆる生命を根源としているとするならば、その自然観の違いが、その違和感としてあるのだろうが・・・

ほどほどに気晴らしに読む「神々の国」の物語としては、おもしろかった。
さて「読書の秋」もやってきたので、さしずめ松本清張の続きから始めようか・・・よく知られているがまだ読んだことの無い作品たち、こういうものの中からお宝発見と行きたいなぁ。

| | コメント (2)

2017.06.13

太宰治の忌日

6月13日(火) あの頃の自分は・・・

歴(こよみ)を見ていて太宰治を偲ぶ「桜桃忌」が6月19日で、玉川上水で情死したのが13日、その後発見された19日は、奇しくも太宰の生まれた日。

16日と19日の違い。なんともまあ無頓着に思い込んでいたことを知り、おもわず苦笑してしまった。
その日19日には三鷹の禅林寺で「桜桃忌」としてイベントが開かれるというが、現在でも開催されているのだろうか・・・

高校生だった頃のもっとも感銘を受けた作家が太宰治であり、筑摩書房から刊行された「太宰治全集」は、いつも教科書といっしょに鞄にいれるほどの愛読書であった。
多感な青年期というのは、一人の作家に思い入れを強く持ち、その小説世界と自分の心情が一体化するほどに愛好する。

おそらくそうした小説への没頭は、情報も文化も多様化し、いろんな価値観に接することができる現代とは、かなり違う時代だったのかも知れない。

孤高のナルシスト、負の十字架を背負った太宰、哀しみと優しさを書き連ねた作家・・・
そうした太宰の小説の世界は没頭するには十分な作品群で、その情死さえ破滅的な人生を歩んだ結末だと、そんなふうに美化して読んでいた・・・

若さとは思い込みの激しさなのだと、それはある青春期の「流行り病」のようなものだと、何十年も経ってから、やはり苦笑しつつ思い出す。
自分の人生と重ねて小説を読むことが普通だったあの頃。
ああ、自分も哀しさと優しさを持ち合わせた旗手として、人生を歩んで行くのだ・・・と、まあ、若かったなぁ。

しかし、そうして得られた人生観は心のどこかに今も続いているのだと、ふりかえるとそう思える。
だから青春期というのは、ものすごく速く走ろうとするのである。速く走ろうとするのはその好奇心と達成感と完成された「人生観」を体現したいという欲求が強いからに他ならない。
良いことなのである。青春の特権なのである。そういう時期を通過することによって、何かをつかむのである。

さて、その太宰治の世界は3年ほどで終わりを迎えた。没頭するように次から次へと読んでいた小説も、どこかに足らないものを感じ始めたということだった。
「社会性」とでもいうのだろうか。小説としてはとても気に入っていたが、読んでいる自分のほうが、もっと広い社会の歴史や思想や哲学や・・・そうしたものに視点が移っていったからに他ならなかった。

などと「あの頃」を思い出し、歳と共に感受性も乏しくなったと、今を思うのである。

| | コメント (2)

より以前の記事一覧