2017.06.14

「家族はつらいよ2」を観る

6月14日(水) ふつうの暮らしの中の家族の意味ですね

毎月一回のレンタル掃除道具の交換日にあわせて「小掃除」をしてるが、天気が良いので「掃除」などもったいない?
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変な理屈をつけて映画「家族はつらいよ2」を観ることにした。シニア割引とシニア飲み物割引で、ちょっとは懐事情に優しい。

70歳を超えた高齢夫婦と息子夫婦と孫の三世代で暮らす一家のちょっとぎくしゃくした家族模様の物語である。

ひょんなことで長く消息不明だった高校時代の同級生、事業に失敗し家族も離散し淋しく一人アパート暮らしをする友人との再会を果たし、飲みすぎた友人を自宅に連れ帰ったまではよかったが・・・

どこにでもあるちょっとしたボタンのかけ違いをみせる家族。高齢化を迎えた社会のなかで、「孤独」というのはなにか?、家族の意味を考えさせられる映画である。

ごくごく普通の家族に起きる「諸事件」、社会の歪みが反映しない、絵に描いたような幸せ家族などありえない。
・・・が、一人の友人の「孤独な死」を通じて、普通であることの意味を問い返している。

見終えて不思議と「爽やかさ」が残ったのは、ぎくしゃくしようが理解してくれないと思おうが、それでも「家族」として生きて暮らしているという、「それが家族だ」と思う実感に、なんとなく安堵の気持ちがわいてくるからなのだろうか・・・

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2016.10.02

連続テレビ小説

10月2日(日) ドラマとか小説とか・・・

連続テレビ小説「とと姉ちゃん」が終わり、次は「べっぴんさん」だそうだ。
何やら「毎朝必ず泣かせます」という批評があったが、涙腺が緩むドラマ、「感動をありがとう」のドラマを僕は期待してるわけではないので、どんなドラマかは見てから考えようと思う。
ドラマの中のテーマを部分的に拾い、あれこれ考えるのが好きである。
「とと姉ちゃん」は編集長花山の死とともに終わりを迎えたが、最後の仕事「戦争を考える」特集に向かったのはあっぱれ!だった。

戦争を鼓舞していた文筆家が、敗戦を通過させるには、そこは避けられない課題。
いわば、敗戦を契機に価値観の崩壊から、戦後を生きるうえでの忘れられない事柄だったわけで、およそ良心的な文学者、ジャーナリスト、芸術家が、どう価値観の転換を自分の内部から築いたかが問題の核心にあった。

東日本大震災と福島第一原発のメルトダウンによる災害、人災・・・。
そこから、普通に暮らせることのありがたさや人と人の絆の尊さに改めて気づき、そういう生きる意味という価値観を突き付けられた。

自然と向き合い、普通に暮らすこと、自然エネルギーへの転換を価値観として、心に焼き付けたにもかかわらず、何事もなかったかのように「経済大国ニッポン」に「強国ニッポン」、「原発再稼働ニッポン」へと意識が向いていないだろうかと思う。

およそ、文学とか芸術を志向するものなら、そうした時代の転換点、価値観の崩壊と再生に敏感でなければならないし、そうしたものがどんな短文やエッセイや作品にも、出てきて当たり前だと思う。

そうした意味では「とと姉ちゃん」の花山編集長の存在は、とてもよかった。
余談だけど、例えば今読んでる「日本文学100年の名作」シリーズでは、第4巻に太宰治の「トカトントン」という短編が載っている。

26歳になる青年の手記形式で、8月15日(敗戦記念日)を境にして、何かしようとするとどこかから頭の中に「トカトントン」という音が聞こえてくる・・・といった内容で、「敗戦」という価値観の崩壊から抜け出そうとする青年と抜け出せない青年の神経が「トカトントン」というわけである。

もう一つ、永井荷風の「羊羹(ようかん)」という短編では、もみじという銀座裏の小料理屋に雇われていた青年が敗戦後、過っての主人が随分気の毒な身の上になってやしないかと訪ねてみると、困っていることもなく以前と同じ余裕の暮らしで「古い社会の古い組織は少しも破壊されてはいない」「以前楽に暮らしていた人達は今でもやっぱり困らずに楽にくらしている」と自分ながら訳のわからない不満の気持ちになる・・・という作品。
いづれも1947年(昭和22年)の小説だが、時代を敏感に反映していることは間違いない。

さて、次の連続テレビ小説「べっぴんさん」は、何をどのように描いたドラマなのか。
ありきたりのお涙頂戴のドラマであって欲しくないものだ。
ましてや「感動をありがとう」などと、感動の安売りに飲み込まれたくもないと思う今日この頃である。

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2015.09.19

はみだし人間

9月19日(土) まれ(NHK連続テレビ小説)

安保法案が可決!しっかりテレビの中継をみていた。法案のおかしなところなど、しっかり聞いてるとわかりやすい。
この間の安保法案、その是非とともに「民主主義」「立憲主義」など勉強になることが多い。
つまり、こうして自分たちのような市井の者々は憲法や平和や民主主義を学んでゆく。
民主主義の成熟の度合いが、いろんな暮らしの場面々々で試されるってことか。

さて、よくよく考えるとテレビのニュースをよ見ている時間が多かった。
ニュースも見たがNHKの連続テレビ小説「まれ」もしっかり見ていた。そのしっかり具合は7時30分BS「まれ」、これは予習、8時地上波「まれ」本番・・・
理解力が不足してるので、2回ほど見て調度良い。

あらすじや人物・場面設定や演技のいろいろは、それこそいろんな批評がネットに載ってるので、評価もいろいろ。

自分など、人物設定の特徴がおもしろいドラマだと、お気に入りでもあるが、それももう少しでお終いになる。

田中裕子の文さんの本心を見透かしたような役は、なかなかのものだと思うし、田中泯さんの時代を超越した役どころもおもしろい。
そういう登場人物の設定が千差万別、多様性があって、ある意味現実離れし、物語のおもしろさよりも、そこにドラマの魅力を感じている。

職業の世代を繋ぐ歴史、家族というものの「おかしな」関わり方(家族愛なんだけど)、まれの夢の実現のストーリーだが、そこはありふれている。

さて、終盤になって「家出した徹」へと話は繋がってゆく。
徹が家族のもとに帰ってくれば、ハッピーエンドとなるわけだ。
この徹という父親の存在が自分は気になっている。
自分勝手で我儘で夢を追いかけて失敗し家族に迷惑をかける・・・という設定だ。

ちょっと違うけれど、「男はつらいよ」の寅さんを彷彿させるところもある。
恋と人情に人生を費やしたともいうべき「寅さん」とはやっぱり違うけれども、その一つの家族という共同体から、はみだし人間になったという点では、同じ系列だと思うわけだ。

現実社会では家族や知人友人、はたまた共同体社会からはみだした存在が、もとに戻る可能性ははなはだ少ない。
そういう存在を受け入れることができるのか?というのが、まあ自分の気になる点でもある。

どうも予告では徹はまれの前に姿を現すようだが、この父親徹という存在、こういう「はみだし」た存在の帰結には、実はもっともっと深い葛藤があるのだろう、本人も家族も。

そこを、ドラマを見ながらいろいろ想像して楽しむのだけれど、寅さんとさくらやとらやの面々のような、深みのあるシーンが欲しいと願ってるが、どうもストーリーの完結の役どころに終りそうだ。

テレビ小説というのは、まるごと批評するよりも、自分の都合にあわせて、ちょっと余計な事を考えるのが、おもしろいと自分は思っている。

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2015.09.07

夏休み明けの映画の日

9月7日(月)映画「ジュラシック・ワールド」を観る

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夏休みもあけたので、ちびっこ連れのファミリーで混雑もしてないだろうと、昨日の日曜日、映画館に足を運んだ。

思い込みとは裏腹に1時間前にもかかわらず満席で、しかたなく次の上映時間まで暇つぶしをした。

1993年に製作された「ジュラシック・パーク」はCGの出来栄えもすばらしく、恐竜映画としては、なかなか感動的であったのを覚えている。
その後、続編を経て、久しぶりの「恐竜もの」ともなれば、いやいや、夏休みを外して、それでも数時間待って、その努力とというか、暇人ぶりというか、そういう期待感だけが膨らんで・・・

映画館で大きなスクリーンに映し出される恐竜の迫力は大したものだ。
前作を見ることなく、この「ジュラシック・ワールド」を初めてみるちびっ子たちは、けっこう衝撃的な印象をうけるのじゃないかと思う。

娯楽映画だと、自分と妻との妥協点、最大公約数的映画、シニア割引の恩恵、映画そのものよりも、今年は日曜日に「ジュラシック・ワールド」を観たという思い出にはなった。

ちなみに、20数年前に見た映画の衝撃の再来にならなかったのは、きっと「恐竜テーマパーク」での管理不能による、恐竜の暴走という定番以上のストーリーの斬新さがなかったからか。
まあ、迫力感はあったからいいか。

などと、恐竜好き者の贔屓の引き倒しのような感想だが、やはり初めて観るちびっ子にとっては、恐竜のリアリティと迫力が心に焼き付く映画になったと思う。
やっぱり、この手の映画は映画館で観るのがよろしいようで・・・

※写真は製作会社のHPよりお借りしました

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2014.07.13

眠れる森の美女

7月13日(日) 映画「マレフィセント」を観る

Photo週末の土曜日の夕食を終えた夜、急きょ映画を観ようということになって、これぞまさしく「Saturday Nignt Theater」ってことだが、単語のスペルは正しいでしょうか?

「マレフィセント」は予告CMで観て、まあ、こういう童話ものは気楽に楽しめるだろうと、妻と意見が一致したけれど、一致するのも珍しい(笑)

日本ではグリム童話で知られてる「眠れる森の美女」が底本だけど、あらすじは原作には忠実ではなくて、王女の誕生の宴に呼ばれなかった魔女マレフィセントが主人公。

魔女なのか妖精なのかよくわからないが、日本の昔話や民話では魔女も妖精も登場しないので、ほんとうは「マレフィセント」という存在がどういうものか日本人にはしっくりこないものだと思いましたが・・・ああ、映画では原作の13番目の魔女というわけでもなく、その呼ばれなかった理由が物語の中心ポイントでした。

まあしかし、そういうふうに観る映画ではなくて、命あるものすべてに共通する「愛の物語」と、純粋に理解して楽しめればよいのかも知れません。

若いカップルと女性ばかりが観客で、ちょっと大人になりすぎた私らは異質の観客でした(笑)

童話というのはいろんな解釈と筋立てができるのでおもしろいですね。
子どもには子どものお話として、大人には大人の世界をアレンジして・・・普通に楽しめればいい映画だと思いました。

ところで50歳以上の夫婦割引で半額の料金のつもりでしたが、「4DXシアター」特別料金ってのがかかりました。

「4DXシアター」耳慣れぬものだと思ったら、シートが前後左右に揺れ、ミストや風がでたり、なにやら香りまでスクリーンに合わせて出てくる、いわば映画の臨場感を高揚させる装置が、場面ごとに設定されています。

3Dの立体映画の延長というよりも、アトラクション的演出なんですね。
映画も集客のためのあれこれ手法に知恵をしぼってるのですが、映画そのものを普通に楽しむだけならば、特別料金はもったいない(笑)

・・・と思ったけれど、土曜日の夜、若いカップルが「映画を観に行こうか~」と楽しむには、ちょっとした演出の+α効果があるかも??
ははは、童心に帰って素直に「純粋な愛のお話」として観ることができるならば、それなりに楽しい映画となるでしょう。

※写真は宣伝用ポスターからお借りしました。

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2013.02.05

地上最大のショー

2月5日(火) またまた映画をもう一本・・・

 昨日は立春、愛知県下において梅の花の開花が確認されたらしい。
 一歩づつ春が近づいている、世間のあれこれの疎ましい問題も、自然のひたむきさに比べればつまらないものだ。

 図書館に返却に行った日。
 天気予報を眺めながら、明日は雨の予報なので今日しかないと図書館の返却日を決める。
 自転車は空模様と相談するので、予定日の数日前でも「この日しかないなぁ~」となる。
 時間に追われない暮らしは贅沢なものだと思うので、貧乏人でもセレブなわけだ。
 ・・・と、そう思える暮らしがいい。

 先日、映画「地上最大のショー」(1952年・米国)を観た。Img063
 図書館の貸出DVD映画の2本目だ。
 何だか暇にまかせて映画ばかり観ていると思われるが、暇に任せてというよりも、気分と相談して観ることが多い。

 楽しい映画は心と体を休めさせてくれるものだと思うが、そんな映画がこれ。
 旅するサーカス団の物語、煌びやかで豪華なサーカスの楽しさを満喫できる。
 サーカスといえば「木下大サーカス」を、まだ子どもが小さな頃に観たぐらいだが、この映画のスケールの大きいこと、とにかく大きい。

 空中ブランコの華ホリーをめぐる、人気者セバスチャンとサーカスの監督のラブストーリーを中心に物語は進行する。
 サーカスの表も裏も、観客の表情だって・・・一粒で二度三度も楽しめる映画といえる。
 空中ブランコから象や馬のショー、ピエロの可笑しさ、観客の大人も子どもも見とれるショータイム。
 映画であるけれど、サーカスの面白さをふんだんに楽しめるというわけだ。

 そうそう、映画はラストでサーカス列車が転覆して・・・それでも、ハッピーエンドになるからおもしろい。
 ある意味、純粋にサーカスの楽しさを味わえる映画だった。

 というわけで、本日はまたしてもDVD映画2本と2冊の本を借りた。
 図書館とともに健全な娯楽生活を送っているが、これも意識して作る暮らしだと思っている。 
 
 しかし、この映画、昔どこかで観た気がする・・・

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ロマンティック・コメディ

2月4日(月) 映画「或る夜の出来事」(1934年・米国)

 図書館で借りたDVD映画、古典的な恋愛コメディの名作だというPhoto_2

 アメリカという国は、こういう映画にかけては素晴らしいものを作ると感心する・・・と言っても、1934年。
 かっての、自由で民主的という旗印がまだ風になびいていた時代だが。

 大富豪の娘エリーは結婚を反対され婚約者がいるニューヨーク行きのバスに乗る。
 自由奔放な彼女と同乗したのは、新聞社をクビになった記者のピーターだった。
 行く先々で騒動を起こすエリー、その彼女の家出をスクープしようとする記者のピーター。
 旅を続けるうちに、意地を張りあってた二人だが、お互い惹かれあうようになる・・・

 「ローマの休日」のストーリーとどこか重なる、王女と記者、大富豪の娘と記者の恋愛物語。
 「ロマンチック・コメディ」というのはDVDの文句であるが、まさにその通りの映画といえる。
 可笑しさって、真剣であればあるほど、日本流でいえば真面目であればあるほど、可笑しさがこみあげてくるものだ。

 世間知らずで向こう見ずなエリーが新聞記者ピーターと出会う中で恋に目覚める過程が・・・ロマンチックである。
 財産も地位も名誉も「恋のストーリー」の前では無力である、というか打算なき恋愛は、いつの時代にも夢のように憧れる「恋愛」の典型なのである。

 ・・・・こういう恋愛観は今の時代には古いのかも知れないと思いつつ、良き時代のアメリカ男性は素晴らしく紳士で素晴らしくユーモアに溢れ素晴らしく熱いのである。
 こういう時代もあったのだと思いつつ、こういうロマンチックな世界に浸るのも・・・映画はおもしろいものだ。

 ははは映画青年はきっと心ときめきながら観たのだろうなぁ~。
 

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2013.02.03

「東京家族」(山田洋次監督)を観る

2月3日(日) 『どっかでまちごうてしもうたんじゃ、この国は』

 「こういう映画は遠慮するわ・・・」と言う言葉が返ってくるに違いないと思いつつ、「映画を観に行こうか『東京家族』を」と妻を誘ったら、予想外に「いいわよ」と。

 日本映画もアニメとアクションものに人気が集まるけれど、こういうスリルもサスペンスもない映画に「はいはい」と二つ返事でOKするものかと思うと、ちょっと不思議であり、それが今の邦画の現状なのだろうと思う。

 小津安二郎監督が「東京物語」作ったのが1953年。ちょうど60年の歳月を経て、そのリメイク版といえる「東京家族」である。

 広島の小島から東京で暮らす子どもたちを訪ねてくる老夫婦、長男は街医者、長女は美容院と忙しく暮らしている。
 この設定は「東京物語」と同じであるが、次男は舞台美術の不安定な仕事につき、その婚約者は書店で働いているという設定は、「東京物語」とはちょっと違う。

 子どもたちに会いに来た老夫婦だが、長男も長女も忙しい日々で、せっかく訪ねてきたのに、ゆっくりと子どもたちと過ごすのもままならない。
 予約してくれた豪華ホテルも老夫婦にとっては居心地が悪い、早々に引き揚げたが居場所が無い。
 父親は旧友と絶ったはずの酒を飲み吐いた言葉が「どっかでまちごうてしもうたんじゃ、この国は」である。

 東京の風景はスカイツリーが建ち大都会の街となっている、横浜の豪華ホテルもイルミネーションが輝き、外国人らしいグループが大騒ぎする。

 「東京物語」で映し出された風景が現代のそれに置き換わり、中学生の孫は弁当持参で塾へ行く。
 3.11の東日本大震災によって友人の母が亡くなり、友人とて息子の嫁が嫌がるからと泊まるのを拒む・・・
 新しい今の東京の普通の暮らしが60年前の映画のそれと重なり、物語は展開されて行く。
 
 「家族の絆」が言われ、今も昔もこの親と子の近くて遠い、それでいて気になって仕方のない「親子」のせつなさも・・・同じである。
 「東京物語」では戦死した次男の妻、紀子が実の子ども以上に暖かく迎えてくれたが、「東京家族」では次男の恋人「紀子」が、しっかりもので素直な恋人として登場している。

 この「東京家族」の老夫婦も子どもたちも、どこにでもいる普通の暮らしをしている。
 それでいて、どこか意識のズレや違いが、せつなく伝わってくる。
 きっと、家族のこうした問題はどこにでもあり、どうにかしたいと願う問題でもあるが、やっかいな問題でもあると・・・60年前のモチーフが今日でも生きているものだと思う。

 そうした家族のありかたを考えさせられる映画なのだが、そこに「親と子」の意識のズレと言うだけでは片付けきれない、時代というか世代の違いが大きく立ちはだかっているようにも思えた。

 「家族」その底流に流れる「理解しあう気持ち」が通じるのだろうか・・・僕は僕自身の暮らしのなかで、なんだか息苦しさを覚えてしまうけれど、「紀子さん、ありがとう」と呟く父親に涙する紀子のなかに、せつないけれど、埋められない隙間だけれど、それでも同じ時代を生きる親と子の未来を信じてみたいと思った。

 映画の上映が終わり、数席横で観ていた年配のご夫婦が「いい映画だった、いい映画だった」としきりに呟いていた。
 ご婦人は足が悪く、彼女の老夫なのでしょう、肩を抱くようにゆっくりと席をたった。
 「もうすぐだよ」と夫が言葉を返し、一歩二歩と歩いて行った。
 もうすぐ、こういう映画の中の「親と子の家族の思い」が伝わる社会がくるよという意味なのだろうか、それとも・・・

 とてもいい映画だった、3.11の震災の前にクランクインする予定だったものを中止し、あらためて今回製作した意味も伝わってくる映画になっている。
 皆さんにお勧めの映画である。
 

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2013.01.18

スルメの味

1月18日(金) 映画「有りがたうさん」(清水宏監督・1936年)

 録り溜まったテレビ放映の映画をDVDに保存しながら見ている。
 夕方のちょうど小腹がすく時間帯に見ることが多いので、ちょっと何か口にしたくなる。

 ちょうど正月用にと買ったスルメがたしか一枚残っていたと、ガスコンロであぶり、頃合いをみながらモグモグと噛む。
 日本酒の一杯もあれば、さらに美味さも増すのだろうが、諸般の事情で飲酒はご法度である。
 別にキッチンドリンカーの心配があるわけじゃないので念のため、諸般の事情というだけだ。
 ガスコンロであぶるというのも、いささか情緒に欠ける、ほんとうは火鉢の炭でゆっくりあぶるのが風情があっていいものだが、当世火鉢も七輪もなにもない。
 電気とガスに取って代わられた今、僕の今後は火の始末に気を付けろ!と、IH製品のお世話になるのだろうか。

 「有りがたうさん」は昭和11年の映画である。「有がとう」ではなくて「たう」って表現も、懐かしい。1
 昭和の戦争が始まる前、日本中がいっそう貧しさを増して行く時代の映画だ。

 伊豆の定期バスの運転手をする青年は、道行く人を追い越すたびに「ありがとう~」と声をかけ、貧しい寒村のみんなから「ありがとうさん」と呼ばれていた。
 そんなバスの車中で繰り広げられるのは、娘を身売りする母親と娘、金鉱に憑かれた男、行商の人々、道路工夫として働く朝鮮人の娘との・・・時代を映す人々の暮らしなのである。

 10年ひと昔と言われるが、ひと昔もふた昔も前の戦前の映画。
 バスの走る砂利道も奥深い山間の農村も、かっての日本の風景である。
 村の娘に「町に行くなら流行歌のレコードを買ってきて」と頼まれる青年運転手、身売りする娘を何度も乗せ、こんな運転手よりか、棺桶を運ぶ運転手のほうがましだと呟く青年運転手。

 バスのなかで交わされる人間模様・・・ゆったりとしている、道行く人々もゆったりしている。
 貧しさのなかの可笑しさと人情、そういう人々の暮らしを叙情、詩情豊かに描いた映画であったと思った。

 顎が疲れてしまうほどスルメを噛みながら、懐かしい昔の映画を丁寧に見ていると分かってくることもある。
 現代のギャグと言葉だけのお笑いが一瞬の笑いを誘いはするが、深くこころに残らないのは寸分の休みもなく早く早くと急き立てられる今の暮らしだからだろう。

 じっくり味わえる笑いやユーモアがなんと人間的なものだろうと、ちょうど噛めば噛むほど味の出るスルメみたいに・・・温故知新の味が広がるということだ。
 
※写真はNHKBSプレミアム「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本」よりお借りしました。 

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2012.12.06

昭和30年代の日本

12月6日(木) 「妻と夫がけんかした話」桜映画社作品 (昭和32年)

 犬も寒い日は外に出たがらない、というのも犬用のヒーターの上でヌクヌクと暮らしているからだ。
 13歳の老犬だが、可もなく不可もなく穏やかで平和な人生(犬生)を送っている。
 犬に幸せとか不幸という感情があったら何て言うのか聞いてみたいものだ。
 食べることに不自由しないから、十分幸せな暮らしです!と、まあそう言って欲しいものだが・・・

 その老犬を無理矢理に連れ出して散歩となった。近くの小学校の植木のフェンスに選挙掲示板がかけられている。
 僕は一度もじっくりとは見たことがないが、4,5人の女子中学生が掲示板を取り囲んでしきりに話をしている。
 聞くとはなしに耳を傾けると、どうやら候補者の批評のようだ。
 「この人はねぇ、原発には反対のようだけれど、こちらの人は・・・・・って言ってるよ」

 いまどきの中学生のほうが、名前を連呼してガンバッテマ~スとがなり立てる宣伝カーの候補者に、誰がやっても同じだから、何かやってくれるかも知れないと、気分で一票を投じる大人たちよりも、案外素直な目を持ってるのかも知れない。
 誰に何処に投票したら、自分の暮らしを良くしてくれるのだろう!と、でも投票する人も政党もないと思って選挙に行って、気分で投じるくらいならば、投票権を行使して白紙投票するのが筋である。
 ・・・と友人に話したが、あまり賛同はされなかった。

 図書館の貸し出しDVDに「昭和30年代の日本・家族の幸福」という作品があった。
 いつもの映画の棚ではなくて、記録・報道だったと思ったが、そこに3本そろっていて、今まで気が付かなかったが、これが短編映画集になっていた。
 「夫婦編」「家族編」「親子編」で、それぞれ3本の映画と当時の朝日新聞社ニュース記録が収録されている。
 つまり、映画と報道ニュースの構成で、昭和30年代をふりかえるというもの。

 このうち「夫婦編」には「今どきの嫁(桜映画社作品)」「妻と夫がけんかした話(桜映画社作品)」「愛情屋台(記録映画社作品)」が入ってて、出演者の顔ぶれもあまり知られていない。
 が、短編映画ではあるが、けっこう迫力のある(と思ったが)当時の風物、暮らしがリアリティを持って伝わってくる。

 昭和30年代というのは、こういう意欲溢れる映画が作られていた時代だったのだと、今のような興行収入を基準に作られる映画とは、ずいぶん違うわけである。

 さて、そのうちの1本の感想を書いてみる、ちょうど街のから風に乗って市民を小馬鹿にしたような選挙カーが名前の連呼にけたたましい折だから・・・

 「妻と夫がけんかした話」(脚本 鮎沢美子 監督 野村企鋒)

 とある農村地帯、村の村会議員選挙は村の利益を代表し、順番で候補者を決めるのが因習となっていた。
 その年の選挙は、いつも通りの順番で候補者になった者が当選するはずだった。
 村が誰に投票するか決め、それに従って家長が一家の票を取りまとめる。

 ところが、開票した結果は1票差で村で決めた候補者が落選する、村ではよそから来た嫁が候補者に投じなかったからだ・・・
 彼女は「自分の考えで自由に投票する」という考え方だった、村では嫁への風あたりがつよくなる。青年たちや婦人たちは「正しい選挙とは」と、話し合い理解して行く姿が物語として続く・・・
 
 昭和30年という、まだまだ家父長的な色合いが残っている農村地域での、自由な選挙という権利への目覚めの時代というわけだ。
 この映画のシナリオを作るにあたって、あの市川房江さんらからも意見を聞いたという。

 選挙がまだまだ自由に自分の権利として確立していない時代、女性の政治参加への意識も乏しい時代に、こういうテーマを映画のなかで、ユーモアを交えて、村の人々の考え方が少しずつ変わって行くのである。
 
 こういう風景は今の時代からすれば、村で候補者を取り決めて家長が票をまとめるなんて、まったく馬鹿げていると、簡単に言えるのだろう。
 しかし、ほんとうに「馬鹿げている」と言うほど、今の時代は明るく正しい選挙となっているのだろうか。

 テレビや新聞や雑誌のメディアが、まるで世論誘導のような報道をして、候補者や政党もその場かぎりの公約を主張する。
 いったい本当のところはどこにあるのだろうか、そういう「正しい選挙」の姿とはかけ離れたものが、今の時代にもうずまいているわけで、形と姿は変わったけれど、「村が決め、家長が取りまとめる選挙」と、本質はどれほど違うのだろうか。

 自分の意思で投票できなかった時代、では今は自分の意思と考え方で投票しているのだろうか?
 昔の映画ではあるが、僕は本質に迫ろうという意欲と斬新さを感じた作品だった。

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