2016.11.15

風邪の連鎖

11月15日(火) 今夜の月もけっこう大きい

咳込みながら一日寝ていた。風邪薬の効果なのかすぐに眠くなる。
このまま、すぅ~っとあの世に行くのも悪くないなぁと思う。

週末に妻が風邪をひいたので、家事とかいろいろ一手に引き受けた。みそ汁の味がもうひとつ違う。シンプルなものほど味の違いがはっきりするが、風邪で味覚を困惑させているから、小言もでない。(笑)

週が明け息子が風邪をひいた。治りきらない風邪ひき人とひき始めた風邪ひき人、こりゃぁ家中風邪ひき人だなと思っていたら、ほんとうに全員が風邪ひき人となった。

あちらからゴホンゴホン、こちらからゴホンゴホン、見事なまでにゴホンゴホン。
誰が風邪をもらってきたの?そういえば里帰りした孫が風邪気味だった。
もう誰も風邪の元探しをしなくなった。

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2012.07.20

居心地のよさ

7月20日(金) ふと気づくことがあります・・・

 生活していて、何気にふと気が付くことがあります。
 ああ、これって、こういう事なんだ!と、何冊もの本を読んで教えられることよりも、よっぽど心に深く刻まれるものです。

 毎年、知的障がいの施設の夏季物資販売の商品を買っています。
 ここでしか手に入らない特別品というわけではないが、こうした物資販売の売り上げが仲間たちのボーナスになるので、ほんの僅か、気持ちの分だけ買うのが、僕のいつものことです。

 品物を受け取っていると、初めて会う知的障がいの方が、握手を求めて来ます。一度ではありません、2度も3度も4度も・・・切りなく握手攻め。
 言葉が不自由なので、よく聞き取れませんが、「買ったの?」という意味のようで、「そうだよ」と返事をして。
 これも何度も繰り返します。

 一つのコミュニケーションだと僕は思っていましたが、そろそろ帰ろうという段になって、こんどは手を振って「バイバイ」、僕も「じゃあね、バイバイ」って。
 この挨拶も、何度も何度も・・・10回以上はバイバイなのです。
 やっと車に乗り込んだところで、彼はいつも通りなのでしょう、あっけらかんと施設の中に戻って行きました。

 僕は、ふと思いました。この彼のコミュニケーション方法ってのは、なんと自然な行為なんだろうと。
 気持ちや思いを、「社会の挨拶」という規範にとらわれることなく、素直に表現するということです。
 社会にはさまざまな個性をもった人々が暮らしています。

 多様性とはそういうことでしょう。
 そのさまざまな、障がいであったり不登校であったり貧乏であったり病気であったり・・・そういう人々を包括して社会は社会として成り立っています。

 してみると僕たちは何と不自由な暮らし方に慣らされてしまっているのだろうかと考えさせられます。
 どうも僕らは最大公約数のような「普通」だけを基準にしてしまいがちです。
 ですから、何回も握手する、何回もバイバイをする、ああ、これって知的障がい者の障がい特性だなと、解ったような顔をするけど「普通」じゃないことと思ってしまいます。

 だから、大切なことを見落としてしまうのです。
 家庭でも職場でも、こういうブログ日記でも、人が人とコミュニケーションをとる方法なんて、千差万別、百人いれば百通りの方法があって、それを個性というのでしょう。

 それを、何か「普通」というものがあって、その範疇から外れたら「おかしい」とか「変だ」と考えると、ものすごく不自由になってしまう。
 人を理解するというのは、そういう生き様も暮らしも個性も違い、間違いもあれば失敗もある。
 そういうものを含めて社会なんだから排除や仲間はずれなどで解決するなど、思い上がり以外の何物でもないでしょう。

 仲間はずれや自分とは別物だなどと思いさえしなければ、人は何を言おうが、どのようなコミュニケーションであろうが、いずれは世の中なんとかなってゆくと思うのです。

 彼にとって繰り返すことは重要な人との関わり方であって、そこには「ああ、この人は迷惑してるのだな」などということは思いもしないし、彼は本音で関わろうとしているに過ぎないわけです。
 知的障がい者の方の暮らしかたの中に、素晴らしいと思う原点がたくさんあるけれど、見落とすことも往々にしてあります。

 彼はここはとても居心地のよいところに違いないと思います。
 こういう彼のコミュニケーションの方法をみなが理解してくれているからです。
 ちょっと面倒だと思うことはあっても、それをみなが受け入れています。
 そういうふうに、社会生活のあらゆる場面で全部受け止めてくれれば、ここだけじゃなく人生そのものが居心地よくなるでしょう。
 
 こういうことは家庭や職場や社会でも同じで、まあ、なかなか難しいときもあるけれど、居心地のよさっていうのは、何を言っても大丈夫!と言える場所だと思うのです。
 何を言ってもいいんだ、これは人の個性や多様性を認める、排除しないということに尽きます。
 自由というものの前提だと思います。

 一つの規範や概念や道徳的理想にがんじがらめになって、不自由になってしまうと、ブログ日記というものも、つまらなくなる・・・自省の思いです。

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2011.11.29

人生は一期一会⑬

11月29日(火) 大家族

 Zさんの家族と初めて会ったのは10年近くも前のころだったろうか。
 中学を卒業したばかりの娘さんを筆頭に子どもが7人と両親の大家族だった。
 Zさんは病気で退院したが、しばらく自宅療養が必要となり、暮らしに困ったという相談だった。
 会社勤めではあったが、「日給月給」つまり一日の日給を合計して月給として受け取るわけで、そのほうが給料がいいからという話だった、当然休めばその日の給料は入ってこない。

 Zさんの家に伺うと、乳児を抱えた奥さんが玄関を開けてくれた。その玄関には何足もの靴が所せましと重なって置かれている。
 部屋の一室に通されたが、家具や生活用品もないガランとした8畳間、子どもたちが行ったり来たり運動会の様相だった。

 未就学の子どもから小学生、中学生まで、元気といえば聞こえが良いが、「おしっこ!」と叫ぶ子や、誰が訪ねて来たのかと覗き込む子どもや、収拾がつかないと言った方が当たっていた。
 それでも、お母さんは強く叱るわけでもなく、淡々と世話をしているし、Zさんはというと、これまた物静かで穏やかな人だった。

 テレビで大家族の暮らしを伝える番組がある。大抵は両親のうちのどちらかが肝っ玉母さんだったり、エネルギッシュな父親だったりするものだ。
 そうしなければ、子だくさんの家族の協調性が保たれないのが普通なのだが、Zさん夫婦といえばふたりともそんな素振りはまったくない家族だった。
 僕はこの先大丈夫だろうかと余計な心配もしたものだった。

 昨年のこと「子どもがたくさんいる家族がいて、お父さんが病気で動けないらしい、病院にも行ってないらしい」という、知り合いという人からの相談が入った。
  最初はZさんとは気が付かなかったが、住まいや家族の話を聞いてZさん一家であることを確証したのだった。

 10年近いの歳月は、乳児は小学生に、小学校の子どもたちも義務教育を終えた歳になっている頃だろう。
 以前、訪問した家だと思い出しながら、Zさんと会うことになった。
 高血圧による脳こうそくで下半身が麻痺して動けない、治療費もないのでと布団から少し起き上って、過っての時と同じように物静かに話し出した。

 子どもたちは末の子は小学生、その上の子は来春には中学を卒業する、その上の子どもたちは義務教育を終えて、アルバイトをする子、住み込みで寮にいる子、自宅からコンビニでアルバイト通いする子など、仕事には就いている。

 当時一番上のお姉ちゃんは、結婚し子どもが一人できたが、離婚して戻りアルバイトをしていた。
 Zさん一家にとって、子どもたちに義務教育を受けさせるというのが精一杯の教育だったのだろう。
 高校へ進学するのもZさん一人の収入ではとてもできない。
 
 だから、この雇用不安の社会では中学を卒業しても正規雇用で働く会社もなかなか見つからない。
 来春卒業の子どもですら就職先はまだ決まってないのが実情だった。
 社会への門出、そこから子どもたちにとっては乗り越えなければならない環境が待ち受けている。

 「子どもたちに医療費を出してもらって、病院を受診できないでしょうか」Zさんに聞いてみた。
 「そうできればいいんでしょうが、あの子たちの少ない給料の中から病院代を出してくれとは・・・」
 このまま治療もせずに放置すれば病気も悪くなる、寝たきりになればZさんだけでなく、一家も困難のどん底になり共倒れの心配すらある。

 両親のどちらかがパワーあふれる親であったらここまではならないだろうか、それともこの両親の優しさや穏やかさがそうさせているのか。
 「一度、子どもたちに実情を話し、なんとか病院に通えるようになりませんか、子どもさんもきっと分かってくれるのでは」とZさんに話してその日は終えた。

 数日後、母親と子どもを連れた長女と会うことになった。
 「あれから、迷ったけれど子どもたちと相談したのです」と。
 長女も「お父さんがそんな状態だったとは気が付かなかったんです、弟たちと話し合ってどれだけみんなで出せるか相談して、今日病院にも行ってきたところなんです」

 ひとまずはほっとしたが、この先、子どもたちも成長し独立してゆくだろう。
 病気の父親と子どもの世話に追われる暮らしの夫婦、まだ小学生の子どももいる。
 その一家の暮らしを、この先もアルバイト仕事の子どもたちが支えて行くのは大変なことだ。

 けれども、僕はこの子どもたちの優しい家族への思いがあれば、きっと何とかなるのではと思う。
 家族の絆、あまりにも優し過ぎるとさえ思う両親の姿は、ときとして非力にすら見えるものだが、こんな両親だからこそ育つこどももいる。

 子そだては「子どもに愛情をもって育てること」これが、どんなに貧しくても家族の絆になるということだろう。 
 
 
 

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2011.11.25

人生は一期一会 ⑫

11月24日(木) 自死してはいけない!

 自分の命を自ら絶ってしまうこと、その辛さは本人が一番なのだろうが、その辛さは自死した家族も、本人と同じように、いやそれ以上のものがある。

 なぜ死ななければならなかったのか?、どんな辛いことがあったのか、それを止められなかった自分を責める。
 そうした自死した方の家族の気持ちを思うと、とても辛いものがある。

 Sさんはまだ30代だった。
 会うたびごとに「もう死にたい」といつも言っていた。
 リストカットする人は、本当は死にたいとは思っていない、生きたいけれど苦しいから、誰かにその苦しさを分って欲しいと思う。
 自分を分って欲しいという気持ちがリストカットという行為になる。SOSなのだ。
 もちろん、それは多くの場合であって、全部がそうだとは限らない。

 福祉の仕事についた頃、「死ぬ!死ぬ!と大騒ぎする人はSOS、ほんとうは死なないから大丈夫」という話をよく聞いた。
 ああ、SOSなんだなと思ったもので、たしかに、ゆっくりと話しあえば落ち着きをとりもどしてくれた。

 Sさんは神経症だと言っていた。
 「もう生きてても疲れる、死にたい」と何度も口にしていた。
 そしてまた「自立して、自分で独り立ちした暮らしをしたい」とも言ってた。

 それからしばらくして親兄弟の近くにアパートを借りて独り暮らしを始めたのだった。
 家具も買い炊事道具もそろえていた。
 Sさんの引っ越したアパートは2階建ての6世帯が暮らすうちの一室。
 一人暮らしの方が多かったが、僕の顔見知りの気さくな人も暮らす庶民的なアパートだった。

 「病院にも通って先生から処方される薬も飲んでいる、なんとかここで暮らして行きたい」
 僕はSさんの家を訪問して、病気の話や将来のことなどを何度か話した。
 少しは落ち着いた生活を始めたと思っていたある日、部屋に鍵がかかっていた。

 それほど頻繁に外出するSさんではないが、呼んでも返事がない。
 その日は再訪のメモを残しそのまま職場に戻った。
 翌々日にもう一度来てみたが、やっぱり返事がない。

 なんとなく胸騒ぎがして、職場から「Sさんの姿が見えないので、夕方にも一度様子を見て欲しい」と兄弟に電話を入れた。
 その日夜、溜まった仕事の残業をしていたら、慌てた足音で妹さんが駆け込んできた。

 「〇〇君が死んじゃった~」泣きながらの連絡だった。
 亡くなったのは僕が最初に行った日の夜だったらしい。
 大量の処方された薬を飲んで、兄弟がアパートを訪ねた時にはもう亡くなっていたという。
 亡くなっていたことさえ知らずに僕は訪問していたわけだ。

 自死する方の理由は、これというものが一つとは限らない。
 いろんな理由があって、自死する道を選んでしまう。
 その理由全部は家族のかたにもわからないし、僕にもよくわからない。

 Sさんの葬儀を終え、お母さんと兄弟の方が手続きも終えたと挨拶にみえた。
 「家に一緒に居て、すぐに気付けば胃洗浄してもらって、もしかしたら助かってたかもしれない。でも、私たち家族も〇〇君に何も出来なかった・・・みなさんにはお世話になりました」

 どこに問題があったのか何がそうさせたのか。
 わからないまま、ただSさんの自死の事実だけを受け入れる他なかった。

 それ以来「死んでやる!」という言葉を聞くと、僕はすぐに会いに行くようになった。
 たとえ、それが何度も繰り返す虚言癖と思われる場合でも。
 「どうしたの?うんうん」と話を聞いて少し落ち着く。安心するのは自分の方だ。
 

 自死してはいけない。
 あなたも辛いだろう、でも辛いあなたに何もしてあげられないと悲しい思いをする家族や友人が、あなたの周りに大勢いるんだから。
 そういう人がいる限り、人は自死してはいけないのだ。
 そう思うようになった。
 

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2011.11.21

人生は一期一会 ⑪

11月21日(月) 職場の精神科医の一言

 職場には週に2回ほど嘱託で精神科のドクターが来ていた。
 なかなかイケメンの先生で、優しい顔立ちで物腰も穏やかだし、相談にも丁寧に対応しもらえるから、けっこう女性の間では評判の良い先生だった。

 精神科医ともなれば、いろんな患者さんもいるし、けっこう大変な商売じゃないかと思うと、こんな優しい顔で、優しい言葉使いで大丈夫なのか、と思ったりしたものだ。

 そんな思い込みは見事に違っていた。
 仕事でメンタルの病気の方についてはよく相談にのってもらった。
 福祉職場というと心の病気について悩みをもつ方々と話すことも多い。
 「先生、こんな方がみえるのですけど、病状はどうなんでしょう」と聞くと、「じゃあ、今度の出勤日に僕がお会いして相談しましょうか」
 快く相談を引き受けてもらえるから、専門の知識のない僕らには心強い限りだった。

 この頃、僕はこの福祉という仕事にちょっと疲れ切っていた。
 人との対応、人間関係に付きまとうトラブルや困難なケース。
 クレイマーとも思われる人もいるし、多忙な仕事量の中で、いつ終わるか知れない焦燥感。

 頑張ってみても、思ったように仕事もはかどらず、ただでさえ社会の辛い問題に接する機会が多いと、ケースワークする側の心が折れそうになることも少なくない。
 ちょっとトラブルが続いていた頃、この先生に話をしてみた。

 「もうこういう福祉って職場に疲れてしまったのですが、どうしたらいいんでしょう?」
 いやぁ、先生はニコニコして「そうですか、福祉の現場も大変ですからね」
 「でも、いいじゃありませんか。何年かすれば、また違った仕事につくことだってあるでしょう」
 「精神科医という僕らなんか一生精神疾患の患者さんとお付き合いですからね・・・」
 言われてみなるほどである。

 「人は悩むでしょ、悩んで苦しくてしかたない。そんなときって、その悩みから逃げたい一心になって、何とかならないか!ともがくんですよ。」
 「必死にもがくほど辛くなる。仏教の言葉に『諦観』というのがあってね、もう、そういう辛いことは辛いものだと諦める。諦めてみると腹も座って、そこから始まるのですよ。」

 きっとこの辛さから解放されたい、なんとかしてお終いにしたい。
 けれども仕事はやめられない・・・そんなところで、堂々巡りをしていた。
 そこを見て取った先生は「諦めて、受け止めるってことですよ」という言葉になったのだろうと思う。

 辛いことや悩むことは多い。
 そんな場合に人は「頑張れ」という、頑張ってると思っている人に、これ以上何を頑張れというのか。
 だけども、頑張ることがカラ回りして、行き場のない状態になってる場合、この「諦めなさい」という一言は、余分なカラ回りを取り除いてくれるものだ。

 「ああ、僕は辛い状況に遭遇している、それが福祉の現実ならば、今はしかたがない」と観念したものだった。
 もちろん「諦める」ことは努力をしないことではない。
 ただ、辛い現実があるなら、まず、しっかりと受け止めて「それが現実」だと腹に落とせば、逆上してキレルことも、泣き言も・・・どんなに言てみても解決にはつながらないことを知る。
  
 そんな話だったが、ものすごく勇気づけられる話だった。

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2011.11.18

人生は一期一会 ⑩

11月18日(金) 過去より、いま必要なこと

 「もうあの人とは一緒に暮らせません」
 子どもを連れて逃げてくるけれど、知らぬ間に、また夫の元に戻って行く。
 そんなことが繰り返されると「今は真剣そうな顔だけど、また戻るんだよ、きっと・・・」誰しもが思う。

 Dさんは夫と子ども二人の4人暮らしだった。
 夫は稼いだ給料をときどきしか渡してくれない。
 給料だけだはなくて、酒に酔った時は暴力もでる。
 そんなことを繰り返しているうちに、暴力も一段と激しくなって、母と子どもは行き場がなくなってしまう。

 「離婚して、なんとか子どもたちと暮らして行きたい」それがDさんの願いだった。
 こうした家庭が自立するための施設がある。
 強い決心で夫の元から飛び出したDさんだった。

 Dさんは、子どもをとても可愛がっていた。
 飛び出すときには、子どもの可愛がってたぬいぐるみや学校の教科書もきちんと用意している。
 「二人の子どもの為なら、どんなことでも耐えられると思う」決意は固いようだった。
 絆がなくなった夫婦関係を清算して、新しくやり直すのも一つの人生の選択だろう。

 それから数日たったある日、Dさんが、夫のもとに帰って行ったと連絡が入った。
 あれほど固い決意だったのが、数日で変わってしまうのもわからない。 
 夫が、きちんと悔悛して、妻と子らの生活のために一生懸命になってくれればいいが・・・そう思うほかにはなかった。

 3か月ほどたって、Dさんから再び連絡が入った。
 「〇〇ですけど、やっぱり夫とうまく行かないんです。もう、子どもを連れて家を出ちゃったんです・・・」

 Dさんの話はこうだ。
 家を出てから、ひょっとしたら夫は反省して真面目やり直してくれるかも知れないと思った。
 それで、夫に連絡をしたら『自分が悪かった、帰って来てくれ』と言う。
 真面目になってくれるかも知れない、そう思って家に戻ることにした。
 しばらくは平穏だったけど、でもまた同じことになってしまった。
 昨日から喧嘩になり、叩かれて、それで友だちのところに身を寄せている。

 やはり良い結果ではなかった様子。
 逃げだすように家を出て、別れて子どもと暮らす決意をしても、また夫の元に帰る場合は少なくない。

 好きで結婚して勝手に別れるのでは身勝手もはなはだしい。
 痴話喧嘩まで福祉が面倒見きれない。そう思うのが普通の感情だと思う。
 ましてや、あれほど「子どもの為なら・・・」と言い切ったDさんだったから。
 「今度は、子どもにまで手をあげたんです、もう子どもも怖がって・・・」

 今回はよほど慌てていたのか、Dさんも子どもも着の身着のままだった。
 こういうDさんのように繰り返す場合、それに関わるほうは皆疑心暗鬼になる。
 「また、夫のところに戻る、繰り返すに違いない」と。
 だから、夫婦関係の問題と福祉の境界はたしかに微妙なものとも言える。

 だからといって「Dさんはまた繰り返すだろう、夫のもとに帰りなさい」とは言い切れないのである。
 今のこの状況でこの親子が、生活できない、身に危険もあるならば、やはり放置はできない。
 僕は関係するところに連絡し、もう一度親子で自立して行く方向を話し合った。
 

 結果から言うと、Dさんは二回目も夫のもとに帰って行った。
 そして、それが夫を含めた幸せな家庭生活を築けるかどうかは当事者にしかわからない。
 繰り返す可能性も十分にある。

 「夫婦なんてね、一緒に暮らしていれば情は断ち切れないものよ」
 「今度相談があっても、また戻るんだから!甘い顔はしてはいけない」
 何度も繰り返すと、たしかに人の見る目も厳しくなるものだ。

 もし、3回目の相談があり、この母と子の身に危険や親子で自立した暮らしが必要ならば、やっぱり、どうにかしなければならない。
 過去にどれほど問題があったとしても、だからと言って「もう知らん」はできない。
 それは甘いとか優しいとか厳しいとかではなく、今、何んな援助が必要かという福祉の問題なのだ。

 Dさん、我が子の将来と自分の暮らしを見つめて、賢明な選択をしただろうか。
 
 
 

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2011.11.15

人生は一期一会 ⑨

11月15日(火) 人や社会との小さな窓口

 朝の出勤時、「お~い、お~い」と向こうの方で自転車を持った人が呼んでいた。
 「な~んだFさんじゃないか。」一緒にいた若い同僚が飛んで行く。
 もういつもの事なので、誰かが駆け寄って自転車を移動させる。
 Fさんは片手を壁につけて、一歩ずつ歩く。
 歩行もままならないのに自転車に乗る姿は、どう見たって下肢マヒがあるとは思われない。

 Fさんは脳こうそくの後遺症で片足がマヒしている。
 最初に会った頃は、少し足を引きずるが歩いて買い物にも行っていた。
 今では、自転車に乗らないと外出はできないという。自転車も立派な福祉用具というわけだ。
 
 あるとき、家庭訪問したら、秋刀魚を20匹ほど買いこんで調理していた。
 見ると部屋の中にロープを張って、さばいた秋刀魚を干物にしている、部屋中が秋刀魚の臭いでいっぱいだった。
 昔からこうやって秋刀魚の干物はよく作っていたという。

 このFさんはしかし滅法金遣いも荒かった。半月もたてば、ほとんど生活費を使い尽くしてしまう。
 「米もあるし、味噌もあるし、このまえインスタントラーメンをいっぱい買ってあるから大丈夫・・・」
 次の年金支給の日まで、ほとんど無一文になってしまう。

 自転車に乗って、毎日のように、この職場に顔を出していた。
 「お金が入ったら、ワシは刺身定食を食べに行くのが楽しみなんだ。」なるほど、秋刀魚をさばいて干物にするほど魚好きだってこともよくわかる。
 
 Fさんは職場のロビーの待合ソファーでいつもニコニコしていた。
 とりたてて用事もないが、ここに来れば誰かが声を掛け、一言二言の会話になる。

 かって、高齢者が病院の待合室をサロンにしていると批判されたことがある。
 もちろん、不要な診療は病院も困るものだが、あれは医療費抑制の口実になったと思う。

 日課のように自転車に乗ってやってくるFさん。
 話し相手も少ない暮らしで、誰かが会話するこのソファーは、貴重な社会との窓口だったのだろう。
 Fさんは、自転車に乗ってやってくる、それが精いっぱいの人との関わりならば、それでいいのではないかと思った。
 一日を過ごすための日課ならば、社会は多少の受容の気持ちも必要だと。

 日々の暮らしのなかの数少ない顔見知りとのコミュニケーションの場。
 「あれぇ~、またFさん来てるよ~元気だなぁ~」みなそう思い呆れたりするが、誰も邪魔者扱いはしない。

 福祉の職場は忙しくストレスも溜まることが多かった。
 罵声や怒声が飛び交うこともときどきある。
 不自由な足で自転車に乗ってやって来るのが、Fさんの精一杯の一日だったなら。
 その穏やかな笑顔を見て、ほんとうは僕らの方が、ほっとした気持ちになれたのかも知れない。

 いろんな人が腰掛ける待合所のソファーなのだ。
  

 
 
 

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2011.11.12

人生は一期一会 ⑧

11月12日(土) 福祉現場に来た実習生

 福祉の職場には毎年実習生が来ていた。

 国家資格試験を受けるために必要な現場実習で、大学生が初夏の頃に5~6人来ていたが、僕はその実習生の担当を3年ほどやっていた。

 いろんな学生さんがいた。実習はその結果を評価して大学に送る。
 だから,いつも最初に、「評価は全員一番良いのをつけますからね、知識は本を読めばわかるので、福祉の現場から何かを感じとってて欲しい、それが実習だからね」何だか生意気なことを毎年言ってた。

 ある年、そんな実習生の中に車イスのJさんという学生がいた。
 大学で体操をやっていた。その練習中に落下事故を起し脊髄を損傷して下半身麻痺になったと話してくれた。

 彼は実習には身体障がい者の自動車改造をした車を運転して出席していた。
 実習はいろいろあった、講義や実務や。その一つに家庭訪問があり、Jさんの車で一緒に出掛けることになった。
 その車中に「霧吹きスプレー」が置いてあった。
 なぜかと思い尋ねたら「脊髄の損傷で汗がでないんです、こうして時々体にかけないと体温が上がってしまうのですよ」と。

 障がい者といっても、その障がいの程度や部位によっていろんな苦労があると、また一つ教えられた。

 Jさんと訪問した家庭はアルコール依存症の治療をしている一人暮らしの男性宅だった。
 もちろん事前に了解を得ていたのだが、Jさんが実習生だと告げると、その車いすの姿を見て、開口一番「若いのに可哀そうだねぇ」と言うのだった。
 たしかに、アルコール依存症の男性は身体的には障がいはなかった。
 ただ、依存症というメンタルな病気の治療ということだけで、だから車いすの実習生を素直に気の毒と思ったのだろう。

 障がい者を「可哀そう」とだけ見るのは、僕はちょっと間違っていると思う。

 たとえば、酷い話もある。「知的障がい児が生まれた家庭の親に『おめでとう』というのは感情を逆なでするのでは・・・」と言った福祉現場の責任者もいたぐらいだ。
 これも「障がい者は可哀そう」という短絡的で奢った見方からくる人権感覚の欠如。
 福祉現場の責任者とは思えない貧しい心、腹立たしさと憤りを覚えた。
 福祉に関わる人は、自分の生き方考え方が、よりいっそう問われるのだ。

 家庭訪問を終えた帰りに、僕はJさんに「若いのに可哀そう」と彼は言ってたがどう思うのか聞いてみた。
 「そうですね、でも皆さん最初は僕の姿を見てそう思うでしょう、そうだと思います。でも、そういうところから、僕らは皆さんと関わりを深めて行けるから、可哀そうでもいいと思っているのですよ」

 僕はJさんが本当はちょっと心外したのではないかと思っていた。
 でも違ってた。そんな「言葉」よりも、一緒に関わって生きることの大切さという福祉の心を見据えていた。
 たったそれだけのこと。でも、僕も彼も素晴らしい実習体験になっていた。

 Jさん、今頃は福祉の職場で素晴らしいケースワークをしているに違いない。
 

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2011.11.10

人生は一期一会 ⑦

11月9日(水) 「障がい者と家族は死ね!」ということか

 テレビを見ていたら、「百姓は死ね!というのか」と怒りのプラカードが目に入ったことがあった。
 あれは、何年か前の「農産物自由化反対」のデモ行進の様子だった。
 今、再びTPP問題で農民の怒りが爆発している。
 一つのスローガンに込められた、時の政権への激しい怒りの文言だ。

 Wさんはお母さんと弟と妹の四人で暮らしていた。
 と言っても、弟と妹は知的障がいの施設で暮らしていたから、実際は母親と自分の二人暮らしだった。

 お母さんは高齢で、弟妹の暮らしの面倒手続きなどは長男のWさんがやっていた。
 60歳に近いWさん、リストラされたから今は仕事はないと。
 どんな暮らしをしているのか、母親の年金と自分のこれまでの貯蓄を取り崩してなのか、そこはほとんで話してくれなかった。

 もっぱらの話は障がい者の福祉のことばかりだった。
 当時は、障がい者自立支援法が施行されようとしていた時代。
 障がい者にも「応益負担」が導入され、月々わずかな障がい者年金では将来の暮らしへの不安が、家族の肩に重くのしかかろうとしていた。

 いつも帽子をかぶり、待合で僕を探していた。見つけると「ちょっと話したいが・・・」
 新聞の切り抜きをいつも用意していた。
 「こんなことになったら、出費が増えるばかりだろう、そう思わないか?」
 新聞記事を指しながら、愚痴と不満と腹立たしさを、いつもぶっつけてきた。

 「だろう・・・こんなんになったら、障がい者との家族は死ね!ってことだろ」
 障がい者の法律を詳細に熟知しているわけではないが、家族の負担が今よりも増えることに、おおきな危惧を持っていた。

 いつも、持ってくる新聞の切り抜きは、やはり暮らしが大変になるとい記事。
 そして話のお終いには「もう不安でたまらない、死ね!って言ってるようなものだろう」と、口癖のように言ってた。
 
 「障がい者と家族は死ね!ってことか」
 まるで一人でデモ行進するWさんの怒りのプラカードのように思えた。
 「なんとか方法はあるものだから、法律が決まっても、一つ一つ困った問題は解決して行ったら・・・」
 そんな話になることが多かった。

 
 Wさんは、読み書きは得意ではなかった。
 文字を書くときも漢字は苦手でゆっくりと書いていた。
 大事なことはお母さんといつも相談しているようだった。
 
 その後、自立支援法も施行された。
 僕は仕事が変わって、Wさんの姿を時々見かけることがあったが、変わらぬ不安を持ちながら暮らしていたことと思っていた。

 それから数年たったある日、訃報を耳にした。
 Wさんのお母さんが病気で亡くなっていたのが発見された。
 そのお母さんの亡くなった部屋で、Wさんも「自死」していたと・・・

 僕は絶句して言葉にならなかった。
 福祉というものの無力感を痛感した。
 僕は障がい者自立支援法、法律が一人の障がい者家族を殺したと思った。

 「障がい者と家族は死ね!ということか」そんなWさんの言葉が心に焼き付いている。

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2011.11.08

人生は一期一会 ⑥

11月8日(火) けんじ君のこと 

 もうすいぶんと昔のことだが、今の自分を考えると忘れられない一期一会だった。

 小学生の頃は、僕は泣き虫で童話の空想の世界が好きな閉鎖的な子どもだったので、あまり友だちもいなかった。
 そんな小学校時代の数少ない友だちの一人がけんじ君だった。

 けんじ君は体に障がいがあって進級が一年遅れていたから、自分よりも一つ年上だった。
 当時はよくわからなかったが、少し言葉に障がいがあり歩くときも軽い麻痺があった。
 そして、軽度の知的な障がいがあったようだ。

 同級生たちは、そんなけんじ君をいつも面白がってからかっていた。
 けんじ君はいつもそんなときは「ぺっ」と唾を吐きかけ反撃していた。
 子どもの世界というのは、ある意味、残酷な関わり方を平気でする。

 同じ小学校にハッちゃんという同級生もいた。
 ハッちゃんも知的障がい児だった。
 ほとんど「あぁ~、う~」と言葉にならなかったので、同級生からも先生からもなぜか可愛がられていた。
 授業中はいつもどこかで一人遊んでいた。まだ養護学校すらない時代だった。
 けんじ君とは違っていじめられることも少なかった。

 友だちの少ない僕は、不思議とけんじ君と仲良しだった。
 けんじ君はとても優しかった。下校時はいつも一緒で遠回りして僕の家の近くまで来てくれた。
 お互い安心できる「友だち」だった。
 もう今では、どんな話をしていたか思い出すことも出来ないが・・・。

 それから、小学校を終えて中学校に進むと、僕はクラブ活動も始め、ちょっと社交的になって、すっかりけんじ君のことなんか頭の中から消えていた。
 
 けんじ君と再会したのは、それから何年か経った社会人になりたての頃だった。
 その頃僕は一人暮らしをして仕事をしながら夜間大学に通っていた。
 たまたま帰省する電車の中で、けんじ君とばったりと出会ったのだった。

 先に気がついたのはけんじ君だった。
 向かいの席に座っていた彼は、自分の隣に座りなおして来た。
 シャツもズボんも少し汚れ、あまり綺麗な格好とは言えなかった。
 自衛隊に入ったというようなことも言ってたが、はっきりした話は覚えていない。

 そんなことよりも、僕は同じ電車に居合わせた同世代の若い女性や男性の視線が気になってしかたがなかった。
 だから、懐かしいという気持ちもあったけれど、同時になにか気恥ずかしさという気持ちになっていた。
 お互い、しばらく黙ったままで過ごしたあと、僕はそそくさと下車駅で別れてしまった。
 
 当時は「身体障がい」とか「知的障がい」などという理解はほとんどなかった。
 身体障害者福祉法ができたのがS24年、精神薄弱者福祉法(現知的障害者福祉法)はS35年っだった。
 社会の理解もまだまだで、おおむね自分と同程度ということだっただろう。

 今から思うと、そのとき何故もっと話をしなかったのかと残念でしかたがない。
 幼なじみに会えた嬉しさを、けんじ君は伝えたかったのだろう。
 障害があっても、おなじ社会で暮らす友人という、人権感覚が乏しかった。
 その後、数回あった同窓会では一度もけんじ君の顔をみることはなかった。

 もう、何十年も前のことだけれど、僕は障がい者の福祉を思うとき、けっして忘れることができない想い出なのだ。

 (2006年9月1日の日記より加筆訂正)

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