2016.09.11

母の過ごした時代(聞書き) ⑦

9月11日(日) 信州下伊那

信州の下伊那地方の冬は寒い。雪こそ深くはないが凍てつくような寒さであった。
和室の真ん中に燠炬燵(おきこたつ)が掘られ、炭火で暖をとる。
密閉の悪い昔の家のことなので、一酸化中毒など考えられないのだ。

東に南アルプスの山並みがあり、朝日が昇るのはその稜線を越したころになるから遅い。
その寒い信州よりもさらに寒さの厳しいのが満州である。
母は一歳半の長兄を連れ、葫蘆島(ころとう)から引き揚げ船に乗り京都の舞鶴港に着いている。昭和21年9月18日のことだ。

「岸壁の母」の歌詞で知られる中国大陸からの引き揚げ港が舞鶴港で、DDTの噴霧を受けた、あの引き揚げ風景に、母の姿があったと思う。
そこから郷里の信州への旅程になる。
引き揚げ船の狭くて不衛生な過程で、日本の地を前にして命を落とした人もいるという。

その2週間後の10月2日にはシベリア抑留から父が復員している。お互いの消息すら不明の帰還だったから、父も母もどんなに嬉しかったことだろうと思う。
JR飯田線の駅から父の実家(本家)までは、緩やかな坂道になっている。どんな気持ちで子を連れて母は歩いたのだろうかと想像する。

「身なりはボロボロで、生きてるか死んでるか分からないような骨と皮ばかりの子どもを連れて帰ってきたんだ」と、当時のことを伯父さんはよく話していた。

100万人以上と言われる日本人が中国の東北部に取り残され、父母のいた開拓団に残されたのは老人女性子ども、あわせて69人。
そのうち59人が郷里に帰りつき死亡者は10人で、ほぼ10年近くの歳月を経て、そのまま郷里に落ち着いたのは4戸のみという。(開拓団史)
帰郷はしたが、家督をゆずり財産も処分して、そのまま他県に再開拓を余儀なくされた家族もあった。

帰郷したあとの話である。棲む家も耕す農地もなかった父母は、僅かばかりの田畑を本家からわけてもらったという。その本家の脇のニワトリ小屋だった小屋を仮住まいにしていたと母は話していた。

郷里に落ちつけたというのが、地獄のような日々にあっては、幸いなことだったのかも知れない。
その後は、小さいながらも平屋の家を本家の敷地内に建て、自分を含め3人の男の子をもうける暮らしになる。

幼いころのまぼろしか記憶なのだろうか、小さなカゴに入れられた自分は、田んぼの農作業をしている人をじっと見つめている風景の記憶がある。父母だったと思う。
そんなに幼い頃の記憶が残っているのか疑わしいが、やはりそういう農村の農作業の風景なのである。

昭和30年代をいくらか過ぎた頃、ちょうど自分が5歳の頃に、愛知県の瀬戸市に一家して転居している。
「あのまま僅かばかりの土地で暮らしていたら、子どもらに高校も行かせてやれなかった」と、母は言っていた。一方では「本家の義理の姉さんが厳しい人で、辛い思いもした」と。

財産もなく無一文で再出発した満蒙開拓団の家族は、大小の違いはあれ、一度は故郷を出て行った者であると身に沁みて感じていたに違いない。

瀬戸に移り住み、親子6人の暮らしが始まる。父はコンクリート工場の作業員に、母は瀬戸物焼きの町工場で働き始める。
日本の農村人口が都市部へと流入する戦後日本資本主義の流れに、父母もその道を歩むわけである。

母の過ごした時代を素描のように書いてきた。今、自分の子どもらがちょうど父や母の満蒙開拓団員として中国に渡った歳を迎えている。
「時代」というものを考えさせられ、果たして今の時代を生きる自分たちに、そうした「生きる力」が親たちの時代のように在るのだろうかとも思ったりする。

両親、とりわけ母親が厳しく子らをしかりつけたことはほとんどなかった。穏やかな親だったと今でも思うが、その根底には「死線を生き抜いた」生命力があったのだろうと思わずにはいられない。

断片的な母の語ったことが、平和を考えるきっかけになっていることは間違いない。その母が虫メガネ片手に新聞を読み「年金が・・・」とつぶやいていたこと、なにかのきっかけで人前で「満州開拓団のころ」の話をパネラーのように話す機会があったということを、後に聞いたことがある。

きわめて個人的な「母の過ごした時代」の聞き書きではあるが、温故知新とわれるように、その時代を追って調べてゆくことの意味は小さくないと思っている。
素描のような父母の足跡に歴史という肉付けをすることは、これからも続けて行くつもりだ。

もし、こんな「聞き書き」でも読んでいただけたならば、とてもありがたいことです。

(おわり)
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母の過ごした時代(聞書き) ①満蒙開拓平和記念館に行く
母の過ごした時代(聞書き) ②生まれ故郷
母の過ごした時代(聞書き) ③大陸の花嫁
母の過ごした時代(聞書き) ④「敗戦」前後
母の過ごした時代(聞書き) ⑤棄民としての逃避行
母の過ごした時代(聞書き) ⑥続・棄民としての逃避行

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2016.09.04

母の過ごした時代(聞書き) ⑥

9月4日(日) 続・棄民としての逃避行


黄旗屯の満鉄鉄道工場の宿舎を出て、それぞれ吉林市の知り合いに身を寄せたのが1945年(昭和20年)の10月過ぎだったと思う。
母と乳幼児の3人が吉林市のどこで暮らしたのかは今ではわからない。

ソ連軍はこの年末には最終撤収しているが、相変わらずの「女狩り」の不安にさらされたのは想像に難くない。

当時の避難民の様子について「裸同然で蓑を巻いただけの避難者の集団もいた。奥地の満鉄の逃げ遅れた人たちが一番可哀想だった」と母は言っていた。
そのとき、人づてに聞いた話だろうが「逃げる最中に弱い子どもは連れて行けないからって、川の橋から投げ捨てたり、道端に捨ててきたり、そういう人もいた。」とも語った。

私が中学生の頃に聞いた話だが、その凄惨さ壮絶さは、情景を想像するだけで怖いと思った記憶である。

吉林市での暮らしについては「様子がわかってくると、思い思いに仕事を探した。特技を生かして看板屋、料理屋、行商、按摩になった者などさまざまで、どうにか生き延びることができた」(長野県満州開拓史・各団編)とある。

母はどうだったか。「毎朝早くに家をでて、油揚げを仕入れに行き、○○銭で買ったものを○○銭で売るの。そうやってお金を稼いで暮らしていた」と言う。
ただそれが、中国共産党軍(八路軍)の支配下となった、その年の秋ごろなのか、年が明けた1946年なのかは定かでない。

この「行商」については避難民が行商する余裕があったのか、聞いた時から疑問であったが、支援する組織も(日本の政府も)ないなかでは、現地社会に適応する生きる術であったことを今回知った。

12月に長女が麻疹(はしか)で亡くなっている。

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最近読んだ「14歳フォーティーン-満州開拓村からの帰還」(澤地久恵:著)によると、吉林市の高等女学校が避難者の収容施設となり、当時流行した発疹チフスで亡くなった人は橇で裏山に運ばれてゆくとある。

埋葬もおぼつかない避難生活で、長女がどこに埋葬されたかわからないが、その裏山に埋葬されていてもおかしくない。

前述の開拓団史では死亡理由に発疹チフスとある方もいた。
収容所での流行では多くの方が亡くなったと言う。
知り合いの人の家に身を寄せることができたのは、よかった方かもしれないが、それでも愛する我が子を亡くした慟哭ははかり知れない。
1946年になると共産党軍と国民党軍との内戦が激しくなるが、市内では銃撃戦などの戦闘はみられなかったという。
この頃も母は油揚げ売りの行商をして暮らしていたのだろうか?治安は比較的安定していたと。

満州の冬は厳しい。
寒い日にはマイナス30度近くになる気候の地である。開拓団では中国人の住んでいた家屋にオンドル(暖房)を引いて寒さをしのいでいたとある。吉林市で過ごした冬は生まれてまだ半年の乳児(長兄)を抱きながら寒さにも耐えていたのだろう。

満州での暮らしについて母が語ったのは吉林市までである。その後についての引き揚げの経路などは直接聞いたことはない。
前記の「14歳フォーティーン」によると「この年の4月には難民収容所以外に住む日本人はすべて、新たに収容所の共同生活へ移ることになる。」とある。どこの収容所で帰国まで過ごしたのか、著者も入った「旧陸軍兵舎」であったかも知れない。

手記や逃避行の様子を記した本はいくつか読んでいるが、その時はまだ母のいた開拓団名や引き揚げの経路などほとんど知らなかった。そうした手記や開拓団記録などを、また読み返してみると、母のその時期と生活の場所が重なる記述や体験に接することが出来るかも知れないと思う。

母の引き揚げ帰国は1946年9月18日となっている。(開拓団史・団員名簿)
吉林市からは居住地ごとに行われたという。最後の収容所暮らし、引き揚げ船の出る葫蘆島(ころとう)まで、狭い貨車で何日もかかり、乳児(長兄)を連れて、伝染病を心配しながらの足跡だったと思う。日本に着いたのは京都府の舞鶴港であった。

ここまでが中国の北東地方にあった「満蒙開拓団」の母からの聞き語りの断片である。引き揚げ者が故郷に帰っても辛く苦しいその後であったことは言うまでもない。

入植地が吉林の近郊で、ソ満国境近くの入植地よりはるかに南に位置していたこと。集団自決や現地人に殺害されたり、伝染病によって命を落としたそうした悲惨な道をたどった開拓団も少なくない。長女は亡くしたが骨と皮ばかりの長兄を連れて、命だけは助かり帰国できたのはある意味幸運であり、奇跡とも言える。

ただ、その辛さや哀しさは満州に渡った開拓団員の皆と同じであった。郷里に戻った母は・・・
(続く)

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母の過ごした時代(聞書き) ⑤棄民としての逃避行

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2016.09.03

母の過ごした時代(聞書き) ⑤

9月3日(土) 棄民としての逃避行
満蒙開拓団についての本はこれまで何冊か読んできた。引き揚げ(逃避行)過程の悲惨な体験・手記など、涙なくして読めないものも多かった。
読んでいるとどうしても母の話してくれた言葉の断片と重なって、いったい「満州開拓」とはなんだったのかという思いも深まった。

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そうしたなかの一冊がこの「満州移民-飯田下伊那からのメッセージ」だった。歴史を知ろうと思うにあたって、母の過ごした時代、「満蒙開拓団員」であった具体的な事実をわかる限り調べてみようと思い立った本でもある。

1945年9月9日着の身着のまま家を出た母と2人の子を含む開拓団員らは夜も遅いからという中国人の言うまま、何も残されていない自分たちの家に引き返し、眠れない一夜を過ごしている。

翌日、開拓団員らは吉林市の外れにある黄旗屯の満鉄の鉄道工場を目ざして歩き、一団ごとに苦力小屋(労働者宿舎)に入り、一人2枚の「むしろ」を使って寒さをしのいだという。

ところで、この黄旗屯の満鉄の鉄道工場がどこにあるのか。
数年前、名古屋の大須の骨董市で「満州国詳密大地図 昭和16年6月発行」復刻版が古書とともに売られていたのを買っていたので、吉林市の西南、松花江の西にある「黄旗屯駅」だと分かったが、はたして開拓団からどれほど離れた位置なのかはわからない。

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【満州国詳密大地図 昭和16年6月発行」復刻版・吉林市】
「ソ連兵は毎日やって来て、物を探し女を出せとうるさくつきまとった」(長野県満州開拓史・各団編)
ここには9月の末頃までいて、立ち退くように吉林市公安局から迫られる。

「ソ連兵が来ると女は連れて行かれるので、女たちはみんな髪を切りボサボサに男のような身なりにして、顔には炭をぬって黒くして隠れていた」と当時のことを母は話してくれた。
満州に進攻したソ連軍の前線部隊は服役者の部隊だと以前聞いたことがある。残された団員69名のうち28歳の母は若い方であり、乳児、幼児を抱えて、不安な日々だったろうと思う。

黄旗屯の満鉄の鉄道工場を追われ厳しい冬も目の前となり、このままでは越冬はできないと、各団員らは分散して知り合いの中国人らを頼って吉林市に行くこととなる。行くにあたっては手持ちの金を頭割りで分けたと、開拓史には載っているが、もちろん母からは聞いていない。

先日、満州開拓団員だった父母の話を知り合いの医者のT先生と話した。
T先生も満州国の首都新京から赤ん坊のころに母に抱かれて引き揚げている。
そのT先生が仕事関係の機関紙に手記を載せてみえるので抜粋して転載しておきます。

『 なぜこのように放置された日本人が多く出たのか?それが1993年に明らかになりました。敗戦直後、日本軍大本営の特使らが「武装解除後の日本軍人を日本に帰国させないで、現地で使うこと」「一般居留民は国籍変更も可、現地土着させ」とソ連軍に依頼していました。
この方針は戦争末期、日本の敗戦が迫る中で、ソ連への戦争終結工作の内容として、天皇を含む日本政府により決定されていた「国体維持のために満州の日本人をそのまま満州に住居させ、国籍の変更も可とした」と一致するもので、今も残る中国残留孤児の苦しみをつくりました。』

まさしく、満州に取り残された軍も開拓団員も居留民も、日本から捨てられた民、「棄民」だったということなのでしょう。
 
(続く)
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母の過ごした時代(聞書き) ④「敗戦」前後

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2016.09.01

母の過ごした時代(聞書き) ④

9月1日(木) 「敗戦」前後

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8月15日は「終戦」記念日だが、太平洋戦争で亡くなった軍人、民間人は310万人と言われ、そのほとんどが敗戦末期だという。広島や長崎への原爆投下も、もう少し早く日本が降伏していれば避けられたし、満州からの悲惨な逃避行も避けられたかもしれない。

昭和14年に開拓団に入植してからの母は4人の子の出産をしている。うち2児は現地で死亡したが、その6年間は出産と子育てであったといえる。

昭和20年の敗戦の年は父32歳、そして母は29歳という年齢にある。
戦争末期、日本の関東軍はその主だった部隊を南方戦線へと移動し、手薄になった「関東軍」を補充するためにとられたのが「現地召集」であり、いわば開拓団のほとんどの男たちは「根こそぎ召集」となった。

20年5月20日、父の出征の日の記録が残っている。敗戦の3か月前である。
開拓団からは敗戦までに、男の団員14人が召集され、残ったのは老人婦女子69人という、文字通り開拓団には「女、子ども、老人」という現況だったという。

69人の開拓団のうち、母と長女とこの年の6月に生まれたばかりの次男(長兄)の3人が含まれている。父は生まれた子(長兄)を見ることなく出征しており、母はどんなにか心細かったことだろうと思う。
8月に入り、9日にソ連が「日・ソ中立条約」を破棄し、満州へと進攻を始める。14日にポツダム宣言受諾し、15日に満州事変以来の15年戦争に終止符がうたれた。
このソ連の侵攻と天皇の降伏のニュースも開拓団ではラジオを通して知っていたという。

「しかし、どこからも何の指示も連絡もなかったし、中国人部落にも何の変化もみられなかったから、軍は負けても開拓団には直接影響のないものと思って、さほど心を痛めることもなく、豊作が予想された農作物の手入れに余念がなかった」(長野県満州開拓史・各団編)
満州に入植した開拓団の敗戦前後の状況は、その地理や現地情勢などによって大きく異なる。
ただ、満州の邦人とりわけ開拓団員にとって「守ってくれるはずの関東軍」の主力部隊はすでにおらず、にわか召集の開拓団員らによる部隊が中心だったという事実すら知らなかった。

軍関係者や満州鉄道社員家族などは、いち早く避難しているが、開拓団にはほとんど事実が知らされていなかったことが、その後「悲惨な逃避行」に拍車をかけている。
ソ連侵攻で軍は満州の3分の2の地域の放棄を覚悟し、それでも現地召集部隊を配置させることで、対ソ防御としていたことになる。

開拓団は軍からも見捨てられ、戦況がもたらすものすら知らされず、だからこそ「棄民」としてのその後を歩むことになる。

母の敗戦前後の話に戻ろう。
8月25日頃にソ連の兵士ら7~8人が家宅捜索の名目で開拓団に来てきて目ぼしい金品を略奪している。その後9月の初めに付近の中国人が大挙して押しよせ農作物を大車に積んで引きあげた。
9月5日、団では状況の悪化をみて死をも覚悟して家畜や家財の処分をしている。
9月9日、午前、何百人もの中国人が押しかけて略奪がはじまった。

「金はみなとりあげられが、着ているものは剥ぎ取られなかった」(各団史)。無一文になった団員らは夢遊病者のように開拓団を後にしていると記されている。

ここから凄まじい「引き揚げ」が始まるのだが、この時について母はこう話してくれた。
「奥さん、今日は満人が襲ってくるから危ないのですぐに家をでなさい、と開拓団で働いていた朝鮮の人から教えられた。慌てて子どもを連れて近くの畑のなかに身を潜めていた。隠し持っていた金品を畑の土に埋めて、後でとりに来ればいいと思ったけれど、そんな暇もなく着の身着のまま、開拓団を出ることになった」

という話だった。おそらく9月9日のことだろうと思われる。
教えてくれたのは朝鮮人の女性だったと言ってた記憶だが、「団史」によると冠婚葬祭や贈答、電灯施設や医薬品の無料配布など比較的友好的な関係が築かれていたとあるので、そうしたことが好意的な「忠告」となったのだと思われる。

以前は地主であった中国人、その小作として働いていた朝鮮人、地主が日本人にとって代わり「開拓団」になったということである。
母の幼児と生まれたばかりの子の二人を連れた「引き揚げ」が始まる。
父は3か月の兵役の後、武装解除されシベリア抑留されるのだが、その具体的な話は父からほとんど聞くことはなかった。
(続く)

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母の過ごした時代(聞書き) ①満蒙開拓平和記念館に行く
母の過ごした時代(聞書き) ②生まれ故郷
母の過ごした時代(聞書き) ③大陸の花嫁
※文中に不適切な表現がありますが、当時のものとしてご理解ください。

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2016.08.28

母の過ごした時代(聞書き) ③

8月28日(日) 大陸の花嫁
 
古い父と母の結婚写真がある。どこで撮られたものかはわからない。郷里の村か、開拓団の地なのか、当時のことだからもちろん見合いであるが、そうした経緯はほとんど知らない。
兄たちは多少聞いているかもしれないが・・・

時代を少し整理しておこうと思う。
父が生まれたのは大正3年、農家の次男だった。開拓団員として入植したのは資料で見る限り昭和12年(1937年)の3月、24歳の時である。
 
その前年の昭和11年(1936年)には2.26事件が起こり、いよいよ軍部の発言権が強まり、満州移民推進派が台頭するのである。
広田内閣はこの年「満州農業移民100万戸計画」をうちたてている、というのが背景にある。
その翌年に父は入植したわけなので、もっとも早い時期になる。ちなみに関東軍による中国への軍事進攻の契機となる「盧溝橋事件」はこの年の7月。
2万4000人とも言われる若い命を「少年義勇軍」として満州に送りこんだのは、翌昭和13年(1938年)、北海道の屯田兵に倣ってた武装農民としての軍事的派兵といえる。
 
入植は「長野県満州開拓団史(各団編)でみると、自由移民としてその第一陣として入植しているが、郡村長会が率先して取り組んだものとされている。
どしゃぶりの雨の中を出発し、普通列車で名古屋まで行き、そのあと特急で下関へ、連絡船で朝鮮に上陸、鴨緑江を渡り奉天(瀋陽)という4日間の旅であったと記されている。
入植地の吉林には翌日着いているが、父と同じ村の4人と合わせた12人が同じ団となったという。
 
これが父の入植の経緯と旅程であるが、こうしたことを別の資料の記録でから知るというのも、とても不思議な気持ちになる。
 
では母はどうだったのか。
大正5年に父の村に近い別の村で生まれ尋常小学校を卒業し、その後東京に下働き奉公に出たところまで前回書いた。
 
昭和14年3月8日、23歳の年に父と結婚の届け出をし、その翌々日の3月10日にはすでに村を離れ経ち満州に旅立っている。
結婚写真から想像すると、父が結婚のために一時村に帰郷し、母と連れだって満州の入植地に向かったと推察するのが自然だと思う。
 
「大陸の花嫁」が、顔も性格も知らずに現地で初めて顔をあわせ、そのまま夫婦となったと聞いているが、それとも少し経過は違う。
もっとも、父は満州、母は郷里の村で顔もよく知らない見合いの後、すぐに満州に連れだって行ったのだから、母にとっては不安も大きく、やはり「大陸の花嫁」と同じ心境だったに違いない。
 
新婚時代についての話は父母ともにほとんど語ることもなかった。
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それは、その後の敗戦による生活の一変のほうが、はるかに記憶に生々しいものだったからだろうか。
あるいは、引き揚げ、復員した後に生まれた4人の子どもの子育てに追われた暮らしが、貧しくとも平和な時代になったからなのだろうか。
 
開拓団時代の暮らしの特筆すべき話はほとんど聞いたことがない。
現地の中国人とも朝鮮人の人とも、入植した団内では比較的穏やかな関係だったと思われる。
交通の便もよく、地質は沃土、山地は原住民の手で耕作されていたと記録にはある。
「団はもともと朝鮮人との共存に重点を置いて水田耕作をする方針であったから、入植前、すでに満州拓殖株式会社は朝鮮人が中国人から借地して開田し耕作していた水田を買収して準備し・・・」と団史の記録にある。
 
敗戦までの6年間、両親は長女、長男、次女、次男(現在の長兄)の4人の子をもうけている。
長男、次女の二人は生まれて間もなく病死したと聞いている。
長女は昭和20年12月に死亡、敗戦の年であるから、引き揚げの収容所でと思われるが、病名は「麻疹(はしか)」と団員名簿の死亡事由欄によって今回知ることになった。
 
かって中国残留孤児の帰国が話題になったおり、母に上の子らは本当に病死だったの?と無神経な質問をした記憶がある。
「上の二人の子は生まれてすぐ死んでしまった。○○子は引き揚げの途中で死んでしまった。もし引き上げがかなわなかったら、きっと残留孤児となっていてもおかしくないかもしれない」と母は語っていた。
 
収容所で高熱を出し6歳の命が閉じたその情景をきっと母は思い出したと思う。ただ、そのときは生まれて半年ほどの乳飲み子の次男(長兄)も抱いて、日本へ帰国する思いで必死だったのだと思う。
戦争を知らない世代の自分の無神経な質問を今でもときどき思い出しては後悔する。
 
開拓団の暮らしそのものは吉林市の郊外で、初年度から収穫も順調であり、川には魚が多く獲れ、白米も不自由なかった。満鉄経営の病院も近くにあり、病人も少なく、文字通り「王道楽土」の様相であったと、団史には記されている。
 
ただそれは、満州拓殖株式会社による買収によって得た土地であり、その買収が関東軍の威圧のなかで行われたのも事実である。
そうした満州移民が国策として行われた実態はまだまだ勉強して詳しく知る余地がある。
いずれにしても、そうした暮らし、開拓団の終焉がそこまで迫り、一転した状況になるのが昭和20年(1945年)なのである。
(続く)
 
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母の過ごした時代(聞書き)①満蒙開拓平和記念館に行く
母の過ごした時代(聞書き)②生まれ故郷

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2016.08.24

母の過ごした時代(聞書き) ②

8月24日(水)生まれ故郷

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          【生家:5歳の頃の記憶を絵にしてみたが・・・】

満蒙開拓平和記念館を出たのは午後3時頃で、近くの日帰り温泉まで足をのばし、ゆったりと温泉に浸かった。
生まれ故郷の近くの温泉だが、子どもの頃にはなかった温泉施設だった。

そこから車で、親子六人が暮らした「生家」跡を探しに行くことになった。今では道路の拡張工事で面影もない。
以前一人で来たときは場所の特定も出来なかったが、今回は上の兄と一緒なので、だいたいの見当もついた。

5歳の頃の記憶である。平屋の六畳二間に土間・台所の小さな家だった。家の北側には竹藪があり、天竜川へと川が流れていた。
母屋の下には納屋があり、脇を小さな道が続いていた。道に沿ってこれも小さな川が流れていた。

清流のような小川から、竹を半分に切り節を削った樋で水を土間に引き込んで、台所の用を足していた。(飲み水は手押しポンプだったと思う)
道を挟んだ反対側の石垣には桑畑があった。この辺りの農家は養蚕業が行われていたからだ。

・・・という話を兄としていたら「よく憶えているな」と言われた。たしかによく記憶しているものだと思う。
母屋の下の納屋には農機具があり、我儘を言って父か母か忘れたが入れられた。
本家、別家という親戚筋の家があり、同い年の女の子とよく遊んだ記憶もある。
イメージを絵にしようとしたら、こんな絵になった。もう少し上手にかけたらと思うが・・・しかたない。

母親はこの生家の下を流れる天竜川を挟んだ向こうの村で生まれた。天竜川は伊那谷の底を流れている。
この生家、ここは父親の生まれた土地ということだ。

話は前後するが、満蒙開拓団は分村・分郷として行われた。故郷の土地や家や家財を処分して満州に渡り、そこを同郷の村とする国策だった。
引き揚げ後の両親は家も土地もすべて失い、この小さな「生家」は本家の土地を譲ってもらい援助で建てたのだった。

幸いにして命からがら、引き揚げても土地も家屋も財産も失い故郷に居場所がない、再出発に苦労した開拓団員の家族も少なくないというなかでは、まだ恵まれていた。
父方の伯父さんが「おまえたちのオトウマ(父)、オカアマ(母)は苦労して帰ってきたんだよ」と常々言っていたのを思い出す。

母親は大正5年の生まれで尋常高等小学校を卒業して「東京の大きな屋敷に奉公に出た」と言っていた。
どのような経緯かはわからないが母方も農家と思われる。その祖父はときどき農業の繁忙期に、この生家にやってきて、わずかばかりの百姓仕事を手伝っていた。

仕事の合間に六畳間の縁側に腰かけてお茶を飲みながら昔話を語ってくれた記憶がある。話はいつも決まって「桃太郎」「舌切り雀」「浦島太郎」の3本。絵本もなく「語り聞かせ」だったが、「もう一回々々」と何度もせがんだ。

温厚な祖父だったという記憶だ。それが母親にも引き継がれ、子どもの頃から母親に「叱られた」という想い出はほとんどない。

貧しい農民としての両親というイメージは、こうした生家にまつわる記憶となったのだと思う。
この貧しさがゆえに「満蒙開拓団」として中国大陸に渡ったのだろう。というのが、母からの当時の話を聞いたときの漠然とした思いであった。

果たしてそうだったのか?裕福な暮らしとはいえないまでも満蒙開拓団の家族が大陸に渡る経緯は、貧しさと王道楽土の開拓意欲に燃えたとは言い難いということが、いろいろ史実を調べていくうちにわかった。

歴史を逐一書くことがこの記事の目的ではなく、両親の生きた姿を知りたいのである。
長兄から「開拓団名がわかった」と連絡をもらったとき、「おやじの開拓団への参加は、予定の親戚筋の人が急に行けなくなって、代わりに行くことになったもの」だと教えてもらった。

開拓団員の募集は、学校関係者や地域の役職者などが、国策に沿って競うように行われたという。「代わりに行くことになった」というのも事実なのだろう。

文字ばかり増えても母の語った満蒙開拓団の聞書きにまで行きつけない。(笑)
まあ、自分の整理のようなものだから、それでもいいかと思っている。

ブラジルのリオ五輪も終わったが、ブラジルには日系の方が多いので「日本」への応援も大きいものがあった。
ブラジル移民は文字どおり開拓の困難もあったようだが、両親の生まれた下伊那地方もブラジル移民を送りだし、それが移民事業の下地になってるようだ。

国策として関東軍の管轄下で中国農民の農地を安く買い上げ(取り上げ)そこに入植した。
満蒙開拓団は、「開拓」と呼ぶよりも「移民」というほうが自然である。(続く)

【今では不適切な表現があるが、聞き書きとの主旨としてご容赦を】

母の過ごした時代① 満蒙開拓平和記念館に行く

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2016.08.22

母の過ごした時代(聞書き) ①

8月21日(日) 満蒙開拓平和記念館に行く

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【満蒙開拓平和記念館のチケット】

8月18日、「満蒙開拓平和記念館」を訪れるのは今回で二度目になる。
前回はオープン時で、その時もすぐ上の兄に「行かないか」と誘をれて、一緒に出かけた。
兄弟四人とも親の満蒙開拓団の時代の事には、少なからず感じるものがある。
特に長兄は開拓団で生まれ、母親と「引き揚げて」きたから、生まれた土地についての思い入れも強いだろう。
 
中央道の飯田山本ICから国道に降り記念館をめざして車を進める。運転はすぐ上の兄で、助手席でみる久しぶりの故郷、飯田の市街地は新しい道路も出来ている。
当たり前のことだが5歳までいたおぼろげな記憶とは、たぶんすっかり変貌しているのだろう。
 
昼飯に途中の店に入り、信州そばなどのメニューをみながら、記念館を訪ねる前に腹ごしらえをする。
信州そばといえば、かって父親がそばは嫌いだと、信州人らしからぬことを言ってたが、そばばかりで育ったせいだろうか飽きたのだと言っていたのを思い出す。
 
前回の「満蒙開拓平和記念館」は展示された写真や記録に見入ったほどで終えた。
行く前から「満蒙開拓団」の歴史や当時の日本の状況など、何冊かの本や手記や資料を読んでいたので、そういう歴史と合わせながら展示を見たのだった。
 
その後、長兄から両親がいた「開拓団」の名称や入植地などが解ったと連絡があり、その「○○開拓団」での両親の入植の経路や団での暮らしなどの、資料が残っていないか調べたいというのが、今回の目的でもあった。
 
こうした満蒙開拓団に関わる記念館は全国にもいくつかあるという。そのうち訪ねてみたい場所である。
 
開拓団時代や引き揚げ時の手記などは、いくつも出版されている。手に入るものは図書館で借りて読んだりしていたが、両親の入植した「○○開拓団」と結びつく手記や資料などはほとんど手掛かりはなかった。
 
引き揚げ時の悲惨な話や苦労話は、母親から断片的に聞いている。
それらを合せても、いったいどのような経緯でどんな暮らしだったのかは、入植から引き揚げまでの資料がほとんど不明だったので、断片的な話が具体的であっても、地図上のどこの話で、なぜそうした生活になったのかが、もう一つ解りにくいものだった。
 
「王道楽土」と叫ばれ27万人とも言われる人びとが満州に送り出され、そのうち8万もの人びとが異国の地で犠牲者となり、悲惨な引き揚げ、現地招集されシベリア抑留された「開拓団」だった。
 
日本資本主義という軍国主義の時代に翻弄されたのが両親の生きた時代だとしたら、入植する経緯は、中国農民らとの関係は、根こそぎ開拓団現地徴用は、8月15日の敗戦を前後する開拓団の行く手は、引き揚げは・・・
 
いつ、どこで、どのように両親は関わっていたのか?という実態の端緒だけでも知りたい
というのが今回の訪問の目的であったが、しかしながら、そうした大きな歴史のなかで、一つの「開拓団」にいた、両親の姿が具体的に捉えられものかとも・・・、戦後71年を経過した今である。
 
展示をいろいろ見ながら、書籍が置かれた部屋で、しばらく資料や出版物などを見ていたときに、「長野県満州開拓史」各団編・名簿編という、ずっしり重い二冊に行き当たった。
国策「満蒙開拓団」のうち長野県からはもっとも多い37000人が送り出されている。
その団員名簿には両親や長兄や幼くして死んだ姉の名前も載っていた。あわせて開拓団の入植から引き揚げまでの経過も「団史」として記されていた。
大きな発見であった。これらの資料と断片的な母親の話を合せると、大まかではあるが、父と母の生きた「開拓団員」であった、時代がもう少し見えてきそうな気がした。
 
「開拓団の時代のことを話したくないと思っている方もいますからね」と職員の方がおっしゃっていた。
そうだろうと思う。あの悲惨な時代に軍国主義に翻弄された両親と同世代の人にとっては、重く苦しい時代を人生に刻んだことになる。
 
母が語った「満蒙開拓団」の話の断片は、その子どもが引き継がれるものだと思う。
もっと詳しく聞いておけばよかったと思うが、それも今は叶わない。
思い出すがままに、少し母の語った「満蒙開拓団」の聞書きをしてみようと思う。
(続く)

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