« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »

2019年9月

2019.09.23

コスモスは咲いたが彼岸花はまだか・・

9月23日(秋分の日)自転車を走らせた秋の日の話

Img_0005
【庄内緑地公園のコスモスもいよいよ見頃かなぁ】

彼岸花は咲き始めただろうかと庄内緑地公園に自転車を走らせたのが数日前のこと。
夏の間は遠出はしなかったので久しぶりの庄内緑地公園だったが、彼岸花はまだのようだ。
それでもコスモスが咲きだしていたので、青い空を背景に写真を撮ってみた。

花はそれ自体は愛でるものだが、花にまつわる話などを知ると、花を見る目も楽しくなる。
コスモスの細い茎から延びたピンクや白い花、この見た目の弱々しさとは裏腹に風雨に耐える強さがあると、人の生き方に模写してみると、コスモスがいっそう愛くるしく思われるから不思議だ。

照りつける日差しがやわらぎやっと過ごしやすくなったここ数日。
冬と夏の間に「春を置いて」夏と冬の間に「秋を置いた」ので、とっても「中途半端」という歌詞の曲があった。
こういう懐かしい曲をイヤースピーカーから流しながら自転車をこぐ。

なにかしなければならない!と自分で自分を追い詰めて、忙しく暮らすのが現代人だとしたら、ただでさえ短い秋などあっという間に過ぎてしまう。
中途半端っていいものだ。もともと生活は中途半端なもので、だから春や秋のように穏やか。
・・・と、自己肯定感を大事にする。

せっかく出かけたのだからもう少し遠くまではしってみようという気になった。
庄内川の堤防から矢田川の河川敷、そのむこうの香流川と、気ままにはしる。

どこかに美味そうな店はないかと探すのが、これまたちょっと遠出の自転車散歩の楽しみ。
美味そうなラーメン店の看板を見つけたのが昼時なので、ここで昼食タイムにする。
「一人遠足気分」を満喫する秋の日である。

計画性のないタイヤの向くまま、いい加減な自転車走りを続けること四時間。
まったく日差しも弱かったにもかかわらず両腕と顔と首回りを日焼けする。
こころなしか目の回りがサングラスで薄焼けとなってるような。
時速10キロから20キロというママチャリと同じ速度で走った38.9キロの道のり。
実に有意義な「無駄な時間」という・・・論理矛盾の幸せなのである。

| | コメント (2)

2019.09.17

月日は・・・

9月17日(火)

2019

中秋の名月は雲の夜だったが、晴れたり曇ったり、秋らしい夜だと思うと、まだまだ暑さも抜けきらない。
それでも昨夜は月もきれいに輝いていた。
夜の散歩に出かけ、ふと方向を変え路地を東に歩く。
月に向かい少し足を速めると、林立する高層ビルに隠れてしまった。
雲間に隠れるならば風情もあるが、ビルに遮られ、時折ビルの谷間から顔をのぞかせる、おそらく秋の夜の月あかりに季節を感じたのは、その昔も同じなのだろうが、すっかりビル群に空を狭められた現代、これも風情といえば風情なのだろう。

相変わらず昔の流行歌を聞きながらの散歩で、懐かしい曲が流れて来た。

♫~黄色い麦わら帽子の女の子
  今年も逢えるかな 夏の日出逢った女の子
  探してみたいな 妹みたいな女の子
  ・・・
  帰ってほしいな 風吹く月夜は女の子
  銀の小舟に 思い出をつないで ハハハハ・・・

こういう時代の雰囲気はとても懐かしい。麦わら帽子、女の子、風吹く月夜、思い出をつなぐ・・・
幾つになっても「青春時代」はときめき輝いていたと思いたいものだ、昨夜の月みたいに。

てきとうに好き勝手に「日記」めいた文章を書き、あれから何年の歳月を過ごしてきたのか。
 『月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり』と松尾芭蕉が「奥の細道」で綴ったのは幾年前なのか。
人生を言いえて妙な言葉の数々を、ときに思い起こし、ときに感慨深く今を生きる。
秋と言うのは感傷的になる季節ではあるが、それも瞬時のことで、またふたたびいつもの日常がやってくる。

そうこうしていると棲家の前の田んぼが少し実り始め、ああ少し前は田に水が引かれ、蛙が騒々しく鳴いていたかと思うと、ちょっと黄金色にはまだ早いが、穂に実が付き、もう一月もすぎれば、賑やかな子どもらの刈取りの声が聞こえて来るだろう。
2004年の9月にブログを始めて15年が経つ。あっという間の歳月であり、恐る恐るパソコンにむかい書いたのが、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という記事だった。

歳を重ねるほどに、己のつまらない欲や、財の僅かばかりなことに嘆いたり、そういう傲慢さから、人に感謝し人とともに生きるという実りのある人生を生きて来たのか・・・はなはな疑わしいものだ。
まあしかし、執着する気持ちをいくぶん開放して、取るに足らぬ人生であったとしても、今の自分に納得して、あと何十年か知らぬが、精いっぱい事にあたれば、それなりの終焉をむかえられるのではないかと・・・
ある意味「人間至る処青山あり」で、故郷の父や母の元から巣立ち、いまここに生きているのだと。


| | コメント (2)

2019.09.14

車窓

9月14日(土) 

やっと秋らしい気候になってやれやれと胸をなでおろしている。
夏の暑さと冬の寒さが身体に堪えるようになったのは歳のせいか。

9月になって兄弟で一泊の旅にでて、その翌週には夫婦で「日帰りバス旅」に出かけた。
こちらの方は「星空ナイトツアー旅」だったが、あにくの曇り空の暗い夜空の鑑賞会だった。
まあ、それはそれで初秋の楽しい一日であった。

連泊をするほどの旅は生まれてこの方あまりない、ましてや外国など行ったこともない。
が、連休に外国に行く旅行客の姿をテレビでみても、凄いなぁ~とは思うが、それ以上の思いはない。
生まれつき貧乏性で、目新しいものよりも、ほぼ日常の生活の範囲のなかのちょっとした変化に喜ぶ性質なので、知人が一か月北海道を旅したと聞いて、そりゃぁ凄いなとは思うが、やはりそこまでである。

そんな性格なので、日帰り旅などでバスの車窓から見る町々の風景は、今日びはちっとも珍しくもないけれど、ちょっと家屋の庭に趣向があるのを見つけたりすると、そういうのが好きなのである。
なので、日差しが強いとバスの窓いっぱいにカーテンを閉め切って何時間も過ごすのは、なんともまあ「勿体ない」と思ってしまう。

バスや列車の窓からぼんやりと眺める。自転車に乗ってぼんやりと流れる風景を眺める。
移動手段というよりも、そのぼんやりとした景色を眺めながら、風景を考え、思考を整え、子どもの頃の思い出や、楽しかったことや辛かったことなどを思い浮かべたりする。
考える時間なのだと思う。

日々の雑残としたあれこれという情報の喧騒から遮断された時のようなもので、そこでは論理的にもなり情緒的にもなる。
どうもねぇ~、視覚や聴覚や与えられる環境ばかりが増えると、ちょっとだけ、そうしたものから遊離した「自分」というものに身を置きたくなるのである。

ふと思ったが、これは小説という世界に入って、あれこれ想像して楽しむという遊びに似ているのかもしれないと・・・。


Photo_20190914224502
【和歌山県串本市:橋杭岩】

Photo_20190914224501
【岐阜県中津川市:付知峡の不動滝】

| | コメント (2)

2019.09.06

補陀洛渡海

9月6日(金)旅は道連れ・・・②

P1160392


春夏秋冬、なんとなく平凡な日々を過ごし、知らぬ間に歳を重ねる。
兄弟というのは幼い頃から同じだけ歳を積み重ねてるから、二才上の兄との距離はそのままなので、その年の差はどこまで行ってもそのままだが、果たしてお互いにあと何年生きられるのか・・・と、ふと考えてしまう歳になった。

旅の目的地の一つが「補陀洛山寺」だったが幾つかあった名所の中では際立った寺でもない。
小さな寺で本堂の横にこれまた小さな木船がある。
補陀洛渡海船(レプリカだと思う)というもので、補陀洛とは極楽浄土を意味し、そこへ行く渡海船がこれ。
ただし、これはこの寺の歴代の住職が入船したあと、しっかり釘打ちされ、そのまま沖へと曳航されたあとは、風のまま波のままなので、いわば即身成仏の船であった。

この「補陀洛渡海」を知ったのは浅田次郎編集の「見上げれば星は天に満ちてー心に残る物語」に収録されていた井上靖の「補陀落渡海記」という小説からだった。
仏教徒である僧侶、この寺の住職は何年か勤め上げた後に、補陀洛渡海船に乗って極楽浄土を目指す習わしだったが、そこは生身の人間のこと、様々な葛藤や悟りやはたまた諦めや・・・人間界からの死への旅立ちの話。

小説に登場するこうした場所や建造物などを、確認するように行ってみる。その逆に、そこを訪ねて知る「小説登場した舞台」。
どちらにしても、面白いもので、よく知られた社寺とは一味違う、小さな寺に伝わる補陀洛渡海の歴史に、なんとなく納得するのである。
この補陀洛山寺は、小説を読み終えてから、ぜひ一度は行ってみたいお寺だったので、今回の旅はここだけでも自分には意味があった。
小説と結びつく旅というのも楽しいものである。

| | コメント (2)

2019.09.05

吊り橋

9月5日(木)旅は道連れ・・・①

P1160384_20190905234901

9月も始まった今週、すぐ上の兄と紀伊半島のバスツアーに行った。
お互いに退職して「隠居」の身だから、比較的自由がきくし、これで三回目の旅となる。

「旅は道連れ・・・」というが、誰々と連れだって出かけるのか、というのは案外、旅の一大要素かも知れない。
気心の知れた仲ならば、少々のことは笑い話になるが、そうじゃないといつまでも「あの時は・・・」と納得感も減るのだろう。

夫婦、兄弟、親子というのは、おおむね「笑い飛ばせる」仲であることがほとんどと言えるが。
いやまてよ、血縁関係であっても不仲はあるし、夫婦であれば、なおさらそもそも他人ってわけだし。
旦那と行くよりも気の合う友人との旅のほうが楽しいっていう話もあるから。
旅の道づれも難しいものだ。

【谷瀬の吊り橋】

和歌山県の真ん中ほど、十津川(熊野川)に架かる吊り橋で、地上54メートル、長さ297メートル。
この吊り橋の歴史を聞くとすごい。

戦後の復興期、たびたび洪水で流される丸太橋に困り、谷瀬の集落の人々がお金を出し合い自前で作ったという。
私財を出し合って、この吊り橋をかけ、現在でも村の交通の橋として使われ、同時に十津川村の観光名所にもなっている。
これみよがしに作る立派な「観光橋」とは、中身が違う、歴史が違う、心根が違う「吊り橋」というわけだ。

人一人すれ違うと少し揺れ、おお怖いと言いながら、さながら空中散歩の気分だった。


| | コメント (2)

« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »