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2019.08.13

戦争映画

8月13日(火) 「硫黄島からの手紙」を見て、いろいろ思う。 

もう数回は見た映画「硫黄島からの手紙」がテレビ放映されていた。
戦争が個人の意思を押し殺し、巨大な軍部という組織のなかで抹殺される。
人間の殺戮は残酷で耐えがたいものだ。
戦争というおぞましい濁流のなかで無力感しか残らない人間の歴史だと、思いたくないが思えてならない。
過っての「戦争」をどう見るのか、戦後70余年過ぎた今、あの戦争を肯定する人々の声が聞こえ始め、「愛国心」「日本人の心」・・・と、過ってはナショナリズムの臭いがプンプンする言葉も、普通に使われ始めている。
白いものをいとも簡単に黒と言いくるめる。戦争の遂行には事実から目をそらさせるのが常套手段か。
「大本営発表」のような世論操作が必要不可欠だろう。

もやもやと鬱病的な気分が、心を塞ぎがちにさせる。
それは、個人の心のありようだけではなくて、理性と事実から乖離している社会の在り様も一因ではないかと思っている。

数年前テレビのリポーターに「もう戦争でもしてくれないかと思う」という意味を話していた若者がいた。
貧困と閉塞感が広がり、この社会を「戦争」で壊したく思う気持ちの「闇」は、一人の貧しい若者の特殊な心境とはけっして思えない。
勝ち組と負け組から確実に格差社会の拡大へと進み、社会の圧倒的な多数が貧しさに喘ぐ。
かつかつの暮らしの中に市民的な平和を見出そうと努めてはいても、巨大な富める者たちの権力組織のなかで無力感が広がる。
戦争待望とまではいかなくとも、「小さな自分という社会」のなかで、じっとしているしかないという気分。

もう「戦争にでもなって、この不公平と不正と貧困に溢れた社会を破壊したい」・・・と思う「気持ち」をいったい誰が理解してくれるのか。
社会が戦争状況へと進む過程では、そうした「無力感」の蔓延を基盤にするのは間違いないのではと思う。

とても残酷で耐えがたい戦争映画を見て、はたして平和への強い思いがふつふつと湧き上がってくるのか、そういう強い平和への思いへとチェンジする気力を、どうして維持していったらよいのか。
どうも人間の歴史は、まだまだ不条理な時代を必要とし、それを試練として神は与えているとでも言うのか・・・

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コメント

沖縄世界でも「戦争体験」を後世に伝えようと苦労しているのが見受けられます。「人の実感」というのはなかなか伝えにくいものですね。現代人の感覚に「かみくだかないと」分からないのかもしれません。

投稿: マミケン | 2019.08.15 05:10

戦争のことを伝え継承することの難しさは「世代」の感覚の違いにもあるのでしょうか、それとも戦争の時代を想像する力にあるのでしょうか?よく分かりません。
ただでさえ人と人が会話する難しさがあるなかで、事実を知ることと、そこからいろんな「想い」を膨らませることができなければ・・・なかなか伝わらないものだと思っています。

投稿: ちょっと一休み | 2019.08.15 23:35

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