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2019年5月

2019.05.18

庭とか花壇とか

5月18日(土)花の名札をつける

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【アサガオがぼちぼち咲き始めたので期待も大きいグリーンカーテン】

自宅の南側に花壇がある。
庭はというと駐車スペースに占領されて無い。
季節の花々は花壇植えされ、それでも足らないので植木鉢やプランターを置いて「土」を確保するしかない。
「もし広い庭があったら花も木も野菜も出来るのに・・・」と妻はいつも残念がっている。

娘がマンション暮らしから戸建て暮らしになった。
郊外の比較的土地もゆとりがあるので南東側と西側が庭になっている。
狭小の住宅住まいからすれば、燐家とは連ならない空間の広さは羨ましくなるほどだが、妻などは「庭があるなら花々をたくさん植えられるのに」と思っている。

住む地域や土地に制約されるのが暮らしというもので「住めば都」の例えのように、今ある環境に順応し季節の花を楽しんでいるのが現状だ。
「花がきれいですね」とときどき所用で訪れる方から褒められると「いやぁ~カミさんの花壇で自分は水やりの世話人ですから」と答えるが、近所は花壇のある家も多くないので、褒められれば「カミさんの花壇」ではあっても嬉しいものだ。
だから、せっかくの庭をコンクリートで固めてしまうのも、放置するのももったいないことだと・・・
しかし、いったい今の我が家にどんな花が植えられてるのか?正確に知らずに毎日水を撒いているので確認してみた。
端から、おもと、アロエ、こでまり、クレマチス、カサブランカ、牡丹、あじさい、ウノハナ、門柱前の花壇にはカーネーション、星桔梗、ラベンダー、日日草、ミヤコワスレ、南天などなど。
他にはジャスミン、スモークツリー、スイセン、シクラメン、ライラック。
今回確認のため妻に聞いて知った花というとイソトマ、ゼラニウム、サフィニア、スカビオサ、デルフィニウム、アッツザクラなどで、アサガオはグリーンカーテン仕様・・・

もう狭い花壇と植木鉢に押し込まれて、さながら都会の狭隘な住居で暮らす我が家に似ているので、ちょっと笑えてくる。
大輪の牡丹やクレマチスやあじさいの花(ガク)など大ぶりの花はそれなりに見応えがあるし、ジャスミン、ライラック、ラベンダーなどのほのかな甘い香りは季節を感じさせてくれる。
しかし小さな花壇と植木鉢では花も育ちにくいのかほどほどのサイズ、枝切や蔓切りしされて身の丈以下に収まっている。
数年前までは「花の名」は何も知らなかった。
せっせと花いじりする妻に「どこが楽しいのかな」と疑問の視線だったが、とにかく水枯れしないようにと日々世話を始めて知る花の名も少しずつ増えた。
そこで20種類ほどの花のつ一つに名前を書くことにした。せっかくだから名前も覚えて愛でるのも楽しいことだと。

植物の命を身近に知ると、人間のいろんな人工的な造作物とは違う自然の営み、枯れたり萎れたりふたたび意気揚々と輝いたりという、なんか人間の傲慢な暮らしぶりを顧みることができる。
使い古された言葉「コンクリートジャングル」の中にあっても自然と向き合う事はできるものだと教えられた気もする。
さて、娘の庭の話に戻すと、以前は畑地であったので雨の日にはミミズも蛙もやってくる。
肥えた地所ならでこその雑草も芝の中にのびる。
そこの地域は畑もまだ残る土地柄なので、マンションとは違い、蚊も蠅も蜂だってやってくる。
「虫は嫌いだ!」と嘆いているので「虫が嫌いな奴は中心街のマンションにでも住むべきで田舎暮らしは不似合いだ!」と、ついつい嫌味な言葉がでてしまうので反感を買う。
どうも反感を買う人生を反省せねば。
「せっかくの庭だからねぇ、虫も生きてるからねぇ、嫌わずに慣れるように努めないとねぇ」とでも優しく言うべきか。
とはいえ、人は自分の都合に合わない環境を嘆くが、その環境に合せて自分の住み方や暮らし方を変えて行くというのが自然との向き合い方だと思っている。
せっかくの「お庭」だから手入れをし、そこに命ある花とか食生活の一部になる野菜などを拵える。
そんな暮らし方ができたらいいなぁ~と常々語っているのが妻で、そこは価値観を共有出来るけど、不便な田舎には住みたくないとも。
やや矛盾してるが……

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2019.05.13

江戸の夢

5月13日(月)時代小説の面白味

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図書館から好んで借りている宇江佐真理の時代小説、もっぱら文庫本なのでとうとう棚の本が尽きてしまい、いよいよ単行本へと手をのばした。
ついでにエッセイ本「見上げた空の色」も今読んでいる。
「江戸情緒」と言われる風情は今の大都会東京にはないのだろう。
400年前の江戸時代の姿を残す建造物などは見られるが、情緒を感じるよりも観光都市の名所であり、そこから昔の姿を想像するにはちょっと無理がある。
むしろ映画やドラマの中の一つの風景の方が、江戸情緒を思い起こしやすいのだろう。
とはいえ、宇江佐真理の描く深川あたりの情景を当時の古地図などと見比べながら読むと、少しだけ情景も膨らむ。
そんな江戸時代の情景を思いながら、登場する町奉行や同心や商売人などが闊歩し話が展開されるのを、小説の醍醐味だと楽しんでいる。
宇江佐真理さんは言う「江戸時代から我々が学ばねばならないこと」は「人間の生き方にほかならない」と。
小説を学問と思う心意気はともかくとして、その学ぶべき「江戸時代」の情緒って何かと考える。
小説には「なさぬ仲」「割無い仲」の人々がけっこう登場する。
「なさぬ仲の母と娘」血のつながらぬ親子関係だったり、「割無い仲の男と女」理屈ではどうしようもできない男と女の情愛。
昔から今日に至るまで、市井の人々の持つ感情であり、心の在り様はきっと変わらないのだろう。
もっとも人間関係が希薄となったと言われる今、血縁なき家族の姿も珍しくないし、熱愛が突出するほどの関係を冷めた目で見る人も少なくないような気がするが・・・
情緒というのは人の感情をさすと思う。
恋愛感情に悶々としたり、なさぬ仲の家族に悩んだりというリアルな暮らしを経てきた人にとっては、小説のなかで描かれる人間関係にちょっと救われる気持ちになるのではないかと。
小説を読み終えたあとに残る清々しい気持ちは、宇江佐真理という作家の人間関係にたいする心の広さが深味としてあり、それが読後感として残るのだと思う。
そういうものを支えているのが江戸の町々の風景の描写であり、そこで暮らす登場人物の個々の心情である。
頭のなかで江戸の町々を思い浮かべ、人物が意気揚々とあるいは喜怒哀楽を持ち生きている姿を想像する。
映画やドラマで見る情景の裏側の人間模様とでも言えるだろう。
「糸車」はそうした江戸情緒を想わせる一つの作品であるが、作品を読み終えて改めてこの絵をみると、なるほどと納得するものがある。
絵だけを見ていても通り一遍の「小間物の行商をするお絹と町方同心持田」の町人と武士の姿でしかないが、自分の心情を登場人物に投影して読んだ後に見る絵はなかなか感慨深く、まるで生きているような二人に見えるものだ。
しかし歳を重ねると「感動」という気持ちも薄れるのは、自分の心持もあるが情緒なき社会の世情によるところも少なくない。
気持ちを新たにしたり感動したり爽やかさに心が動かされたり、時には落涙したり・・・若い頃には純情に反応した心持が、こうした小説を読むことで再び新鮮に味わえるのはなんと倖せなことだろう。
「江戸の夢」はどなたかの解説の中で宇江佐真理さんの小説は私たちを「しばし江戸情緒の夢に誘ってくれる」と言ってた。
まったくそうだと思うのだな・・・

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2019.05.12

太閤祭(名古屋中村区)

5月12日(日) 母の日

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この週末、中村区の太閤祭が開催されていたので義母に声をかけて3人で出かけた。
出がけに「まあ、お揃いでお祭りですか!いいですね」と近所の娘さんが笑顔で言っていた。
「お揃いかぁ」義母と娘(妻)が腕を組んで、後ろから自分も歩く、たしかにお揃いの光景である。
80歳を超える義母だが、いたって健康で、目は良し、耳も良し、口も達者。
背筋もシャキっとしてるが、転んだら大変なので娘(妻)が腕をとる。
祭りの会場の参道は、やたら食べ物の屋台ばかりで、高校生あたりが大人びたメイクの背伸びをして友達らと繰り出している。
そういう祭りが現代の祭りの姿で「太閤祭」という名前からの風情はあまりないが、この人の混み具合は昨年以上だった。
おそらく妻も義母も祭りが楽しくて行くというよりも、娘と一緒に腕を組んで出かけるというのが楽しいのだろう。
毎年のこと、稲荷寿司と巻き寿司を娘の家族にと拵えて用意してくれる。
今年84歳になる義母である。
まだまだ元気そうだし意志の強さも持っている。
その昔はこの母(義母)を娘(妻)が乗り越えるのは大変かな?と思ったこともあったが、歳とともに親子の関係は自然に落ち着くものである。
どうも母と娘というのは「夫」とか「婿」という立場の自分には理解しがたいものがある。
娘自身が母となり、なかなか自立しがたい母と娘の関係に、同じ道という「同志的感情」が生まれ、その瞬間に娘というのは、母親を乗り越えるのではないのかと思う。要するに親が愛しく可愛く思えてくる瞬間である。
父親と息子というのはこれとはまた違った自立のしかたをするもので、そもそも共依存関係も発生しにくい。
もっとも、父であれ母であれ息子や娘であっても、経済的な自立がなかなか難しいのも、格差が広がる今日の姿ではないだろうかと思う。

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2019.05.09

中山道・柏原宿サイクリング

5月9日(木)連連休も過ぎて普通の日々に

見上げれば三日月がきれいな夜空、月を眺めながらウォーキングしてるのかな誰かさん。
暇を見つけてすること。
好みの小説をコツコツ読み、めだかの観察と植物の世話、そしてほんの少しの時間をぶらり散歩。
したがって、パソコンをたたくことも少なくなった。書く意欲の減退だとしたら歳をとった証拠だろうか。
自分に向かって書くのを旨としてるから、誰かが「いいね」と言おうが(ブログに「いいね」はないけど)訪問の数の多少など何の意味も持たないと思うが、人それぞれなのでそこに意味を見出す人もいてもいい。
ここが流行の「SNSの価値観」とちょっと違うところだが、ただ、書く意欲や言葉が流暢に出てこないのは困ったもの。
まあ、昔から流暢な文章でもないから、今と昔もそれほどの変化でもないか。

・・・てなわけで、連休もすでに過ぎ「五月病」で辛い人もいるだろうが、そんなに頑張らなくていいし、人生なんとかなるから、辛ければ逃げればいいし、ミスや失敗も人生にはつきもの。
もっともその苦しみに直面すると、そうは思えないが生きていさえすれば、ほんのわずかだけれどもそのうち余裕もでてくる。
生きているだけで素晴らしいと実感できる日がきっとくるから大丈夫。


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【中山道・柏原宿】

・・・てなわけでと、てなわけでを繰り返したけど、連休中にサイクリング(ポタリング)に行ったので足跡だけは残そうと思う。
4月29日に、中山道の醒ケ井宿から柏原宿までを友人ら7人で自転車を走らせた。
いつものように自転車を車に積んで、名神高速道を西に走り、米原ICで降り、走りだしの起点は琵琶湖の東「近江母の郷」。
ここから田園風景を抜け、車の多い国道を走り、醒ヶ井から柏原へと向かう。
柏原宿に着いたのは昼時、連休だというのに、宿場町なのに、観光客らしき人影は皆無。
中山道の馬籠宿や妻籠宿のあの観光客と土産物店の並ぶ風景とは人出が180度違うのに驚く。
散策マップがあり史跡標示なども立ち宿場跡の雰囲気は申し分ないと思うが、PRが控えめで遠慮がちなのか?
もっとも、観光地化された喧騒の宿場よりもよっぽど自分は好感を持つのだが・・・


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【清瀧寺徳源院の三重塔】

昼のうどんをすすった後は、地元の人に教えてもらったと「清瀧寺徳源院」という京極家の菩提寺のお寺に向かう。
あまり歴史には疎いが、枯山水の庭園を見据えながら、京極家にまつわるお話を聞く。
聞いてる間に野生のサルたちが庭から山へと駆け上って行く。
お話下さったのはご夫婦で寺の管理と手入れ維持しているという「住職(管理)」の方。
広い寺の管理維持も大変だと知る。文化財を保護して行くのも苦労が多いのがわかる。
落ち着いた庭と三重塔が静寂なひと時だったし、知らない歴史にふれる愉しさもあった。


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【清瀧寺徳源院の庭園(枯山水)】

帰り道は梅花藻が清流に浮かぶ醒ヶ井の街道、(「わくわく街道」と命名されていた)から元来た道に戻る。
途中お土産に「山ウドの新芽」を買う。これはあとで天婦羅にして食べたがホロ苦さがなんとも言えなかった。
さて、すべて順調だったのはここまで。
帰路の途中で友人Oさんの自転車が転倒というアクシデント、ふだんの自転車は気にせず乗るものだけれど、旅先では十分に注意が必要だと反省のサイクリングでもあった。

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2019.05.01

連休

 5月1日(水)孫が来て、年々にぎやかになる

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10連休の前半を終えようとしている。
孫がやって来て、狭い我が家の中が賑やかだ。
もうすぐ4歳と2歳、なんでもかんでも遊び道具にするからおもしろい。
幼児の行動は観察していると、「なるほど」と思うことがしばしばだ。
昨日帰って行ったから、今日は静かさが戻った。
孫は来て良し帰って良し!名言だと思う。
そんな連休中の日に名古屋ドームのチケットをもらったので中日×阪神戦を見に行った。
だけど負け試合。見どころ少ない。
しかし今年のドラゴンズは頑張っている!あのカープよりも上位で試合をやっている。(笑)
4月はAクラスに留まった、この先もワクワクした試合を期待したいが・・・予想最下位チームだからなぁ。

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