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2019年3月

2019.03.11

あれから

3月11日(月) 普通に暮らせるありがたさ

8年前の2011年3月11日、東日本大震災で多くの方々が被災した。
あの日、職場のカウンター越しに来客対応をしていた。ゆっくりと揺れが来て、眩暈を起こしたのかと思った。
遠く東北地方の地震が名古屋でも感じられた日。
しばらくして、テレビ報道を見たYさんが「津波の被害が凄い、地獄のような・・・」たしか、そう言ってたことを思い出す。

その後しばらくして、福島の原子力発電所から水蒸気があがり爆発を起こした。
メルトダウンを起こしたら、もう汚染は拡散して、あのチェルノブイリの二の舞になると思うと、とてつもない恐怖や不安が襲ってきた。
あれから8年の歳月が経つが、復興も途上だしまだ故郷に帰れない方々もいる。
何にもまして、原発を廃棄して自然エネルギーなどへの転換が基本のはずが、「原発廃棄」という方向すら見えなくなって、いったいあの8年前に感じた思いはどうなったのだろうかと。
今でも思い続けているのは、何事もなく普通に暮らせることのありがたさであり、原発を廃棄して、自然エネルギーなどへと「エネルギー政策」の転換が未来への道、ということ。
何事も忘れずに、あの8年前の衝撃を心に持ち続けることだと思う。

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宇江佐真理さんの本を読み続けている。
最近面白いと思ったのは「十日えびす」。江戸の時代小説であって、実は現代小説の読後感だ。
引っ越しした先の裏店で繰り広げられる人間模様。もう、そのまま現代の親と子、兄弟関係、向こう三軒両隣、よくもまあ、こうした住人たちの暮らしぶりや人間関係を描いたものだと感心する。
貧しいけれど普通に暮らす、その普通の暮らしのなかの喜怒哀楽。
普通に暮らすために、人は我慢もしながら、情を交わせあうという、下町風情がある。
良いも悪いすべてを受け入れ、辛抱しながらも、人との交情を築いて行くという、普通の家族にあるしがらみを捉えるところが見事といえる。
そうした市井の裏店人生ともいえようか、人間っていいものだ!とちょっと心が洗われる思いの作品で、読み応えがあるのでおすすめ。

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2019.03.10

土筆(つくし)ニョキニョキ庄内川

3月10日(日) 今年は大収穫だった!

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昨日、花屋さんに行ったその足で庄内川の堤防で土筆取りをした。
毎年義母さんが「土筆取りに行こうよ」とお誘いがあり、明日は雨模様だから今日中に・・・
天気予報が的中して、土筆取りが昨日で正解だった。
私も妻もさほど土筆が好きではないので収穫は義母宅へ、卵とじになった土筆が帰って来るのは恒例のことだが、少し癖のあるあの味には、どうも。

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庄内川の堤防工事があった頃はほとんど姿を消したが、ここ数年は復活してきた。
ビニールの袋いっぱいの収穫に笑顔が、義母さんは満足したと。
都市部では田んぼや小川が減って、土筆もどこにでもあるという訳にはゆかなくなったが、庄内川のここには残っている。

春の風物詩、昔ながらの風物詩、残しておきたい風物詩、いつまで続くやらの風物詩。
こういう遊び心はとても楽しいものだと思う今日この頃、ああ孫にも体験させてやりたいところだなぁ。

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2019.03.09

花屋にて

3月9日(土) ウインティ(芝桜)

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カミさんが花屋さんに行きたいというので、義母さんも誘ってでかけた。

前はまだ寒い頃に来たので店の花も数が少なかったものだが、三月となりちょっと花の色どりも多くなった。

春だなぁ~と、花々をながめて思う。
その昔の若い頃には、花の名もほとんど知らず、興味も薄いものだったが、どこにでもいる「花いじり」の好きな爺の仲間入りをしたのかと思うと、ふと苦笑してしまう。

花屋の店先で一つ二つ好みの花を買い、狭小敷地のプランターに植え、そうして水や肥料を与えながら実際に育ててみると、「好き嫌い」を超えて、身近なものになる。

花が散るのに「ものの哀れ」を感じるとはよく言ったもので、キレイに咲いていた花が萎れて、もう花期もお終いになると、ちょっと寂しくも思う。
それでも枯れてしまったかと思っていた枝先に新しい芽が出てるのを発見すると、なんとなく嬉しくなるものだ。

「花の命は短くて・・・」と謡ったのは「浮雲」?、「放浪記」?。
散る花の短い命はそうだけど、実はそうでもなく、実を付け種を散らし、また新しい花を咲かせると考えると、花はけっこう生命力が強いものだと思う。
子々孫々、花は絶え間なく命の葛藤を繰り広げている。

こういう文章も、愛でるだけから、実際に育てることことに関わって、実感として知ることでもあるが、とても花好きの方からすれば、園児レベルの感想と言われそうだけど、「それを言っちゃあお終いよ!」と小声でつぶやく。

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少し大きめの「ウインティー」を我が家は買い、小ぶりのものを義母さんが買い求めた。
「ウインティー」、ああ芝桜のことだと妻と義母さんがぼそぼそ話していた。
どうも横文字の花名が多くて、自分などは困ってしまう。
「芝桜」って言えば良さそうに思うが、きっと種類の多い花々なので日本名だけでは区別できないからかしらん。
少し早いが今年もあさがおのグリーンカーテンに挑戦してみようと、培養土と粒の大きい底石を買い求めて・・・春の風景のひとこま。

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2019.03.06

おきゃあがれ

3月6日(水) 啓蟄


大地が暖まり土の穴から虫が顔を出すというのが二十四節気「啓蟄」の意だという。
少し季節も穏やかになると、人間も虫におとらず、いろいろと顔をだす、「虫の居どころ」ってやつだ。

宇江佐真理さんの「髪結い伊三次捕物余話」シリーズを読み終え、あわせて他の小説も読んでいる。
前後したが最後に読み終えたのが「黒く塗れ」、ちょうどシリーズの五作目で、この中の「慈雨」という作品が読み終わりになった。

巾着切り(スリ稼業)の直次郎は惚れた娘お佐和のために、自ら指を潰し稼業から足を洗っていたが、惚れた娘を忘れられない。お佐和も同じである。
恩ある人の娘に「巾着切り」の過去をもつ直次郎とは添遂げさせるわけには・・・伊三次は悶々と悩むものの、最後には伊三次に見守られお佐和に意を告げに行く。

雨降るなか「抱き合う二人の姿は、まるで紗をかけた一幅の絵だった」。
この作品の文庫版によせてで、作者みずからが「あとがき」を書いている。
この「あとがき」がつくづく面白い。

読者から函館じゃなくて浅草の下町あたりに住んでじっくり下町情緒を学んではどうかと言われ「おおきなお世話」ときりかえし、巾着切りの直次郎を幸せにしてくださいと読者の悲痛な声が聞こえ、この「慈雨」で成就させている。

人の意見は聞かないほうだと自分を評しているが、どうしてどうして、今を生きる読者の声もちゃんと反映させた作品になっている。
こうした今も昔も変わらない市井の人情を見事に捉えているから、伊三次とお文はどう歳をとってゆくのかと気になる。

もっとも宇江佐さん自身があとがきで述べていたが、「宇江佐真理の作品には人情はあるが哲学がない」と言われたと。
なるほどなるほど厳しい指摘ではあるが、その市井に人情物語を構成するために、江戸の本所深川や日本橋や河岸などを細かく調べ、市井にとどまらぬ江戸時代文化などを調べたりと、とても精力的な成果と思う。

「哲学がない」言いえて妙ではあるが、江戸時代の下町文化を土台にしているから、読み重ねていると、実際には見たこともな「市井の街角や裏店に息づく人々が、絵のように動いているのである。
江戸の市井の人々の言葉使いにも目をみはる。粋でいなせと言われた「深川芸者」の言葉使いなど、なんともまあ面白い。
そんな中でほとんどの作品で出て来る「おきゃあがれ」という言い回しに、文化、文化というけれど、こういうのが「市井文化」の典型かもと思ってしまった。

「おきゃあがれ」、やめてくれ、ばかを言うな、よせやい、といった意味で、江戸言葉??
相手との会話のなかで成立する否定の言葉ではあるが、そこに溢れる愛情というか人情というか、ストレートな物言いばかりが目立つ昨今、少し気持ちの込められた会話が、肯定も否定も含めて、人間関係をつくり上げて行く・・・と思う今日この頃、人の思いは千差万別であるという、忘れがちな事実である。

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2019.03.05

ぽかぽか陽気に誘われて

3月5日(火) 庄内緑地公園の春

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天気予報をみながら今日は晴れ、春らしい陽気なので庄内緑地公園へと自転車を走らせる。
体調も良いので自転車を走らせる気が起こるのか、自転車を走らせていると体調も良くなるのか・・・
どちらにしても、まだまだ自転車を走らせることに飽きてはいない。
家事を済ませ、昼少し前に家をでる。
快晴の空を見上げると生きている実感も増す。
自転車の散歩はイベントではないので、どこかで何かを見たり、何かをするという目的はない。
普通の暮らしの延長線なので、ある意味「暮らし方」そのものでしかないが、「何か」をしていないと暇をもてあますというパワーは、どうも自分には不似合いである。

3月、公園のマンサクが季節にふさわしく咲いていた。人出はわずかでとても静寂。
寒い季節の公園は淋しい気もするが、ぽかぽかの春の陽気が淋しさをかき消してくれる。
ベンチに座り冬枯れした木立を眺めたり、早咲きの「フユザクラ」も粋な景色だから、どれほど居ても飽きがこない。

そうだ!久しぶりに自撮りでもしてみようかと思い立つ。
自撮りが好きな訳ではない、どことなくナルシストの行為のように思えるから、自分を撮ることに照れくささがともなう。
なので、年に数回こうしてアップするのは、誰が読んでるかしらないけれど、「今日も元気です!」というサインってわけで、ほんとうは別に自撮りも必要ないかもしれない。

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20キロくらいのポタリングが可もなく不可もなく、身体と頭によい刺激となり、そうして季節が一歩々々春に向かっているのを感じるのが楽しい。

何もすることがない時間(ほんとうはいろいろ用事もある)のある有難さ。
暇は持て余すのほどがいいし、その何もない事に充足感を持てれば、どんな環境でも人生を豊かに暮らせる。
ゆったり生きるにはイベントなき日常生活、平凡な衣食住のあれこれに楽しさを見つけることかも知れないと思う今日この頃。

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2019.03.03

春の兆し

3月3日(日) めだかと影

春の兆しも感じられるこの頃。
冷たい水道の水もすこしやわらぎ、あーでもない、こーでもないとグズグズしているうちに季節は少しずつ歩んでいる。
気温が10度を超えると、人もメダカも俄然元気になり、なんとなく背筋ものびて・・・背筋ばかりか心もちも暖かくなる。

都市の狭小敷地に建つ我が家は道に面した南側のマンションの影が冬のあいだは伸びる。
12月から2月ほどは、南の玄関先ほどまで日陰となるので、日向ぼっこもままならない。
都市住宅の定めだけど、広く大きな南面の庭の敷地のある豪邸は羨ましい。
とはいえ、人は生きる苦労も心の糧となる、便利不便も気持ち次第、貧しくとも豊かな心でいたいものだと、今ある狭小敷地の我が家も住めば都と思っている。

ので、本当は人の暮らしぶりを羨ましいなどとは思うこともないが、まあ「暖かな庭があったらいいね」などとカミさんとの「ないものねだり」っていう合意事項。

3月になり少しマンションの影も短くなって、陽当たりも好転し始めた。
この数か月、可愛そうだったのはその日陰暮らしを強いられた鉢のなかのメダカたち。
水温も5度前後だと鉢底から浮かびもしないので、生きてるやら死んでるやらと。
冬場は餌はやらない、消化不良や水の汚れもあるので、ときどき減った水の補充をするぐらいだった。

このところ鉢に日差しが届き、水温も暖かい日は10度をこすようになり、めだかも少しずつ泳ぎ始めた。
昨日から餌も消化の良い粉末餌をすこしづつ与えている。めだかの生息の適温は18度から28度くらい、100匹ほどのめだかも厳しい冬をよく乗り越えてくれた。

春の兆しはめだかとともに・・・というこの頃である。

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