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2019年1月

2019.01.30

透明感

1月30日(水) リスペクトってこと

久しぶりに珈琲を一緒に飲む機会があった。
会議のあとで70歳を超えても現役の医者の仕事を続けているH先生と。

珈琲カップに伸ばす手の白さに驚いた。
自分より7つほど年配なのに若々しい。
近ごろ仰向けで読む本を支える両手が、やたら年寄っぽくて張りが無いのが目につく私。
心臓よりも上にある手の血流が滞って、張りもなくなるのだと承知はしているが、年齢は手とか首筋とかに端的にあらわれるものだ。

「先生の手は白いですね」と余計な一言をつぶやいて、「紫外線ですよ」と。

聴診器を持って日々患者と向き合う診療室。日光を浴びる暇もない生活だろうか。
「患者さんがいて医療職員がいて、先生診てください」とそういって下さる方がいる限り、何歳になろうと仕事は続けようと思うと、こころなしかはにかみながら。

「60代は5年ごとに、70代は3年ごとに、80代になると毎年、身体の老化が現れるわよ、動けないと思っても無理して動かせば、身体が必要なものを感知して補ってくれるから、さあ動く!これが大切みたいだわ」

ちっとも偉ぶるところもなく、さりとて病気の話になれば、思うところを話してくれる。
「自己顕示欲と承認欲求」の本を紹介してくれたのも、この先生だった。

キレる老人、キレる若者・・・こうした、とにかく自己顕示欲が強く、人への承認欲求が強い生き方は、日々がストレスの塊のような暮らしなのだろう。
突然パーンと感情が爆発するのではなく、実は自分の中に「ここまではOK」という線引きがあり、その線引きがとても低いからキレる。

こういう話の隅々に、キレる人の心持への配慮や優しさがあるから、けっして単なる「知識」として話しているわけではないことが伺われる。
たくさん苦労したり辛い思いをしたりして心が広がり、そういう自分のことばかりでなく、たくさんの辛さや切なさを見たり聞いたり読んだりして、心が豊かになるということか。

どんなに知識が豊富であっても、上から目線で自己顕示欲がときどき顔をもたげるのを目にすると、ああ、この人はものすごく屈折した生き方をしているのか、さもなくば、承認欲求に飢えて、とにかく「私はこんなに頑張って、こんなに・・・」、もう自分を認めて欲しいばかり、自慢なのでしょう。

しかし「心が洗われる人」というのも、けっして少なくない。
そういう人と出会ったり、会話したりするだけで、なんだか健康寿命が延びたような気になるから、そういう人の片隅でいいから、自分も居たいものだと思う。
珈琲カップを持つ手の白さ、なんだか透明な心の色のようだった。

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2019.01.27

髪結い伊三次捕物余話

1月27日(日) 寒い冬の日は心暖まる小説もいい

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宇江佐真理の「髪結い伊三次捕物余話」シリーズの文庫本を5冊ほど続けて読み、昨日は珍しく貸出延長なく図書館へ行き、新たに著者宇江佐真理のあれこれを借りる。
小説はほとんど読まない人もいれば、好きで何冊も読む人もいる。

作者にこだわって読む。
女流作家の時代小説がおもしろいと思ったのは杉本苑子以来の二人目だが、この二人の作家の特徴が類似しているかというと、そうでもないが、時代背景のなかで人物を生きいきと描いているのは共通する。

「髪結い伊三次捕物余話」は髪結い伊三次をとりまく登場人物の個性がおもしろい。
人情に厚いだけでなく、貧乏な下町人生をそれぞれに生きる人々。

とりわけ伊三次の妻「お文」、北町奉行同心不破友之進龍之進の妻「いなみ」「きい」といった女性たちのきっぷのよい優しさと芯の強さはこの小説の見応えのあるところだ。
こうした凛とした生き様は作者宇江佐真理その人の姿なのだろうかと思われる。

小説を読むのは面倒なことであり、一冊の活字をひろい読み終えるには、相当の時間もかかるから、映画やコミックなどに比べれば、慣れも我慢も忍耐も必要かもしれない。(もっとも楽しくて次は次はと期待に胸膨らむ本もあるが)

一枚のフォトを見てあれこれ思うには数分もあれば済むから、なんとまあ手間暇かかるのが小説という文芸スタイルではないか、現代の忙しい人たちには厳しいものもある。
しかし時間をかけてコツコツ読むから知り得るものもある。

小説の情景を想像し、そこに本当に生きているかのごとき登場人物を据え、それが時代とともに成長してゆけば、こんなにおもしろいものはない。
そういうある種の「情念」の世界に心底ふれることができるのも、コツコツじっくりの読み物だからとも言える。

髪結い伊三次捕物余話シリーズなどは、作者の歳月にあわせたように登場人物も歳を重ね、子は成長し、若さもすこしづつ衰えて行く主人公たち・・・

そういう「物語」のなかのリアリティこそが、時代を超えて「今」の人の情けの尊さを気付かせてくれるし、数少ない「心が洗われる」ことがらでもある。
小説は楽し!と思えるところに何気ない日常の幸せ感がある。
図書館にいったついでに宇江佐真理の小説がどれほど揃っているものかとブックオフに寄ったら、ついに3分の2ほどがコミック本コーナーとなり、文庫本の小説コーナーは縮小の一途。

学生さんらしき若者たちがコミック本を探していた。
手軽さや読みやすさ、視覚的な本の便利さが主流となっていく「本」の世界。面倒だと思っても、コツコツ時間をかけて、ゆっくり「本の世界「物語の世界」に没頭するのは時間の浪費と引換に手に入れるもう一つの「人生」だと思うと、浪費もよかろう、人生は楽し、というわけである。

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2019.01.20

不用品処分

1月20日(日) 大寒

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窓辺のシクラメンが優しい白い花を咲かせている。「真綿色した・・・」と歌った曲もあったが、この季節公園や庭先などにも花の姿をみかけることも少ない。
シクラメン、パンジー、スイセンと、もっかこの花々が我が家に元気を告げている。
そうそう、越冬中のメダカたちはじっと鉢底で寒さに耐えているが・・・

「断捨離」「終活」などという言葉が言われ、ある一定の年齢に向かう人たちが、身の回りの整理をしている。
物に拘った高度経済成長を通過した自身にとっても、「物」が自分自身の時代の価値や、いや自分自身のプライドや誇りなどを体現するものとして、そんな幻想にとりつかれていることを再発見したりする。

どれほどの本があってもどれほどの物があっても、そんなものがあろうとなかろうと、自分自身の価値(ちょっと大袈裟か)は、自分自身の歩んできた暮らしと自分の価値観のなかにあるだけだと思っている。

究極、いままで読んできた本の中身は、自分の頭の中に知的経験やら知識としてあるだけで、本そのものには「紙と文字」があるだけでしかない。
などと言うのも、今日はワゴン車一杯分の不用品の処分を業者にお願いして撤去した。

長年生きていると「野良犬根性」よろしく、「物を」溜め込んでしまい、一年過ぎれば一年分、5年、10年過ぎればその歳月分だけ、物も増える、本も増える。

「日本プロレタリア文学集」などという戦前戦後の小説集を10数年前に買い求め、そのうち読むだろうと箱入りとなっていた。
なかなか貴重な小説集だと思っていたが、あっさりと処分することにした。読んで得たものは頭のなかに残るだけで、コレクションのように傍に置いていても、時代と今の必然性が遠のくだけで、意味をなさないだろうと・・・思えてならない。

「物」からの呪縛から解放されることは、とても快感でもあることを知る。「男はつらいよ」の寅さんのトランク一つが、あれが理想なのだろうと思うが、飯も食わねばならぬし服も着なけりゃならないから、そうそう「身一つ」の暮らしとはいかないが・・・
ダンボールに詰まった過って好んで読んでいた本のたぐいも、そのうち第二弾、第三弾の処分品として、きっぱりと捨てる日が来ると踏んでいる。
そうしたものを捨てたとしても、過ぎ去りし日々に感じた感情や感覚や知識などは、少しづつこぼれ落ちはじめているとはいえ、頭のなかに残っている。

きっと自分を誇りにおもったり、自分を自己肯定するなどは、そうした「物に(あるいは属性に)」依存しない「精神界」(そんなものがあるのかな?)だけが決定するのではないかと思う。

まあ、そうしたことは自分が心のうちに納得すればよいことで、ことさら自己顕示欲や承認欲求を人に向ける必要もない。
人は生きているだけで、それだけで素晴らしいものであり、つまらぬ「属性」、たとえば地位とか名誉とか知識とか能力とかは二の次三の次でしかないと思う。

ただ日々、静かに暮らし、人の世の情けをありがたく思い、賢治いわく「自分を勘定に入れず」であり、雨にも風にも夏の暑さにも冬の寒さにも負けない、我とわが身に謙虚になろうという・・・いやはやなんとも「そんなふうに生きたいものだ!」という、大寒の日。

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2019.01.17

風邪とかインフルエンザとか・・・

1月17日(木) 蔓延する一族郎党

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とっくに2019年は始まってるが、昨日あたりから体調ももどり、普通の暮らしになりはじめた。

大晦日から体調不良となりほぼ二週間ほど、脱力ウォーキングどころでも自転車散歩どころでもなく、安静の日々だった。

というのも、娘家族が年越しのためにやって来て、来たのは人ばかりじゃなくインフルエンザを連れてきたってわけ。
感染経路は娘婿➡上の孫娘➡下の孫娘と、家中インフルエンザウイルス蔓延となり、自分も38度6分という高熱にうなされた。

もっとも鼻の粘膜からはウイルス検出はなく、それは免れたが高熱、脱力関節の痛み、咳に鼻水に淡と、ほぼ風邪の症状のフルコースであり、白血球が著しく減退し、肺炎を医者に疑われるしまつだった。

年が新たまるという「リセット感」も「新年の初詣もどきも」全部吹っ飛んで、床の中で「養生、養生」と念仏のように唱えていたから、いやはや今年は縁起もくそもない出足となった。

12月に何冊か借りていた図書館本はそこそこ読み終えて、昨日は本年初の自転車散歩で図書館へ。
今日は今日で久しぶりの庄内緑地公園へと出かけたが、体調が戻るとこんなに健康のありがたさが身に沁みることはない。

熱にうなされていたときは、高齢になり人生の終焉を迎えるときには、こうして体中が痛み自己コントロールもできなくなり意識も喪失するのだろうな!となんとなく予感がした。
まあ、それもこれも元気になれば、「暑さのど元過ぎれば」ってなわけで忘れてしまうのだろうが・・・
というわけで、「やっとかめ(「久しぶり」の名古屋弁)」のブログ記事はじめとなりました。

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