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2017年11月

2017.11.29

自転車は気力と体力のバロメーター

11月29日(水) 晩秋のそぶえ町の銀杏を見に行った話

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【山門とイチョウ】


二日遅れの日記だが、27日の月曜日に愛知県稲沢市「そぶえ町の銀杏」を見に行った。
これはもう自分の風物詩のようなもので、観衆なき体力測定とでもいえるか(笑)

名古屋市中村区から「旧尾張サイクリングロード」(今は市への水道みち)という直線道路が15キロほど続いている。
この道から見える田園風景、遠く養老山脈などの山並み、こうした風景が元気になる源ってわけだ。

一本道を時速15キロほどで走る。ここ数年は一人で走ることが定番になったのは、みなさん勤め人だから。
銀杏の見ごろも終わり頃だった。それでも日光に照らされると、まだまだ輝いていた。
よい雰囲気だった。

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【木曽川と自転車】


ぐるりと一回りし、恒例の200円「とん汁」で暖まり、少し先の木曽川まで行く。
こういう大河を見ると、木曽・揖斐・長良川と豊富な水系に恵まれた濃尾平野だと、今更ながら感慨もひとしおだ。

GPSは自転車旅の友達だが適当な道を探して適当に走る。用水脇のあぜ道あり、公道あり、「適当」という楽しさなのかも知れない。

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【自撮り:あえて縮小してあります(笑)】


半年ぶりの「元気だ証明」の自撮りフォト、こういうのを撮ってる限り元気である。
最近は自転車乗る機会も減ったが走行距離は46.1キロとなり、今年の最長距離。
歳を重ねるなかで、気力と体力のバロメーターのような数値であり、自分にとっての意味ある数値だった。

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2017.11.26

もみじ狩り

11月26日(日) ちょっと京都の南禅寺、毘沙門堂、疏水路ハイキング

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一日の寒暖の差も大きくなり、紅葉の見ごろは今でしょうか。
久しぶりに真っ赤な紅葉を堪能したのは昨日の土曜日のこと。
友人ら8名で名神高速道路に乗り、京都の「紅葉狩り」でした。

琵琶湖の大津から京阪電鉄・京都地下鉄に乗り南禅寺へ。
紅葉の見ごろ一番の週末は人出も多いが、紅葉のにぎわいのほうが勝ります。
「紅葉狩り」昔の宮廷貴族が野や山に出かけ、少しだけ赤い紅葉を持ち帰る、そんなところから「狩」となったという、なんともまあ優雅なことじゃありませんか。

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【南禅寺の紅葉】

お寺の紅葉というのはちょっと落ち着きがあっていいです。
ここから京都疏水路脇の小径を山科方面にハイキングです。
この京都疏水路は琵琶湖から京都市内へ供給される水の水路のようです。

深まりゆく秋の赤や黄や緑のグラデーションを楽しみながら歩きます。
日頃は「歩く」ことも少ないから疲れるはずですが・・・疲れも忘れるものです。

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【疏水路脇の紅葉も、閑静にして風情あり】

どれぐらい歩いたのか、一時間、二時間・・・忘れましたが、少し町並みが見えたところに毘沙門堂があります。
天台宗の古いお寺のようですが、ここの紅葉も見ごろでした。
誰かが「外国の方は紅く紅葉するのが珍しいようだ」と言ってました。
たしかに「まっ赤に色づいた紅葉」は陽にあたると、もう「燃えるよう」ですね。

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【毘沙門堂ののぞき見紅葉、拝観料けちって】

すっかり腹をすかした欠食児童のように遅めの昼食を摂り、満たされたところで京阪電鉄山科駅からふたたび大津港へと戻ります。
日も暮れ始めた大津港には遊覧船が走っていました。
自転車で走る京都もいいし、こうしててくてく歩くハイキング京都も気の置けない仲間と過ごす一日、のんびり過ごす一日がとても楽しいものでした。

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【琵琶湖・大津港の夕暮れ時】








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2017.11.23

ジョージ・オーウェルの本

11月23日(木)「1984年」「動物農場」

ジョージ・オーウェルの小説2冊を読み終えた。

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図書館の書棚から一冊、もう一冊は取り寄せしたが、なぜジョージ・オーウェルを読もうとしたのか、自分でも動機がよく分からない。

「1984年」は発行当時から30数年の後の1984年というから未来小説であった。
独裁体制下の全体主義国家における「反逆者」の洗脳の恐怖が描かれている。

他方「動物農場」は一種の寓話物語で、人間の営む農場から動物たちが人間を追い出し動物たち自身で農場という「楽園」を作って行くが、そこが自身の楽園になりえたのか・・・

一つの政治権力が創り出す世界。

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当時としてはスターリン体制下のソ連を想起させるものであろうが、この二作品は同じモチーフの異なる作品といえる。

政治権力が生み出す権力の構造と人間(動物)支配の物語は、今日のそうした独裁国家のとる政治手法と基本的には同じものといえるが、はたして「独裁国家」にのみ共通するものかといえば、そうとだけは言えまい。

「平和の名のもとに軍事体制の拡大」「繁栄を吹聴する裏で差別社会の拡大」「民主主義の仮面をかぶった独裁」、そうしたおかしなことをまことしやかな社会と描くには「嘘」と「監視」がつきものである。

実に読後感の悪さが残る本であるのは、小説の世界を微妙に現実社会と対比させてしまう自分のほうに根拠がある。

政治権力のおぞましさ、嘘と虚構を体制維持の方法とし暴力で洗脳する。
マインドコントロールの方法は知らず知らずに自分自身をその圧政の側の信望者と化して行く恐ろしさであり、何も他人から無理強いされているばかりではない・・・自発的にその「虚」を「真実」と思いこむところに恐怖がある。
本当のことを見抜く力を自分は養えるのか、という不安でもある。

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2017.11.19

小さな旅の自転車(ブロンプトン)

11月19日 輪行すればけっこう遠くまで行ける

週末の18日(土曜日)は琵琶湖方面へのサイクリングの予定だったが天気予報は雨。
雨を見こして事前に中止となったが、皮肉にも前後の日は晴れだった。
今年は雨や台風や仕事などで計画が中止となる一年で、週末ごとに雨の日も多かった気がする。

晴れの日は、晴れているだけで嬉しいものだ。自転車など晴れていてこそだから。
雨を避けて金曜日に名古屋から瀬戸市まで35キロほどを走った。
兄らが住む瀬戸市は名古屋からは緩やかな上りとなる。
広い濃尾平野は起伏が少なく平たんな地形とはいえ、やはり東部方面に向かうと「上り」となる。
列車や自動車で行き来すると気にもしないが、自転車ではよくわかる。

庄内川の右岸にそって北上し、西区、北区と進み、守山区からはいわゆる「龍泉寺街道」を志段味方面に進む。
昔は一車線の道路も整備され今は町並みがすっかり変貌している。
志段味中学校付近から尾張旭・瀬戸方面に進むと紅葉の木々が道の両側をおおい、愛知県森林公園に続く。

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【森林公園でちょっと一休み】


昼飯はどこかの店に入るつもりが、自転車の鍵を忘れたので、途中のコンビニで「おにぎり」を買い、森林公園でちょっと淋しいが、秋の空を眺めながら昼飯となる。
今日は兄宅に資料を届ける予定もあったが、電話すると不在とのことで、ポストに投函する。
マイカーならば一時間ほどで着くところを、3時間ほどかけて、のんびり来たわけだ。
晴れた日だからこその「一人自転車サイクリング」で、申し分のない一日。

帰りは名鉄瀬戸線に自転車を担いで「輪行」する。
平日の学生さんたちがぼつぼつ下校する時間でもあったが、電車は空いており座席の横に自転車を置く。
折り畳み自転車の面目躍如である。

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【こんなに小さく畳むと自転車とは思えないなぁ】

35キロを半径で円周を描けば、名古屋から北は岐阜市、西は桑名市、南は半田市あたりまでの直線距離となる。
ずいぶん遠くまで行ける距離になる。
しかし思ったのは行きの上り道を電車の輪行にして、帰りの下り道を自転車にしたら、もう少し楽なサイクリングになったかも知れないと。

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2017.11.16

歳時記カレンダー

11月16日(木) 恒例の・・・

今年もあとひと月半ほどで終わろうとし、喪中葉書がぼつぼつ届き始めた。

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こうして、何やら「来年」のことが話題になりはじめ、あっと言う間に一年が過ぎ去っていく。
なんとまあ過ぎ去る日々の早いことか。
カレンダーも今月を含めあと二枚になった。文具店にはしっかりと来年のカレンダーが陳列されている。
もう何年も同じカレンダーを使い続けているのが、この「歳時記カレンダー」で、数枚飾られる他のカレンダーは貰い物ばかりだ。
二十四節気七十二候の暦の表示に季節を感じ、月の満ち欠けに日々を思う。
11月19日は「一茶忌」のようだが、そうした故人の日を見て何かを思う。
たかだかカレンダーだけど、一年のうつろいの日々と照らし合わせながら見るカレンダーとして、すっかり定着した。
もっともカレンダーに限らず、日記とかスケジュール手帳とか、毎年これという同じものを使い続ける人も少なくない。
新しいものが世にでて、日々革新される日常のあれこれ、感動や発見やこころ踊る出来事も楽しいものだが、「変わらないこと」というのもいいものだと思う。

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2017.11.15

和太鼓の響き

11月15日(水) シンプルな音がいいです

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【右端がNさんとTさんの打つ姿、ほれぼれするなぁ~】

過っての福祉職場の友人Nさんから和太鼓の演奏会の案内をいただいてカミさんと出かけた。
和太鼓の打ち下ろす響き、笛や三味線や、そうしたシンプルな音色が伝わってくる。
バチを打つNさんとTさんとは、いろいろあった仕事仲間の時代に、お世話にもなった。
あれから何年経ったのか。和太鼓の練習をしていると聞いた頃に見た姿とはずいぶん違って、太鼓を打つ姿も堂々として、力強さも感じる。
子育てしながら練習に励んできた成果は、素人感覚の自分にも十分伝わってきた。
「一生懸命」ということの素晴らしさに、なんとなくほっこりする日だった。
・・・と三日遅れのブログなので、日曜日の話である。
特に決まったテーマもなく、日々の事柄を綴り、それも遅れがちに、ときどき更新になり、それでも続いていることの意味は。
SNSはTwitterやfacebookや、最近はInstagramといろいろあるが、最新のリアルタイムな情報を欲することもなく、誰かとのネットの会話に楽しみをもつこともないので、時々の今を綴ると言う意味では、やはり「日記」の部類なのだろう。
そういうところが「ブログ」にちょうどいい立ち位置になっている。
つまらぬことを書いて、まあ、これって「今を生きてる」存在証明ほどでしか過ぎないが、「SNS疲れ」が言われる現代では、一人自分に向かって書くのもいいものだと思っている。


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2017.11.11

とある土曜日

11月11日(土) 風邪か?健忘症か?

なんとなく咳がでて、風邪の兆候かと思うが、こういう時はちょっと寒い戸外を自転車で走る。11月ともなれば陽の落ちるのもはやくなり、4時をまわれば帳も降り始める。
まだ少し閉館時間には間に合うと図書館に向かう。
3冊ほど物色する、どうしても借りたいと思ってた一冊はみあたらないが、まっいいか。
さてとカウンターに行きかけて「しまった!貸出カードを忘れてしまった」と気が付く。
抜き出した本棚の元の場所に戻し、そそくさと図書館を後にするのも虚しい。
昨日まで娘と孫たちが三泊していた。自転車に乗るのも三日ぶり。
孫の時間に日常がセットされ、異次元のような日々になると新聞もテレビのニュースもおちおち見たり読んだりできないから、なんとなく甲高い泣き声や話し声が部屋中を駆けめぐる。
そういうものも、今だけだと思えばアリガタイことだと思う。
さて風邪かと思った体調も帰宅したら何ともない・・・
「スーパーで駅弁売ってたから『飛騨牛弁当』これ夕食」、作る手が抜けたと喜ぶ妻、まあどうということもない土曜日、寒さも増してきた。

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2017.11.06

自転車で写真遊び

11月6日(月) 楽しくなければ遊びじゃない!

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趣味というよりもスポーツというよりも健康増進というよりも、自転車は遊びの世界だと思うのですね。
その自転車に乗って「小さな秋」はないもんじゃろか?とか、果たしてこの道はどこに通じてるのかとか、つまらんことを思いながら、近頃やっと青い空の日が続く短い秋の日を堪能する。
モノを買うこともないので、清貧を余儀なくされている(笑)わが身には、出費もすくない。

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東西南北。西側には庄内川や新川といった川があり、どうも走る機会が少ないので、どうしても地形に疎くなる。
ということは、知らない路地とか、まだ「未開の道」とか市街地から外れるほど、けっこう興味心をくすぐるものがある。

昨日は自宅からそれほど離れていない小さな公園を走っていたら、木々の色づいた風景にちょっと一休み。
紅葉など「たんなる枯れ葉じゃん!」と言ってた〇〇ちゃんを思い出す風景。
秋の色がこんな、なんでもない公園にもあるというごくごく普通のことに嬉しくなる。

そういう下準備があって、今日は掃除に洗濯に家事労働を早めに済まし、暖かい緑茶を水筒に詰め、いざ出陣ってわけで・・・

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旧美濃路街道から清須城へ、もっともこれは展示館だから現存する城ではないが、やはり織田信長の「清州」なのだと、まあ、そんなことを思いながら走る。
新川沿いを南下してみた。
過っての津島街道の分岐点の道標などもあった。きれいに整備されてはいるが、道標そのものは天明八年(1788年)当時のものだろうが、風雪に耐えたとはいえ文字は判読しがたい。
こういうものにちょっと立ち止まるのがおもしろい。

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川沿いの道というのは、どこまでも、どこまでも走り続けたくなるもので、途中に萱津神社などもあり、新旧交ざった民家があるのも、なかなかおもしろい。
白壁の土蔵と古い民家ばかりであれば、現代では「町並み保存地区」間違いないだろうが、そんな都合のよい町ばかりあるはずがない。

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新しくもあり古くもあり、さまざまに混在するのが現代の町なんだろうと、遠くに見える名古屋駅前の高層ビル群を眺めながら思う。
自転車に乗って走るというのは、歩くのとも車で眺めるのとも違った「別の」ものが見られるということなんだなぁと、そう思う。

次はもう少し先まで、知らない路地や知らない民家の立ち並ぶ道を走ってみようと思った今日である。25キロ走ったが、時速10キロ前後のゆるゆる自転車の日だった。

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2017.11.02

恋情

11月2日(木) 読書の秋ですから・・・

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「読書の秋」というが、先日何かで「活字を読むことが苦痛だ!」という言葉に出会い、たしかに視覚や聴覚よりも「色気」がないものだと変な納得をする。

「活字」が勉強の延長にあり、「知識」を得ようと頑張ると堅苦しく、こりゃあ辛いものだ。

小説は「人間の感情」のあれこれを体験するもの。
人の感性とでもいうか、心のいろいろを享受するものだと思えば、知識にならない知識として、実は自分自身を豊かにしてくれるものだと、そんなふうに思っている秋の夜長。

NHKの連続テレビ小説「わろてんか」の中で、純情一筋のてんちゃんが夢は何?と聞かれ「お慕いしている人と墓場に入るまで添い遂げること」という意味のことを言っていた。

愛しい人と一緒になり、一生を添い遂げるという、きっと現代でも結婚する彼や彼女が最初は持つだろう、永遠の愛情の姿ではある。

一方、夫唱婦随で人生を送った夫婦の夫が亡くなる。
いよいよ残された妻が死の間際に、最期のお願いとして「私の骨は夫と一緒の墓には入れないで欲しい」と遺言する。

渡辺淳一の小説だったと思ったが、いやはや怖ろしい。
実に人間の感情の表裏や複雑さをそうしたものから垣間見ることができる。
「活字」であるがゆえに、じっくりと感覚に伝わってくるのである。

さて、このところは松本清張の短編小説を好んで読んでいる。
芥川賞を受賞した作品とか、よく知られた作品とか、文庫本の短編集にいくつも収録されている。

「恋情」という初期の短編があるが、ここで語られている「愛する」ことの複雑さは何ともいえない読後感だ。

簡単に物語を言えば、時代は明治初期。
華族に生まれた主人公は幼い頃の許嫁の律子に恋心をいだくが、その律子は彼がイギリスに渡航してる間に、宮家のもとに婚姻させられてしまう。
絶望の淵へと落ちた彼は放蕩暮らしの三年後に帰国する。

帰国し彼が知るのは、宮家に嫁いだものの、幸せな暮らしを送っていない律子の姿だった。
だが、彼は律子が発表する詩歌のなかに、自分との思いが綴られていることを知る。
当時の社会は宮家からの離脱は夫の死をもっての他はありえない。

悶々とする歳月が過ぎ、ますます律子への思いを確信するがどうすることも出来ない。
そして彼は待つことを選ぶ。白髪の生える歳になろうとも、彼は待ち続けることに愛を確信する。だが、その思いは叶うことなく・・・

人はそれまでして愛する人を待ち続けられるのだろうか。
そこには、純愛と言葉で言い尽くせない、愛することの奥深さを見ることができる。
明治期はポジティブな維新ものなどが多い。その対比的主人公を描く、松本清張にもこういう作品があったのだ。

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2017.11.01

秋らしい日々

11月1日(水) 紅葉も少しづつ山から里へと下りて来る

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【庄内緑地公園のサイクリングコースにて】

自転車で庄内川の堤防をのんびり走り、およそ5キロほど離れた庄内緑地公園に向かったのが昨日。
昨日も今日も雲一つない青空が広がり秋らしい日だが、すぐに冬将軍がやって来るという。

いつものように、IPODのフォークソングを聞きながら、何をするわけでもなく、ただただ一人でのんびり走っていると、遠くの山並みが見えたり、台風で増水した庄内川が、それでも穏やかに流れている。
変わり映えのしない景色だからこそ感じる安堵感。変化しないことの平穏さ。

公園のさくらの葉もすこしづつ色づき、濃尾平野のここまで、秋の色がやって来ている。
どことなく寂し気な心持になるのは、若かりし頃に聞いたフォークソングの歌詞のせいか、一人で自転車を友に走っているからなのか。

やはり、秋という季節がそうさせるのか。
どちらにしても、こういう雰囲気のなかを誰と話すこともなく、ただ、のんびりと走り、ただ、昔のことを思い出したり、人生は傷つきやすいものだとか、いやいや、人生は多様性に満ち溢れているとか・・・
つまり、今を生きていることを無条件で受け入れることができる穏やかさともいえる。

自転車というものがもたらしてくれる、ある意味「至福」な時なのですね。

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