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2016年11月

2016.11.24

風邪と読書

11月24日(木) つれづれなるままに・・・


風邪も9割かた治ったが、鼻水がまだ・・・。
別に「風邪と」など題しなくてもいいけれど、つれづれなるままに一気書きしてみようと思う。

難儀をして読み終えたのが「一休」水上勉(中公文庫) 禅宗の一休和尚の生涯を書いたものだが、凄まじく難解。
その訳は禅宗という仏教の言い回しの難しさ、原典の訳の難しさと漢字の難しさ、もう読めないのだ。読めないから「多分こんな言葉だろう」と頭のいい加減な辞書をたよりに460ページ。教養と知識のなさを嘆きながら・・・、そうして諦めずに読み続けると、分かってくることもある。
テレビアニメの「一休さん」とはほど遠い一休和尚の生涯、権力の庇護のもと禅を知らず禅を語る当時の禅宗坊主への反骨心は凄まじい。地べたの民衆のあらゆる「煩悩」の苦をも、己に同居させ「風狂坊主」もなんのその、といった生き様には驚愕するところだ。
「有漏地より無漏地へ帰る一休み、雨ふらば降れ風ふかば吹け」一休和尚の作(といわれてる)この句に、集約されてるのか。「有漏」とは煩悩が有ることを意味する。
まあ、自分流に言えば、現世煩悩の境地から離れて、無の境地にたてども現実生活からは逃れられないので、立ち返る・・・その行ったり来たりの中で、ちょっと一休みの一休和尚。
と言ったところだろうか?雨も風も吹くなら吹いてちょうだいなと。

などと自己流に解釈して、とても頭が疲れて風邪だということも忘れてしまったので、すこし気分転換で読んだのが、「歩兵の領分」浅田次郎(講談社文庫)。高度経済成長期の日本の自衛隊に入隊した青春群像のようなもので、憲法9条のもとで、海外派兵など厳しく否定されていた時代の自衛隊員の隊内生活が描かれている。「自衛隊には二種類の階級がある。星の数と飯(メンコ)の数」という話が妙に納得する。つまり隊内の階級と入隊期間というわけだ。
作者の浅田次郎氏は自衛隊の経験があるという。案外、そういう見方が自衛隊という組織では貫かれているのだろう。もっとも、自衛隊ばかりでなく、普通の会社でも上司と部下に、年長者先輩というものが、色あいをだして絡みつくものだが・・・
人間が組織というものを作り出すときの人間関係の複雑さ。もっとも「かけつけ警護」が日程にのぼった現在の自衛官はどうなのだろうかと、ふと思う。
風邪で寝ていたが、毎日の日課である家事はそこそこやっていた。微熱でぼーっとしても「決められた毎日の作業」をしなければなんとなく落ち着かないという心情。ひととおり終える頃には、薬も効きはじめ寝たり起きたり本を読んだりという一日だった。

推理小説というものはほとんど読んだことがない。松本清張ぐらいかな。「東野圭吾がおもしろいですよ」と教えてもらい、入門小説として紹介してもらったのが「新参者」東野圭吾(講談社文庫)だった。
ほぼ一気に読み終えることができたのは、推理小説の謎解きの面白さだと思う。犯人は誰か?ということだが、見どころは市井の人情話が複雑に絡み合うところだろう。主人公の加賀刑事も含めて、登場する人物がみな「いい人」なのである。犯人さえ「いい人」なのだ。ほろりとする話でオムニバス物語として進行して行く。こういう推理小説もあるのだなと感心する。当然のことながら謎解きとしては横溝正史ばりの結果とはならないが、なんとなく安心できる読後感があった。

考えてみれば、ほとんどが文庫ばかりである。それには理由があって、ベッドのうえでゴロリと仰向けになって読むには単行本は重くて腕が疲れるからだ。文庫本というのは手軽にカバンに入れる事も出来るし、こうして仰向け読書の多い自分には好都合なのだ。
「老人と海」ヘミングウェイ(文庫光文社)。おやまあヘミングウェイですかぁ~と言われるほどよく知られた「老人と海」である。図書館でなんとなくもう一度読んでみようと借りた一冊。
いつもは少年と一緒に漁にでていた老人が、一人漁にでることになり、自分の小船よりも大きなカジキと格闘のすえ釣り上げたが、船にくくり帰港する途中でサメと戦いながら、すっかり骨ばかりになった獲物とともに、疲れ果てて帰ってくる・・・というお話。
年老いた漁師、諦めることなく必死に大海原で格闘する姿は、いつ読んでも感動する。老いた、歳を取った、足腰が・・・などと愚痴をこぼすことが多くなった最近だが、この老人(漁師)の矜持はどうだ!いい作品は心の底から感動という気持ちを生み出す。

というわけで、風邪も治りかけたところで読み始めたのが「怪奇小説日和-黄金時代傑作編」西崎憲編訳という海外の怪奇小説短編集。海外の小説というのは訳者によるのだろうか、日本の短編小説とくに私小説を好みとしている者にとっては、ちょっと勝手がちがうなぁと思うことが少なくない。
海外というところに行ったことがないので、風土や文化や情景がイメージしにくいということもある。ハリーポッターの怪奇版のようなイメージや子どもの頃に読んだ外国の子どもむけ作品から想像して読むことになるので、霊とか伯爵とか女王とか、まさに読む側の貧困さが起因しているのだと、そう自覚しながら読み進めている。(もっか、半分ほど)
アーサー・コナン・ドイルの「茶色い手」など実に面白い怪奇小説だと思うが、きっと忘れてしまうに違いない。3つ読んで2つ忘れてしまうという読書であるが、それでいいと思っている。小説を読んで何か「身になる」などとは、とうてい思えないので、つれづれなるままに読み耽って、それで良しとすればいいだけの話だと思う。(長文になったなぁ~)

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2016.11.22

風邪と自転車

11月22日(火) 久しぶりに自転車に乗る

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一週間ほど自転車に乗らない暮らしだったので、久しぶりに乗ると感覚の違いがよくわかる。微妙なことだが、姿勢から足の運びまでちょっと違う。
もっとも少し走れば元に戻るが、年齢とか体力の衰えを実感する瞬間だと思う。

慣れるために5~6キロ農業用水路脇を走った。
一週間ほど前の用水脇のソメイヨシノは紅葉した葉がもっとついてたものだが、今日は道端に落ち葉が溜まり、街路樹も冬支度なのか、葉も残りすくない。

こういう写真を一枚撮って季節の移り変わりの早さに感慨ふかく思うが、そこらにある見慣れた風景に過ぎない。
行き交う人は視野の片隅にチラッと入れる程度だろう。

写真としてはおもしろくもなんともない。紅い葉が、幹と枝が、中心の電柱がいけない・・・
色や形や構図とか、一枚の代わり映えしない風景に、春先の桜がうすピンクに賑わっていた頃、葉桜となり青々とした生命力をみなぎらせていた初夏を対比させる。

季節が巡るというのは、人の暮らしに潤いをあたえ、同時に日時の経過という「歳」をも考えさせられる。
この初冬から寒い冬を超えて、来春にはまた桜が咲くだろう。そして、こうした写真を撮っている自分は確実に歳を重ね、確実に「老い」を感じるだろう。
果たして自分はいったい人生に置き換えるならば、どの季節を歩んでいるのか・・・
などと、紅葉も残り少なくなった街路樹を撮りながら思う。

風邪で寝込んでいた先週、本もいつも以上にたくさん読めた。本の話でも書こうかと思ったが、それは次にしようと思う。

 

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2016.11.20

風邪と医者

11月20日(日) 医者の好き嫌い

風邪をひいて、二三日で治るとたかをくくって市販薬で静養していたが、結局一週間も長引いてしまった。

週末に予定もあるのでと病院受診したら休診日。そういう日に限って咳も熱も体の怠さも最高潮になるから、なんとも間が悪い。
熱が逃げてくれないので発汗も中途半端、夜中に何度も下着を変えて、これも体力の低下なのかと思う。

翌日やっと受診して点滴を打つ、点滴袋を見ながら界面活性剤が混入されてたらイチコロだなぁと思うのは、思いすぎだと分かっていても世相ニュースが言わせる。

町医者の病院は自宅から数百メートル離れている。もっとも同じ距離にもう一つ医院があるが、ここ何年間か受診するのは一方に決めている。

以前はもう一つの医院によく受診していた。風邪ぐらいならば薬を出してくれればいいと割り切っていたが、ここは血液検査や点滴は当たり前に、喉の吸引薬やまあいろいろ処置をしてくれた。

医者の説明も細部にわたって詳しくしてくれるが、もう一つしっくりしなかった。
というのも医者と患者、とにかく医者目線なのだ。病気の説明までは理解できるが、説教にまで話が及ぶので、「はい、はい」と聞くものの、その偉そうな「私は医者だ!」という態度が鼻もちならなかった。

今通っている医院の医者は余計なことは言わないけれど、説明だけはしっかりしてくれる。
患者の心理を無視して説教じみた話にならないので、そのほうが心地よい。

何も病院に限ったことではないが、その道の専門家と自認する人ほど、持論を言いたがるものだ。相手のあれこれと意を通じることよりも、持論を述べることに時間を割く。
医者と患者。医者の知識が多いのは当たり前で、患者に説教するのが当たり前と心得違いをすれば、伝わるものも伝わらない。

そんなわけで受診医院を変えた。必要な説明はするが、余計な説教のない今の医者のほうが自分にはあっている。
もっとも、妻はあのくどくどと説教じみた話をする医院のほうが薬は合っているという。けども、その「アクの強さ」には、やはり鼻もちならないようだ。

一週間、薬の効用でしっかり寝ることが多かった。風邪も養生一番なのだろう。
その間に読みかけの本も、読み始めの本も、いつも以上に読めたので、風邪が治りかけた身としてはよかったが、まだ家庭には治りきらない患者が風邪の巣のように「菌」を循環させているから・・・


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2016.11.15

風邪の連鎖

11月15日(火) 今夜の月もけっこう大きい

咳込みながら一日寝ていた。風邪薬の効果なのかすぐに眠くなる。
このまま、すぅ~っとあの世に行くのも悪くないなぁと思う。

週末に妻が風邪をひいたので、家事とかいろいろ一手に引き受けた。みそ汁の味がもうひとつ違う。シンプルなものほど味の違いがはっきりするが、風邪で味覚を困惑させているから、小言もでない。(笑)

週が明け息子が風邪をひいた。治りきらない風邪ひき人とひき始めた風邪ひき人、こりゃぁ家中風邪ひき人だなと思っていたら、ほんとうに全員が風邪ひき人となった。

あちらからゴホンゴホン、こちらからゴホンゴホン、見事なまでにゴホンゴホン。
誰が風邪をもらってきたの?そういえば里帰りした孫が風邪気味だった。
もう誰も風邪の元探しをしなくなった。

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2016.11.13

わたくしの写真考

11月13日 記念写真もずいぶん溜まったなぁ~

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旅やサイクリングの記念写真を壁に飾っているが年々その数も増えてきた。
長く生きてると記念の写真も増えるのは普通のこと。もっとも自分で撮ったものはほとんどなくて、友人が撮ったのをCDでもらっている。
あの時行ったのは何処・・・誰がいたっけ・・・アルバムにしまうよりも、少しだけ楽しい。

「写真考」などと書いたが、大袈裟な話でもない。カメラの技術などほとんど知らない。
自分で撮るものはほとんど風景とか自転車とか(笑)、そういうものなので、自分は写っていない。
友人らが気軽にSNSに旅の写真をアップして、その旅先の風景など綺麗なものも多いので、見ているだけで楽しくなる。みなカメラマンなのだと思う。

最近スマートホンのカメラ機能を知った孫がしきりにカシャカシャとシャッターを切る。自分の足先だけ写ってたり、半分顔の欠けた案山子だったり、名カメラマンぶりだ。
そういうふうに、撮った写真には撮った人の心理(無造作であっても)が働くもので、現実の一コマを切り取る写真は、その段階で現実から離れて一つの「画像」となり、物語にもなる。

ビルディングの写真があれば、何を撮ろうとしているのか、花の写真があれば何を撮ろうとしているのか、風景の写真は何を撮ろうとしているのか・・・
僕は写真を眺めるとき、その一点だけを見つけ出そうとしているような気がする。

記念写真は「その日、その時」の記録を焼き付けているし、「物」を撮れば、その物の状態を写しておくということに他ならない。
それは、それでいいのだと思うのだけれど、風景などを撮って、それがいつもと同じ風景だったとしても、良い出来栄えだと思う日も、ダメだなぁと思うときがある。
同じ風景でも同じに見えないのは、カメラという機器を操作する側に違いがあると思う。

何枚も撮って何枚も見比べてたった一枚のお気に入りがあればいい。
被写体などなんでもいいような気もする。所詮カメラの写真など、現実には勝てっこない。
現実を撮ろうとしても、現実はカメラには収まりきらないのが普通で、いわばある種の虚構だと思うと、であるならば、そこに写るものは撮り手の心情しか残らない。
だからこそ、丁寧に必死に撮ろうとする気持ちになる。

綺麗なものを撮ろうとする心や風光明媚な風景のすばらしさを撮りたい心や人の笑顔を嬉しく思う心や・・・
そういうものが強ければ強いほどに、やっぱり写真には表れると思うと、何枚も撮った写真の中で、そういう写真が一番心に残るのだと思う。
もっとも、それが人に伝わるかは別の問題だと思うが。

手軽に写真を撮ることが出来るようになった。その便利さが単なる記憶の記録でハードディスクにしまわれるのは惜しいと思う。
写真が人生の一枚になるように、自分にとっての「かけがえのない一枚だ」と、そう思えるような撮り方、見方ができるのが、写真の醍醐味だと思う。
なかなか難しいのだが・・・

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2016.11.08

こうえん、こうえん行く

11月8日(火) 立冬もすぎて

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冬将軍がやってくるという。
馬に乗って髭をはやし刀をふりかざしてやってくる。それとも厚い雲の上から怖い形相でやってくるのか・・・
シベリアの強い寒気だが、子ども心には、そんなイメージだったような気もする。

その冬将軍に歩調をあわせたように孫がやってきた。
こちらも冬将軍に負けず劣らず手強い。

「こうえん」から「こうえんに行く」と言葉も増え「おじいちゃん、こうえん行くよ」と、最近では会話が成立し始めた。

意思の疎通である。ということは、意志が通じるときも、通じないことも、ダメだよ、ということも、幾とおりもの会話となり、思い通りにならないときの泣きのアクションも大きくなる・・・これも成長。

公園の砂場が清掃で使えないので、大きな木のちかくで砂遊び。
砂がないので、カリカリほじると石にぶつかる。
なんどカリカリしても取れないので「大きな石~」と叫ぶ。しばらくカリカリとトライするが・・・
子どものしぐさというのは見てて飽きないものだと思う。

行き帰りの300メートルほど、孫とおもちゃのスコップなどを抱えながら歩くと、途中で息切れもする。
一つ成長するたびに、一つ歳をとったものだと実感するのである。

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2016.11.05

月夜の晩は

11月5日(土) トドと蓑虫と月と

月の満ち欠けはおもしろい。
新月が過ぎ南西のそらに三日月が・・・上弦の月。

吉田拓郎の「旅の宿」の三番。
♪~部屋の灯りをすっかり消して 風呂上がりの髪いい香り 上弦の月だったっけ ひさしぶりだね 月みるなんて~

夕食のあと、なにを思い立ったのか「ウォーキング行こうか?」と妻が言う。
「では行こうか」と、Ipodの音楽をかけながら出かける。

まあ、こういう時の曲は、妻が昔好きだったというフォークグループ「かぐや姫」。
で、見上げれば冒頭の上弦の三日月というわけで、月とかぐや姫のコラボ。
わたくしとしたら、思い立ったようなウォーキングが、コツコツと続いてくれればという、ほんの小さな配慮のミュージックなのだが・・・

ふと思いついたようなウォーキングだが伏線がある。
週末の土曜日の午後、ソファーでゴロリと横になっている妻に一言。
「あれれ、夏はトドで冬は蓑虫(みのむし)ですか~」

毛布にくるまった姿がなんとも蓑虫にそっくりだった・・・という余計な一言。
昨日はクレーマー電話に酷く疲れたと言ってたから、ちょっと言い過ぎだったか。
月夜の晩に久しぶりのウォーキングで気分転換になったかな。

 

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2016.11.03

暖房

11月3日(木) オイルヒーター

暖房が欲しいと思う季節になりはじめた、ことに朝晩は。

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寒いと思い着ぶくれしていたら「今からそんなのでは真冬にどうするの」と。

三畳半の納戸という「書斎」で使っていたオイルヒーターが10数年たち経年劣化して、コンセントが異常に高温になる。このまま使い続けると・・・

冬の暖のベストは1に南向きの暖かい部屋、2に羽毛布団やダウンなどの衣類、3に暖房器具、4に・・・暖かい鍋物とか、風呂とか、人肌とか。(笑)

暖房器具ならば暖炉とかペチカとか薪ストーブとか、当世家庭事情が許されない代物、家の空間全体を暖めるものが一番けど、豪邸もない。
エアコンなどは部屋を暖めはするが、どうにも情緒の無さが好きになれない。

昔ながらの石油ストーブ、ちょっと鍋やヤカン等をかけてというのは昭和の風情があるが、換気に困る。

オイルヒーターは長年使ってきて、電気代はかかるが、そこそこいい。ほんのりと部屋全体が暖まるのがいい。
10数年来の古いオイルヒーターを、さて処分となると粗大ごみでは出せない欠点もある。
オイルの摘出をしないと粗大ごみでは出せないのが玉にキズなのだ。

もっとも廃棄は十数年に一度のことだから、頻繁なことでもないが。(今回はガソリンスタンドでオイル処分をお願いして粗大ごみにした。)
古い家電製品の処分、もう取り扱い説明書もなくて、あちこち電話して聞きまくって、やっと処分して、もう火災死亡も心配なくなって、さてそこで、たった3畳半の部屋用にと、30センチそこそこの小さなオイルヒーターを「冬支度」したというわけだ。

トイレや風呂の脱衣所に適したものを納戸という「書斎」用に使うことになって、雰囲気としては、もう過去の遺物となった火鉢、あれをちょこんと置くようなものだ。
それに風呂上がりの寒い脱衣場での脳溢血などの予防にも応用できると・・・何年先の話やら。

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