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2016.09.01

母の過ごした時代(聞書き) ④

9月1日(木) 「敗戦」前後

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8月15日は「終戦」記念日だが、太平洋戦争で亡くなった軍人、民間人は310万人と言われ、そのほとんどが敗戦末期だという。広島や長崎への原爆投下も、もう少し早く日本が降伏していれば避けられたし、満州からの悲惨な逃避行も避けられたかもしれない。

昭和14年に開拓団に入植してからの母は4人の子の出産をしている。うち2児は現地で死亡したが、その6年間は出産と子育てであったといえる。

昭和20年の敗戦の年は父32歳、そして母は29歳という年齢にある。
戦争末期、日本の関東軍はその主だった部隊を南方戦線へと移動し、手薄になった「関東軍」を補充するためにとられたのが「現地召集」であり、いわば開拓団のほとんどの男たちは「根こそぎ召集」となった。

20年5月20日、父の出征の日の記録が残っている。敗戦の3か月前である。
開拓団からは敗戦までに、男の団員14人が召集され、残ったのは老人婦女子69人という、文字通り開拓団には「女、子ども、老人」という現況だったという。

69人の開拓団のうち、母と長女とこの年の6月に生まれたばかりの次男(長兄)の3人が含まれている。父は生まれた子(長兄)を見ることなく出征しており、母はどんなにか心細かったことだろうと思う。
8月に入り、9日にソ連が「日・ソ中立条約」を破棄し、満州へと進攻を始める。14日にポツダム宣言受諾し、15日に満州事変以来の15年戦争に終止符がうたれた。
このソ連の侵攻と天皇の降伏のニュースも開拓団ではラジオを通して知っていたという。

「しかし、どこからも何の指示も連絡もなかったし、中国人部落にも何の変化もみられなかったから、軍は負けても開拓団には直接影響のないものと思って、さほど心を痛めることもなく、豊作が予想された農作物の手入れに余念がなかった」(長野県満州開拓史・各団編)
満州に入植した開拓団の敗戦前後の状況は、その地理や現地情勢などによって大きく異なる。
ただ、満州の邦人とりわけ開拓団員にとって「守ってくれるはずの関東軍」の主力部隊はすでにおらず、にわか召集の開拓団員らによる部隊が中心だったという事実すら知らなかった。

軍関係者や満州鉄道社員家族などは、いち早く避難しているが、開拓団にはほとんど事実が知らされていなかったことが、その後「悲惨な逃避行」に拍車をかけている。
ソ連侵攻で軍は満州の3分の2の地域の放棄を覚悟し、それでも現地召集部隊を配置させることで、対ソ防御としていたことになる。

開拓団は軍からも見捨てられ、戦況がもたらすものすら知らされず、だからこそ「棄民」としてのその後を歩むことになる。

母の敗戦前後の話に戻ろう。
8月25日頃にソ連の兵士ら7~8人が家宅捜索の名目で開拓団に来てきて目ぼしい金品を略奪している。その後9月の初めに付近の中国人が大挙して押しよせ農作物を大車に積んで引きあげた。
9月5日、団では状況の悪化をみて死をも覚悟して家畜や家財の処分をしている。
9月9日、午前、何百人もの中国人が押しかけて略奪がはじまった。

「金はみなとりあげられが、着ているものは剥ぎ取られなかった」(各団史)。無一文になった団員らは夢遊病者のように開拓団を後にしていると記されている。

ここから凄まじい「引き揚げ」が始まるのだが、この時について母はこう話してくれた。
「奥さん、今日は満人が襲ってくるから危ないのですぐに家をでなさい、と開拓団で働いていた朝鮮の人から教えられた。慌てて子どもを連れて近くの畑のなかに身を潜めていた。隠し持っていた金品を畑の土に埋めて、後でとりに来ればいいと思ったけれど、そんな暇もなく着の身着のまま、開拓団を出ることになった」

という話だった。おそらく9月9日のことだろうと思われる。
教えてくれたのは朝鮮人の女性だったと言ってた記憶だが、「団史」によると冠婚葬祭や贈答、電灯施設や医薬品の無料配布など比較的友好的な関係が築かれていたとあるので、そうしたことが好意的な「忠告」となったのだと思われる。

以前は地主であった中国人、その小作として働いていた朝鮮人、地主が日本人にとって代わり「開拓団」になったということである。
母の幼児と生まれたばかりの子の二人を連れた「引き揚げ」が始まる。
父は3か月の兵役の後、武装解除されシベリア抑留されるのだが、その具体的な話は父からほとんど聞くことはなかった。
(続く)

【関連記事】
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母の過ごした時代(聞書き) ②生まれ故郷
母の過ごした時代(聞書き) ③大陸の花嫁
※文中に不適切な表現がありますが、当時のものとしてご理解ください。

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コメント

最初の地図で「満州ってこんなに広かったのか!」と驚きました。「軍関係者や満州鉄道社員家族などは、いち早く避難しているが、開拓団にはほとんど事実が知らされていなかった」のが、ひどいなぁ・・・今の政府でもありそうなことですが・・・

父は最後は特攻隊員でしたが海軍で彩雲という偵察機に乗っていた事が自慢でした。特攻隊員志願者を募る直前、「志願しない奴から行かされる」という話が回ってきたそうで、そのためかどうか分かりませんが、「志願する者は一歩前へ」と言われ前に出たそうです。厚木航空隊で最後の一人まで戦うとした反乱グループにいて逮捕され、戦後しばらく刑務所暮らし。一方母方祖父は陸軍で「沢山の部下が死んだ」と戦争の話をしたがりませんでした。親族の集まりで父が酔って軍歌を歌うと「歌わないでくれ」と涙したことを覚えています。最後は駐蒙軍にいて敗戦からかなりたってから帰国したと聞きましたがやはりどんなことがあったのかは一度も聞いたことがありません。

間宮さんこんばんは。
「軍は負けても開拓団には直接影響のないものと思って」僕はここの部分を読んで驚きました。日清日露戦争の戦役、戦勝地。「満州」は日本の飛び地だと誰もが信じ込まされていたのですね。だからもちろん「植民地」という概念もない。無知の恐ろしさ悲しさだと思いました。

杉山さんこんばんは。
皇国日本の軍人という強い思いがお父様にはあったのですかね。
最後は駐(満)蒙軍にいらっしゃったのならシベリア抑留されたのでしょうか?。武装解除後の日本軍人を帰国させないで現地で使役させてもよいと軍大本営関係者がソ連軍に依頼したという文書が明らかになってきました。皇国日本の維持のためには軍人も捨て石にされたということですね。

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