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2016.09.03

母の過ごした時代(聞書き) ⑤

9月3日(土) 棄民としての逃避行
満蒙開拓団についての本はこれまで何冊か読んできた。引き揚げ(逃避行)過程の悲惨な体験・手記など、涙なくして読めないものも多かった。
読んでいるとどうしても母の話してくれた言葉の断片と重なって、いったい「満州開拓」とはなんだったのかという思いも深まった。

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そうしたなかの一冊がこの「満州移民-飯田下伊那からのメッセージ」だった。歴史を知ろうと思うにあたって、母の過ごした時代、「満蒙開拓団員」であった具体的な事実をわかる限り調べてみようと思い立った本でもある。

1945年9月9日着の身着のまま家を出た母と2人の子を含む開拓団員らは夜も遅いからという中国人の言うまま、何も残されていない自分たちの家に引き返し、眠れない一夜を過ごしている。

翌日、開拓団員らは吉林市の外れにある黄旗屯の満鉄の鉄道工場を目ざして歩き、一団ごとに苦力小屋(労働者宿舎)に入り、一人2枚の「むしろ」を使って寒さをしのいだという。

ところで、この黄旗屯の満鉄の鉄道工場がどこにあるのか。
数年前、名古屋の大須の骨董市で「満州国詳密大地図 昭和16年6月発行」復刻版が古書とともに売られていたのを買っていたので、吉林市の西南、松花江の西にある「黄旗屯駅」だと分かったが、はたして開拓団からどれほど離れた位置なのかはわからない。

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【満州国詳密大地図 昭和16年6月発行」復刻版・吉林市】
「ソ連兵は毎日やって来て、物を探し女を出せとうるさくつきまとった」(長野県満州開拓史・各団編)
ここには9月の末頃までいて、立ち退くように吉林市公安局から迫られる。

「ソ連兵が来ると女は連れて行かれるので、女たちはみんな髪を切りボサボサに男のような身なりにして、顔には炭をぬって黒くして隠れていた」と当時のことを母は話してくれた。
満州に進攻したソ連軍の前線部隊は服役者の部隊だと以前聞いたことがある。残された団員69名のうち28歳の母は若い方であり、乳児、幼児を抱えて、不安な日々だったろうと思う。

黄旗屯の満鉄の鉄道工場を追われ厳しい冬も目の前となり、このままでは越冬はできないと、各団員らは分散して知り合いの中国人らを頼って吉林市に行くこととなる。行くにあたっては手持ちの金を頭割りで分けたと、開拓史には載っているが、もちろん母からは聞いていない。

先日、満州開拓団員だった父母の話を知り合いの医者のT先生と話した。
T先生も満州国の首都新京から赤ん坊のころに母に抱かれて引き揚げている。
そのT先生が仕事関係の機関紙に手記を載せてみえるので抜粋して転載しておきます。

『 なぜこのように放置された日本人が多く出たのか?それが1993年に明らかになりました。敗戦直後、日本軍大本営の特使らが「武装解除後の日本軍人を日本に帰国させないで、現地で使うこと」「一般居留民は国籍変更も可、現地土着させ」とソ連軍に依頼していました。
この方針は戦争末期、日本の敗戦が迫る中で、ソ連への戦争終結工作の内容として、天皇を含む日本政府により決定されていた「国体維持のために満州の日本人をそのまま満州に住居させ、国籍の変更も可とした」と一致するもので、今も残る中国残留孤児の苦しみをつくりました。』

まさしく、満州に取り残された軍も開拓団員も居留民も、日本から捨てられた民、「棄民」だったということなのでしょう。
 
(続く)
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