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2015.12.04

あさに、ほろり

12月4日(金) 「情」の話

朝晩の寒さも増してきて、朝はヒーターを入れ腰をあぶり・・・なんという年寄りじみた朝だこと。
腰をあぶり血液の循環を良くし「あさが来た」にチャンネルをあわせる。7時30分と8時の二回を「予習と本番」と叫んでいたら妻に笑われた。

「あさが来た」視聴率も悪くないという、毎回ほろりとさせられるシーンが盛り込まれ、それが好視聴率につながっていると思う。

女傑のように猛進し、さまざまな難関を切り開くあさ、貧乏のドン底から這い上がろうとするはつ、陰に日向に旦那を支える姉と旦那を心から慕う妹という、人情物語だと思う。

物語の筋は別として、さほど目新しいものでもなく、定番の人情物語、予定調和の流れ。
しかし、このありきたりの人情も行き先が見えてしまう予定調和も、見る側に一つの安心感を与え、どこか心の琴線にふれてしまうドラマであることは間違いない。

毎回うるうるとしながら感情移入の得意な人も、感情移入の下手な人も、こうしたドラマが好きであるのは何故だろう?
日本人は昔から、どこか秘められた、言葉にしないしぐさや心もように、枯葉がひとつ落ちる風景に、雪がしんしんと積もる風景に、ほろりとする民族かなぁ~とも思える。

頑張る姿よりも、頑張って頑張って頑張った最後に、ほんの少し明るい朝がある、大成功物語というよりも、「頑張って」その辛苦との対比で「朝がくる幸せ」みたいなもの。

その真逆が演歌に代表される「報われぬ恋」「報われない情念」だと思う。
報われない(あるいは報われる一途さ)の中に、何か真実のようなものを見出し、ほろりとする。本質的には同じところにあるのだと思う。

そうしたものが好きな民族性なのかも知れない。水戸黄門も同じ立ち位置だと思う。
そうした気分や感情というのは、けして「革新的」なものではなくて、むしろ「保守的」なものだと自分は思っている。

それでも、朝、テレビを見ていて「ほろり」とするのは、使い古された「情」であっても、やはり人間的な感情の綾とでもいうものだろうか。

「情」にはいろいろあるが、人情の綾の俊敏な感受性が育っていればいるほど、古いもののなかに脈々と流れる、何か人間的なものを探しだし「癒される」瞬間でもある。(癒しという言葉はさほど好きではないが)

その瞬間を感じる人もいれば疎い人もいる。どちらが正解ともいえないが、人と人との表現されえないところでの「こころ模様」に機敏であるかどうか。
自分に対しても他人に対しても、その心の襞(ひだ)に素直に入って行ける人が、自分は好きだというだけである。

人の感じ方はほんとうに千差万別なものだと思う。

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コメント

芝居やドラマで日本人は基本的に「村芝居」を求めているのではないか?「分かり切った人物」が演じる「分かり切った筋立て」で「分かり切った所で泣きたい」のである。

歌舞伎などそれの典型ではなかったか?

投稿: マミケン | 2015.12.08 17:05

歌舞伎も村芝居も見たことがないですが・・・
友人に父母と祖父母が地方回りの一座の団員だったという方がいました。
国定忠治とか岸壁の母などを出し物にしていたのではないかと思っています。そういうものを求める風土というか人々がいる限り、その「芸」は形を変えて綿々と続くのでしょう。なぜそれが求められているのかはまた別のところにワケがあるのだと思っています。

投稿: ちょっと一休み | 2015.12.08 22:52

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