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2015年6月

2015.06.30

梅雨どきの旅

6月30日(火) 生駒山の紫陽花ハイキング

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【あじさいの散歩道】

梅雨のこの季節、ちょっと出かけるとなると、空模様とにらめっこになる。
雨が降る・・・かも知れないし、梅雨も一休みしてくれるかも知れない。

そんな梅雨どきは、しとしと雨にうたれる紫陽花の咲く古寺や、小京都の古いたたずまいの喫茶店などで、格子越しに行き交う旅人を眺めたり・・・。
そういう旅ならば、梅雨の季節のちょっとした情緒だと思う。

あじさい寺を目指す予定を変更して、先週末に奈良と大阪の県境にある生駒山に行った。
ここは「あじさいプロムナード」で知られたところで、プロムナードと言われるだけに、くねくねと曲がった散歩道の両脇に25000株のあじさいが咲いている。

天気は曇り、空には怪しい黒雲が広がっていたが、少し降られた程度の一日だった。
忙しい日々の合間の息抜き、命の洗濯、ストレス解消・・・まあ、理屈はいろいろあるけれど、歩くこと9キロほど、道に迷いながら生駒山のてっぺんから大阪市への下り道のハイキングでもあった。

そんなわけで、あじさい写真も撮ったし、弁当も食べたし、峠の茶屋で抹茶のティタイム過ごせたし、けっこうおもしろい一日だった。
ということで、ここからはスナップ写真の展覧会(笑)

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【ガクアジサイ】

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【ミセスクミコ】

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【先行く人・・・花の名前じゃなくて】

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【竹林、都会ではもう見られません】

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【暗峠の石畳、これでも「国道」なのだから驚きです】

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【暗峠の茶店で抹茶をいただいて、コースで唯一の茶所】

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【棚田もあったりして】

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【枚岡山展望台から眺める大阪市街、遠くにあべのハルカスのビルも】

やはりねぇ~、日々のコンクリートとアスファルトの暮らしから離れて、自然の中で一日過ごすのは楽しいものだけれど、ほんとうの自然ってのはもっともっと厳しいものだろうと。
それでも、ぬかるんだ道を歩き、竹林を抜け、雑木林を歩んだ一日は、ちょっとだけ自然に溶け込んだ気持ちになるものだと思う。

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2015.06.25

車選び

6月25日(木) 紙とディスプレイ

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紫陽花の茎のもとに、一匹のアゲハチョウが死んでいた。
まだ羽もきれいだし、死んで間もないようだが、死因はわからない。
この花壇には毛虫もいっぱいいたし、蝉の抜け殻や幼虫もいたから、せめて死ぬときは生まれ故郷の土に帰りたいという、蝶の思いだったのだろうか。

10年ほど経つ妻の軽自動車も、あちこち傷んできて、そろそろ買い替えたいと言う。
買いたいのなら自分であれこれ調べたり探したりすればいいものを、パンフレットを取り寄せてくれという。

ちょっと面倒なので、しばらく知らんぷりをしていたら「ちっとも、その気になってくれない!」と文句も言われるので、ご自分の車でしょ~と腹のなかでは思いつつ、ネットなどで調べてみた。

ディスプレイ越しの写真というのは、なんともまあ平面的で質感のないものだろうと、つくづく思う。
冒頭の紫陽花の写真だって、ほんとうはもっと質感が感じられるものだけれど、こういうところにもネットの世界の無機質感が表われていると思えてならないが・・・

友人の自動車屋さんに頼んでパンフレットを取り寄せてもらうが、最近はパンフレットよりもネットで購入車を調べることのほうが多いので、昔のように「パンフレット」は重鎮されないようだ。

しかし、たしかに「パンフレット」の写真のほうが現実感が湧いてくると思うのは、やはり一昔前の感覚なのだろうか。

まあそれは良しとして、選び方が問題だ。
「可愛い車がよい、カッコ良いのがいい」という、見た目がよければ、あとは四の五の言わないというのが基本らしい。
あとはCDが聞ければ十分だと、いたってシンプルな発想は、自宅と駅までの数キロの往復と買い物程度なので、可愛く格好よければ問題なしだそうだ。

ある意味、たかが軽自動車だからという、執着心のなさなのだろうが、それでも見た目は気にするらしい。
車など乗れればよいという人もいれば、とことんこだわる人もいる。
人間の思考というか嗜好というものは、可笑しなものだし、それも多様性のひとつということだろう。
それにしても、執着心があるのかないのか、よくわからない車の選び方だ。

問題は金額にある。
十年前とはいささか値段が違う、その違いに「う~ん」と考え込む。
考え込むのは妻のほうで、予想よりもやっぱり高いのだ。
僕は対岸の火事のように、物価も上がってるし、税金も上がってるしと思うが、ちょっと可笑しく思えてくる。
「う~ん」と唸って「やっぱり、もっと安い車じゃないとだめだろうか」とあきらめ顔。

我が家の車だけれど、他人ごとのように思われて、やっぱり可笑しい。
あまり可笑しいので、じゃあ予定の金額を超える部分は、コツコツと貯めた自分の財布から出してあげようか?というと、少し顔もほころぶ。

ほんとうは同じ家計のことだから、変りはしないけれど、なんとなく車の金額と欲しい車のあいだの微妙なバランスがとれたようだ。

もう、これが最後の車になるかも知れないし、よく頑張って働いているので、気持ちよく乗れる車が一番なのだろう。
あまり理屈は必要の無い車選びという話である。

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風の伝

6月24日(水) 久しぶりに・・・

ブログの更新。
試合の終盤にセットアッパーもクローザーも打ち込まれ、もう悔しいとか残念というよりも、レレレのレと笑うしかない中日×ヤクルトの本日の試合。「負けに不思議の負けなし」と言った野村克也さんの言葉を思い出す。
「修正して次はがんばります」ということでいいんでは・・・とはいうものの。

久しぶりに会った友人の話では、過っての同僚がメンタルで休んでいると。
風の便りという、人づてに伝わる消息・様子だが、歳とともに、こうした風の便りはちょっとせつない話が多くなる。

もっとも、たまに会う旧知の友らとの会話も健康の話題が増え、「健康のために○○をしてる~」という明るい話よりも、「膝の具合が、治療が・・・」といった、加齢にともなう凹み話が多くなるものだ。

風の伝、風の便りというのは、なぜに歳とともに「せつない」話が増えて行くのか。
人生の峠をこえて、もう下り坂ばかりだからなのだろうか・・・
いやぁ~そんなはずはない。
良い便りというのはただ風に吹かれにくいというだけで、あちこちに散らばってる。
便りがないのがよい便り・・・ということだろう。

人生、幸せってなんだろうと、ちょっと考え、ああ、父の日に娘から届いたプレゼント。
そういうのが幸せの中身なんだろう、生きていればこそとしみじみ思う日。

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2015.06.12

雨と窓

6月12日(金) 軒(のき)も庇(ひさし)も無くなって・・・

紫陽花の花が日ごとに大きく育っている。
ポツポツと降る雨に葉表のカタツムリでもいれば、梅雨の風情は満点なのだが。
そのカタツムリ、最近ではとんとお目にかかっていないなぁ。

突然の大雨だった。
梅雨というより豪雨という凄まじさに、あわてて家中の窓を閉める。
湿気が多いこの季節は雲間から陽がさすのに合わせて窓という窓を全開し、出来るだけ風の通り道を確保しているので、突然の雨には閉口する。

軒も庇もない住宅が増え、窓すら申し訳ていどの小さな家が増えている。
住環境の変化は窓などプライバシーと防犯の対象となって、エアコンがあれば窓はさほど気にしない構造になったのだろう。

そういう我が家の窓といえば、東西南北出来る限り採光を確保し風が抜けるようにと数はおおいが、いかんせん庇が小さい。
西と東の窓は敷地の関係でほとんど庇もついていないから、突然の雨にはあわてて閉めることになる。

やっかいな事だけどしかたがない。これをちょっと防ぐ手立てとして、日よけのシェードを吊るしている。
日よけのシェードだが、強い雨降りにはけっこう一時しのぎにはなるものだ。

屋内と屋外の境目。
軒も庇もこうした境界を「あいまい」にするものだ。
屋内であって屋外のような存在は土間というものもその類である。

歩いていて気がつくが、突然の雨に出くわしてちょっと避ける住宅の軒などというものがない。
運がよければオープンのカーポートをちょっと借りてという具合である。

家というのはもちろん時代とともに変化するが、こういう自分と他人を隔てる「緩衝剤」のような造りは必要なくなって、きっちりと区別することが普通になった。
ある意味、「遊び」のない暮らしのような気もする。

敷地をフェンスで囲い、軒も庇も土間も、時代劇や時代小説の世界になった。
軒先でちょっと雨宿り、傘のない二人の不思議な出会い・・・などという情景など、昭和の時代の遺物なんだろう(笑)






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2015.06.08

田植えと梅雨入り

6月8日(月) さっそく雨音が聞こえてきた

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【田植えの後、田んぼに建物の影も延びて】

名古屋も梅雨入りしたので、これから例年どおりならば7月20日ころまでは梅雨空の日が続くと思っていたら、さっそく雨音の洗礼だった。

梅雨に入る少し前、小学生たちの田植えが行われ、ちょっと不揃いの苗の列ができあがり、夜になると蛙の声も一段と賑やかしい。

雨の日が続く前に花壇の樹木の地中に残った根っこの掘り起しに精をだした。
太さ17~8センチほどに成長した根が、深く食い込み素人作業の大変なこと。
電動の丸鋸では大きすぎて入らないので、しかたなく手鋸とノミで削るように作業しても、半日かけて一本が精いっぱい、それもブロックに食い込んだ根には手を焼く。

コツコツと3~4日かけて、なんとか完了したが、手鋸では限界もあり結局ホームセンターで電動鋸を買う羽目となった。
無理な体勢でブロックの壁とも格闘した末に、腱鞘炎のような右手と腰痛と・・・
いやはや、いつまでも若いと思うな我が体、ってところだ。

さて梅雨に入り、ジメジメしてすっきりしない日が続くと思うと、気も滅入るところだが、この梅雨の時期をどうやって楽しく過ごすのか?これは毎年思うところ。

合間の晴れた日を自転車で、一日読書三昧、溜まった生活臭を取り除く片付け・・・
雨降る「あじさい寺」もいいかも知れない。
などと、愚にもつかない知恵をだしながら変わり映えのしない日々を過ごしていると、そのうち暑い暑い夏のカンカン照りがやってくるのだろうなぁ~。

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2015.06.07

今年も尾張西枇杷島まつりに行ってきた(2015年)

6月7日(日) 二十四節気の芒(6日)

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【からくり人形の動きもみものの山車】

歳時記カレンダーを見てると日本の四季のもう一つの世界に迷い込んだような気がしてくる。
日常の慌ただしい暮らしとは、ちょっと違った四季があって、例えば「芒種」。

「芒種」などという言葉はほとんど死語にちかいが、意味は「イネなどの芒(のぎ)のある穀物を植え付ける季節」というらしいが、この「芒(のぎ)」というのは、殻にある硬い毛を指すらしい。

そういうのを辞書でひきながら、もう日常では使われもしない言葉にも、ちょっと風情を感じると、なんだか日本の四季っていいものだと思ってしまう。

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【美濃路の歴史が描かれた絵提灯(だと思うが)】

この週末は愛知県清須市の尾張西枇杷島まつりに行ってきた。
もう毎年の恒例行事のように行き、恒例行事のように「夏の始まりだ!」と実感するのだが、もちろん暦の上では夏の季節は始まっている。

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【街道には古い町家も残る、露天との対比がおもしろい】

ここの祭りは絢爛な山車と花火が見応えがあるので、デジカメを片手に撮ってると、毎年々々、同じような写真が記録に残る。

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【「屋根神さま」信仰は尾張特有のもの】

「祭り」というのは、そういう繰り返しの歴史なので、それで良いと思うが、山車ひとつとっても1800年の初めころに作られたものだから、災害にも戦火にもめげずに、今日まで残り、こうして祭りの舞台に登場しているのが、すばらしい。

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【山車には、はっぴ姿の男たちが似合う】

旧美濃路街道の狭い道の両脇に露店が並び、行き交う人、人、人の波は、ときにして立ち往生するほどの混雑ぶりである。

そういう人と人が肩をぶっつけあいながら歩く雰囲気は、やはり祭りらしいし、まだまだ昔の面影の残る古い町屋や、そのひさしにかかる「屋根神さま」なども、祭りを演出する風景だと思う。

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【ガード下の輪投げ、昔も今も子どもには人気があるなぁ~】

夕方から出かけ、それ自体は珍しくもない露天を眺めながら、夕食代わりの串カツや焼きそばやタイヤキなどを口にするが、「夕食はまつりの屋台で」となれば、飯の用意もしなくてよい・・・というのが、カミさんの喜ぶところかも知れない。

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【西の空に茜色がかかり、庄内川の花火会場へと】

ドカン!と花火の空砲が鳴りはじめる頃には帳も降りはじめる。山車の提灯に明かりがつき、ますます祭りの雰囲気は盛り上がる。

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【すっかり日が暮れて枇杷島橋から見る花火、去年も同じ・・・】

歴史と文化、日本の夏を彩る祭りらしい祭りだとおもう尾張西枇杷島まつり。

 

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2015.06.02

根深い・・・

6月2日(火) 久しぶりのフル出勤(ボランティア)だった

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【ちょっと掘ったが、地中深くに根をおろしている】

退職や長期の休暇などで一日働く環境から遠ざかると、ちょっと気張らないと元のリズムに戻すのは大変だ~と思う。
ましてや退職後となると、気持ちも体力もぐっと気張らないともたない。
が、過って働いていた頃を思いだし、疲れるけれど気分は悪くない。

こういう場合、働く感覚が「根深く残ってる」という言い回しはあまり使わない、対立感情が根深いとか、気持ちや欲望に根深さがある・・・と、否定的なものの言い回しが普通で、根が深いというのは、容易に取り除けないということ。

玄関先の幅45センチほどの花壇に植えた樹木が延びて、いよいよブロックを傾けさせるほど成長したので、思い切って伐採した。
10年ほどで細い木も10倍ほどの太さになって、日々目に見えぬほどの成長が歳月をかけて、変貌するということだ。

さて、その伐採した樹木を取り除こうと土を掘り起こしたら、縦横無数に根を張ってびくともしない。
「根深い」のである。見えないところで10年間、地中に深く根をおろしている。

土にふれたり掘り起こしたりする機会も少ないので、この根をおろした光景にふだん何気なく使っている言葉、「根深いものがある」という意味をあらためて知る。
土を堀だし地中におりた根を取り除くのには幾月かかかりそうだ。

何もない原野を開墾し農地を開拓した昔、人力で耕すのはほんとうに苦労したに違いなく、そうして開かれた土地は何物にも代えがたい喜びだったのだろうと想像できる。

さて、明日も早起きして出かけなければ。
労働というのは本来は楽しいはずなのだが・・・

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