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2013年12月

2013.12.28

師走の風景④

12月28日(土) 大掃除 

掃除とか洗濯とか片付けとか、ときどきそんな記事を書いている。
といっても根っからの綺麗好きかといえばそうでもない。
日頃の小掃除はチョコチョコやってるが、少し気を抜くゴミ屋敷然としてくるので、しかたなくやっているというのが本音のところだ。

整理整頓術などを、この季節のテレビは主婦向けに取り上げている。たとえば頑固な油汚れには・・・、収納方法は・・・、整理整頓の極意は・・・といった具合である。
そういう番組を「ながら見」して思うのは、日常生活というのは汚すこと、散らかることとの格闘だなぁ~と。

食卓に新聞やチラシがあり、台所に残飯物が残り、床にはスーパーの袋が並ぶ。
出した爪切りが放置され、菓子の袋だって出しっぱなしになっている。
全部ゴミ袋に詰め込んで捨ててしまいたいとすら思うが、あまり激しく主張しても「病的」とすら思われかねないから、控えめに「片付けようよ~」と言いつつ腹が立つ。

というふうに、放置すればエンドレスに「腐女子部屋」然となるから、仕方なく片付けている。
だから、客が来るとなると大慌てである。あちらの部屋に物を押し込んで、こちらの隅に物を積み上げて・・・ということになる。

何もしない夫と子どもらの汚部屋をあくせく掃除しながら片付ける「主婦感覚」が実によく理解できる。
飾り物は放置すればホコリが溜まる。土産の置物などは「ダニの巣の素」と言いたくなる。

こういうことは退職してからいっそう気になってきたものだ。つまり家に居る時間が多くなれば、夜の蛍光灯のもとでは気が付かなかった「汚れ」が、無性に気になるのだ。

潔癖症というのがあるが断じてそうではない。
ごくごく、普通の掃除と整理整頓があれば何も文句は言わない。「普通でない」と言っても、「散らかるのは生活感よ~おほほ~」という感覚には歯が立たない。
まあそういう日頃だから、いきおい年末や週末には「ゴミ片付け週間」となるのである。

生活することよりも「整理整頓」ばかりが気になると、こころの病の範疇になると理解した上で言うのである。

「断捨離」の精神を発揮して物に依存しないこころの豊かさを大事にしたいと、カッコよく言っても事態は変わらないので、「革命だぁ~」溢れる物のすべてを袋に詰め込んで、全部捨ててしまえ!と、いささか非現実的な気持ちになるが、よくよく考えれば、そうして何もかも捨てた後に何が残るのだろうか?
きっと今年と同じように来年も、再来年も「片付けろ~掃除しろ~」って言ってるに違いない年の瀬の大掃除なのだ。

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2013.12.27

師走の風景③

12月27日(金) 年賀状

LINEやメールの「あけおめ」が元旦の早々に集中するので自粛して欲しいという。
リアルタイムが身上ともいえるこうしたツールを使って除夜の鐘が鳴り終わる頃に「あけおめ」と打つ心情はよくわかる。
そういうツールなのだから、元旦の夕方や夜では、きっと乗り遅れる心境になる。

年賀状を印刷ソフトで作って出すのも、実はこうしたLINEやメールとそれほど大差はないと思うので、「あけおめ」という意思が伝わるって意味では、なるほど携帯端末のほうが「楽ちん」なわけだ。

年賀状を25日までに投函すれば元旦には配達されると知り、25日のギリギリに書き終えて・・・いや、正確には作り終えてポストに入れた。
昨年の年賀状を見返し、あそことここに出して、この人は喪中の案内が来ていたなぁ~
この人はもう今年はお終いにしようなどと、顔を思い出してみるが、昔のままの面影しか浮かんでこない人もいる。

年賀状の「打ちきり」にはいろいろ苦慮するのも小市民。
出さなかったが相手から年賀状が届いた、返賀をだすか出さないかを考える。
出さないのも失礼だし、出せば来年以降も続くだろうが、もう「打ちきり」でもいいか・・・

こころを鬼にしてぐっと我慢をしなければ、義理で出す年賀状は永久に続きそうだ。
立場を変えれば、出した人から松の内の終わり頃に年賀状が届く。
ふむ、忙しくして出し遅れたんだろうな?、まてまて、もう「打ち切る」つもりが仏ごころで・・・

年賀状を出す出さないは相手と自分の心情の計りあいのようなところがある。
僕はいずれ消えるものは消えるし続くものは続くだろうと、自然にまかせているので、出しそびれるという不都合もあるかも知れない。

「あけおめ」を情報ツールで済ますことができるのは若者たち。
そんなものを使いこなせない世代は年賀状と、そういう新年のご挨拶事情なのだろう。
年賀状は久しく会っていない人との一年に一回の安否事情確認のようなもので、「謹賀新年」もさることながら「今年も年賀状が届いた」という意味が大きい。

メールやLINEでは確実に親交がある人に限定されるから、「今年も元気に過ごしてるか」などは考えないので年賀状の意味の一つが欠落してるとも言える。

さて、今年も下手な絵と文を書いてみた。
「下手なものでも堂々と」というところに僕の年賀状の個性があると自己解釈しているので、手間ひまだけはしっかりかかった。

下手には下手の良さがある!と信じて、写真やイラストが入った新年にふさわしい年賀状に交じって、「おやおや、ふ~ん」となってくれればいい。

というわけで毎年、自分が一番喜んで面白がって作っている笑門来福の年賀状の心なのだぁ~。

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2013.12.26

師走の風景②

12月26日(木) 忘年会

今日は忘年会があった。
だからどうしたというわけでもないが、退職して激減するのが忘年会。

仕事がらみの半ば義理のような忘年会はほとんど無くなって、まあ、ある意味「気のおけない仲間たち」との忘年会だけが残るので、本来の姿に戻ったといえばそう言える。

若い頃は、この忘年会というのが、ほとほと苦手なものの一つだった。
先輩諸氏、上司、酒のひとつも注ぎに行け!という見えない視線にかられ、時には「見知らぬ職場の人」と隣り合わせになると、会話がもたないなぁ~という具合であった。

忘年会が職場のコミュニケーションとして暗黙の「決まり事」であった時代から、そういう義理の宴は義理で済ますのが、現代の忘年会事情だろう。
そんなものよりも、同世代の仲間内でほどほどの人数で気兼ねなく「忘年会」というものが・・・これは内輪の「飲み会」の師走版ということだろうが、忘年会の主流になってきたと思う。

不思議なもので歳とともに義理の忘年会でも、それなりの愉しみ方が身につくと、それなりに面白いものだとわかってきた。
さすがに「俺の酒が飲めねえか」といった、酒癖の悪い上司、先輩もパワハラを恐れてかいなくなったということもあるが。

いやいや、そういう無理強いは学生やクラブ活動の世界に遺物のように残ってるかもしれないが、現代の若者たちはこういう義理と組織のしがらみのなかでも、実に上手に立ち回ることができるものだと、実は感心もしている。

集団のなかで孤立することが「村八分」の遠因、「いじめ」の要因になることを、本能的に察知する能力が高い・・・そういう時代を普通の事として過ごしてきたのだろう。

競争社会のなかで生き抜く術だと思うのだが、人間なんて元来が「多様性を持った」ものだから、職場に溶け込めなくても、気の利いた台詞の一つも喋れなくて、片隅で時間が過ぎるのをじっと堪えている、そういう健気さのほうに、僕は親近感を覚えるものだ。

そういうことも、ある程度歳を重ねて知ったものだと思う。
7つも8つも手帳に記入していた「忘年会」が1つ2つに減って、ちょっと淋しいような、「やれやれ」とほっとしたような複雑な心境の歳になったと思う。

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師走の風景①

12月26日(木) 和太鼓

師走だから忙しいというわけでもなく、かといって暇でもない。Img077しばらくブログも更新していなかったので、誰に言うことでもないが、ちょっと記事を書いておこう。

毎年この季節、「和力」という伝統芸能の公演を観に行ってる。
いつもの題目は「暮れのうち逃げ」ってわけで、師走も押し迫ったまさに「打ち逃げ」で、ネーミングも実におもしろい。

和太鼓、笛、琴、三味線、舞にお囃子と日本の伝統芸能を堪能できるから、師走の風物詩らしくて、なんだかこれを観て一年が終えるという感じだ。

12月20日の晩、今年はちょっと趣向が変わり、和太鼓をたっぷりと楽しめる催しだった。
題して「凸拍子(とつびょうし)」と、またして楽しませてくれるネーミングだった。

いろんな伝統的な楽器があるが、シンプルにして力強く、かつ繊細な和太鼓が僕は一番好きである。
会場の空気が波打ち、ズンズンというかドンドンというか、体の芯まで震えてくる和太鼓の調べは、体感的にも心地よい。

そういう和太鼓の激しさだけじゃなく、トトトト・・・という繊細なばちさばきや種類の異なる和太鼓をリズミカルに打ち分けるのも、じっと息をひそめて聞き入ってしまう。

今年は妻が忘年会で、お義母さんと観に行った。
娘が和太鼓部で打っていた頃に友だちらと観たのは7~8年ほど前だったろうか。
そんな頃の懐かしさも思いだすが、それ以来、こうしいて師走の頃の僕にとってのイベント、風物詩となっている。


 

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2013.12.17

焼き芋

12月17日(火) この季節にうまいもの・・・

寒くなったこの季節に美味いものに「焼き芋」。

P1080714

子どもの頃には「ふかし芋」を母親が作ってくれたものだが、焼き芋は近頃「石焼き芋~芋、芋~♪」という引き売りの声もあまり聞かなくなった。

スーパーのレジ横に「石焼き芋」が並べて売られている。
買い物の最後に一袋手にして、妻のレジ待ちのカゴに忍び込ませる。
少し前の季節はパン売り場の「アンドーナッツ」

買い物を終えた車の中で、では出発前に「ひと口パクリ」というわけで、いわば買い食いのようなものだが、さすがに焼き芋は家に帰ってからである。
買い食いで美味いものといえばコロッケ。
道々歩きながらアツアツのコロッケなど、味の良し悪しよりも、その雰囲気が美味さを加味する。

つまり、歩きながらとか注意深くハンドルを握りながらとか、はたまたもうすぐ夕食というその前に、ちょっと一口というのが美味いのである。
就業の音楽とともに、そそくさとチョコレートの袋から包みを一個づつ配ってもらって、さあ~しゃーねぇなぁ~残業がと言いつつほおばるチョコレート、これも嬉しい。

筋書きのある日常から、ほんの少し外れること、そういう他愛もない些細なことを楽しいと思える日は、いやいやそういう日記を喜んで書いてる日というのは、心にゆとりのある日ということだろうなぁ~。

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2013.12.14

カレンダーの季節

12月14日(土) いわさきちひろカレンダー

カレンダーは貰うものか買うものか?005_2

町の電気屋さんや新聞店や友人の自動車修理店などからこの季節に来年のカレンダーを頂く。
貰いもののカレンダーは部屋のあちこち、トイレの中まで貼られるから、ちょっと多すぎるほどとはいえ、風景写真やデザインやイラストなどの絵はそれらしき装飾品の少ない我が家では立派な「飾り物」になっている。

毎月一枚切り取ると、違った風景や絵が現れて、月の変わり目や季節の変遷が、変わり映えのしない部屋には、ちょっと新鮮に思われるものだ。

カレンダーというのは実用物にして十分鑑賞に値するものだから、あちこちに掛けたくなるが、「そんなにカレンダーばかり要らないじゃない!」と抑制される。

ここ数年、毎年買うカレンダーは「歳時記カレンダー」と決めている。
二十四節気、七十二候、六曜から月の満ち欠けまで、日本の四季は歳時記カレンダーとともにあると言っても良いくらいだ。
だからそれだけで申し分がないものだが、今年はもう一枚買ってしまった。
障がい者の団体が取り扱うもので「いわさきちひろカレンダー」。冬の物資販売だから取扱いマージンが障がい者団体の収益になる。

いわさきちひろの絵はけっこう人気がある。少女のまな差しなどどこか穏やかで、ギスギスした世相とは相いれない愛らしいところが僕は好きである。
長野県の安曇野にある「ちひろ美術館」で、いわさきちひろの生涯を知ると、その少女の絵のなかに込められた愛情の豊かさの出所もわかる気がしたものだ。

そういうカレンダーを眺めて、ちょっとほんわかとした心持ちになれればいい。
しっかりしたデッサン、淡い色合い、鮮やかな花の色、少女の愛くるしい素描・・・などと呟いてみる。
こんな時代だから、こういう絵を眺めて、可愛らしいなぁ~、愛くるしいなぁ~と、いっそう思う人も少なくないだろう。

来年一年間、一緒に過ごす「いわさきちひろカレンダー」であるが、さてどこに飾ろうか?

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2013.12.12

喝!

12月12日(木) 世相をあらわす漢字一文字

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【夢が叶えられるようにと・・・豊国神社(名古屋市中村区)】

図書館に行った。
読み終えた「源氏物語」に続いて「枕草子」を借りて読みはじめた。

どちらも現代語訳のもので、訳者によって雰囲気はずいぶんと違うこともわかったが、原典を訳して作り上げた世界は、やっぱりその訳者の「世界」になるのだろう。
とはいえ、そういう古典の読み物から何をとらえるのかと、つねづね思うのだが「源氏物語」の姫君たちの在り様や平安時代の婿入り婚の様子などを少しかいま見られたものの、正直もう一つよく理解できない。

物語としては光源氏亡きあとの「宇治十帖」といわれる姫君「浮舟」の段が、もっとも現代風のストーリーだてに近いものがある。
匂宮と薫の大将という二人の男のどちらにも偏することもできず尼君となる悲恋話は、恋する「純粋」さよりも貴族社会の女性の哀れさをうかがい知れる。

それに比べると清少納言の「枕草子」はまだ読み始めたばかりだが、同じ貴族社会を背景にしているとはいえ、作者、「私」の見た「世界」が私小説のようであり、世相批評のようでもあり、個人の趣味で言えばこのほうがおもしろい。
「枕草子」は僕の好きな作家杉本苑子訳で、これも図書館本だ。

さて、世相といえば「今年の世相を漢字一文字で表す」という恒例の年末風物詩が「輪」というそうだ。
昨年が「金」で一昨年が「絆」、その前が「暑」で、さらに前が・・・覚えてる人もあまりいないが「新」。

昨年の「金」はオリンピックの金メダル、「絆」は東日本大震災、「暑」は夏の猛暑日で、「新」は民主党新政権への交代。

言われてみればなるほどと思いだす程度で、漢字など忘れても一向に差支えないけれど、震災復興も原発廃止も他人事のように進まず、政権交代は政党交代で何も変わらなかったという事実は忘れられてはならないことだ。

そこで今年は「輪」というが、東京オリンピック開催決定、東北楽天の優勝といった「チームワーク」のイメージで選んだ人が多かったそうだ。
なんとなくウキウキするような漢字を欲しているのだろうが、世の中が暗くなる一方だから理解もできるけれど、世相を表しているのかな?

政府の総理大臣が今年を一文字で表すと「夢」だとニュースで言っていた。
数さえそろえばこっちのものだ何でもできる夢も叶う!とでも言いたいのだろうかと揶揄したくなる。

そうなると、やっぱり今年の世相を表す漢字は「喝!」と言いたくなる。
禅のいう「喝」は相手の思い上がりを戒める、執着を絶つという意味があるというから、やっぱりこの漢字が今年の僕の選ぶ漢字の一文字だ。

こんどの日曜日のサンデーモーニングでは、張本さんにニュースのコーナーにも登場願って、秘密保護法、TPP、総理の”夢”、に「喝!喝!喝!」と叫んでもらいたいと思う本日なりぃ~。

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2013.12.10

なごり紅葉

12月9日(月) 石山寺にサイクリングした話

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なごりを惜しむように紅葉も散って、また淋しい冬の季節が始まるんだ。

12月8日の日曜日、友人ら9名で滋賀県の大津港から石山寺へとサイクリングをした。
片道9キロの道のりを琵琶湖畔沿いに走ると、白い船が繋留され、水鳥たちが穏やかに水面に戯れている。

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【琵琶湖の湖南を走る】

琵琶湖は海のように大きく、そこから東に向かうと瀬田川にぶつかる。
ここまで来ると、もう石山寺はすぐそこなので、あっという間に目的地に着いてしまう。

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【瀬田川】

名古屋から名神高速道路で走る距離の10分の1ほどの短いサイクリングだ。
車に自転車を積んで行くのを「カーサイクリング」というが、僕らはひとまとめにして「サイクリング」と言ってる。

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【石山寺】

石山寺は何十年ぶりになるのだろう、職場の旅行以来で懐かしい。
秋の紅葉もすっかり落ち葉となってしまっていると思ったら、境内のあちこちに少し色褪せ始めた紅葉がそれでも輝いていた。

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【ふむふむ、ちょっといい雰囲気だ】

この寺は紫式部が本堂の窓から十五夜の月を眺めて源氏物語の構想を得た寺として伝えられている。

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【紫式部像のむこうに美しき姫君らが・・・あはは】

先日、「源氏物語」の宇治十帖と言われる「浮舟」までを読み終えた。
匂宮と薫の大将の二人の男の間で苦悶する姫君(浮舟)、こうしたちょっと色褪せて散りゆく紅葉の風景が浮舟の気持ちに・・・どことなくしっくり来る。
などと感傷にひたってみたが紅葉の鮮やかな頃には素晴らしい光景が見られるのだろう。

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【12月だけど、まだまだ鮮やかだなぁ】

昼食は門前のレストランで摂ることとなった「しじみの釜飯」が名物らしい。
が、あえて「ゆば丼」を注文する。
ヘルシーである。それでも自転車を走らせて食べる昼飯は何を食べても「美味でごじゃる」というわけだ。

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【ゆば丼、しじみ釜飯も美味かったらしい・・・】

土産店でしじみの佃煮を買う。みな何やらそれぞれ買っていた。
石山寺を後にして、引き返して「三井寺」に行こうかということになった。
来た道を引き返し、今度は右手に琵琶湖畔が広がる風景となる。

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【瀬田川周辺は芭蕉にゆかりのある地だそうだ】

自転車につけたデジ・カメのシャッターを切ると、いつもの自転車の後ろ姿が何台も続く。
黙々と走るレンタサイクルのママチャリ。
調整不足か、はたまた日頃の運動不足か、10キロに満たない距離でも、けっこうキツイといってたが・・・

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【その先を左に折れると、コーヒータイムが待ってる】

スポーツ自転車の軽快感を知って欲しいのだがレンタルにはほとんど置いてない。
折りたたみ自転車でもいいから、スポーツ自転車に乗ってみれば、もうママチャリには戻れなくなる・・・と「自転車なんて疲れるから嫌いだわ」と言ってた妻の証言でもある(笑)

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【・・・・】

「ティータイムにしましょ」と誰かが言いだして、途中のちょっとスイーツの美味しそうな店に入る。
さっき昼食を食べたばかりなのにと思うが、今日のメンバーは女性が多いから、まあ、そういうことで・・・

休憩してのんびりしたら、もうこれ以上は走る雰囲気ではなくなり「三井寺」も吹っ飛んでしまった。
師走の月、陽が落ちるのも早い。僕を除くみなさんは明日から仕事の始まる月曜日。
一路、大津の駐車場へと戻ることとなった。

自転車に乗って走った距離は僅かなサイクリングであったが、行きと帰りのサイクリング、石山寺に、昼飯とスイーツ休憩。
こういうものを含めて一日過ごした琵琶湖の湖南サイクリングだった。
走るばかりじゃない、これも楽しいサイクリング(ポタリング)の想い出になるだろうなぁ。

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というわけで、走行距離:18.5キロ。
出発の名古屋は晴れ、途中の彦根あたりは小雨、大津に着いたら晴れ間が広がった。

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2013.12.07

恥を知れ!

12月7日(土) 12・6秘密保護法反対デモ行進(名古屋)

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南アフリカのアパルトヘイトとたたかいあらゆる差別の撤廃を訴えてきたネルソン・マンデラ元大統領が亡くなった12月6日、日本では秘密保護法が強引な数の力で可決された。

何が秘密なのかも国民には知らされず、国の意図するままに国民の知る権利も奪う、言うならば「秘密保護」の名のもとに何でも出来てしまう、いやはや恐ろしいしろもの。
作家、ジャーナリスト、文化人、弁護士会・・・と日を増して反対の声が大きくなっていったのは、当然のことでしょう。

「知らぬ間に軍靴の足音が大きくなる」というのは、きっとこうした「弾圧立法」とでも言える秘密保護法やいろんな法律が作られ、文字どおり「知らぬ間に」引き返せないドロ沼に足を踏み込んでゆくことに違いない。 

その12月6日の金曜日、数日前チラシで秘密保護法反対の集会とデモ行進があるのを知って、やっぱりねぇ~、一声ぐらいは「秘密保護法反対」と叫んでみるかと一人いそいそと出かけた。

こういう気分というか雰囲気は、あのベトナム戦争反対という70年代を思いおこす。
組合の動員で集会というのは何度か行ったが、やはり緊迫した国会情勢もあって「秘密保護法なんてとんでもない」という思いにかられた市民がほとんどだ。

思えば世論の反対の声や議論を尽くせという声があるにもかかわらず強引に可決すること自体が、政党の議員の数の力の横暴で、もっと議論して問題点を国民に理解してもらうという、民主主義の原点からの逸脱だろう。

近くにいた人の手作りの「私たちはテロリストじゃない!」というプラカードが目についた。
デモや集会が「本質はテロと同じ」と言った閣僚、これは「秘密保護法の本音」を思わず漏らしたわけで、法案の暗に意図するところがよく解りやすい。

こういう政府の本音に、二度と戦争などまっぴらだと思う市民感情はピンと来るもので、僕だって、デモ行進で「秘密保護法反対!」って叫ぶことが「テロと同じ」と言われれば憤りを感じ、これほど国民の意志を馬鹿にした話はないという気持ちにもなる。

「政党の議員の数の横暴」と「デモはテロと同じという本音」、この二つは、秘密保護法というものの本質をよく表しているものだと思う。

知り合いは誰もいないだろうなぁ~と思ったら、「チラシで知ったんだわ」と言うYさんが参加していた。障がい者の施設のSさんの姿も発見したら「ああ、一人じゃなくて良かった~」と。
 
秘密保護法は可決されたけれど、こういう社会の健全な世論があるかぎり、きっとこれからも続々と出てくるおかしな法案をくいとめる手段の一つになると思う。
「自民党は恥を知れ!」「公明党は恥を知れ!」と訴える誰かの声が妙に心に残った。
 

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2013.12.03

自転車は車道の路側帯も左側通行

12月3日(火) 12月1日道路交通法の改正で思うこと

12月から道路交通法が改正されて、自転車は車道の路側帯も左側通行が限定された。
自転車は車道の左端をはしらなければならないのだが、道路の端に引かれた白線の外側を路側帯といい、この部分はこれまで「左側通行」限定ではなかったことに、ちょっと驚くのだ。

路側帯だから逆走(右側通行)しても違反にはならない!と、そこまで交通法規を知って走っていた人など皆無だと思うので、「自転車は左側通行」など知らない、歩行者の延長の意識の人か、「知って」ても面倒だという、そういう自転車乗りがほとんどなのだろう。

逆走する自転車と接触して転倒一歩手前になったり、T字路の右端から急な飛び出し自転車と、あわや危機一髪などという、自転車通勤してたときに味わった危険も多かったので、「自転車は道路の左端を走る」ということが、どんな道でも徹底されれば、じつに喜ばしいと思う。

が、なかなか現実としては右側も左側もほとんど関係なく走る自転車も多い。
自転車のマナーが悪いという。
たしかにマナーも悪いが、はたしてマナーの問題かなとも思う。

日本人は「マナーの問題」にとりわけ厳しい。
いや他人のマナーについては、箸の上げ下げのあれこれに目くじらをたてるほど相互の批判に厳しい。
たばこのボイ捨てや空き缶のポイ捨て、犬の糞の放置、たしかに、うんざりするような現実があると、何とかならないかとは思うのだけれど・・・
そういうことおおめに見ろというわけではないが、批判して何とかなるものと、批判だけではどうしようもないものもある。

道路交通法の改正で罰則の対象になる、マナー違反で罰金をとられるとテレビの番組で取り上げられていた。
「自転車は道路の左側を走る」という、そういうルールを知らない人が圧倒的に多いのが現実だと思う。
逆走が重大な事故につながる危険が大きいという事実を知らない人が多い。

「交通ルールを守って左側を走る人」も「右側を逆走する人も」ひとつの社会の道路を自転車で走る、同じ仲間だとしたら、もっと、もっと「自転車は道路の左端を安全に走る」という、小学生の交通教室並に、知ってもらうこと、学んでもらう機会を増やすことが先決だと思う。

かってシートベルトの着用が交通事故を減らすために義務化されたとき、地域の交通安全の方がドライバーに「シートベルを着用しよう」といプラカードを見せていた。
自転車は道路の左側を走りましょう!というキャンペーンや「交通死亡事故0の日」などに、逆走自転車に丁寧に注意したり、そういうことを全国で一斉に行えば、お年寄りやママチャリお母さんや、「知らない」人が知る機会になる。そういう交通安全の風土ができる。

長年、自転車など歩道を走ってればいい自動車の邪魔者だ。自転車は歩行の延長でしかないと、まともに自転車利用を考えてこなかった日本の歴史だから、そこから生活の有用な交通手段としての自転車をきちんと交通ルールの中に位置づけるには、社会の中の自転車に乗る人も乗らない人も含めた、大きな転機が必要だと思う。

自転車に乗る人を邪険に扱って、マナーも守らん奴だと非難するよりも、道路を自動車と自転車がシェアする意識を醸造して、同じ道路仲間として温かく導いて行く方が、ずいぶんといいと思うので、国や地方自治体や地域が本気になって、「自転車の乗り方・ルール」の意識キャンペーンに出て欲しいと思う。

2013年の「流行語大賞」的に言うならば、「いつやるの?今でしょ」ってことで、保育園の送迎に自転車を使っている人、買い物に自転車を使ってる人、生活になくてはならない自転車の方もいるし、趣味の自転車を楽しむ人もいる。

もっと自転車のある暮らしに愛情をもっていろいろと考えて欲しいとおもう師走なりぃ。

 

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2013.12.01

窓際のフロッピー

12月1日(日) 屋根裏に忘れ去られた物たちの話

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 「WindowsXP」のサポートが終了するが、まだ「XP」が主力機として働いている職場が多いという話が少し前に伝えられた。
 「XP」というのは、なかなか使い勝手が良かったOSだと僕は思っているが、どんどん新しいものになって、まだまだ使える、いやこのままでも十分だと思っても、否応なしに新しいものが中心になってくる。

 こういう世界は儲けるためには日進月歩で新登場を余儀なくされるけれど、ユーザーみんなが望んでいるわけではない。
 仕事場のIT機器など、操作方法が一から出直しになるから、「たまったものじゃない!」とシニア世代は思うに違いない・・・

 そんな「XP」の前はといえば「Windows2000」とか「Windows95」だったし、もっと以前は「Windows3.0」なんてものもあった。
 1980年代頃からパソコンに興味を持っていた僕はWindowsじゃなくて「MS-DOS」ってOSだったし、富士通の「FM77」とか「PC98NOTE」などを使っていた。

 こういう話は、当時でいうならば「オタク」に近いものだったので、やれ「マックだ」「PC98だ」という時代は、ある種の懐かしさが甦ってくる。

 12月になって師走と言われる頃になると、一年の埃を落とし、大掃除もしなければという気分になる。
 それでなくても娘が結婚し、一部屋ガランと空いたけれど、新居に持って行った物よりも、残して行った正体不明のあれこれの方がはるかに多いので、それらは結局親の手で片付ける定めになっている。

 物を溜めこむ犬のような性格は、どうも我が家の伝統的気質じゃないかと最近思うのだが、どこかでスッキリさせたいと、願望だけは12月の師走の頃だけじゃなくて日々思うところである。

 娘の部屋を片付けるついでに、10年前に引っ越して以来手つかずになっていた、屋根裏の物置の不用品を粗大ごみで出すことになった。
 ジュータン、カーペット、整理ケースや・・・10年も使わずにしまわれていた物など、変色し劣化して「残骸」のようなものになってしまう。

 屋根裏の不用品を処分していたら、ダンボール箱2個にぎっしりと詰まったフロッピーとCDが出て来た。
 すっかり忘れていたが、慌てて引っ越しして詰め込んだ代物が、残っていたということだ。

 フロッピーもCDも10年以上前だから、開封してみると、古いものはMS-DOSとかPC9800シリーズとか・・・
 いやはや、よくぞ残っていたものだと呆れたり笑えたりしてくる。
 窓際に引っ張り出したフロッピーを並べてみたら、「直子の代筆」とか「VZエディター」とか「パソコン通信」とか、まあ知ってる人には懐かしいフロッピーがある。

 ひとつの時代の「パソコンライフ」を象徴するような代物である。
 もう、フロッピーなど遠い昔の「遺物」で、今では使うドライブすらない。

 懐かしいと思いつつ廃棄しようとしたが、このフロッピーってものは読み取りシャッターと円盤の中心が金物でできている。
 名古屋市の分別収集ではフロッピーディスク・ケースは「可燃ごみ」となっているが、枚数も多くなれば金属部分も相当な量になる。
 そのまま可燃ゴミで出すのも気が引けるので、シコシコとフロッピーを分解しながらプラスチックと金属に分類するのだが大変な作業である。

 数時間かけて、ほとほと疲れながら作業をしていると、「凝り性」というものの多くは、実に無駄なことだと気が付く。
 しかし、そういう「無駄」があってパソコンというものが人並みに使え、あまり苦労も少なく職場のIT化に対応できたと思うと、「残骸」になったフロッピーが妙に「愛しく」思うのである。
 ・・・つまり、人は自分の人生のあれこれを肯定的に考えたがるという話なんだなぁ。
 
 

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