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2013.09.23

彼岸花の頃

9月23日(月) 秋分の日

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 珍しく朝からせっせと和室の掃除を妻がしている。
 「働けぇぇ~働けぇぇ~(笑)」とはっぱをかけても、「私は何十年も家事仕事してきたわょ~、たかだか二年ぐらいの人が・・・」、世の中には何を言われてもへこたれない人もいる。
 「過去の栄光にいつまでもしがみついていてもなぁ~」ひとしきり掛け合いをして、床のワックスがけに精を出した。

 今日は春分の日、お彼岸というのに、まだまだ少し身体を動かすだけで汗をかく。
 お義母さんがお彼岸だからとおはぎを持ってきてくれる。
 近所の美味しい和菓子の店まで出かけて買ったという。ずいぶん行列ができていたという話だった。

 秋のおはぎと春のぼたもち、季節によって呼び名が違うんだなどと、ひとしきり話をして帰っていった。
 が、ほんとうのところはよくわからないもので、そういう定説はあるらしい。
 子どもの頃、私の母親も彼岸の頃に小豆を煮てまぶして、ぼたもちかおはぎかわからないが作ってくれた。
 当時は家庭で作るもので、店で買うものではなかった。

 そういう季節の行事にあわせておはぎを作り子どもたちに食べさせるのが楽しみだったと思うが、今のように楽しみというものがあまりない時代だったから、おはぎ一つでも作る楽しみがあったのだろう。
 その母親も10年前に他界し、普段はすっかり忘れている今だけれど、彼岸の頃になるといろいろ思いだすこともある。

 まだ小学校に入るか入らない頃、信州の片田舎の墓地で母親が泣いていた。
 その周りでなぜ泣いているのだろうと不思議に思いながらぼんやりと僕は遊んでいた記憶がある。
 ずいぶんと長い時間が経ったように思うのだけれど、その後僕と母親は小さなお店の座敷に座っていた。

 座敷には見知らぬおじさんがいて「いくつになんたんだ」と聞かれ、ブリキのジープのおもちゃをくれた。
 誰だったのか?叔父さんだったのか、ひとしきり母親が話し込んでいる横で、電池のジープを走らせて遊んでいた。

 信州の田舎から出て墓参りの里帰りをしたのだろう。一番下の幼かった僕を連れての里帰りだったのだろう。
 今から思うと、母親は親類縁者も少なく墓は亡くなった祖父祖母だったと思う。
 母方の祖父という人は僕が物心ついた頃には、農作業の忙しい時期にときどき手伝いに来てくれていた。

 僕はその祖父が来たときにはいつも「昔話」を聞かせてもらっていた。
 「桃太郎」「浦島太郎」「舌切り雀」というのがいつもの話で、絵本など買えない信州の田舎の百姓暮らしだったので、「もう一回、もう一回」とせがんで話をしてもらった。
 優しい祖父だったという記憶である。

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 彼岸の頃というのは、亡くなった者たちの記憶がよみがえる。その記憶も歳とともにだんだんとぼんやりしてくる。
 あの記憶に残る母親が泣いていたお墓には真っ赤な彼岸花が咲いていたような記憶だけれど、それもぼんやりした風景で、後から彼岸花のイメージで自分のなかで合成したものかも知れない。

 彼岸花が田んぼや土手で自生している光景は庄内川や庄内緑地公園でも見受けられる。
 公園の彼岸花は自生ではないだろうが、公園の少し裏手の淋しい木立の下や、噴水広場の裏手あたりとか、その赤い色合いは鮮やかなんだけれど、不思議と暗いイメージがつきまとう。

 非常食用に田んぼの土手に植えるように奨励したのは貝原益軒だという。お墓のまわりに見られるのも彼岸花の毒性でネズミ退治のためとも言われている。
 彼岸花を曼珠沙華と言われるのは、仏教のサンスクリット語では赤い花を意味してるという。

 こういう話は、彼岸花を意識してから知ったことだけれど、彼岸花の咲く光景はどうしても真紅の鮮やかさとは裏腹に侘しさや妖しさのほうがイメージとしては、僕には定着している。

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 つげ義春の漫画に「赤い花」という作品がある。
 どちらかというと暗い作品群が多いつげ義春の漫画だけれど、高校生の頃はこの暗い深淵を歩くような漫画が好きでよく読んだものだ。

 「赤い花」という作品は初潮を迎えた少女と少年の姿を描いたごくごく短いものだけれど、僕はちょうど思春期でもあり、イメージとしては衝撃をうけたものだった。
 その時の「赤い花」の具現化されたものが、なぜか彼岸花だったから、彼岸花というのは「妖しさ」でもあった。
 大人になりきれない頃、男兄弟のなかで育った未成熟さが「妖しさ」となったのだろうと思う。

 彼岸花の咲くころ。亡くなった父や母や、そういう昔を想いだす頃でもあり、燃えるような赤い花が、少し妖艶にも思われる頃でもある。
  
 

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

すごくいい写真に、いいお彼岸エッセイでした。東京育ちの僕にはなかなかお彼岸の思い出はありません。おはぎを食べたくらいかなぁ・・・

投稿: マミケン | 2013.09.24 09:51

昭和30年代頃、田舎ではお彼岸にはおはぎを大量に作ってました。その日は食事代わりに食べた気がする。今年は彼岸花が多い。名古屋だけでなく、先日91歳の父に会いに実家に行ったときも多いと感じました。子どもの頃、彼岸花で首飾りを作って遊びました。「ポキッと折れる彼岸花 なかなか折れない彼岸花 なめると苦い彼岸花」あとは忘れました。その頃自分で作ってた詩の一部です。素敵な写真と「もう一回、もう一回」とせがんだ昔話、懐かしいです。私は妹にそんな風にせがまれてお話ししてましたよ。

投稿: 杉山 | 2013.09.24 23:23

間宮さんこんばんは。
東京という街はよくは知りませんが、いつ頃から大きく変貌したのかなと考えると、やはりオリンピックの頃からでしょうか?
経済発展の象徴のような大都会、田舎臭い僕なども昔はおおいに憧れたものです。
今も政治や経済や文化も現代日本の最先端です。
名古屋市長が東京のような街に憧れて、追いつけ追い越せと考えてるようですが、僕のなかでは東京はちっとも魅力的に思えない最近なのです。
江戸っ子の方には失礼な話かもしれませんが(笑)

投稿: ちょっと一休み | 2013.09.25 00:51

杉山さんこんばんは。
十五夜のススキの穂とだんごの飾りや彼岸のおはぎ、秋の大運動会では家族そろって校庭で母が作った手弁当をみんなでたべました・・・
家族の絆とよく言われますが、結局そういう普通の暮らしのことを言うのでしょうね。
その普通がなくなって、親は仕事に子は塾に・・・あくせく働き続けた足跡ばかりが目立つ自分です。
振り返って自分や家族を見つめる余裕がなかったなぁ~と反省もしていますね。
貧しい時代のほうが心が豊かだった・・・今は変な時代です。

投稿: ちょっと一休み | 2013.09.25 01:02

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