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2013年6月

2013.06.29

ビワの実と化粧

6月29日(土) 昨日は久しぶりに旧交をあたためた

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【ふつうの庭のビワ、これを磨いて選別して化粧包装したら商品になる】

 桃栗3年柿8年ビワは早くて13年。

 ほほう~実がなるのにそんなにかかるとは知りませんでしたが、種子がおおきくて果肉が少ないのがビワの実、生薬としての効能が実にも葉にもあるというから、だてに13年もかかっていないということでしょう(もっとも実際は7~8年で結実するようですが・・・)

 昔の職場の友人たちと飲み会があった、「暑気払い」というわけで、久しぶりの旧交を温める日でした。
 帰宅したら「ビワの実があるから」と妻が言うが誰かにいただいたらしい。
 ビワの実には嘔吐や喉の渇きに効能があるというから「ああ、きっと飲み過ぎにはいいわよ」という優しい心遣い・・・とは、どう考えても思えませんなぁ(笑)

 「暑気払い」と銘打った飲み会は、僕を除いてみなさん現役で働いてる女性の方がほとんどでした。
 現役で働いているからでしょうか、会話のスピードも展開もパワフルに見えます。
 やはり一日の時間の使い方が違うのだと、まあそう痛感するわけです、笑い顔にそういうものが出ていて、一日働いた後となると、朝の化粧も落ちて・・・そうして現れた普段の顔の清々しさ、と僕は見えるわけです。
 働く暮らしというのは、人の顔を生き生きとさせるものです。

 2時間ほどの宴会も終えて名古屋の繁華街「錦三丁目を帰宅の途につくと、夜のネオン街です。
 煌びやかにドレスを身にまとった女性、和服姿の方や、スーツの男性や、もうここは昼間の顔とは別世界です。
 着飾り化粧をして扇情的な街がここにあって、一夜にして相当な金銭が費やされる繁華街・・・

 廓、花街、ネオン街、いつの時代にも男を惹きつける商売は絶えることなく続いていますが、どのような商売でも「働く」というのはそれ相当なエネルギーを必要とします。
 化粧をして昼間とは別の顔となり、それを商売として暮らして行くことが、幸せか不幸せか僕にはわかりませんが、生きて行くというのは何だか辛いものだと、そう思えてなりません。

 「職場に忘れ物をしたから車で送っていってくれない」
 「いや、まだ洗濯も途中だし、『あまちゃん』も『こころ旅』も観たいし・・・だめ」
 「いいじゃない、昼ごはんを奢ってあげるから、四川料理のお店でもいいよ」

 ・・・昼飯を奢るから運転手をしろという現役の収入のある娘の強みがそう言わせ、現役を退いた親の僕としては「まあ、しかたないか・・・」と交換条件にのってしまう。
 よくよく考えてみれば、子育てに投資した分が戻るだけで、けっして交換条件としては成り立たないのだ(笑)

 車のなかで化粧をするのをみて、何も休日の土曜日にまで化粧をする必要もあるまいと思うのだが、どうやらその後にデパートに行くので、素顔では歩けないということのようです。

 思えば若い女性の区別がつかなくなって、名古屋駅などを歩いているとみな同じような化粧と服装に見えてきます。
 「歳をとると、若い方がみな同じに見えてくる」と昨日の飲み会でも話題になりました。
 ・・・が、歳をとったからそうなるのかなぁ~とふと考えます。
 同じような化粧方法と同じようなファンションで、家に居るときとは別人の顔で街に出るのですから、これはもう「仮面」のようなもので、だから若い方がみな同じに見えるのではないかとそう思いました。

 ところが、その昨日の飲み会で「女の子だけじゃなくて、男の子もみな同じように見える」という話がでました。
 息子や娘のような世代の人たちが「同じように見えて区別がつかない」というのは、どうも化粧のせいだけではないようです。
 やはり歳をとったからなのでしょうか、それとも化粧して着飾る術が上達したのでしょうか。

 なんだか素顔と社会生活がますます乖離しているのでは?などと思うのですが、素で街を歩けない暮らし、本音を吐けない暮らしがそこにあるとしたら、とても大きなストレスになるのは間違いないでしょう。
 時代はどんどん変わって行くなぁと思う最近です。
 
  

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2013.06.25

金物工作の日

6月25日(火) 自転車のフロントバックホルダーを作ってみる

 「にっぽん縦断こころ旅」も三重県からいよいよ岐阜県に入りましたね。
 ということは実際は今週あたりは長野県を走っているのでしょうか。
 中部地区は山も多いから上り坂が多くて大変だろうと思って見ているが、のんびり心の風景を訪ねる旅だから、そういう険しい坂道を通るのは番組の趣旨でもないのでしょう。
 近郊の町の風景「ああ~あそこ走ったよね」と妻に言ったりして、そういう夫婦サイクリング話ができるのも「こころの風景」でしょうか。

 さて、ちょっと自転車のパーツ・アクセサリーの話なので好きな人には「なるほど」趣味じゃない人には「あっそう」という類の話。

 そういえば、火野正平さんの「チャリオ君」のサドルバックといえば、黒いキャラダイス製で先日自転車専門店で話していたら、やはりテレビ効果で人気のバックらしい・・・と。
 ある意味、自転車オタク的流行だと思うが、いろいろ検討してみると、たしかにゆるゆると数十キロの日帰り旅にはサドルバックとしては良い雰囲気になります、まあ趣味の問題でしょうが。

 僕は日ごろのお出かけ自転車にはハンドルにリクセンカウルのアタッチメントを付けて、大・小あれこれのフロントバックを付けて走っています。
 カチャンと一発ではめ込むので簡単この上もないし、普通のバックにアタッチメントを取り付けて「リクセンバック?」にしていたりします。

 だいたい、そういうことでロードバイクらしからぬ雰囲気ではあるが、街乗り普段走りには十分なものです。
 ところが・・・先日、予約注文して待つこと数か月、ジップロールサドルバックを買ってしまったのですが、ハンドルから革のバックルで吊り下げる方式なのです。

 ドロップハンドルのワイヤー類には干渉するし、何よりもリクセンアタッチメントが邪魔になる・・・とはいえ、他のリクセンバックには使うし、何か良い方法はないかと無い知恵をしぼって考えました。

 考えましたね、ちょっとだけ知恵が浮かびました(笑)
 しかし、こうやって「何か良い方法はないものか?」と考えているときほど楽しいことはありません。
 そこでツーリングバックを吊るすバーが応用できないか?リクセンアタッチメント用は売ってないが、モンベルからならバーだけで売られています。

 幸いモンベルとリクセンカウルは互換性があるので、さっそく1000円程度で購入しました。
 モンベルの物は少しカーブが付いているので、これを万力でまっすぐ伸ばし、長さが20センチほどになるように、チューブカッターを使って切断しました。

 見栄えも考えてアルミパイプを両側にかぶせて、なんとなくフロントバックホルダーらしくなりました。
 もう少しバーの径が大きい方が使いやすいと思うが、まあ取り外しできる簡易なものとしては成功、成功。
 また気が向いたときに改良すればよいわけです。

 実はアルミパイプをベンダーで曲げて自作してみたけれど、職人さんが作る製品の角度や収まり具合と同じものはなかなかできません。
 やはり道具なのか腕なのか・・・その道のプロ、職人さんの作るものと素人が作るものは決定的に違います。

 というわけで、一日金物工作をしていた本日というわけです。

【上:リクセンカウルのアタッチメント 下:モンベルのバーを切断加工したもの】
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2013.06.21

おたまじゃくしは蛙の子~♪

6月21日(金) みんな成長するんだなぁ~

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【散歩の途中の写真はこんなものです、それにしても小っちゃいおたまじゃくし】

 福祉の仕事をされている若い職員さんたちから「飲み会にどうですか」と声をかけてもらいました。
 3時間ほどいろいろ話をして、それなりに歳相応の話をしてみたけれど学ぶことの方が多いものです。

 世代の違いを超えることの難しさは、歳を重ねた者が年齢とか地位とか肩書きとかを取り払うことの難しさかも知れません。
 ただでさえ若者はこうした年長者の属性に委縮するのが、日本の儒教的な国学思想のような風潮の土壌があるわけですから。

 この歳になって、「どんな生き方をしてきたのか」と自問するときは、ちょっと辛いものを感じるが、「若い」というのは良いもので、将来とか可能性とかを語るときの瞳の輝きは、この世代にしか表現できないことだと思うのです。
 その分、不安とか失敗とかがつきまとうのも、物事の裏表ということでしょう。

 歳を重ねると、物事の結末が見えてしまうような気がして(ほんとうは、そんな結末など誰にもわからないが)瞳が曇りがちになるのです。
 いつの時代も「若者」の可能性、将来に向かうエネルギーは無条件に凄いのかも知れません。
 曇らない心の瞳をいつまでも維持し続けねばなぁ~と、毎度反省も多いものです。

 さて、台風が来るぞ~、来るぞ~と覚悟した飲み会の日でした。
 「オオカミ少年」のようなもので、来たのは梅雨前線を刺激した低気圧だった、いや低気圧に変わったというべきか。
 ポツリポツリと降る雨の合間に愛犬ポン太を散歩に連れ出しました。

 雨の日はひときわ元気よく蛙が田んぼで合唱しています。その田んぼの小さな用水路で発見した生物は・・・
 「アメンボ」「タニシ」「ザリガニの赤ちゃん」そして「おたまじゃくし」でした。
 小学生の観察日記みたいな話ですが、みんなこれから成長する「若者たち」のようなものです。

 ザリガニの赤ちゃんとおたまじゃくしが水中で泳ぎ比べをしていました、圧倒的にザリガニの方が速い。
 これは生きる術なのでしょう、晴れれば空から真っ黒なカラスに狙われます。カラスだけじゃなくて網とバケツを持った子どもたちから逃れなければなりません。

 人間を含めた自然界はそんな環境を強いるのですが、初夏の頃には手も生え足も生え一人前の蛙になるでしょう。
 大きなハサミを持った立派なザリガニになるでしょう、人の子もやがて大人になって社会を支える人になるのでしょう。

 自分一人の個体としての人生を考えると、なんだかふと天動説と地動説のような関係に思えてきました。
 自分の一生が地動説のように、生まれ、幼年期を過ごし、青年となり、仕事に就き、結婚したり、子どもが出来たりして、そして老いて行くわけで、そのときどきに死んでしまいたくなるほどに悩んだり、生きてて良かったと思ったりします。

 しかし、そうした自分の個体としの視点ではとらえきれない社会的存在としての自分があるわけです。
 天動説のようなものですが、それが真実ならば、やっぱり「自分」というものが社会との関わりなくして存在しない・・・ということになるのでしょう。
  
 けれどザリガニもおたまじゃくしも、そんな理屈は考えません。
 「おたまじゃくしは蛙の子、ナマズの孫ではあるまいな~♪」とアメリカ民謡のメロディで歌った童謡の視点は、人間だからこそ言えるものです。

 田んぼにいろいろな生き物が生息していて、その生を必死に全うしようとしています。
 自然の環境から学ぶことはたくさんあって、そういう実感を通して天空の一つの星の一つの国の一人の人間だと自分を見ることができれば、じつに楽しいことじゃないかと思うのです。
 学び成長するというのは実感する気持ちということでしょうか・・・

 


 

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2013.06.18

職人技とまではいかないが・・・

6月18日(火) 網戸を取り替える

 「DIY」を日曜大工と解釈していたが、もう少し広い概念で「自分で作る」という意味であるらしい。

 まあ、日曜というよりも必要に迫られた大工仕事として、本日は勝手口の網戸を取り付けてみました。
 横開きの勝手口戸はこれまでロール式の網戸だったが、これが使い勝手が悪くて、おまけに10年も過ぎると油と埃が網目に詰まってしまうわけです。
 横開き戸に縦ロール網戸というのは実用的にもミスマッチでしょう。

 思い切って、横にスクロールする網戸にチェンジするように、ご指示があってホームセンターで安価なものを買いました。
 だいたい、こういう既製品というやつは、微妙に寸法が合わないと相場が決まっています。
 勝手口上下が197センチで既製品は185センチのものです・・・って、つまり12センチ足りません。
 ここで上部12センチに横木を通して板張すると、まあ既製品でもそれらしくなります。

 メジャーで採寸して、隙間のできないようにして・・・虫が入ってきますので、しっかりとネジ留めしないと、網戸は支えられません。
 1mmとか2mmという狂いが微妙に美しいフォルムを台無しにしてしまうものです。

 こういう作業を暑さと湿気と戦いながら半日ほど行います。
 午後から始めたので夕方には、どこからともなく蚊もやって来ます。
 蚊取線香をたきながら、どうやら思った通りの出来栄えとなりました。

 大工職人の本職の技の凄さに今さらながら気づくのですが、そこは「DIY」です。
 職人さんの使う道具と家庭用の道具では、やはりモノが違うのでしょう、それを埋めるには「丁寧に、丁寧に」もうひとつ「丁寧に」仕上げるしか方法はありません。

 大工さんに頼めば勝手口の寸法にあわせて作ってもらえるでしょうが、それなりの出来栄えとなれば、自分で作るのもけっこう楽しいものです。

 明日はカラ梅雨から一転して一日恵みの雨となるようです。
 以前から「作れ!作れ!」と、これまたご指示をされている玄関脇の長椅子の製作にとりかかろうか・・・

 汗だくになってDIY、それも楽しい梅雨の日のお仕事であります。
 

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2013.06.15

6月15日(土) 自画像

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 今日は室内湿度計が67%を指し、ベトベトと皮膚の不快はたまりません。
 エアコンを入れて除湿すればいいのでしょうが、エアコンはどうも好きになれません。
 人間がこうだから、舌と肉球ぐらいしか発汗できない犬は大変です。

 玄関で寝ているポン太に、ハワイだかどこかで買ったというお高いサングラスをかけて写真を撮ったのは娘です。
 きっと「いらんお世話だ」と思いながらも、従順なポン太です。
 「写メ送るからブログにでもアップしたら」という、これも親のブログへのおせっかいな一言。
 どうも愛犬ポン太と僕の家庭内の立場は共通項が多いような気もします。

 鼻眼鏡のとぼけた表情が老犬のそれをよく表しています。
 かまわれて、おもちゃにされても動じることも少なくなって、これは飼い犬としてのキャリアがそうさせているのでしょう。
 余計なプライドとか自尊心とかが、相手との関係をこじらせることを悟りきった顔つきに思えます。
 「つまりねぇ~、そんなに力んでもしかたないでしょう、素直が一番」と言ってるようにも聞こえます。

 顔とか表情っていうのは、その人の(その犬の)性格をよく表しています。
 顔写真というのは、じっと見ていると何だか心のなかまで見えてくるように思えます。
 NPBの「統一球問題」が社会問題になって、この組織の本質が見えてきました。
 「ガバナンス(管理)を強化する」と言ってる表情に、「オレは間違ってない、あいつらが悪いんだ」という言葉が見え隠れしているように思えます。

 どうも最近は、率直に反省したり、反省の上に立って真摯に問題を考えるということが少なくなりました。
 NPBに限らず、人としての「品位、品格」が問われることが増えました。
 なぜでしょうね。時代がそうさせているのでしょうか?
 犬でさえ歳を重ねて「身の丈」を知るのに、人間はどうしてなんでしょう。

 というわけで、歳をとっても老醜、老害とは無縁なポン太なのでございます。
 ははは、ブログアップのお約束は、これにて一件落着!
 

 

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読書する日々

6月15日(土) 小説を読んで何の役に立つのかな?という長い日記

 読書三昧というけれど、いったいどのくらい読むと三昧と言えるのでしょうか。
 退職を契機に暮らし方もずいぶんと変わりました。
 何と言っても時間に追われることを気にするよりも、今日、明日、明後日・・・何をどうしようかと考えることの方が増えました。

 たとえば、このところ読んだのは「大盗禅師」「殉死」、いづれも司馬遼太郎のものです。
 「大盗禅師」は江戸幕府の時代、由井正雪をはじめとする権力への「反逆」をテーマにした作品です。
 「殉死」は明治という時代を背景にした陸軍大将乃木希典の明治帝崩御とともに殉死する思想や性格の特徴を扱っています。

 小説というかたちなので、歴史書でも思想書でもありません。
 小説は作者が調べた時代考証にもとづいて、物語として作り上げた創作です。

 そういう小説を読んでいるのですが、少なからず小説など読んでるよりも、歴史文献や技術書や、あるいは実用的なもののほうがずっと役立つもので、はたして「お話」などいったいどれほどの役にたつのか?という考え方もあるのだと・・・
 
 小説が何の役に立つのか?という思いは、日々の暮らしのなかでは実用的ではないので、もっとも骨の折れる活字を読む遊びだと、そう思っている人もいるようです。

 たしかに小さな11ポほどの文庫本を読んでると目も疲れます、時間もかかります。
 歳とともに活字を追うのが辛くなるのがシニア世代の本音なので、新聞とか必要最低限の実用書を読む方がはるかに現実的といえるでしょう。

 余談ですが、最近の本の活字というのは12ポが標準だと、編集会議に来ていた出版社の方が言ってましたが。
 さて、話を本題に戻して、小説を読むということが視力が衰え、集中力も下がり人生経験もそれなりに積んできたシニア世代にとって、「何の役にたつのか」と考えるのはもっともなことだと思っています。
 今さら苦労して小説など読んでそれが何だと言うのか・・・もっともな感想でしょう。

 本好きなのさ!暇つぶしの読書三昧なのさ!と言うこともできます。
 遊びであり、頭の体操であり、もう少し情操の訓練なのさ!と言うこともできます。
 何かの役に立つことを基準に考えるのを、たしか「実利主義」と言ったと思います。

 最近は自分にとって役に立つことに一生懸命になるのが美徳のように思われる傾向があるように思います。
 小説などはベストセラーを読むことがあっても、ちょっと良かったが何も残らない・・・ということも、ままあるように思われます。

 どうも、小説が何の役に立つのか?という命題そのものが成り立たないのが最近ではないかと思われます。
 だから、歳とともに小説を読んでいても面白くない・・・いいえ、そんな活字本を読むのが苦しい。
 ということになって、活字は新聞、雑誌、実用書、マンガ本(?)オンリーになりがちになのでしょうか?

 小説は物語でしかありません。
 そこに登場するいろんな人物は、作者が創りあげた人物であり、物語も虚構でしかありません。
 しかし僕は思うのです。

 ありとあらゆる人物や歴史背景や物語の展開のなかに、自分とは違う人の生き方や考え方があります。
 自分では体験することのない世界がいろいろ描かれています。
 実社会のなかで知りうることを超えた、想像ではあるけれど、そういうものがあります。

 さまざまな人間の社会や考え方や生きざまというようなものが小説には登場します。
 それを、自分のことのように疑似体験をするのが小説ではないかと、いわば「追体験」ということです。

 小説が何の役に立つのか?と考えると、実社会の自分の体験では知ることのできない体験をすることが出来るということであります。
 人の考え方はそれぞれだと言います。
 そう言いながら、人はなかなか多様性というものを実感として理解しにくい。
 そういう生き物だと思えてなりません。

 歳を重ねると、ますます人への関心も薄れ、ともすれば「頑固」とか「固定観念」とか言われる頭になりがちです。
 小説を読むというのは、創造上の人物や物語であっても、自分とは違うもの、考え方、感情を知ることにつながります。

 そういうものを、つまり「追体験」を何度も重ねながら、自分とは違うものににたくさん出会うということだと思うのです。
 柔軟な頭を維持するにも、多様性を知り、感情・感覚として理解できるのが「小説が何の役に立つのか」という問いにたいする、僕の考え方であります。
 実用書ではそうはいかないでしょうし、テレビドラマはどうしても自分で思考するよりも与えられるものの方が多いと思います。


 こういう未整理な文章も、いろんな小説を読んで触発されるものです・・・ははは。
 
 

 

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2013.06.13

猛暑日を走る

6月13日(木) 名古屋35.7度・・・暑い日の日記

 6月にして猛暑日の名古屋、たまりません。
 所用で過っての自転車通勤していた道を走りました。
 およそ片道13キロ。

 車道や裏道を走ると、よくもまあ7年も8年も朝晩自転車を走らせていたものだと我ながら感心してしまう。
 出勤という目的があると、普通のことになるのだなぁと思い、やはり自転車散歩とはわけが違うのであります。

 気温が35度を超えると「猛暑日」、30度以上で「真夏日」、アスファルトの地表は40度を超えていたのでは・・・
 さしずめ「地獄日」とでも言うのだろうか。
 熱中症計の針が「警戒」領域を示し、警報アラームがひっきりなしに鳴る。

 その暑さの中でKさんと1時間半ほどの「作業」をしたが、とにかく暑い、じわじわと汗も出て、被ってる帽子の中は警戒領域のようなものだった。
 水筒の水分をこまめに取って、日陰を選ぶ、半そで短パンの夏スタイルも、全部脱ぎ捨てたくなるほどだった。

 「作業」を終えて、近くの喫茶店に飛び込むと、やっと「熱」から解放される。
 喫茶店も繁盛していた。
 暑いと嘆く人もいれば、暑いと商売になる人もいるのは、あたりまえのことであります。

 今朝はカラ梅雨模様だったので、洗濯機をフル回転させ、シーツを外に干して出かけた。
 午後の3時頃を過ぎると、にわかに北の空に暗雲が広がって、「洗濯物が・・・」
 おちおちしてられないと、来た道を猛スピードで帰る。
 あわてて洗濯を取り込んでしばらくすると、豪雨がやってきた。寸前セーフだった。

 また今年も暑い夏がやってきた。
 思ったほど疲れることも、熱中症状もなく、これならば「今年の夏もあちこち自転車を走らせられるだろう」と。
 備えあれば憂いなし! 体は使うべし! と思う本日なりぃ~。

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2013.06.11

サイクリングin京都

6月18日(火) のんびり走る京都市街、自転車アルバム

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【京都・嵯峨野 祇王寺の苔むす庭園】


 梅雨の晴れ間というより曇りの日曜日、お友だちサイクリングで京都へ。
 今回はレンタル自転車を中心に9台で京都の市街を走りました。

 サイクリングの形はいろいろあって、一人自転車の旅、夫婦でサイクリング、家族で走るサイクリング、友人たちと連ねるサイクリング・・・
 そういう、いろいろな自転車のそれぞれの愉しみ方があると思うが、「家族で走る」これは実現したことがないし、これからもないだろうなぁ~。

 というわけで、のんびり走る京都サイクリングのアルバムを載せてみた。


■ 出町柳市営駐車場から嵯峨野方面へ
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 今回は京都市街の道路が中心のコース。
 走るだけならばママチャリでも十分だけど、30キロを超える距離には「尻が痛い」と嘆く声がでるだろうなぁ。
 「どうしたらお尻が痛くなくなるの?」と聞かれるが、「慣れ」が正解だと思う。

■ 路地を走ると電車にも遭遇する
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 京福電鉄北野線の電車だと思う。
 金閣寺、龍安寺、仁和寺・・・名だたる寺をふっ飛ばし、西へ西へと走る自転車軍団というわけだ。
 ここらが京都市街観光サイクリングとはちょっと違うのだなぁ~。

■昼食どき、地元の方に教えてもらう
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 昼食はおいしい京料理がよい! と探していたら、自転車の走りやすい道や昼食の安くて美味しい店を教えてもらった。
 「ゆばのあんかけ定食」1000円也、京の小料理屋ふうのお店。
 なかなか美味、写真を撮るのも、店の名前も忘れてしまった。

■渡月橋で一息いれて記念写真
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 「記念写真を撮りましょう」という声で、桂川ぞいに自転車を停めて・・・
 見る人が見れば誰かがわかる・・・ちなみに、20歳台から60歳台まで年齢の幅が広い。
 自転車が生涯スポーツだという証明というのは言い過ぎか(笑)

■観光客を乗せた人力車も走る
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 観光都市京都だから普通の光景。
 むしろ普通じゃないのが、京都にきて嵐山界隈を自転車で走ってることのほうかも知れない。

■竹林を見ながら・・・
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 「自転車で走りたかったの・・・」
 観光客とすれ違いながら、そんな話ごえが聞こえてきた。
 そうだろうなぁ~、ヘルメット姿のサイクリストもいたが、9台の自転車軍団も珍しいだろうなぁ。

■浴衣姿のお嬢さんに遭遇
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 ハンドルにデジカメを付けて撮ってるとこういう写真もあるわけで・・・
 うしろ姿の美女二人・・・だと思う、じろじろ見ないのは当たり前(笑)

■外国人のお二人も
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 さすがに国際観光都市「京都」ですね。
 ごくごく普通の街並みでも・・・京都。
 こう言うと情緒もなにもなくなるが、旅というのは、ある意味「幻想」の上に成り立つものだ思うこともある。

■不機嫌な猫
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 御髪神社という。なんでも髪がふさふさに・・・というご利益があるそうだ。
 そういう話題で盛り上がった神社に、不機嫌な猫がいた。
 この自転車メンバーは、人を楽しませる話題が上手だ、猫にも話しかけてやってくれ。

■奥嵯峨野の路地
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 もう20キロ以上走ってるだろう。
 「冷たい飲み物が・・・」「甘いものが・・・」


 
■甘味処
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 ・・・というわけで、嵐山の観光客でごった返すメイン通りから一本奥まった甘味処。
 午後のティータイム。
 走る、見る、休憩する、食べる、飲む・・・という人間の根源的要求が集団化されれば、どこかに入らねばならない。
 9台の自転車が停められるのと9人が一同座れるのが最低条件になる。

■珈琲セットとかタロットカードとか
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 持参したタロットカード占いをS君が始めた。
 なにやら可笑しな絵カードが何やら意味をもって、何やら笑ったり・・・
 修学旅行のトランプ遊びに興じる楽しさに似ているかな。

■帰路
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 京都市街の道路は名古屋と比べてやはり狭いと思う。
 その狭い道を車が通りぬける、人も自転車も・・・。
 いっそのこと、自転車観光都市にして、サイクルレーンを整備したら「京都議定書」の趣旨に添うのじゃないかと、深くわからないまま思う。

■レンタルサイクル店
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 無事戻ることができました。
 大きな事故もなく・・・僕は迷子になりました。段差で滑ったりとかもありました。お尻と手が痛くなりました。
 楽しく一日過ごすことが出来たのが一番でした。

■記録
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 走行距離:34キロほど。
 走行ルート:出町柳の市営駐車場から嵯峨野までの、のんびり市街サイクリング。

 

 

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2013.06.10

失念する

6月10日(月) 休刊日・休館日

 6月初旬にして台風が発生し、日本にも上陸するのかという情報を新聞で確認しようと思ったら新聞休刊日だった。
 台風3号の名称は「ヤギ」というそうだ、名前はともかく南太平洋上で発生した3つ目の台風、この季節に日本へ向かうのはちょっと早すぎる気もする。

 梅雨時の台風の影響で、今週の半ばは雨の降る可能性もある。
 図書館の返却日が明日に迫り、雨の中自転車で行くのも辛いからと、本日図書館に出かける。
 出かけてしばらくして、今日は図書館の休館日だったのを想いだす。
 失念していた。

 仕事から離れると曜日感覚が鈍るのか、それとも日常に対する感覚の鈍化なのか。
 図書館が365日オープンしていればこんなことは起こらないだろうと・・・
 ・・・とは思わない。
 たしかに借りる人にとっては便利かも知れないが、はたして一年中オープンしていることが必要なのだろうかと僕は思う。

 人の命に係わる公共性の高い病院や消防や介護などは、一年365日、24時間の体制を維持して欲しい。
 そういう体制はもっと社会資本として充実する余地がまだ残っている。
 しかし何でもかんでも休みがないというのはどうだろう、利便性が増して社会のニーズに応えるといえるのだろうか?

 終日営業する店舗が増え、交通機関も終日営業が検討され、社会全体が不夜城のような文化。
 そんなものが必要なのかと思う、休みなく社会が動き続けることは、休みなく人が働き続けるしくみの社会ということに他ならない。

 どう考えても人の生活サイクルとは相いれないと思われる。
 深夜まで働く人が増え、10時11時になっても、地下鉄口から帰宅する人の数は多い。
 競争社会だから、人が休んでいる間こそ利益になる、営業時間を拡大して不眠不休のシステムにすれば利益になるということだろうが。

 「便利なこと」の社会が、人の暮らしを破壊してまでも必要なのかと思うと、高度な資本主義社会というものが、恐ろしく非人間的な社会に見えてくる。
 週に一日図書館の休館日があってもいいものだし、社会そのものがスローな暮らしになってもいいものだと思う。  

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2013.06.05

東海道五十三次の関宿・亀山宿にゆるゆると出かけた話

6月5日(水)ブロンプトンで行く輪行自転車一人旅ってことで・・・

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【東海道五十三次(関・亀山)自転車散歩】

 今日は暦の二十四節気「芒種」といって、穀類の種まきの季節だということらしいが、近くの小学校が借りている田んぼの田植えがされていた。
 ちょっと不揃いの苗が小学校の子どもらの田植えらしいと思う。
 また今年も秋の収穫まで田んぼの季節ごとの風景を楽しませてもらえそうだ。

 さて、昨日の話だが、梅雨の晴れ間にと三重県の東海道五十三次の関宿・亀山宿に自転車で出かけた。
 ただいま「輪行」練習中である。
 自転車を袋に詰めて、列車に乗って出かける。
 一人旅にはちょど良い方法だと思う。自宅から30キロほどならばいつでも行けるが、隣の県までとなると列車に乗せて行くのがいい。

 今回の自転車は折りたたみ自転車「ブロンプトン」がお友達。
 ゆるゆると出かける自転車旅、輪行に適した自転車としては、このブロンプトンはお手軽自転車といえる。
 ・・・ということで、輪行練習中なので記念スナップで旅のところどころを撮ってみた。

【自宅から、お出かけですか~レレレのレ~♪】 
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 右端には本日の資源回収ゴミ袋が出してあります。
 「遊ぶことには元気なんだから~」と妻が言う。
 「何もすることなく、ゴロゴロとテレビと喫茶店では不健康なのです、歳を重ねるごとに元気にならねばならぬのだ」と、まあ本音半分、言い訳半分。

【名古屋駅のホームで】
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 自宅から10分も走れば名古屋駅。
 この距離は輪行には最適であるが、ちなみに「名古屋の良いところは?」という質問に「全国のどこにも行ける位置にある」と回答する人が多いそうだ。
 
 9時過ぎの関西本線、亀山行の快速列車に乗る。
 料金は950円、本日の旅の足代はしめて1900円也、被扶養家族の身としては実に健全で健康的な娯楽、レジャー、スポーツ、ストレス解消術というわけだ。

【輪行列車の乗り頃】
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 平日は通勤客、通学の学生さんで混む時間帯を避けるのが賢明といえる。
 7時~8時台を避けて、6時台かもしくは9時台にする、当然6時台は諸般の事情が許さない。
 車中は空いていたので良かったが、座席横のドアとの間の空間に自転車を置く。
 自転車の置き場を確保するのが輪行初心者の悩みどころといえる。

【車窓の田園風景】
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 都会に住んでると、こういう風景がやたら恋しくなるもので、もう田植えは済んでいる。
 JR関西本線も四日市を過ぎたあたりから、けっこう穏やかな景色になるものだ。

【亀山駅前で自転車を組み立てる】
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 亀山駅には1時間ほどで到着した。
 ほんとうは次の関駅で降りて、ゆるゆる関宿、亀山宿あたりを走るよていだったが、列車を乗り継ぎしなければならないので、ここは亀山駅を起点にすることにした。
 駅前で自転車を組んでると客待ちのタクシーや乗降客の視線が気になる・・・だれも気にはしてないのに、そう思ってしまうのが初心者というものだ。

【鈴鹿川にそって亀山から関宿に向かう】
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 地図を読むのは難しい。
 一人で出かける時は、GPSと地図を持って行くのだが平面の地図と立体の町風景・・・
 知らないということは何と面白いことかと思い、次にはこの道で良かったかと不安になる。
 まあ、違ったらそのとき考えよう・・・誰にも気兼ねする必要のないのが一人旅のよさかな?

【麦畑】
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 誰かさんと誰かさんが麦畑~♪自転車を脇に放り出して・・・
 こんなに近くで麦の穂を見ることも久しくないことだ。
 ほうほう、こんなんで、あんなんで、なるほど~。
 まるで遠足のような気分である。

【おやおや案山子じゃないですか】
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 案山子って秋の風物詩じゃないか?と思いつつ、緑の田の苗に立つ案山子が清々しい。
 このまま鈴鹿川にそって走れば関宿につくだろう。

【関宿(関駅まえにて)】
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 東海道五十三次、江戸から数えて47番目の宿場が「関宿」である。
 ここから西へ少し走れば東西追分の「西の追分」、宿場街道筋の起点であり、鈴鹿峠の手前になる。
 こういうスナップにちゃっかりと自転車を入れるのは、自転車好きのブログでは誰もがする定番。
 こういうのは、撮ってる本人は嬉しい、見る人は「あっそう」であるのも定番。

【宿場風景の始まり、始まり・・・】
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 1.8キロメートルにわたって出格子の昔の町屋風景が続く。
 旧東海道の宿場町のほとんどが昔の姿を残していないなかで、唯一残る歴史的な町並みとして、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているそうだ。
 あたりまえだが電柱と電線がない、ついでに平日だから人の姿も見かけない。

 
【虫籠窓(むしこまど)】
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 平入りの二階建て、二階前面を漆喰で塗り固めた格子窓が目を惹く。
 「虫籠窓」というそうだ・・・とパンフレットに書いてある。風情があるなぁ~
 と見ながら歩いていたら、「東海道を歩きなさるのかね、これをどうぞ」と見知らぬ人から声をかけられる。
 「ええ、そうですが。(歩くというより自転車で走るのだが、まあいいか)」

 正調鈴鹿馬子唄保存会「東海道五十三次クイズ 馬がもの言うた」とある。
 
 Q:東海道五十三次となぜいうのか?宿でも良いのに。
 A:馬による荷物の運搬・・・次の宿場に引き継いで行くから「次」の言葉になった。

 といった話が手作りで書いてある。ちなみに安藤広重の職業は下級武士で火消し職人だそうな。
 おもしろい話である。

【地蔵院】
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 741年行基菩薩による開創、国の重要文化財・・・ふんふん、なるほど・・・腹が減ったなぁ。

【地蔵院前の会津屋で昼飯を食べる】
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 いつも昼飯はおにぎりが美味いと言ってるので、こういうところでも食べるという証拠写真。
 事前の調べでこの「あいづや」さんで食べようと決めていた。

【山菜おこわとミニざるぞばのセット】
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 こういう写真も普段は撮らないが美味そうだったので・・・事実美味かった。
 おこわに鶏肉が入ってたが、鶏肉は食べられない僕が、これは食べた・・・というのが衝撃である。
 
 「おしながき」を眺めていたら「小万の仇討の話」が載っていた。

 昔、仇討に出た身ごもった娘が、この地蔵堂の前で行き倒れとなった。それをみかねた旅籠山田屋(いまの「あいづや)が介抱して児を産んだが娘は死んでしまった。その児を「小万」といい、山田屋の養女のなったのち、母の仇討を知り、母に変わって仇討を見事に「小万」が成し遂げた。・・・というお話の舞台がこの店。
 人情仇討話である。

【折りたたんで自転車】
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 店の前にはすぐに道路となっていて自転車を置くスペースが無かった。
 折りたたんでテーブル席の横に置く、ブロンプトンしてやったりのドヤ顔である。
 「自転車ですか、小さくたためるのですね、車にも積めるんですね~」
 小ぶりの店だったが、人情味もあって「宿場の食事処」としては、良かったなぁ。

【宿場町の街道風景】
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 向こうのお山は鈴鹿峠になるのだろうか

【東の追分】
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 関宿の「東の追分、終点である。
 ここからJR関西本線を右手に亀山宿へと走るのだ。


【亀山城跡】
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 旧東海道の道を走ったつもりだが、少々迷う、迷子である。
 道に迷うときの心細さは一人旅につきもの、とりあえず亀山城跡を目標に走る。
 デジカメのバッテリーも心細い、亀山城跡といっても残存するのは「多門櫓」
 さすがに6月とはいえ、午後の日差しはきつい、おまけに坂もある。
 西町から町屋を抜けて、と言っても関宿のように町屋が軒を連ねているわけではない。
 さらに東の亀山ローソク工場あたりまでの2.5キロが宿場。
 そろそろ帰りの列車の時刻も気になるが・・・

【亀山駅の帰りのホーム】
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 亀山宿はゆっくりと見ることができずに、途中で断念した。
 3時半頃の快速列車に乗らないと、乗り換えに時間をとられる。
 駅で自転車をたたみ、トートバックに収めてホームに出ると10分前・・・本日の旅程の終了である。

【記録】
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 走行距離:ゆったり25キロほど。
 費用:交通費1900円、昼食代と飲み物1400円 合計3300円
 なんとまあ、贅沢な(笑)一日輪行ポタリングだったことか。
 一泊すれば、もっと足跡は広がるだろうと思うが、この先の愉しみでもある。

 お読みくださった方はお疲れさまでした。こういう記事は本人の自己満足であります。
 その自己満足があってこそ、楽しい自転車生活が続くということでもあります。
 
 

 

 


 

 

 
 


 

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2013.06.02

我田引水

6月2日(日) 蛙がゲロゲロ鳴き出した


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 ここ数日蛙のゲロゲロと鳴く声が開け放した窓から聞こえてくる。
 田んぼに水が引かれ、いよいよ田植えのシーズンが到来して、土の中で眠っていた蛙も起きだした。
 都会の田んぼは珍しいけれど、毎年この季節がやってきて、蛙の声を聞くとホッとする。

 田舎ならばあたりまえのことだが、季節感が薄れて行く都市生活者の残り少ない潤いである。
 庄内川から用水を通って引き込まれている水である。
 透き通った水底にタニシもいる。もうすぐみずすましもスイスイと泳ぎだすだろう。

 こういう風景をいいものだと、たかだか小さな田んぼだけれど、貴重な自然だと思っている自分がいる。
 「歳をとったということかしら」と妻に言われる。
 円空仏の話や田んぼの話をしていると、高れい者特有の話題だと思われているようだ。

 そうかも知れないし、そうでないかも知れない。
 若者にとっての自然はどこまでも紺碧の海であり、白き残雪をいただく高い山々、そういう風景なのだろうか。

 手ごろに自然にふれることが出来る時代になった。
 バスツアーで富士山登山さえ容易になって、もう日本中探しても観光客が来ない自然などほんの僅かしか残っていないのだろう。

 自然にふれあおうと行く野や山や海のハードルが下がり、どんどんと自然から離れて行く。
 それでも、時間に追われ季節感も薄れて行く都市生活者にとって、都市からかけ離れた自然というだけで、日頃の閉塞感やストレスから解放されるというものだ。

 「田んぼに水が引かれ、蛙が鳴き始めた」などと言っても、そこには何があるのだろうか。
 ただただ毎年繰り返される6月の都市農業の風景でしかない。
 昨年も、一昨年も、その前も・・・なんの変わりもしない「田んぼと蛙」の営み。

 そういうものに気持ちがゆくよりも、生活スピードが速くなり、都市自体が潤いを失くして、自然にふれあうには、都市から出て行かなければならなくなったということか。
 でも、ほんとうにそうだろうか。

 このゴチャゴチャした都市、ビルと車の排気が渦巻く都市、不夜城のような人工灯が24時間輝き続ける都市。
 うんざりするほど潤いのない暮らしだから、だからごく些細な自然の姿を探す。
 変わり映えのしない単調な暮らしに、せめて自分の感覚だけは新鮮でいたいと希望する。

 朽ちかけた片隅のアパートの玄関横にあじさいの花を発見する。
 ひび割れたアスファルトの割れ目から、雑草が不屈の精神を見せている。
 こういう時代だからこそ、意識して都市の暮らしのなかの潤いに目をやる、自転車に乗って・・・
 「自転車に乗って・・・」やっぱり「我田引水」と謗られるかな(笑)
 

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