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2013.05.10

天気の良い日は自転車散歩にかぎる

5月10日(金) 津島市の円空「千体仏」を見に行く

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            【津島地蔵堂(左)】

 愛知県津島市の「津島神社」や「天王川公園」にはもう5~6回は行っている。
 自宅から15キロほどの距離なので西部方面はこのくらいが散歩にちょうどよい。
 といっても、自転車でよい距離で、歩けば遠すぎるし車では近すぎる。

 風薫る五月という。
 田んぼや住宅地を走ってると、土の匂いがする、田んぼの匂いがする、小さな町工場の油の匂いがする。
 そういう季節と生活の匂いが、風に乗ってやってくる。
 五月というのは新緑につつまれて、戸外の空気を胸いっぱいに吸い込むのが気持ちいいのだと思う。

 少し前に図書館で円空の本を三冊借りた。
 「円空と木喰」「円空を旅する」「歓喜する円空」、その中で愛知県津島市の「津島地蔵堂」に千体仏があると知った。
 昨日のこと、津島神社から東に少し行った道沿いに千体地蔵堂があった。

 写真でみると地蔵菩薩像を中心に5~7センチの小さな仏像1008体が光背の形で配置されているようだ。011

 残念ながら堂の観音扉は閉まっていて見られなかったが、その右どなりに木っ端仏が何体か見ることが出来た。
 完全な形でで今に残っている円空作の千体仏はここだけだというから、まことに残念だったなぁ。

 こういう千体仏は当時の庶民の地蔵信仰と結びついていたのだろう、他の千体仏では家族や使用人の名前を仏像に収めて、信仰心を表したものもあるという。
 大きな寺院の仏像も信仰の象徴だろうが、木屑や切れ端から木っ端仏を作り、貧しいが信仰心の厚い人々のために彫仏した円空仏のほうが、はるかに人々に近い。

 円空にとっては生涯12万体の仏像を彫り続けることが信仰そのものであり、人々への布教そのものだったに違いない。
 小さな木っ端の仏像を家々の仏として大切にする。

 神仏習合の時代には、自然の樹木にも大いなる神々が宿っていた、その木屑であろうとも木っ端仏は、庶民信仰には合致していたのだろう。
 今日の「家内安全・交通安全」のお守りを大切にする習慣によく似ているともいえる。

 ちょっと荒削りで、誰にでもできそうな円空仏の雰囲気であるけれど、やはり違うわけだ。
 「仏つくって魂入れず」という諺がある。
 見かけは立派なものでも、権勢欲や見栄ばかりで中身が無いことも少なくない。
 荒削り、素朴な木の持つ自然な感じ、円空仏がなんだか身近なものに思えてくるから不思議である。

 今まで知らずに見ていたかも知れない円空仏も、これからは意識して見るに違いない。
 もう少し円空について知りたいと思っている。
 

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コメント

15キロ・・・ぶらり自転車散歩するにはいい距離ですねぇ・・・そんな所に円空仏が見れるなんて最高ですね。

投稿: マミケン | 2013.05.13 10:25

自転車散歩も生活のリズムのようなものですね。
何か特別なものというより、自分の暮らしのなかで、気が付いたり知ったりした事を、楽しむことができればいいと思っています。
世の中探せばいろいろ出てくるものですね。

投稿: ちょっと一休み | 2013.05.14 01:06

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