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2012.10.16

俳句とゲイジュツ

10月16日(火) 人はみなゲイジュツ家である!と誰かが言った

 この数年、俳句に無い知恵をしぼっています。
 と言っても、いつもコメントをいただいているマミケンさんの「俳句寓話会」に投句させていただいてるだけですが。

 俳句はほんの数年前、ブログ日記で路地裏の白壁が続く風景を5・7・5と詠んでみようとしたが、とんと句にならなくて、いやはやなんとも俳句は難しいものだと嘆いたものでした。
 それを読んでいただいたブログ仲間の方が、「私だったらこんな句よ」と、素直に作ることを教えていただきました。

 季語も知らず、5・7・5と詠めばそれらしくなるぐらいの頭が、そうか素直に詠めばいいんだと。
 まあ、そんなのがきっかけで、自転車通勤のサドルの上で遊びのつもりで5・7・5・・・
 その後、前述の「俳句寓話俳句会」に投句の誘いをいただき、無い知恵をしぼりながら投句するようになりました。

 ただ風景を5・7・5とするだけだったのが、季語や切れや、少しずつ知ることも増え、何よりも「僕の下手な句でもそれが一つの形になる」という面白さを知りました。
 つまり人目にさらされてナンボじゃないかと、まあ理屈をつけただけでしたが、人目にさらすというのがけっこうやる気と勇気を起させるものでした。

 俳句は(だけじゃないですが)、その人の生活や感じ方がでます、なによりも人生観のようなものが、上手かろうが下手だろうがしっかり表われますね。
 人の俳句を読むのが面白いのは、たった17文字のなかに見える、その人の心象風景を覗くようなものです。
 そこに、その人が持つ固有の心情などが見事に詠われていたりすると、これはいいなぁ~と思います。
 まあ、それほど俳句について詳しくないから、いいなぁ~と思う句は、詠んだ瞬間に決まります。
 
 だから俳句も含めて芸術というものの意味は僕にとっての意味でしかないのです。
 100万ドルの絵画よりも、僕の気に入った絵ならば、それが箸袋にチョコチョコと書いたスケッチであっても、何倍も意味があります。
 とまあ、これは「思い込み」のなせるワザです。

 ゲイジュツとは、そんなことを何万回も繰り返し、繰り返し、時代に淘汰され、現代なら商品価値のあるものが、その時代の一流の芸術作品と称されるだけでしょう。
 絶対的な価値は僕の中にしかないのです、もう少し言えば、知識も知恵もないとしても僕の評価がその価値であって、立派な芸術家や批評家がどんなに称賛しても、それは僕の価値観と違うわけです。

 人に惑わされるとロクなことはありません。
 政治だって同じことです。
 自分で判断した以上の正しいことなど、どこにもありません。
 「わからない」というのは、わからないという自分の価値観を言ってるだけで、自分の知らない人や場所に、何か正しいものがあるはずはありません。

 まあ、そうは言っても、どうも自分自身が詠んだり書いたりするのは苦手で、それほどの価値があるとは思えないという、論理矛盾なんですが・・・
 これは自分で作るより他人の作品を鑑賞するほうが、僕にとっては楽しいと思うところからきています。

 人は誰でもゲイジュツ家だと僕は思っています。
 人はピアニストにもなれれば、小説家にも、詩人や画家にもなれる、それが本来の人間の資質なのでしょう。
 ただ、環境や教育や成長過程や切磋琢磨とか偶然とか、そうしたものが本来の資質の開花を拒んでいるだけで、資質とか才能というものは人間50歩100歩、いわば個性の範疇というのが本質的なところでしょう。

 「何も表現しない」普通の人は、普通に生きてきた人生そのものが作品であり、その人は作者なのだと思うのです。
 だから、一流とか二流とか言うのは、自分自身がその瞬間に表現している人生が一流か二流かってことだけで、ひたむきに生きてれば、その人生が素晴らしいゲイジュツなのだと思うのです。

 生きているだけで素晴らしいというのは、そういうことでしょう。
 案外、世の中には人間にまさる芸術作品なんてないのかも知れません。

 久しぶりに?ゴタゴタと理屈を並べながら、あともう一句・・・やはり無い知恵を総動員して、投句のしめきりに間に合わせねばと思う今日この頃なのであります。(笑)
 

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コメント

ははは、お世話になっております。俳句の投稿よろしくお願いいたします。

そう作品なんか何にも作らない人でも、ただ生きているだけで素晴らしい・・・これは確か、いろんな苦行を経たブッタが最後に辿り着いた悟りの境地だったと思います。

芸術は「売れている」から1流なわけでもない。ロココ時代の画家など、当時のパリで1流とされたサロンの画家など、現代ではまるで評価されていません。

つまりは歴史なる物も「現代」の目を通した評価であり、永久不滅の価値ではないのです。もしかしたら、今の気分で「好き」「嫌い」を言うレベルで芸術を見た方が、よほど「素直な目」で見たことになるのかもしれません。ははは

投稿: マミケン | 2012.10.17 11:19

ブッダの悟りの境地ですか、知りませんでしたが、たしかに誰しも生きていること、それが素晴らしいと思います。
それって唯一の自己肯定だし、そこからしか人間の営みや文化などは生まれないですからね・・・
でも世の中には何かに追い立てられるように生きてる人もいて、いつまでも自己充足感が得られないから、前へ前へと終わりなき満足を追求する。
それを生きる原動力と言う人もいますが、僕には理解できません。
なかなか「悟りの境地」ってのも難しいものです(笑)

ところで「自転車通勤禁止」とは、また時代にそぐわない話ですね。
エコでメタボ予防でストレス低減、仕事も活力アップ・・・よい事ばかりの自転車通勤ができない東京という街が伏魔殿のように見えてしまいますね。(笑)
まあ、通勤も含めての雇用契約がサラリーマンを縛り付ける辛さでしょうか・・・


投稿: ちょっと一休み | 2012.10.18 00:23

オーストラリアの友人も「こっちでは国として奨励しているのに・・」との話。詳しくはフェイスブックhttp://www.facebook.com/kenji.mamiya.7に参加してね。こっちで「友達承認」すると見れるシステムなんだと・・・・良く分かんないけれど。

恐らくは関西辺りで、クレーマーにいちゃもん付けられてトラブルになったケースがあったのではあるまいか?まぁ全部僕の想像でしかありませんが・・・今のクレーマーは一昔前のヤクザ以下なのではあるまいか・・・企業としてはトラブル回避なんでしょう。「交通費渡しているんだし」と。

投稿: マミケン | 2012.10.18 11:01

こんばんは。
韓国あたりでは思い切って自転車を交通政策に取り入れる方向に転換したという話も聞きました。
歩道を走るのがあたりまえの国は日本だけのようです。
もっとも、ママチャリという自転車は歩道を走ることを前提にした自転車なのですね。
自転車レーンがあちこちに作られれば、そのレーンを走りやすい自転車が普及するでしょう。
では自転車散歩はどうか?僕は歩道を走る必要になると、時速5~8キロとか、歩行者と同程度のスピードですね。
そして自転車は散歩の行動範囲をぐんと広げてくれるから嬉しいですね。
自転車通勤禁止はクレーマーが原因だったとは。クレームを目的にする輩はへ理屈だから困ったものです、話がかみあいませんし。
僕は東京という街が自転車危険地帯かと思ってしまいました。(笑)

投稿: ちょっと一休み | 2012.10.18 22:43

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