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2012年5月

2012.05.31

没頭する本

5月31日(木)  司馬遼太郎「空海の風景(上下)」 中央公論新社

 久しぶりのブログ更新で、何やってたんだ?と・・・
 まあ、いろいろあって、それほど器用でもない僕は、あれはあれ、これはこれ、と上手にできない性質でもある。
 これは「解りやすい性格」ってことでもあるが、辛抱強さに欠けているともいえる。
 それに比べて、労働者ってものは本質的に「我慢強い!」と、日々働いている友人を見て、つくづく思う。
 しっかり見習わなければと、サラリーマン生活を終えた今になって、情けないが気が付いた。

 先週、ブックオフで文庫本を5冊ほどまとめ買いした。
 永井路子の「歴史をさわがせた女たち」日本編・外国編・庶民編と司馬遼太郎の「空海の風景(上下)」。
 5冊で1500円ほどなので、読みたい本があるときは古本でも「しめた!」と思うものだ。

 このうち「空海の風景」は上下2冊で800ページほどの長編小説。Img032
 短編好きの僕にとっては、久々の長い読み物になる。
 そもそも司馬遼太郎が好きというわけでもないし、日本の仏教に興味があるわけでもない。
 むしろ、司馬遼太郎は短いものを少し読んだくらいだし、仏教の何たるかなど全然わからない。

 信仰心など無縁な暮らしをこの歳になるまでしてきて、さて残りの命の長さにふと信仰心が甦った・・・という心持でもないから、ただただ、空海という坊さんが生きた時代を読んでみたいと思ったにすぎない。

 しかし、難解な小説である。
 仏教思想の系譜すらわからない上に、その用語も、いやはや別世界を覗いているようなものだ。
 もっか、下巻の中程まで読みすすんでいる。
 生い立ちから、遣唐使の一行として中国に渡り、密教の教義・経典を日本に持ち帰って・・・
 司馬遼太郎という作家の歴史考察の凄さに圧倒される、というのが正直な感想である。

 と、同時に空海という人物のダイナミックな生き方にも大きな魅力を感じる、ただし、その仏教的な教えが何たるものかなど、ほとんど理解の範疇外。
 それでも、けっこう没頭して、この間の日々を費やして読んでいる。
 普通は2~3日で、投げ出してしまいそうなものだが、ここは自分でも摩訶不思議なものだ。

 空海は「弘法大師」、僕が育った中で数多い宗教者で、最初に覚えたのが「弘法大師」だった。
 実家の隣に「弘法さん」という名前の建物があって、あとから弘法大師に関係すると知ったものだ。
 保育園に通っていた頃、母親の瀬戸物工場で椅子に座った弘法大師らしき粘土細工を作って「神様、神様」と得意になってた記憶がある。

 つまり、案外身近な存在だったものだが、ただそれだけが空海と自分の憧憬的な関わりだった。
 さてさて、実に難解な本・・・ほとんど知らない世界と言いかえてもよい本だが、没頭して読んでいると、最低限の空海の生きた時代の情景が浮かんでくるのはたしかだ。

 仏教界のことがわからなくても、空海という人物の奇譚を含めた人生が想像できる。
 およそ理解できるのは半分以下でも、やはりおもしろい小説である。
 目の前の実利的なあれこれの解説書や小説では味わえない、少し意識を自分というものから遠ざけて、歴史とか時代というものに、没頭する感じでもある。

 「人は何のために生きるのか」「人生とは何か」と、そういう思春期に考えたあの感覚。
 あれは、自分という意識を自然や歴史のなかに遠ざけるものだったが、そういう感じのような気もする。

 目先のあれこれに捉われすぎた日々を自省するには、こういう本に没頭するのもよい方法である。

 

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2012.05.24

花どろぼうと花ごころ

5月24日(木) 街なか散歩で見っけてしまった・・・

 良い天気だったので、気分転換に街にでかけました。
 まだところどころ、昔の風情が残る路地裏などあって、こういう場所は心が和むものです。

 瓦屋根の古い格子戸の家があって、いったいどんな人が住んでるのだろうか。
 その格子戸にからまるように赤い花が咲いています。
 味気ない街でも、花ひとつで、ぐんと活気が感じられるものです。

 むこうから、歳の頃なら70過ぎのおばあさんがやってきました。
 手提げ袋を腕にかけ、花の前に立ち止まるや、1輪、2輪、3輪ほど盗って行きました。

 ちょっとだけ躊躇してたけれど、この垣根のようにいっぱい咲いてる赤い花。
 すこしばかり盗ってもわかりません。

 昔からのことわざに「花盗人は風流のうち」と言います。
 ついつい花の見事さに惹かれて一枝折ってしまうのも風流なので、ことさら咎めることもないという意味です。

 これが鉢植えされた花を根こそぎ持ってったならば、せっかく大事に育ててる家人もきっと悔しかろう。
 街角の花すら目に入ることもなく、慌ただしく去ってゆく人もすくなくない。

 はてさて、おばあさんは持ち去った花をどこに挿すんだろう。
 一人暮らしの台所、テレビの上の花瓶かも知れない。
 いいえ、窓辺に飾って愉しむのだろうか。

 盗られた花は何を思ってるのか。
 淋しさをちょっと紛らわす「ちいさな幸せなのさ」と思うのだろうか。

 花を盗っちゃいけません・・・と、法律にも決められてる。
 けれども、もしも、そんな一人暮らしのおばあさんの家の中で、大事に大事に飾られたら。
 花にとっても嬉しかろうな。

 帰り道、都市農園のネギばたけの柵に書いてあった。
 「ネギを盗らないでください」
 もっともです。
 自転車散歩の風景でした。

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2012.05.21

雲間の金環日食

5月21日(月) たしかに天体ショーだったなぁ

 朝からスマップが登場したりして、テレビの各チャンネルは金環日食報道で一色だった。
 日本では何十年ぶりだとか、名古屋では百何十年ぶりだとか・・・

 日頃、空など見上げることもない人たちが、金環、金環、キンカン、キンカン。
 呆れちゃう御仁ばかりだ!と言いつつ、横やりを入れつつ、ふん!とか抜かしつつ。
 一週間前から、日食グラスが売り切れるらしい、という巷の商戦に乗っかって、チャッカリ用意して、世紀の天体ショーなどを見ていました。(笑)

 少し太陽が欠け始めた7時頃から、7時30分の金環日食まで、名古屋では雲間であったが、しっかり観測できました。
 7時30分といえば、サラリーマンは出勤時、小学生も登校時間。
 近所の方から「見えるわ~」なんて声も聞こえてきたから、やはり「世紀の天体ショー」だったのだろう。

 自然というものは、実におもしろいと思う。
 日本列島を縦断する金環日食の観測地点図などを見ると、人間の科学の力に素直に驚嘆するが、惑星探索ロケットが飛ぶ時代だから、いまどき、そんなことに驚く方がおかしいのか。
 しかし、こういう金環日食が何月何日に何処で観測できると予測する、科学・天文学は凄いと思う。

 そうしたことに比べると、なんと人間は非科学的な生き方ばかりしているのだろう。
 あいつが悪い、こいつが悪い、つまらぬ意地をはってみたり、諍いに明け暮れたり・・・
 言葉を使う人間が、その言葉で心を通わせられない、貧しさというか、情けなさというか。

 「人は見ていなくても、お天道様はお見通しだよ」
 
 その太陽のなかにすっぽりと月が入り、まるで黄金のリングのような金環日食だが、難題をかかえる僕の気分はお天道様にぽっかり黒い穴があいたようなものだった。

 今度は太陽を金星が通過する天体ショーがあるという。
 880円で買った日食グラスも、また役に立つだろう。
 
 

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2012.05.19

読みふける「今昔物語」

5月19日(土) 気を病む日々です

 生きてるといろんな問題にぶつかるもので、それも生きてる証拠だと、余裕をもって言える日はいい。
 けれども、心のどこかに刺さった棘のように、いつまでも残り続ける日は、実に落ち着かない。

 気分転換とか気晴らしという言葉があるが、我が家の住人は妻を除いて、あまり上手ではないようだ。
 では「嫌な気分になったときはどうする?」と、ひとつ教えを乞うてみた。
 「あはは、聞こえない、聞こえない、考えない、どこかで声が流れて行く~」ということらしい。

 僕は、どうしても落ち着かない日は活字の世界に没頭するようにしている。
 本に集中していれば、気に病むことも気分のなかで溶けてゆくようなものだ。

 そんな都合の良い読書など数少ないものだが、福永武彦訳の「今昔物語」はその一冊。

 第一部「世俗」第二部「宿報」第三部「霊鬼」と読んでいる。
 「世俗」は世間話、「宿報」は因果応報、「霊鬼」は百鬼夜行のような奇怪で恐ろしい話、とでも読めばよいようだ。
 独特な「今は昔のこと」から始まり「という話である」に終わる平安末期の文学。

 解説で池上洵一はこの今昔物語の位相を「『今昔』は『源氏物語』や『枕草子』で代表される王朝文学の系譜とはおよそ無縁の、全く次元の異なるところに生まれた文学である」と書いている。
 今昔物語は説話集だと言われ、作者というか編者がだれかは不明である。

 ただ、おそろしく膨大な数々の物語を読んでいると、当時の文化が見えてくるような気もする。
 たとえば「宿報」と分類された話のほとんどは、先祖や親や行いの報いが、そのような結果を生んだのだ「という話である」と結ばれている。

 貴族武家社会、身分制度に拘束された暮らしに結論を求めようとすると、「因果応報」はどのような事柄にも当てはめることが出来る、というか、そのような納得の仕方でしか庶民の暮らしは成り立たなかったということだと思う。

 では「霊鬼」ではどうか、百鬼夜行のような恐ろしい現象や死霊、鬼神、怪奇な話がこの説話のほとんどだ。
 残してきた妻のもとに都から帰ると死霊となって夫を迎えるとか、死んだ夫が死霊となって妻のもとに現れる。
 そういうものが多いのだが、これらは圧倒的に女性が鬼になり死霊になったりする話である。
 当時の女性が社会からも男からも虐げられた存在であったことを物語っている。

 抑圧された感情が死して、なお亡霊になり、あるいは鬼人になる。
 いやはや、現代からすれば、想像を絶する女性の地位だったに違いない・・・「という話である」

 まあ、それでもこんな和歌が挿入されている。
   しでの山こえぬる人のわびしきは
           恋しき人にあはぬなりけり
 亡霊となって妻の元にあらわれた夫が、死んでしまって恋しい人にも逢うことができないと嘆く歌である。

 恋人や妻へのストレートな心情を込めて歌ったり、逢瀬を重ねたり・・・たしかに、そういう意味では、現代のわれわれよりも純粋だったのかも知れないと。
 男心がそう解釈したがるものなのだが。
 まあ、身勝手な恋というものはいつの時代にもあったようだ(笑)

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2012.05.17

ちょっといい詩 「今昔物語」

5月17日(木) 和歌を添えて鏡を手放す話

       けふまでとみるに涙のます鏡
             なれぬる影を人にかたるな
 

 【 感想 】

 福永武彦訳の「今昔物語」(筑摩書房)を読み始めた。
 その中に収められた「和歌を添えて鏡を手放す話」に出てくる歌である。
 平安の時代、世の中が飢饉で苦しんでいた当時、京の町の屋敷に鏡を売りに来た女がいた。
 立派な鏡箱を開けると、和歌が添えられていた。
 という、その和歌である。

 大事にしてきた鏡を飢餓と貧困ゆえ手放さなければならない、その女の切なさが三十一文字に込められているなぁ~と思う。
 今昔物語は天皇から庶民まで、飾り気のない淡々とした物語として綴られている。
 古典を原文ではよめないけれど、その時代の社会の隅々まで想像できるおもしろさがあると思う。
 僕は退職していいと思ったのは、こうしてゆとりを持って本を読めることに尽きるのだ。


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2012.05.15

手紙ふう

5月15日(火) 前略

 天気予報通り今日は雨の一日でした。
 天を見上げれば、大きな雨粒があとからあとから落ちてきて、白いTシャツが水玉模様になってしまいました。
 雨の日は、ほんとうに嫌な日です。

 いえ、そうばかりでもありません。
 地に目を移せば、耕運機が入ったばかりの田んぼが水溜まりになって、田植えの季節が近いことを知ります。
 ああ、先日植えたばかりのアサガオの蔓が、ほんのわずかに伸びていました。
 窓の外の新緑だって、なんだか活き々々して見えるます。
 雨降りは嫌だと思うのは人の奢りというものでしょうか。

 お昼過ぎから、久しぶりに数人でのミーティングがありました。
 やはり、本音といいますか、心を開いて話せる仲間というものは、この雨とおなじように心を潤すものです。

 「人には、そういう潤う人たちが必要ね、そういう場所が見つかると、こんな人たちと出会えてよかったと思うものですね」というHさんの話に頷いてしまいます。

 もう、私よりも5つほど年上のはずですが、この気持ちの清々しさに出会うと、自分自身もなんだか10も20も若返ったような気になります。

 そういえば85歳になられた、お仲間が原発の怖さを小さな文章にまとめられたそうです。
 「とてもわかりやすくて、郵便で皆さんに読んでもらいたいぐらいなのよ」ともお話されていました。
 幾つになっても、自分の思いを文字にして、人に伝えようとするきもち・・・そういう気持ちの持続は素晴らしいものです。

 でも、良い話ばかりでもありません。
 心ない方の障がい者への行きすぎた行為という話も入ってきました。
 あしたは予定を変更して、出勤して対処しなければならなくなりました。

 児童虐待防止法に続いて障がい者虐待防止法ができてまだ一年ほどしか経っていません。
 「しつけ」という名もくで続いてきた、これらのことにも、やっとメスが入ったとの思いです。
 法律を中身のあるものにしてゆくのも、やっぱり人の作業によるものですね。

 今日は暦の七十二候では「竹笋生(ちっかんしょうず)」というようですよ。
 タケノコが生えはじめる頃という意味だそうです。
 吸い物にも煮物にも、とてもおいしい季節ですね。
 お義母さんから頂くタケノコは大好きですが、妻はそれほどでもないようです。

 嗜好の違いなんですね。
 考えてみれば食べ物の好みは、どうも昔からウマがあいません。
 そりゃあそうですよね。人なんて文化も違えば、育った環境も違うし、今の今だって心の在り様はきっと違うでしょう。
 こんな違いは死ぬまで続くのでしょうが、たかだか食べ物のことです。
 違いがあったほうが楽しい人生を送れるというものですね。

 とりとめのない手紙になってしまいました。
 文章を書くという機会が少なくなりましたね。
 メールといっても箇条書きで味も素っ気もないものが増えてきたようにも思います。
 文末に添える「乱筆乱文」という言葉が懐かしい時代だと思えてなりません。
 こういう、整理されない文章も、たまには良いと思いませんか。

 では、くれぐれも、お体をご自愛くださいませ。

                                      草々
 
 

 

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2012.05.13

10年前の一冊

5月13日(日) 天童荒太「あふれた愛」

 友人から借りた本や紹介された本はほとんど読むことにしている。
 それでも読み切れないと、ついついそのままになって、頭の片隅に「あの本はまだ未読だ」といつまでも残る。

 読めなければ返せばいいものだが、きっと何か思うところがあって貸してくれたと考えると、ついついそのまま本箱の一番前に鎮座し続ける。
 読み終えたら必ず返しますので・・・。

 ところが、本棚を見てると、これは自分の買った本じゃない、というものが数冊ある。
 子どもの本でもないし、誰かから借りっぱなしになっているのか。

 そういう本は、自分の興味の範疇から大きく逸脱している・・・と思うから、借りたときにすぐ返せばよいものを、そうもしない無頓着さは、生来の性質なのだろうと思う。
 まったく、相手にすれば迷惑な話ではある。

 天童荒太「あふれた愛」(集英社文庫)も、持ち主知らずで本棚の片隅に眠っていた。
 多分、Tさんから面白いと勧められた一冊だと思われる。10年も前のことだ。

 この週末に何気なく読んだ。なかなかどうして心のなかに沁みこんでくるような小説だ。
 不器用で、傷つきやすく、それでいて壊れてしまいそうで不確かな男と女の愛。
 そうした、優しさと脆さをもちつつも、生きることの真実にひたむきな登場人物の愛の話。

 病んでしまうことは、何だか今の社会では、ある意味避けられないことのように思われる・・・と、僕は思えてならないが、そうして傷ついた男や女たちが、そこに真実を見つけようとする姿は、とても切ないし、とても純真でもある。

 この不透明で疲れてしまう社会のなかで、「あふれた愛」を読み進めると、ほどほどのところで自己完結したがることが、いかに薄っぺらな自己満足なのかと思い知らされもする。
 まあ、そういうちょっと心の底に沁みる短編小説である。

 やはりTさんに借りた本だと思う。
 おそらく、あの頃は成就しない恋に悩む友人がいたりして、そんな話をしていたから。
 男と女の世界は、ボタンの掛け違いやズレや、傷つけあいながら優しさを求めたりと、不思議な世界だと思う。

 そうしたものにもTさんは敏感に感じるものがあったから、貸してくれたのだろう。
 そのTさんから、今年の初め「離婚しました」と連絡があった。
 「あふれた愛」と重なるものがあったのだろうか・・・

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2012.05.12

週末風景

5月12日(土) 「アサガオ」と「太閤祭」の土曜日

 小さなプランターとアサガオを3株ほど買った。Img_0010
 玄関脇に園芸用のネットを張り、夏には日差しが少し遮られたら嬉しい。
 
 朝、義母が太閤祭だからと、稲荷寿司と巻き寿司を届けてくれた。

 「祭りだからね」といって去年も、一昨年も、いやもう何年も続いているが、それが義母の祭りの年中行事になっている。
 この先の何年か後には、それが「祭りの想い出」になる日も来るのだろうか。

 せっかくだからと、その足で近くの花屋に行くことになった。
 僕はアッシーであるが、この数年は「どんな花が欲しい」と聞いてくれるので、「今年はアサガオを植えたい」と。

 花屋に並べられた何種類もの花を見ても、何やらカタカナ名のものばかりだ。
 アサガオだって、ドイツアサガオとか、咲く花の模様や色も違って、たくさんある。

 よく分からないが、アサガオはアサガオでいいんじゃないかとも思う。
 ただ、この夏に弦の先に、大きなあおあおとした葉と花弁の開いた花が咲いてくれれば、夏らしくていいと思う。
 妻はもう少し別な思惑があるようで、「これで、ちょっとは僕がその気になって花の世話をしてくれれば」と思っているようだ。

 アサガオと日々草と小ざっぱりした名前の知らない花を、あわせて10株ほど買って、猫の額ほどの花壇の雰囲気もちょっと変わった。
 「カーネーションも買おうか?」と言ったら、「カーネーション咲いてるでしょ」と返答され・・・
 そうだっけ、「こてまり」は気が付いたが、まだまだ花名札に頼らないと難しい。
 まっ、いいか。

 品種が多すぎるのも、ほとほと困ったものだと僕のような人間は思う。
 しかし、先月に買った「苺」などは青いが小さな実をつけたのを、気にして眺めているこの頃なので、自分で買えば、やはりちょっとは気にするものだ。
 
 Img_0022

 午後から、珍しく「太閤祭に行ってみる?」と妻が言う。
 祭りと言っても「露天商」がずらりと神社の参道わきに店を並べいるくらいだ。
 それでも「トウモロコシと綿菓子が食べたい」と妻はいうから可笑しい。
 昔ならば、子どもも連れて一緒に出掛けたものだが、二人連れで行くのも久しぶりだ。
Img_0026 5月に、この太閤祭があって、6月には西枇杷島の祭りがある。
 夏の前哨戦みたいなもの、そして今年も夏本番がやって来る。
 露店が並ぶ道を歩きながら、毎年同じような店ばかりだと思う。
 「昔ならひよこや亀なんか売ってたけれど、ひよこを買ったら、どんどん大きくなって鶏になっちゃって・・・」

 妻の子どもの頃の太閤祭の想い出である。
 今はそんな手間暇かかる商売よりも手っ取りばやい食物露店ばかりだ。
 それでも若者たちのグループや親子連れで賑わっている。それも現代の祭り風景。

 リング焼き、とうもろこし、玉せんべい、五平餅、シロコロホルモン、ベビーカステラ、綿菓子、広島ふうお好み焼き・・・
 食べ物ばかりずいぶん買い、脇のベンチに腰かけて食べる。
 美味いか?って、露店と人出で賑やかな雰囲気だからこそある味わいてところだ。
 一時間ほど、ただただ人の流れにあわせて、祭りの雰囲気を楽しんだ週末だった。
 
 

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2012.05.10

「ガラスのうさぎ」

 5月10日(木) 朗読と高木敏子さんのインタビュー

 図書館で借りたDVDの2本を見ることにした。

 家城巳代治監督「みんなわが子」と「ガラスのうさぎ」で、どちらも太平洋戦争末期の日本の姿を綴るもの。
 ただ、残念なのは映画「みんなわが子」は三分の一ほどでDVDが止まってしまう。
 貸出DVDに傷があるようで、借りる人の取り扱いの悪さが残念でしかたない。

 「ガラスのうさぎ -言葉の力で平和を築く-」
 こちらは作者である高木敏子さんのインタビューと朗読が収録されている。

 作者の戦争体験をもとにした「ガラスのうさぎ」は本として出版され、映画化、アニメ化されているから、平和を望む多くの方には、よく知られた話だろう。

 以前、NHKの東京大空襲の番組をテレビで見て、その悲惨な光景は目に焼き付いていた。
 しかし僕は「ガラスのうさぎ」という本はまだ読んだことがなかった。
 図書館で借りたDVDが、これを知るよい機会になったというわけだ。

 太平洋戦争末期の日本。1945年3月10日の東京は米軍の猛爆撃のより10万人以上の死者をだした。
 この空襲で、高木敏子さんの母と妹は亡くなり、その後に疎開する途中で父親も米軍戦闘機の機銃掃射で亡くなっている。

 「ガラスのうさぎ」のタイトルは、東京大空襲で焼けた父親が経営していたガラス工場から見つけた、溶けかかったうさぎのことだ。

 戦争の「語りべ」はヒロシマでもナガサキでも67年という歳月を経ると、だんだんと少なくなっているという。
 そういう意味では、こうした作品の朗読と作者のメッセージがDVD化され、僕らが知りえることの意義も大きい。

 インタビューで高木敏子さんは言います。
 『 戦争を起そうとするのは、人の心です。戦争を起させないようにするのも、人の心です』

 戦争体験を語る方々のメッセージは、いつも「今を生きるあなた方一人一人の問題なんですよ」と問いかけていると思っている。
 語り続けることや考え続けることの大切さなんだろう。

 また一つ、図書館で見つけた、日本の歴史の真実だったと思っている。
 

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2012.05.08

手術

5月8日(火) 通院手術に付き添う

 午前中、目の手術を受ける妻に付き添って総合病院に出かけた。
 何年か前に、視力が衰え像がぼやける病気になって、一度手術を受けた。
 その時にも、白内障のような症状が出てくると宣告されていて、ここ数年悪化してきていた。

 病院というのは、どうも性に合わない。(性の問題でもないが)
 ・・・と、僕は気ままに言ってればすむが、妻の方は目を被う膜が弱っていると、まれに上手く処置出来ないこともあると、ドクターから説明されているので気が気でないはずだ。

 待合室には、大勢の患者さんが椅子に腰かけて順番を待っている。
 身体のどこかに具合が悪い方がこんなにも大勢いることが不思議に思える。

 受付を終え手術の時間もまじかになったので、一旦自宅に戻る。
 目の手術は全身麻酔をするわけじゃないから、まさに目の前に手術器具が見えるという。
 これは恐ろしい話だと、痛みに弱い僕はゾ~とする。

 昔、献血をしたさい、刺さった注射針から大量の血が噴出する妄想にかられたことがある。
 その途端、全身から血の気がなくなり貧血状態になったことがある。
 あのころは、なぜか「出血」というものに抵抗力がなかった。
 だから目の前に眼球をいじくりまわす器具が見えた途端に、僕は貧血を起こすかも知れないと思う。

 昼過ぎに無事手術が終わったと連絡が入り迎えに行く。
 右目に大きな眼帯をしていて眼鏡が使えないという。
 薬の処方までに時間がかかるので、病院の二階の喫茶店で軽食をとる。

 「やっぱり痛かった?」
 「痛くないはずないでしょ」
 そうだろうなぁ~愚問だと思う。
 子どもの頃から全身7回ほどの手術歴がある妻は痛みには強いという。
 「僕だったら卒倒してしまうかなぁ」
 「そうかも知れないね。」
 「前の手術のとき、男性の患者が手術台に乗った瞬間、あまりの恐怖で失神して中止になったって」
 「で、どうしたって」
 「次の時は目の手術なんだけど、全身麻酔してから受けたんだって」

 こんな話をしながらサンドイッチを食べている妻は、実に身体にメスを入れる恐怖心なんて、超越しているように見えてくる。
 けれども、ほんとうは不安や恐怖心や複雑な心境で手術に臨んだことを僕は知っている。
  

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2012.05.07

ちょっといい詩 「小さな恋の物語」

5月7日(月) 寺山修司の詩

 小さな恋の物語

 恋を見たことある?
 ない 恋人ならあるけど
 恋はどんな形をしていると思う?
 形なんかないよ
 じゃあ 色は?
 色もない
 匂いは?
 匂いもない
 じゃ おばけだね
 そう 恋のまたの名はおばけだよ

 ドアをあけて眠りましょう
 あなたのおばけ
 恋がそっと入ってきてくれますように  
                     (「寺山修司少女詩集」角川文庫)

【感想】
 庭のラティスの物置の上に、二匹の猫が仲よく寝転んでいた。
 雌猫(と思われる)一匹は、目ざとく僕を見つけて逃げ腰になる。
 ところが、もう一匹の雄猫は丸い目をさらに丸くして、たじろぎもしない。
 五月のとある午後の風景だった。

 猫にも恋ってものがあるのだろうか?
 そりゃぁ恋ってものじゃなくて、命の営みってものだろう。
 人間だけが「おばけの恋」に魅せられて、幾年月たとうとも恋い焦がれる。
 寺山修司の詩の面白さが、そこにある。
 ・・・と、何気なく書棚から引っ張り出して読んでみた寺山修司詩集。
 
 

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2012.05.05

サツキとつつじ

5月5日(土) 立夏

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                             【庄内川の堤防道に咲くつつじ】

 街の植え込みにつつじの花が咲いている。
 公園や民家の庭にも赤やピンクや白や・・・
 この時期、群れて花をつけるつつじの華やかさは、ひときわ目につくものだ。

 この「つつじ」とよく似た花が「サツキ」。
 僕には区別がつきにくいが、4月下旬から5月の花期なのが「つつじ」。
 「サツキ」のほうはと言えば、アニメ「となりのトトロ」のメイとサツキを思い出す。
 小学生の頃「サツキちゃん」という可愛い女の子がいたのも、ついでに思い出す。
 女の子の名に付けるならば「つつじ」じゃなくて「サツキ」の方だろう。

 庄内川の河川敷のサイクリングロードも新緑の風景となり、ところどころ「つつじ」の鮮やかな色が飛び込んでくる。
 花の名前など知るのは僅かだけれど、どこにでも咲いてて、それでいて季節を感じさせてくれるのも「つつじ」
 ぼんやりとした日常に華やかな色を添えてくれる。

 まあ、つつじの花言葉は「努力・訓練」というようだ。
 GWあけの「五月病」で憂鬱な心持になった時、雑踏の中に咲く「つつじ」を眺めて、ちょっと頑張ってみようと・・・そんな花かも知れない。
 
 

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2012.05.03

腹巻とハンドルバーテープ

5月3日(木) 好きな事をして過ごす日が一番だ

 連休だからといって、どこかへ行く予定もない。
 以前ならGWの残りの休日を数えて「あと何日!」と、ちょっと暗かった(笑)
 今は休日と仕事の境目がグレーゾーンなので、GWといっても格別どうということもない。
 まあ、暮らしなんて感動に満ち溢れているわけじゃないので・・・
 とはいえ、ものごとに感情を動かされなくなるってのも、だめだろうな。

 朝、「梅ちゃん先生」を見終えてから、一日が始まった。
 庭の掃き掃除、花壇の手入れをする妻の手伝い。
 注文しておいた車のシートカバーが届いたので、さっそく取り付け作業・・・これが、意外と時間がかかる。
 雲りの天気予報が外れ、日差しも出ると暑いくらいだ。

 昼過ぎには、午後の「うたた寝」、読書しながらの昼寝ほど気持ちのよいものはない。
 部屋の窓を全開し、風が心地よく流れる。
 が、これがいけない。腹を冷やしてしまう。

 夕食の買い出しにスーパーへ行く。
 「腹巻を買おうとおもうのだが・・・」
 あの、寅さんだっていつも腹巻スタイルだった。
 ちょっと野暮ったいが、腹巻は絶大な効果があるに違いないと自己暗示をかける。

 夕方、中日ドラゴンズの勝利を見届けて、自転車のメンテナンスをする。
 ハンドルに巻いているバーテープの交換。
 白色から、青のテープに変えた。
 もう、何度もやってるから要領はえたものである。
 最初の頃はきつく巻きすぎてプッツリ切れて、2000円のテープがゴミ箱へ直行したこともあった。
 自転車のドレスアップってわけだ。

 スカイブルーの色。
 ちなみに、今年のドラゴンズのユニフォームは濃紺になった。
 「強いチームに見える」という声もあるが、昨年までのスカイブルーの方が僕は好きだ。

 変わり映えのしない日常というのは、ただ、何となく過ぎて行くようなものだ。
 人の一生のほとんどは、何もないような日々だと思う。
 ほとんど記憶にすら残らないような一日でも、好きな事をして過ごせたと実感できることが貴重なんだろうと思う。

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2012.05.01

夏も近づく八十八夜

5月1日(火) 「雑節」という

 文部省唱歌の「♪夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る」、子どもの頃に歌ったものだが、今の小学校でも歌われているのだろうか?

 「八十八夜」は立春から数えて八八日目で、今年は今日がその日にあたる。
 今日、5月1日は労働者の祭典メーデーでもあるが、どちらも少しセピア色がかかっている。

 今日は日中には手元の温度計が28度を示していた。
 もう、初夏の陽気で少し戸外を歩くと、汗がじんわりと出てくる。
 僕は寒いよりも暑い方が好みである。
 体型的にも見るからに夏好みだと思うのだが、こういう話は女性の前では、いや妻の前では良い顔をされない。

 それにしても5月の初日から、この暑さだと夏本番の頃には、ぐんぐんと気温もあがるのだろう。
 毎年のことだが、夏本番の前に思いきり炎天下を自転車で走るようにしている。
 そうして身体に「夏の暑さ」を沁みこませると、エアコンなどなくてもひと夏過ごせてしまう。
 暑い暑いと言って、部屋の中に閉じこもっていると、やっぱり自然の体温調整機能も鈍るってものだと思う。

 5月にして夏の話題とは、いくら季節の先取りだといっても、おかしなものだ。
 さて「夏」っていう語源はどこから来たのか?
 僕の虎の巻「歳時記カレンダー」にはこう記されている。

  「なつ」は「暑(あつ)」、「りた」、「熱(ねつ)」からの転訛といわれる。
  「夏」の初形は舞楽用の冠と面をかぶって舞う人を描いた象形文字。
  夏(か)と呼ぶ舞楽をこの時期に行うところから、四季の呼び名になった。
  夏の色は赤である。

 いささか暑苦しい解説になってしまった。
 ついでに言えば暦日の二十四節気とか七十二候などと違い、「夏」は季節のうつろいを正確に掴むための補助的な意味合いとして設けられた「雑節」というそうだ。

 季節もちょっと調べてみると、なるほど日本的な情緒があるものだとわかる。

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