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2012.02.21

続・仕事

2月21日(火) あんな仕事、こんな仕事・・・

 「労働とは人が意識的に労働力を用いて自然に働きかけ価値を生み出すことである」
 と、これは某有名な人の労働の定義であるが、何を言いたいのかというと、給料を得る仕事も、家事の仕事も、広い意味では、等しく人間の労働であるってことで、給料を得ている夫や妻(ははは、我が家のように)だけが、働いているってことじゃない。

 明日も会社で働く夫や妻のために、食事を作り、洗濯や掃除をするのも、立派な労働です。ただ、給料は出ないけれど(笑)

 ところで振り返ると、いろんなアルバイトをやってきた。
 初めてのアルバイトは郵便局の年賀状配達だったし、その後は母親の勤めていた町工場のアルバイト仕事。
 高校生になって夏休みのキャンプ場のアルバイト、3週間ほどキャンプ場に泊まり込んで、貰った給料で九州一周の一人旅、駅のベンチでも寝たし夜行列車も使ったし、友人の友人の知人宅で泊めてもらったり、おもしろかった。

 高校を出てすぐに勤めたのが就職関係の情報会社だったが、営業で夜学に通えないからとあっさり退職し、あれこれアルバイトに精をだした。
 キャディもやったし、惣菜の弁当詰め込み作業もやった。
 うどん屋の店員もやったが、ここは昼食と夕食が出たので、バイト代は家賃と学費と本代で消え、いつもピーピーしていたのを思い出す。

 そこを辞めてからは、夜学のバイト斡旋票をみて測量設計図を描く会社のアルバイトをした。
 素人だから言われたとおりに線を引いたり、簡単なレタリング文字を書き込んだり・・・
 子どもの頃から美術と図画工作だけは好きだったから、この仕事は一日図面に向かっていても楽しかった。 
 会社の出張では山奥のダム工事現場の測量もしたりして、最後は社員にならないかと誘われたが、もう今では覚えていないが適当な理由をつけて断った。

 夜学で友人たちと文学談議をしたり、夜中までワイワイ騒いだり、ちょっと色っぽい街に出かけたり、短い期間だったが、この時期はもっとも「青春ぽくって」面白い頃だった。

 それから、「いつまでもフラフラしててどうするんだ!」と長兄の叱咤もあって、やっと定職につき、以降給与生活者の暮らしを昨年の春まで続けてきた。
 当時は「就活」なんてどこ吹く風、「そのうち何とかなるだろう」と、あの植木等の歌じゃないが、未来も希望も輝いていたような気がするから、今のような大学も就職する会社の下請けのようなご時世とは、ぜんぜん違ったわけだ。

 余談だが、この「ぜんぜん」というのは否定形で使ってた時代なので、テレビで「ぜんぜん大丈夫」などと、猫も杓子も肯定形で言われると、いやはやどうにもこそばゆい、と言う時代だった。
 「産学共同」と言えば、学問の自由を失って、企業の求める人間像つくりじゃないか!と、学生自治会もハンドマイクで構内アジ演説をしていたが、そういう空気を吸った学生たちも、いつしか50代60代の年齢になっている。

 仕事っていったい何だろう。
 食べていくための労働というだけでは、なんとなく寂しい。
 かと言って「好きなことを仕事にする」と言い切るほど世間は甘くない。
 いやいや、もう近代産業は熟練した労働者に機械がとってかわり、複雑なPC処理仕事が人間に置き換わって、単純作業の集積が事務仕事の姿になった。

 サービス業とて、もう熟練した知識よりも、細分化された分野に特化された仕事が要求されている。
 いや、連続テレビドラマ「カーネーション」の糸子のような、店先でお客の要望を聞いて、仕事を大事にするなどという商売は、大量で安価な労働力を背景にした外国産の物に淘汰されてしまった。

 情報産業も、良いものを創ろうというよりも、この競争社会の中で、生き抜くためには媚び諂ってでも、売れ筋のものを創るしかないのだろう。
 つまり、自分の好きな職業を選んだとしても、自分の好きなものじゃなくて、売れるかどうかを基準に、好きでもないことを、日々やらされる運命になる。

 「労働疎外」というのは、この社会では避けて通れないわけで、そこを踏ん張ろうとすると、大きなストレスと格闘したりすることになる。
 これをして「労働者残酷時代」と思うが、あの「男はつらいよ」のタコ社長の経営する中小印刷会社のような、家族労働の雰囲気は、もうどこに残っていないだろうと思う。

 汗水流して安い給料で印刷機を動かして「いやんなちゃうなぁ~中小企業は経営が苦しくて・・・」とタコ社長が言う、その中小企業の経営も苦しいのは今も昔も変わらない。
 が、あの仲間思いの職工たちの雰囲気は大きく変わってしまっただろう、今は。

 僕は小さい頃、皆が描くと同じようにパイロットに憧れ、大鵬・巨人・卵焼の世代よろしく、相撲取りにも憧れた。
 他愛もない夢物語の時期も過ぎると、大工とかデザイナーとかそうした職人的な専門職に就きたいと思ったりもしたのだ。
 しかし、そんなものは進路指導の現実の前に、これまた夢物語となって、ごくごく平凡な事務員・現業員の仕事になった。

 人と関わる仕事が一番苦手だったから、福祉の仕事を始めても「この仕事は好きだ」と思ったことは一度もない。
 好きか嫌いかという選択よりも、今自分が出来ることを一生懸命やる・・・仕事だから。

 そうやって、最も苦手な人間関係の職業を、何十年とやってきたのには、半ば自分でも呆れるが、そうやって続けてこられたのも、いろんな人の支えがあってのものと思う。
 仕事は自分一人の力でやってきたと思ったら大間違いだと思う。

 今でも職人のような仕事をコツコツ続けられたらなぁ~と思うが、果たしてそうであったとしても、それが上手くいったのかわからない。
 働くというのは、日々をいかに暮らすのかということであって、人生なんてどの道を進もうと、立ち入ったその場所ごとで、最善の方法を考えるのということでしかないと思う。

 働くことは楽しいか? 楽しくもあり苦しくもある。
 「良い人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」と言った最後の瞽女小林ハルさんの言葉の真実が身に沁みるなぁ~。

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コメント

小・中学校時代の夢を実現して仕事に付いている人はどれくらいいるのだろう?その人は果たして幸せなんだろうか?

僕のその頃の夢はマンガ家。でも手塚治虫の「火の鳥・未来編」とその後の言葉にショックを受け「これ以上のマンガは描けないなぁ」とあっさりマンガ家志望はやめてしもうた。中学校時代より鉛筆石膏デッサンが好きだったから「これで受験できる学校ないか?」と思ったら芸大のデザイン科がそうだった。だから、そんなにデザイン好きでもないし、当時知ってる色数なんか20色くらいだったろう。ははは

仕事は何をやっても大変。ただ「恋愛結婚」のように「自分が選んだんだから、しょうがない、頑張ろう」と思えるかどうかですね。また「見合い結婚」でもだんだんその仕事が好きになる場合もあるでしょうし・・・

投稿: マミケン | 2012.02.21 08:52

職業を選択するだけの力が高校を卒業するときに自分にあったのかと、今から考えると無かったような気がしますね。
親だって、田舎出でそれほど世間のことも詳しくなかったから、成り行きで社会に放り出されたって感じでした(笑)
ある意味「集団就職」とおなじですね、だから社会に出て、そこから自分がどう生きるか考えだしたように思う。
親の経済力はほとんどあてにならないし・・・自分も世間知らずで、「め〇〇、蛇におじず」今思うと実に危なっかしいわけで、よくここまで生きてこれたって実感するのです。
そういう道半ばで出会えた人たちが、優しい友人だったのが救いかなぁ~、一歩違ってたら、また違った仕事や生活になってたと思うのですね。
そういう自分だったので、我が家の子どもたちが、なんとなく大丈夫なのかな?と、きっとおせっかいな心配性なんでしょうが・・・

投稿: ちょっと一休み | 2012.02.22 00:03

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