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2010年6月

2010.06.30

何かしていなければ不安になる?

6月30日(水) 雨も困るが暑いのも大変だなぁ

 梅雨前線は停滞しても、夏の暑さはしっかりとやってきている。
 妻も子も皆一日出かけて、誰もいない家に帰ると、昼間の30度を越える気温に熱せられた空気が部屋中に充満している。
 窓を全開して、暖まった空気を逃がしてやるが、熱を持った家は、そうそう涼しくならない。
 日本の家屋は「夏を主とすべし」という、暑さ対策が日本の棲家の基本だというのは当を得てる。
 なかなか涼しくならないので、扇風機をまわす。
 湿気も多いからエアコンもつけてみる。

 ほんとうは、冷房などを使うのは、ひと夏のうち数日くらいなのが我が家だが、今年はちょっとイレギュラー。
 エアコンはたしかに涼しくなるが、どうしても好きになれないし、体も疲れる。

 日本の家屋は欧米型になってしまった。
 屋内と戸外の間の空間というものがなくなって、土間や縁側といった気温を調節する空間も、エアコンに取って代えられたってわけだ。
 戸外の風を部屋に引き込んで涼を得るなんてこともないから、アルミサッシに二重ガラスで遮断する。

 大きな部屋よりも、家族の人数に合わせた部屋の間取りをとって、それがプライバシーと独立心なのかと言うと、どうもそうとも思えない。
 まあ、理想はいろいろあるが、結局は我が家も時代の流れにそった家になっている。
 ちょっと抵抗したのが、窓を多くとって、風の流れと採光をを確保する・・・些細な抵抗でしかないが。

 というわけで、来年の今頃はこのうだるような暑さと格闘することになるだろう。
 冷房の効いた職場とは異なる「我が家」で夏の暑さ対策を講じなければならなくなるから、「家」ってものが何たるかが分るかもしれないと思うと・・・愉しみだ。

    ・・・・・・・・・・・・・中断・・・・・・・・
 娘が部屋にやってきて「お父さん何書いてる、見せてよ、いいじゃない」
 さっさと寝ろ~
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「退職して何をするの?」と聞かれるから「何もしない」と返事をしている。
 「何もしない」とは言え、食事や家事はするだろうが、「趣味に生きる」とか「○○が第二の人生・・」などとは考えていない。

 どうも、人は「何かをする」のでなければ不安になるようだ。
 文化教室で知識を身につける、趣味の何かをする、再就職とかボランティアとか・・・
 「退職して何もすることがないなんて、おかしくなりそう・・」と言われることもある。
 
 現代人は、何かをしていなければ不安でしかたがないのかも知れない。
 まるで、ケイタイでメール交換していなければ、存在感とコミュニケーションを喪失してしまうのではと思う気持ちと同じだ。
 いつもいつも「何かをする」ことに価値とか充足感を感じていると、まるで人生はイベントの連続のようなものになってしまう。
 いや、それはそれでいいのかも知れないが、ひとそれぞれ。

 走りつづけている。
 走りつづけていると、立ち止まることに不安になる。
 「何もしない」人生があってもいいじゃないかと思う。
 ひねもす、のらりくらりと生きてても、それが自分の暮らしならば、それでよいと思う。

 田を耕し自然とともに生きる!
 ・・・などという人生は、田舎暮らしのロマンに過ぎないのが都市生活者だと思う。
 密集した家が建ち並ぶ都市の暮らしのなかに、のらりくらりと生きることが出来れば最高だ。

 「何かをしていなければ・・・」そうして、走りつづけている人も、どこかで走るのをリタイアするときが来る。
 そのときが死ぬ一日前ならば、きっと充実した人生だったと思うかもしれないが、ふと立ち止まったときに、もし追い立てられるように生きてきたと思ったら、ちょっと淋しい人生になる。

 ごく普通の「つまらない人生」が、「つまらなくない日々だ」と思える、そんな暮らしを望んでいる。
 ふ~む、自動筆記のようなダラダラ日記になっちまった。
 寝る。

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2010.06.27

親離れ子離れ

6月27日(日) ふ~む

 「天気が悪くて自転車に乗れないから元気がないの?」と妻が言う。
 そういうわけではないが、ぱ~っと自転車に乗って戸外を走れないのは辛い。
 嫌なことはやらない、余分な努力はしない、頑張らない・・・もっかのところの信条だ。
 
 一週間ほど前から息子が一人暮らしを始めた。
 「ちょっと現実感がないだろう!」と10代で終えるはずの言い争いもして、一人暮らしを始めたってわけだ。
 朝起きて、食事をして、仕事をして・・・そういう、暮らしに目を向けるには「一人暮らし」は適している。
 瑣末な家事に気をまわし、食べて行くことが暮らしだという、単純な事柄が腑に落ちれば、そこからまた違った生き方も発見できると思う。

 その息子が今朝出張から帰ってきたので洗濯物が溜まってしまったと。
 どうやら、まだ洗濯機も購入してない様子で、持ち込んだ山のような洗濯物を、この湿気の多い日なので何度も洗濯機をまわす。
 おそらく、妻が家に居たら心置きなく頼むのだろうが、あいにくの仕事で一日いないから私の役目になった。

 洗濯の一つや二つ、なんぼでも持って来ればいい。
 ちょっと気になったのか、出張先の土産品「東京ばなな」を置いて「ありがとう」と。
 家にいたときは「ありがとう」って言葉もあまり聞いたことがない。
 ひとつの、親離れの始まりだと思うから、まあ元気でやれよ!と。

 娘と近くのスーパーに買い物に行った。
 食材やトイレットペーパーや日用品を見回ったが、娘は今日は友人のところに泊まり込むという。
 妻の帰宅は夜遅くになるので夕食は自分一人分というわけだ。
 「う~ん、お父さん今日はパックの寿しの夕食にしようかなぁ」と一人ごとをつぶやいてみる。
 一人暮らしの経験値はあるし、週末に一人で外食する淋しさはたしかにあるが、とりたてて気にもならない。
 ・・・のだが。

 「なんだか、一人家で食事をするお父さんが可哀想に思えてくるわ」と娘が言う。
 「あはは、淋しくもなんともない、夜遅くにはお母さんも帰ってくるから」
 親を「可哀想だ」と思える瞬間から、親離れは始まったということだ。
 親子は友だち感覚であってはならないと思っている。
 すこし距離をとって、客観的に見れるようになれば、これは始まりだ。

 来年の春先には娘の就職先がちょっと離れた地方都市になるかも知れない。
 そうすると、退職する私が「ひとり家に残る」ってことで。
 そういう環境を思い描いて、「可哀想」って感覚になるようだが・・・そんなことはない。 
 親にとって、子どもが自立して、自分の暮らしを作って行くことは普通のことだから。

 どうも、陰気な梅雨のような話になりそうだなぁ・・・
 一人遊びの得意な親だから、もうとっくに子離れは終わっている自分なんだなぁ・・・

 図書館で本を5冊借りた。
 先回は読み残しもでたが、今回は読みきれるか?などと思う。
 こういう日記は、自分への日記そのものだと思う雨の日曜日。
 

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2010.06.26

作品

6月26日(土) ムシムシと湿気がたまらんなぁ~って、土曜日

 今週はイベント週間だった。
 イベントっていっても、ちょっと話し合い、ちょっと残業・・・とりたてて楽しいものではない。
 考えてみれば、帰宅して僅か3~4時間で一日が終わるから、ほどほどに書いてるブログ日記も、けっこう時間を費やす作業ってことだが、まあ、そういう「いい加減さ」が自分らしいから、力を込めて自己主張することもないってことだ。

Img_0001

 青いダンボール紙に一枚の写真とひとつの貝殻が貼り付けてある。
 どこかは知らないが、海にむかって川が流れ込み、はるか向こうには青い海。
 その水平線の上には広い空がキャンパスのように白い雲を描いている。
 右下に、これも真っ白な貝殻が、透明なボンドをたっぷりに貼り付けられている。

 平面な写真に無造作に貼り付けられた貝殻が、これを貼り付けた人の心意気を表しているようだ。

 上手とか下手とかを通り越して、はみ出すほどたっぷりと塗られたボンドの量が、作者の思いを表している。
 いやなに、この写真は誰かがどこかで撮ってきた潮干狩りのスナップだろう。
 この白い貝殻は、みんなで出かけた、この砂浜で拾い集めたものだろう。
 人の感じ方はいろいろあるが、自分には素晴らしい作品だと思うわけだ。

 昼の昼食は配食弁当を取っている。
 季節のときどきには、こうした彼らの「作品」を届けてくれる。
 春先には、桜を形作った陶器を貼った手紙がそえられていた。
 次は七夕の「短冊」に願いを書いてね!ってことだ。

 少し前、彼らの作業場におじゃました。
 人なつっこい笑顔で、いやものめずらしさも手伝って、作業を中断させてしまったが。
 一つのテーブルを取り囲んで、何人かがそれぞれの工程を楽しそうに「作品」作りしていた。

 思うに「作品」っていうのは何だろう。
 装丁された文学、額に収まった絵画、ギャラリーや個展などで展示される芸術・・・
 まあ、どちらでもいいが、自分はこういう「作品」が好きだ!というだけだ。

 昼の弁当を届けて「今日はお魚と野菜と・・・」そう説明してくれる、ダウン症の彼女が作った「作品」かもしれないし、自閉症で同じ作業を黙々と続ける彼の「作品」かも知れない。
 だから、そうして考えると、誰しも「作品」をつくるチャンスがいっぱいある。
 彼も彼女も自分もミンナ、み~んなゲージュツ家なんだと思わずにはいられない。
 
 「これ、いい作品でしょう!」と誰かれなく声をかけて、今は自分の部屋の壁にしっかりと飾られている。
 何か創ってみたくなる!と言いはするが、有言不実行・・・そこが、呆れてしまう自分でもある(笑)

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2010.06.23

犬の観察日記

6月23日(水) 発情期

 我が家の愛犬の仕事は、毎日義母宅に出かけてアニマルセラピーの役目である。
 朝、家族が出かける頃になると、いそいそと自分も「その気」になっている。
 だから、日中は一人暮らす義母のよき友人の務めをしているわけだ。

 その愛犬ポン太が発情期を迎えている。
 一年に何回かの数少ない自己主張というわけで、クゥ~ンと情けない鳴き声を発する。
 戸外に連れて行けと、会話にならない犬語で語りかける。
 老犬の域ではあるが、日頃の変わり映えのしない暮らしに順応している中での、反抗でもある。

 最近は妻の仕事も多忙をきわめ、帰宅すると義母宅に愛犬を迎えに行くのが自分の仕事になっている。
 犬もそんな習慣を心得ているので、さっさと「家につれて帰れ!」という態度である。
 「うちの犬が『散歩に連れてって』と言うんだわ」とか「猫の言葉がわかるんだわ」と職場の友人が話す。
 まさか犬語や猫語がわかるはずはないが、それでも会話するという。

 一方通行の「愛情」を示して、しかたなく習慣のように反応する動物の気持ちがわかるとは思えないが、人間とペットの関係も、それほど単純じゃないと思う。
 単純だと思い込んでるのが人間で、せいぜい「喜」と「怒」の区別ぐらいだろう。

 動物の暮らし方を注意深く観察していると、その個性や特徴が見て取れる。
 例えば、気分の良いときの歩き方、足の運びかた。
 声をかけたときの視線や手足の反応・・・

 つまり、犬語や猫語の理解っていうのは、人間の側の気分に反応する感情ではなくて、人に無反応なときの動物そのものの、暮らしのスタイルをどれだけ理解するのかということだろう。

 今日も雌犬の匂いを嗅ぎ分けながら、暗い夜道の散歩。
 どこに、どんなマーキングがされているのか、人の目では理解できないテリトリーを確認している。
 厚く覆われた雲の合間から、輪郭のボケた月が出入りしている。
 月明りに照らされて、ちょっと毛並みの艶も薄れた愛犬の背中が、老いの寂しさを漂わせている。
 
 

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2010.06.21

裸のブログ

6月20日(日) 勝手気ままに5年と10ケ月

 職場の方がブログを書いているしツイッターもやっているという。
 じゃあ、読ませてもらいたいからブログ名を教えてと頼んだら、「職場の人に見られるなんて・・・書きたいことも書けなくなる」と。

 その気持ちはちょっとは理解できるが、果たしてそういうものだろうかと思う。
 職場の人が読んだら困ることって何だろうか、いつも思ってることを文字にして、その思ってることが他人を心外させるものなら、そうかも知れないが・・・
 「書かないことはあっても、書けないことは無い」と思っているのだが、「いやいや書けないこともある!」とお叱りを受けるかも知れない。
 
 2004年の9月にこのブログを書き始めてもうすぐ6年になる。
 勝手気ままに書いてきたとはいえ、ときどき「なぜブログを書くのか」と自問することもある。
 自問するほど大それた問題でもないけれど、時には「なぜ生きるの」ってのと同じくらいの膨らみになることもある。

 最近では「日記なんだわさ」と思うことも増えて、ほとんど文字のたれ流し状態になっている。
 情報の発信とか友人とのコミュニケーションとか、いろいろ理屈を考えてみたりしても、どうもそれほどのことでもない。
 読む人がいてくれるから書いているのだけれど、読む人が誰もいなくなっても、やっぱり書いてると思う。
 そう思うと、やっぱり「日記」に帰結する。
 「日記」というならば創作とは違うわけだから、嘘は書けないし装飾も必要ない。
 
 以前、友人に指摘された「的を射るが正しくて、もしくは当を得たって使うのよ」
 そういえば、たしかに「的を得た」って書いた記憶があるが、間違いはお手のものだから、きっと何年も書いていると、誤字もふくめて、たくさんあると思う。
 そういうことも含めて、今の自分以上でも以下でもないだろう。

 たくさん書けば書くほど、ボロもでれば、おかしな事も、非常識なことも人目にさらすことになる。
 持て余すほどの「あれこれ」も持ち合わせていないから、着ている服を一枚一枚剥ぎ取られて行くようなものである。
 けれども、だからといって、身の丈以上のことは書けないし書くほどのものもない。
 そうなると、今のあるがままの「自分」をさらけ出すしかないわけだ、いや、さらけだすほどのものがあれば、それにこしたことはないが。
 やっぱり、裸のブログにならざるをえない。馬鹿馬鹿しさも、いい加減さも含めて・・・
 
 ブログというものはそういうものだと思っている。
 文章を積み重ねれば、書いている人の人格や思考や、それに嗜好も表現される。
 何を題材に書いたとしても、結局は同じことで、書く人のパーソナリティが表われるわけだ。
 そこに「本音」というものがあり、どんなに着飾っても、どんなに虚構を貫いても、どんなに「あたりさわり」のないことを書いても、見えてきてしまうものだと思う。

 ブログを書くっていうのは、自分を書くことに他ならないと思っている。
 自分を表現するわけだから、職場であろうが、知人であろうが、親戚・家族であろうが、読まれて困ることはないだろうし、読まれて困ることは書かなければいいと思っている。 
 だからといって、ただ「あたりさわりのない」ことを書いていても、いったいそれが自分にとって何かという、そういう自問が残る。

 どうせ書くならば「あたり」もし「さわり」もする、そんなWeblogが、日々書けたらなぁ~と思うこの頃なのだぁ。
  

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2010.06.19

スナップ写真の向こう・・・

6月19日(土) 平凡な日常を撮る

 いつもデジ・カメを持ち歩いている。
 さしてめずらしい風景があるわけでもないし、いつも出かける先も決まっている。
 同じような風景を見て同じような思いをするかというとそうでもない。

 サッカーのワールドカップ、日本×オランダ戦をテレビ観戦し、0-1惜しいシュートもあったなぁと。
 4年に一度の国際試合、日本中が一喜一憂して観戦しているのだろうが、それほどの期待感や興奮もない。
 何故だろう、別にサッカーが嫌いなわけじゃない。
 それよりも、賭博行為で揺れている大相撲のほうが、本場所の土俵よりも注目してしまう。
 良くも悪くも、思いがけない事柄の中に、ほんとうの人間性みたいなものがひそんでいるように思う。

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 昨日は大雨洪水警報が発令された名古屋。
 このところの雨で、庄内川の水量も増し、普段の水位からぐんと高い水面である。
 その穏やかそうな水面も小さな堰を流れると、急に激しい濁流になる。
 水が暴れているって感じだ。
 川面の流れの穏やかな表情に隠された、その実激しい水の流れってわけだ。
 人の感情のそれと似てるような気がしたから、今日の庄内川は静かな怒りを内包してるってことか。

Img_0004

 庄内緑地公園といっても、何度も来ていると好きな場所というのが出来る。
 古ぼけた木製のベンチからS字のサイクリングコースが見えるのがその場所だ。
 コースの向こうには杉の木立が真っ直ぐに10メートルはのびている。
 群立している一本一本の幹が枝をささえ木陰を作っている。
 その幹の根元の下には四方に根が延びて、この樹々を支えているが見えはしない。
 もしも人間が作るとしたら、コンクリートで固め幹は鉄骨で支える構造でなければ出来ないだろう。
 しかし、人も時として思いがけない傑作を作ることもある。
 S字カーブのサイクリングコース。
 ここから眺めていると、突然ジョギングする人が現れる、サイクリング自転車が現われる、そうして葉っぱの向こうから次は誰が飛び出してくるか・・・そんな想像をするのが楽しいわけだ。

Img_0008

 近所の田んぼにカモが二羽泳いでいる。
 おやめずらしい、ちょっとカメラを取って来ると言うと、「あのね、去年も来てたわよ」と。
 「ふ~ん、そうか・・・」
 都市農業の田んぼは宅地に囲まれている。
 家と家が密集し、その隙間から覗く光が白い線を形づくっている。
 優雅に泳ぐカモだが、水面下では一生懸命両足を動かしているから、白い光の線が波紋でゆらぐ。
 夫婦のカモだろうか、しきりに餌を捕る一羽とその周囲で見守るようなもう一羽。
 人間の夫婦に対置して、カモの夫婦の「仲睦まじさ」を想像したがるのも人間。
 だから、「つがい」でこんな田んぼにやってきて、また揃ってどこかに飛んでゆく・・・
 そういう光景を想像しながら眺める楽しさだと思う。
 
 久しぶりで自転車の後輪がパンクした。
 音もなく空気が抜けて、えんえん2キロほど自転車を歩いて引っ張った帰宅道。
 毎日乗ってるから、たまにはタイヤも弱音ぐらい吐くものさ。修理、修理・・・

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2010.06.17

追い越される・・・

6月17日(木) 今週は疲れモードだなぁ

 週間天気予報はほとんどrain(笠マーク)がずらりと並んでる。
 梅雨本番の天気図を見るにつけ、通勤・雨・雨具・自転車・地下鉄・・・とそういうことが気になる。
 前日に朝の出勤準備をするが、朝あわてて服装を変更するという日々が続きそうだ。

 自転車通勤で車道を走っていたら、後ろから「おはよう」と声をかけられて、へルメットに自転車服のロードバイクの方が追い越して行った。
 ヘルメットをかぶり車道を走ってるだけで通じる親近感みたいなもので、「おはようございます」と挨拶を返す。
 みるみる引き離されるから、おお!安定した走りだなぁ~と感心する。

 ドロップハンドルのロードバイクに乗ってる自分だが、それにしても追い越されることが多い。
 歩道を走るママチャリにも簡単に追い越される。
 こういう時のママチャリはちょっとサドルを高くして、それなりの軽快感いっぱいである。
 
 朝の通勤時だけでも、いやぁ~何台に追い越されることやら。
 つまり、あんまりスピードいっぱいで走っていないわけだ。
 精一杯走れば20~30キロは簡単に出るだろうけど、それほど必死には走らない。
 だから、いつも追い越されてばかり、ママチャリにも追い越されてばかり。

 ゆっくり走るのが好きだ。
 たまに一緒になる通勤自転車友だちは「安全運転ですね~」と評してくれる。
 裏道では人が歩くスピードとたいして変わらないほど、ゆっくり走ることもある。
 つまり、移動手段としてだけの自転車とはあまり考えてない。
 ゆっくり走ればたくさん考えたり感じたりできるから、そこがいい。
 最速の自転車で最低のスピードというギャップが面白いと密かに思っている。

 みなさん、どうぞお先に、事故には気をつけてくださいな。
 自分にとって最適なスピードを見つけて、人とは競争しない。
 速く走ることもあるし、ゆっくり走ることもある。
 どんどんと、追い越されるのは、年齢からくる必然性かもしれないし、そうであればやっぱりそれでいい。
 
 若くて筋力のある人は速く走って、それはそれで素晴らしいことだ。
 散歩のように、ゆっくりと走る人は、またそれも、おおらかな走り方だ。
 ただ、自分には自分の走り方があるだけで、人とは比べない。
 考えてみれば、人生の歩み方に似ているなぁ。
 
 公園で、ちょっと一休み。
 そぐそばで、近所のおばさんが道路を掃いている。
 今日は一つ「おはよう」と声をかけてもらったから、自分も一つ誰かに返そう。
 「おはようございます」と一声。

 梅雨の合間の晴天日、暑い一日になるだろうと思った。 

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2010.06.16

神秘主義

6月16日(水) 見えないもの

 この数日、「亡くなった方の霊が私の後ろにいるんです」と言う方との話が続いている。
 「あなたには見えないかも知れないけれど、○○さんの霊が私に言うんですよ・・・」
 冗談ではなくて、ほんとうにそう思って話しをしている。
 「そうですか、でも申し訳ないのですが、私には見えないんですよ」と返答する。

 見える、見えない、霊が訴えてる・・・そういう、何処までも交わらない話を聞いてると「そうですか」と肯く程度の言葉しか言いようがない。
 それよりも、その亡くなった方の生前の、暮らしぶりや気持ちがどんな様子だったか聞くほうが現実味を持つ。
 神秘主義とでもいうのだろうか、ありえないと思われる現象は人を虜にするに値するのだろうか。
 
 地球の危機を救うスーパーマンは人間の能力をはるかに超えた存在だし、ドラえもん(ん、ロボットだったかな)の何でも出てくるポケットには、科学とか理屈を超えた面白さがある。
 そういうものと、亡くなった方の霊を同列に扱うと、そんな話をされる方のご機嫌を損なうだろうが。

 交わらない話の真偽や是非を論じてもつまらないものだ。
 かって、空中浮揚などを真実だと言ってた新興宗教があったし、魔法のように手の中から貴金属を作り出すという、離れ業を信者に見せていた指導者もいた。
 だから、それがどうだというのだろう。
 そういう神秘主義によって、貧しい人々に無償で財宝を提供できるならば、貧困がなくなるのなら、ぜひともそうして欲しいものだし、空中浮揚を披露して富を得られたならば、困った人たちに還元して欲しい。
 
 けれども、それらは人間の作り出したものに過ぎない。
 人間の作り出したものは、やっぱり人間に還元されてこそ意味を持つ。
 霊や見えない神の力のようなものは、人間ドラマとしての面白みはあっても、人間を超えた存在としては、ほとんどつまらないものになってしまう。

 スーパーマンはクラーク・ケントである矛盾がある限り人間的であるし、ドラエモンはのび太の暮らしの中でこそ意味を持つと思う。
 ゲゲゲの鬼太郎とそのお化けの世界は人間の社会となんら変わりがないし、ウルトラマンとその怪獣たちも、人間社会の範疇を超えることはない。

 そうした、人間が作り出したものを自然の枠から逸脱して云々しても、なんだか「可笑しく」思えるし、「そうですか、貴方に霊が言うんですか」と交わらない話に相槌するていどである。
 人がいろんな意味で不幸なあいだは、いつでもどこでも、そういう話が飛び交うものだと思う。
 だから、「非科学的ですよ」と何度となく繰り返しても、あまり意味は無い。

 ただ、人間が自然を超越するものを作り出すのは、人間への冒涜のようにも思えてならない。
 スーパーマンもウルトラマンもお化けも怪獣も、人間がつくりだしたものだとわかっているから、安心して、ははは・・・と楽しく笑えるというわけだ。

 人間の想像力はいろんなものを生み出してきた歴史だ。
 そんな想像力が社会発展の原動力になったわけだが、想像するエネルギーを閉じ込めてしまう想像力があることも事実だと思う。
 

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2010.06.14

間隙を縫って

6月14日(月) 梅雨の楽しみかた

 どうも日本列島は昨日の日曜日に梅雨に突入したようだ。
 「うっとおしい梅雨の季節になりました」と季節の挨拶で用いられる梅雨だが、そうばかりでもない。
 梅雨時には梅雨時の楽しみかたがあるはずだ。

 今朝は空が厚い雲に覆われていた。
 天気予報は曇りときどき雨と言っていたが、まだ降り出してはいない。
 通勤自転車の出動だ。

 梅雨時は曇り空と雨空のせめぎあいのようなものだ。
 もう降り出すかな、もう降り出すかなと思うが一向に降り出さない雨。
 その間隙を縫って、自転車を走らせる。
 もう降るだろう、もう秒読みだろう、空を気にしながら走るドキドキ感でもある。
 
 ポツリポツリと降り出した雨粒が、大きくなったり小さくなったり、そのたびに、もうあと少し堪えてくれ、あとちょっとで職場に着くから・・・
 そういう間隙を縫って走る楽しみは、梅雨時の醍醐味だと思う。

 昨日も、降り出しそうな天気の中で、庄内緑地公園を自転車で走った。
 雨が降り出すに違いない!と分っていても、その間隙を縫って走りきると、読みの的中に気分は満足。
 ・・・が、案の定、やっぱり降り出した。
 ちょうど、桜が枝を広げた新緑の下を走ると、そこだけ濡れていない。
 緑の葉っぱの雨宿りってわけだ。

 そうやって、緑の葉を持つ樹木が保水力をたもち、大地に恵みの水を蓄えてくれる。
 自然というメカニズム。
 そんな戯れを面白いと考えるのか、うっとおしいと嫌うのか。
 梅雨だからといって敬遠するばかりが能じゃない、梅雨時ぐらいそんな雨と遊んでみるのも悪くない。
 自然とは親しむものだと思う。

 明日もハッキリしないお天気のようだなぁ。
  

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2010.06.13

郡上八幡サイクリング

6月13日(日) 情緒のある、いい町だなぁ

 ♪郡上の八幡 出ていく時は 雨も降らぬに 袖しぼる (郡上おどり)

Img_0040

 12日の土曜日、入梅前の最後の週末。
 職場の同僚たちと郡上八幡へサイクリングに出かけた。
 今回初めて参加する同僚に「どうだい感想は?」とたずねたら。
 「空気がきれいでいいですよねぇ~♪」と。

 「郡上おどり」と何年か前に映画化された「郡上一揆」、古い街並みがあると聞いていた。
 そういう前知識が少ない分、直感的に街の印象が頭に焼きつくもの。
 空気が澄んで、街を流れる吉田川の清流に、解禁されたばかりの鮎釣りに興じる人、橋梁から度胸だめしのように川面に飛び込む若者、どことなく絵になる風景がたくさんある。

 もしも、この郡上八幡という街の知識をたくさん持っていたら、また違った感想になるかも知れない。
 「空気がきれいですよねぇ~」飾り気の無い一言だが素直な表現だと思う。
 やはり、排気ガスで汚れた都会と地方のかっての城下町、ここでも車は走り道路は舗装されている。
 けれども、やっぱり受ける印象はずいぶんと違うわけだ。

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 ちょっと観光地化された、かっての城下町から小高い山の上には郡上八幡城の天守閣がある。
 再建されたもので当時の城とは構造もちがうようだ。
 それでも、山城としてはなかなか立派なもので、再建された城としては最古という。
 パンフレットなどで紹介されるのが、この写真の構図で、石垣から天守閣が実に絵になる。
 もっとも、サイクリング仲間の後ろ姿が写ってこその城のスナップだと思う。
 そういえば、最近はうしろ姿のスナップが多い。
 ブログの写真を意識してるかといえば・・・そうかも知れないが、まぁ、いいか(笑)

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 自転車を降りて、汗をかきかき登った郡上八幡城である。
 どうも、自転車で昇るほうが楽じゃないか?と本気で思うこの頃だ。
 歩くとなると、途端に疲れるのは、使う筋肉の違いだろうか?
 過っての城下町を一望できる風景は、涼しい風の流れとあいまって、気持ちよい。

 土産物店で同僚が、小さな団扇(うちわ)を買ったと見せてくれた。
 その団扇に書かれた、郡上おどりの一節が

 郡上の八幡 出ていく時は 雨も降らぬに 袖しぼる 

 ははは、またしても、ちょっかいをかけたがる悪い癖で「なんで袖しぼるなの?」
 「踊りまくって、大汗かいたんじゃない?」
 う~ん、想像力なんだよなぁ~、大汗かいた袖をしぼるかぁ~ そのまんま。
 「涙、涙って言って欲しい」と思ってたら、「涙でしょ」と一人が・・・君の心は清々しい。(笑)
 と、私自身は悲しい恋の物語を想像して、袖を濡らしたと思ったわけだけれど・・・

 江戸時代、過酷な藩の年貢に苦しめられた農民たちが、江戸幕府に直訴するために、町を出て行く。
 直訴などもっての外、その場で手打ちになるやもしれぬ江戸時代だから、見送る人々は悲しみに涙したという。
 つまり「郡上一揆」がもとになっているそうだ。(帰宅してネットでしらべました)
 
 かき氷の冷たさが初夏の味わいであった。
 それにしても、何でスプーンが2本なんだ?
 「それって、一休みさんが1本落っことすから、気をつかってもう一本じゃない!あはは~」
 ふむ、なかなか突っ込みが上達したものだ、手打ちだけは免じてやろう。(笑)

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2010.06.10

自分と他人

6月10日(木) 一通のメールは一通のメールにあらず

 暖簾の隙間から顔と両手だけ出して、マジシャンの顔面落下を真似してみる。
 首から上の顔だけがストンと落ちて、両手の上に乗る・・・アレである。
 我ながら、上手い!と思って、面白いだろう?と妻に聞いてみたら「ふふふ、膝が曲がってる」
 そんなはずはない、たしかに「マジシャン一休み」のはずなんだが。(笑)
 
 10日ほど前から、心のどこかにひっかかっている一通のメール。
 夜11時ごろ「おねがいが・・・」と簡単な事情の説明の割には、ちょっと深刻な話。
 これは、いったい何だろう?と思いつつそのままに。
 すかさず、翌日の朝7時に再メールが届く。
 「返事がないのが返事ということですね・・・」と続く文字は「関係ないってことですね」「消してください」と。
 やれやれ、もう何年も変わることのないいじけ強要のパターンだなぁ。
 ささいなメールに含まれる大きな問題、いったい、この身勝手な自己完結って何?

 人は成長の過程で自分と他人の区別を学ぶ。
 他人は自分とは違う存在だという、しごく簡単なこと。
 例えば、ストーカーは被害者も自分に好意をもっていると錯覚するが、これは自分がこれほど思ってるから、相手もそう思ってるに違いないという身勝手な思い。
 ここには、自分と他人との境界が曖昧になってる心境が見られる。

 もう一例を考えてみる。
 女性にたいするセクハラとしての痴漢(おうおうにして冤罪もあるが)、欲情を誘うような恰好をしてる被害者がいたからと言ういい訳。
 傍観者は「女性にもスキがあるからよ」などと本末転倒な間違った解釈をする。
 こうしたものも、自分と他人は違う存在だという一線を簡単に越える、いわば自分と他人の同一化。

 親が子どもを溺愛するあまり、「こんなにあなたのことを考えてるのに・・・」
 愛情という名を借りた、自分(親)と他人(子ども)との同一化。
 「大変だわねぇ」って口にする心の底では「自分には関係ないことだけど」という共感の稀薄さも、自分と他人との区別がないからこそ言える同情だと思う。
 自分を認め他人も認めるという区別する力が共感力を養う。

 依存心というものの中身は、こうした自分と他人を区別できない状態だと言える。
 そして、自立してゆく過程は、曖昧にされる自分と他人を、きちんと区別し認めることではないか。
 成長期にしっかりと自分と他人が違う存在なのだということを理解するところから、親の庇護や管理を抜け出して、自分固有のパーソナリティを形成してゆくわけだ。
 
 一通のメールを送り届け、すぐさま他人の事情もおかまいなしに、まるで「返事をしないこと」を自分への理不尽な対応だと思い込む。
 これがいともたやすくできてしまうと、いつも「こうなった元凶は相手にある」と他人のせいになる。
 いつでもどこでも、問題の核心は自分自身にあるものだ。

 10日ほど考えて10日後に、やれやれもう、もう、もう充分だろう。
 これは愚痴らない自分のめずらしい愚痴だと思う。
 「暖簾の隙間に顔」じゃぁなくて、暖簾に腕押しヌカに釘・・・これは累積したストレス。
 もうきっぱりと淋しい話はお終いにしよう!と思った本日なりぃ~。
 

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2010.06.09

ちょっと一杯、てな日

6月9日(水) 寝て起きて・・・

 友人たちと一杯飲んだ。
 酒はあまり強くない。だから「いっぱい」じゃなくて、やっぱり「ちょっと一杯」
 アルコール依存症と思われる、飲酒すると豹変して、妻に暴言と暴力を繰り返すDV家庭の相談ごとに対応したのが昨日。

 酒も薬にもなれば毒にもなるという真実が身に滲みる。
 寂しさを酒で紛らすこともできるだろうが、ちょっと一杯は久しぶりの友人との会話に欠かせない。
 言葉の制約を超えたところで、人の生き方のあれこれを語る。

 「人は自分自身で、自分の道を切り開くものだ」という、当たり前であって当たり前にならないもどかしさ。
 自分の道は自分でしか開けられない、だから人は、せいぜい端から見てるしか方法はないものだ。
 そのもどかしさを、やっぱりじっと見続けることは、ある意味耐え難いという心境だが。

 笑って「頑張りやぁ~」と・・・
 強靭なニヒリズムを持ち合わせていれば、ほんとうに笑い飛ばせるだろうが、そこまでもの意志もないから、隣の凡人のように、やっぱり「頑張りやぁ~」と・・・

 さて、先のアルコール依存と思われるDVの夫。
 その根っこの幼稚さと甘えの精神構造の底は浅いものだから、被害を受ける妻の苦痛は大変なものがあるが、当のDV夫の問題点としては、さして難しくも無い。

 「アルコール依存症」の病識さえ持てば、治療の道に進められる。
 病識を獲得できれば!という前提であるが、道すじとしては単純であり、その道すじに沿って、家庭崩壊を免れることができるか、否かという選択肢だけだ。
 まあ、アルコール依存症の治療が多くの支えと協力を無くしてできないから、そういう環境を作る努力と方策が求められる。
 ・・・と、仕事ならば冷静になれるが。

 「自分の人生は自分で切り開く!」ということの難しさは想像以上だと思う。
 それでも、人はそうやって生きてるわけだから、やっぱり笑って「頑張りやぁ~」ということだ。
 ふむ、一眠りして夜中に書く日記は、なんだか魔物にとりつかれたような不健康さだなぁ。
 

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2010.06.08

ビバ!自転車

6月8日(火) カッコイィ~♪

 今週末に岐阜県の郡上八幡に日帰りサイクリングを予定している。
 職場の友人たちと一緒だが、初めてのサイクリングという方も2名来てくれる。
 ママチャリ、マウンテン、ロードバイク・・・不揃いの自転車集団になるだろう。
 そうやって、どんどんと自転車の爽快な気分を味わって、あわよくばスポーツ自転車の世界に引きずり込まれて、「自転車って最高ねぇ~♪」って言い出してくれれば、狙いどおりだ(笑)

 仕事で1キロほど先の病院に出かける機会があった。
 この程度の距離は自転車で充分だし、職場にはママチャリも置いてある。
 私めは、マイ通勤自転車のロードバイク、もう一人の同僚は職場のママチャリというわけだ。

 ひょいとサドルに乗って、スイスイと走る私に向って、「スイスイですねぇ、カッコいいですね~♪」と。
 「カッコイイ~」その一言で、豚もおだてりゃ木に登る(笑)
 そうなんですよ。
 スポーツ自転車はカッコイイ。ペダルとハンドルとサドルに分散された体重がちょっと前傾姿勢で、スポーティなんだと思う。
 いつも思うのだが、車道を軽快に走り抜ける女性の自転車姿は、やっぱり美人に見える(笑)

 この「カッコイイですね」という一言はときどき言われるけれど、ほんとうは褒めてもらって嬉しいというよりも、こういう自転車もあるんだ!と知ってもらえることが嬉しい。
 ママチャリを愛用している方にとって、自転車=ママチャリというわけで、スポーツ自転車が、軽くて、力も僅かで疲れないということに未経験というわけだ。

 自転車は重くて、疲れて、大変だ!という自転車ワールドから一歩抜け出ると、これほど爽快で体に優しく運動量もある乗り物だということに気がついてくれるはずだ (と、常々思っている)
 綺麗な洋服を一枚我慢して、ジュエリーの1個も買うのをも先延ばしして、5~6万円ほども投資すれば、「あなたには限りなく美しいプロポーションと持久力と気力の充実した日々が待っている!!」などと、怪しげなキャッチコピーも言ってみたくなる。(笑)

 ほんの数キロの行動半径が、飛躍的に延びて、こんなところにこんなものがあるのかと、自動車のウインドー越しにしか見られなかった風景が、生で目に飛び込んでくるというわけだ。 
 ママチャリも一つの自転車文化になっている。
 ちょっと買い物には便利な乗り物に違いないが、スポーツ自転車を体験すると、自転車の価値観が180度変化する。
 そうして愛用することになった、マイ自転車は自分の「宝物」になるだろう。

 ・・・と、職場でも言い続けてはや6年。
 頑強なママチャリ文化の牙城はなかなかなものだ。
 日本の道路事情、交通事情が歩道を走るのに適した(?)、スピードの出ない自転車需要として、ママチャリ=自転車という結果を招いている、安価だし。

 自転車に乗る機会のない方には「ママチャリでも自転車は良いよ」と妥協して言ってるが、本当の自転車の良さはママチャリでは体感できない!と、あえて敵を多くするのはわかっていてもそう言いたい。
 騙されたつもりで、スポーツ自転車を買っちゃえ!買っちゃえ!買えば海路の日和あり(笑)
 まあ、そういう自転車ライフへの一歩として、週末の郡上八幡サイクリングがなればいいんだが・・・

 ときどき妻も日曜出勤には自転車通勤を始めた。
 もう、あれこれ解説しなくても、自分で楽しんで自転車で出勤している。
 初めて自転車に乗り始めた頃と比べると、ちょっと前傾で走り出す姿は、じつに「カッコイイ~♪」
 まあ、美人に見えるかは別なんだけれど・・・(笑) 

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2010.06.07

毛の話

6月7日(月) 脱毛、剃毛、毛の話・・・

 6月は衣更えの月、と言っても季節感が薄れなんだか年中行事のような衣更えは、昔のような季節の変化に応じて、必要に迫られたものとは言いがたい。
 ファッションと季節感の微妙なズレ、それも今の特徴なんだろうか。
 
 玄関で寝そべる愛犬「ポン太」の後ろ足から背中にかけて、どうも冬毛がモコモコしている。
 指でちょっとつまんでみると、な・な・なんとざくざく抜ける。
 動物の体毛は季節の変化に敏感なんだ。
 気持ちよいくらいに抜け毛がいっぱいになる、ブラシですくと、どんどん取れる。

 抜けた後のさらさらの毛は涼しそうだと思うが、どうも犬にとっては余計なことらしい。
 しばらくは諦めてじっとしてるが、しばらくするともう止めてくれと嫌がる。
 その昔の子どもの頃に日焼けした肩の皮がむけて、気になってしかたなかった感じに似てる。
 愛犬の抜け毛が気になって、ブラッシングしたくてたまらない飼い主なのだ。

 最近では女性ばかりか男性も「毛深い」ことを嫌うようだ。
 ムダ毛の処置は女性ばかりか男性も気になるようだが、人間の体毛は頭からつま先まで、必要に応じて生えてるはずだ。
 どんどんと、ユニセックス化が進んで、見た目の「男らしさ女らしさ」という区別が取り除かれてきたようにも思う。
 もっとも「胸毛が好きだ」「髭がいい」という人もいるのだが、そういうところに「男性ぽさ」を感じる人も過ってより少数なんだろう。

 女性の社会進出が増えて、「菜食男子」「肉食女子」などという言い回しが、ごくごく普通になってきた。
 「強さ」と「弱さ」は、もはや男女の性的区別の基準にはならなくなった。
 見た目による「男らしさ女らしさ」が崩壊するのは当たり前のことだと思う。
 その「・・・らしさ」が個性のうえにどのように変化してゆくのか、100年先を見てみたい。

 などと言いつつ、我が家の女性たちはムダ毛処理に余念が無い。
 予算さえあれば、芸能人のように全身脱毛をしたいと思ってるようだ。
 身の丈にあった、暮らしにあった脱毛、剃毛でいいじゃないかと思うのは男の無理解か。

 かく言う自分も、実は夏場の自転車通勤には、スネ毛を剃毛している。
 転倒したり怪我をしたときに、肌をだしたスネ部分は処置の邪魔になると、なにかの本に載ってたから、それを実行している。
 けれども実に面倒である。
 この面倒なことを、一年365日「ムダ毛処理」しなければならない女性も大変なことだ。いや女性だけじゃなく男性も毎日髭剃りに苦労してる。
 ここまでくると、なんだか文明というものも可笑しく思えてならない、つまり「ムダ毛」って何がムダ?
   
 つまらぬ毛の話でした、ちゃん ちゃん。
 

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2010.06.06

木陰のライブ

6月6日(日) 久しぶりに図書館へ

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 今日はこのところ足が遠のいていた図書館に行った。
 良くないことだけれど返却期限を過ぎると返しにくいから、ついつい時間外ポストへ・・・
 だから借りれない。(すみません)

 新聞の書評や書籍案内などで前もって借りる本を決めて出かけることはまずない。
 何列もの書棚をぐるぐる回って、面白いかな?と手にとって、これにしよう。
 「目的意識」などとはかけ離れた、安直な借り方だけれど、その方が意外な本との出合いが多い。

 だいたい、子どもの頃から予習とか復習とか勉強とかが嫌いだったから、直感しかないようなもの。
 タイトルを見て、ふ~ん。目次を見て、ほぉぉ~、てなものだ。
 図書館は「遊び場」のようなものだと思っている。

 為になるかならないかという基準よりも、よしゃ!読んでみようと思うかどうかが唯一の規準になってる。
 だから、世間で評判の本や知名度の高い本よりも、自分にとって面白いと思う本ばかり選んでるので知識も教養も「馬の耳に念仏」ていどになってしまう。(笑)

 今日なんか「笑撃!これが小人プロレスだ」(高部雨市:著)を新刊本コーナーで見つけた。
 女子プロレスの前座としてショーマンシップに溢れた小人プロレスを支えたレスラーの生き様に触れれればと思って。
 もちろん他の本も借りたが今日はけっこう収穫もあった図書館本(笑)

 なんだか、行き当たりばったりの感性(大袈裟だな)など思っている。
 昨日も庄内緑地公園に自転車散歩をしたら、公園内から歌声が流れてきた。
 大きな木の陰でギターとバイオリンとボーカルの3人のグループがコンサートを開いていた。
 普段ならば、ほぉ~っと言いながら通り過ぎてしまうのだけれど、知ってる曲ということもあって、自転車を降りてしばし耳を傾けてしまった。

 グループ名も知らないし、音楽的素養はほとんどないからよく解からないが、なんとなく「なんかいい!」と思ったわけだ。
 「なんかいい、グループだなぁ」という気持ちになれたから昨日は一日ちょっと得した気分だった。
 余計な知識を持っていない分だけ、人様よりも幸せな気持ちになれる。
 まあ、これも行き当たりばったりの感性なんだろうが。

 この「木陰のライブ」がちょっと気になって、名古屋が地元だとトークで言ってたしネット検索してみたら。
 「はりゅ」という名古屋出身のグループの「はりゅ野外コンサート」だった。
 いい感じだったなぁ。

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2010.06.05

西枇杷島の祭り 2010年

6月5日(土) 夏の始まり!の風物詩

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 今日は西枇杷島の祭りの日だった。

 誰しも自分なりの季節を感じる風物詩というものがある。
 毎年この祭りが開催されると「今年も夏がやって来た!」と思うから、自分にとっては夏の始まりの風物詩になっている。
 ちょど一週間ほど前、ここを通ったら地元の皆さんが、山車の納められた倉庫からこの祭りのための飾りつけの準備をしていた。

 この旧美濃路街道の途中にあるのが西枇杷島、旧街道の狭い道の両端に露天が並ぶので、狭い道がさらに狭くなる。
 人混みは嫌いだけれど、こういう「祭り」の人混みはなんだか楽しくなる。
 「祭り」というその一点に向ってみんなが集まってくる、老若男女そればかりか露天商の人たちも、商売とはいえ活気が伝わってくる。
 旧街道のあちこちに「からくり山車」が置かれている。
 それぞれの地区名が書かれ山車が、1、2、3、4、5、6・・・それぞれ特徴があるし、この地域にこれほど保存されてるのも貴重なことだ。

 祭りの花火の打ち上げに合わせて、まだまだ人が流れ込んでくるから、身動きもままならない。
 満員電車の疲れきった表情とはまったく違うこの人の波も、この祭りの特徴のような気がする。
 しっかりと日が落ちたら「ドーン」と花火が打ち上げられる、すぐそこの庄内川から大輪の花が夜空に広がる。
 山車と露天と花火と人の波、日本の祭りの要素が全部揃っている。
 
 携帯が鳴り、妻と娘から「お土産にトウモロコシとベビーカステラを買ってきて!」と。
 「屋台じゃなくて山車を見たかったんだがなぁ!」と心で思うが「よっしゃ!よっしゃ!まかせとけ」と一応声だけは上機嫌(笑)

 しかし、この屋台も一年ごとに、ちょっとづつ売り物も違ってくる。
 「あれぇ?去年はこんな店あったっけ」露天商も売れ筋商品を考えてる。
 いらっしゃぃ~♪ いらっしゃぃ~♪ 声につられて行列もできる・・・みんな元気だ、祭りは楽しい。
 
 さぁ~、今年も夏の始まりだ!

 【おまけ】
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                             枇杷島橋から眺める落陽

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2010.06.03

手話

6月3日(木) 伝えること

 残業を終え帰宅路の途中で喫茶店に入った。
 仕事からの解放を確認するような、ほんの一時だ。
 数組の客がコーヒーを前にお喋りしている。それを横目に本のページをめくったり新聞を読んだり。
 BGMがゆったりと流れ、ほんのわずかな時間だけれど貴重な時間だと思っている。

 数組の客席の一角で60歳前後の男性二人が向き合っていたが、ほとんど話し声も聞こえてこないので、話し声のする店内ではちょっと際立って感じる。
 それもそのはず、手話で会話してる様子。一冊の写真集を二人で眺めながら、なんだか楽しそうである。

 これまで、テレビの番組で手話通訳の画面をときどきみるが、手話だから話し言葉のような微妙なニュアンスは伝わらないだろうと思っていた。
 自分も手話はできないから、聴覚障がいの方とは白ボードに言葉を書いて会話してきたので、いささか伝達の苦労だと思ってきたわけだ。
 だから、聴覚障がいの方の手話も、相手に気持ちを伝えるのがほんとうは難しいのじゃないかと。

 しばらく、お二人の「会話」を何気に眺めていたら、写真集のあちこちを開き、笑顔になったり、時には身振りも大きくなったりして、意気投合してるように感じられた。
 カメラマンがよく着ているポケットのいっぱいついたベストだったから、カメラマンか写真愛好家なんだろう。

 自分たちは普段は何も意識しないで「言葉」や「文字」で話し合っている。
 言葉の抑揚や語尾やそういうもので感情表現し、相手に伝えてると思い込んでいる。
 けれども、この手話で「会話」してる方々を見て何か忘れているものに気がついた。
 言葉や文字は伝達手段ではあるけれど、伝えるのは自分の気持ちや思いだということを。
 
 言葉で伝えたと思っていても伝わらないことや、話して理解してくれただろうという思い込みや、そういうものが自分の側の「伝えたい」と思う気持ちに問題があると。
 意志が通じないのはひょっとしたら言葉や文字に頼りすぎてるのじゃないかと。

 風景写真のページを覗き込みながら、楽しそうな「会話」が続いている。
 なんだか自分も手話で、そんな「会話」に加わってみたいと思った。
 気持ちを通じるには言葉であろうがなかろうが人の心のほうだという単純明快な真実。

 映画「名もなく貧しく美しく」を思い出した。 

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2010.06.01

あはは、お遊びですよ

6月1日(火) 続・チョコレート選手権

 やっぱ、これは記事にしておこう。
 職場のお遊びでチョコレート選手権を開催した。
 もちろん、独断で私が審査委員長だと勝手に決めて、なんと12名もの人が参加した。
 持ちよったチョコを試食して美味しいひと粒に投票するわけだ。

 審査委員長としては、ひいきの引き倒しで、味よりピュアな心の持ち主が優勝すべきだと、小細工をしようとしたら、猛反発された。
 その結末は、予想外の優勝者で「これは味覚音痴の結果だ!」と審査委員長権限を発動しようと思ったが、またしても反発された。
 もう少し事前の買収工作でもしておけばよかったか(笑)

 日頃は多忙な上にきつい仕事にみなさん頑張っている。
 だから、こうした「お遊び」には、みなさん楽しんで参加してくれる。
 遊び心を発揮して、まるで「吉本新喜劇」かよ?と思われることにもお付き合いしてくれる。
 それなりに、自慢のチョコレートを買ってきて、試食という名の井戸端コミュニケーションだと思っている。

 「遊び」を仕掛けた自分のほうが、皆さんに「遊んで」いただいたってことだ。
 こんなことに一生懸命になれる職場なんて、そんなにはないだろう。
 コミュニケーションなんて、そういう「お遊び」の中で出来上がる。
 「遊び」には上下関係も年齢も知識も関係ないから。
 そんな雰囲気の中で、みなさん精一杯頑張ってるんだなぁ

 遊び心はいつでもどこでも持ち続けたいものだと思う。
 次回は、もっと姑息で、もっと談合もやって、もっと口先だけでごまかして、そんな政治家のような手腕を発揮して、出来レースにしようと狙っているが・・・
 まず、審査委員長の座をひきずり下ろされないようにしなければ、あはは。
 吉本新喜劇ばりのジョークもここまでやれば、変人か?

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