« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »

2010年1月

2010.01.31

東風吹かば・・・

1月31日(日) 天気予報

 この冬の長期の天気予報によると2・3月は曇りの日が例年より多いらしい。
 冬と言っても、もう2月は暦の上では春になる。
 「東風吹かばにほいおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」っていう有名な菅原道真の歌だが、この梅の花が咲く頃には、本州の南岸を低気圧が通り、東の風が吹くという。

 梅林に小さな可憐な花が咲くのももうすぐだ。
 まだちょっと肌寒いこの季節だからこそ、小粒な梅の花も引き立つのだろうと思う。
 そうして春が一歩ずつ近づいてくる。

 最近は天気予報を気にしない日はない。
 朝、テレビの天気予報を聞きそびれると「今日の天気はどうだった」と、にわか天気予報士の妻に聞く。
 雨なのか晴れなのか、まずそれを訊ねて、天気の変動を次に聞く。
 これも自転車通勤のおかげなんだが・・・

 昔の人間はみなそうだったろう、折畳み傘などなかった時代は傘を持って出るかどうかは大問題であって、それこそコンビニで数百円の傘さえ売られていなかったから。
 現代人はもう雨が降ろうが槍が降ろうが(なんてのも死語なんだが)コンビにで買えば事足りるし、バックに収まる小さな折畳み傘さえあれば、天気など無頓着でいられる。

 空模様にかぎらず、気温の変化すらバスや電車は冷暖房完備だし、オフィスもしっかり室内温度が管理されているから、真冬に半袖もさして珍しくもない。
 そういう自分も何年か前まではマイカー通勤だったので、コートなんて不要だったし、ちょっと一枚重ね着すればよかったから、季節や天候なんて過去の遺物みたいにすら思われたものだ。
 そういえば2月は「如月(きさらぎ)」、「衣更着」とも言って、重ね着の月だったが・・・

 今日の天気予報は曇りのち雨、昼頃から雨模様になるとお天気お姉さんが言ってた。
 日曜日にしては珍しく、ちょっと早起きして雨が降りだすまえにと、庄内緑地サイクリングロードへ。
 妻にも「行くかい?」と言うと「行きたいけど止めとくは」と、「行きたいけど」というのは社交辞令だと思う。

 何と言っても、名古屋名物のモーニング珈琲、あの珈琲にサンドイッチに卵に、場所によってはサラダまで付いてくる、そんな名古屋のモーニング珈琲を堪能しようと決めていたわけだ。
 人によっては、とりわけ女性に多いと思うが、一人で喫茶店や飲食店に入りづらいという人もいる。
 自転車でサイクリングロードを走り、喫茶店でモーニング珈琲を飲みながら、ちょっと読みかけの本のページをめくる。
 こういう休日の朝の過ごし方も悪くはない。

 朝に限らないが、喫茶店でゆったりと一人で読書してる女性を見かけると、何だか知的な雰囲気を感じてしまう。
 一人で入りにくい喫茶店に、誰に臆することなく読書の時間を楽しんでいる姿に映るわけだ。
 男性ならばまま見受けられる光景が、女性となるとなんだか自立した知的な女性って思えてしまうのは何故だろう?

 まあ、そんなことは勝手にする自分の想像であって、なんの意味もないことだが、とにかくそうやって過ごす喫茶店の時間は、一人になってあれこれ考えるには貴重な時間ともいえる。

 予想通り、昼の頃にはポツポツと降りだした雨だった。
 

| | コメント (4)

2010.01.30

お葬式だった

1月30日(土) 満月も雲に霞んでおぼろ月夜

 遠い親戚筋にあたるおばあさんが亡くなられて告別式に行った。
 歳も98歳だということで、この5年ほどはほとんど寝たきりだったという。
 親戚の方々と参列者も僅かで、髪の白く薄くなった方々が主なのは、もう同じ世代の方々は少ないということだろう。
 冠婚葬祭といっても、葬儀に行くことが多くなった。

 若い頃は結婚式に招待されることの方が多かったから、葬儀というものにもう一つピンとこなかったものだが、歳を重ねるごとに、人が死ぬということ、「死」というものと向かい合うことが普通になったような気がする。
 人の死を淡々と受けとめて、自分が死に行くことにたじろがないように心の準備をするようなものだと思っている。

 これといって信心するような宗徒でもないから、あらためて「死ぬ」ことに特別な意味もないが、ただいつも思うのは、こうして葬儀に出て飾られた遺影を見てると、この方の人生は幸せだったのだろうか、と思う。
 つまり、「人生って何だろう」と日頃は考えもしなく過ぎて行く今の暮らしを、ちょっと距離を置いて考えられるということだ。
 
 死ぬことの恐怖はおそらく誰も拭いきれないことだと思ってる。
 死して天国に召されるという考え方や仏への旅立ちという考え方もあるが、自分は死んだら死にっきりだと常々考えてる。

 死すればそれは一つの命がお終いになるだけで、それ以外のものは何もないと・・・
 何だか、人によってはそれを淋しいと思うかもしれないが、やっぱりそういう自然の流れでしかない。
 
 知らないこと経験したことのないものへの恐さというものはあるが、そういう淡々とした摂理みたいなものを、自分自身が受け入れて行く準備は必要なのだろうと思う。

 だからこそ、今生きている現実を大切にして行きたいと思うわけだ。

 髪白く喪服並びて冬木立  (by一休み)

| | コメント (2)

2010.01.28

雨と私と自転車と

1月28日(木)自転車の雨対策

 「雨と私と自転車と」ちょっと映画のタイトルふうに書いてみたが、タイトルにもなってないか(笑)
 こんな勝手なことを書けるのも、言いっぱなしの自己完結ブログだから、自分で書いて自分で喜んでいる。
 自分が楽しめる!それがものごとの始まりなので、これからも映画のタイトルふうな題を考えてみようかな・・・
 あはは、たんなる思いつき、こういう軽口を書ける日は絶好調?心のバロメーターなのかもしれないなぁ~♪

 というわけで、今日は微妙な雨の日だった。
 朝から本降りの日ならば、サッサと諦めて地下鉄通勤するが、「今にも泣き出しそうな」って、言い古された言葉がピッタリな空模様では、恐る恐るの自転車通勤となる。
 ちょっとそこまで走るならば何の問題もないが、一時間弱の通勤となると、これが微妙な決断になる。
 小さな水滴も時間とともに濡れネズミってことになるから。

 自転車の雨対策はしっかりやっている。
 通勤自転車のボトルゲージに簡易雨具を必ず常備して不意の雨降りに備えている。
 職場には本格的な登山用のゴアテックスの雨具を置いて、これも万全だ。
 もちろん、バックには黄色いレインカバーが収納されてるし。
 ああ、でもこれは色がまずい小学生のランドセルみたいだからなぁ~、それでも雨には濡れない。

 しかし、ヘルメットを着けると、あの穴の間から雫がポタポタ入り込むのが問題で、これはパールイズミ製のレインキャップを被ることにした。(ヘルメットのレインカバーってあまり売られていない)
 それにもう一つ、雨具を着てても濡れるのが靴なので、雨具はあっても靴はベタベタってことも・・・これもモンベル製のレインシューズカバーを用意した。
 文字通り、頭の先からつま先まで、自転車雨対策は完璧なのだ、たら、なのだ!(笑)

 しかし、こんなことを書いてると「雨の日は乗らなきゃいいのに!」という冷ややかな視線が気になるが。
 「雨に弱い自転車」という常識で済ませちゃぁいませんか~と言いたい。
 雨の日にいかに自転車通勤をするのか、(本降りの日は別といういい加減さもあるが・・・笑)あれこれ対策を講じていると、辛いと思われる雨の日の自転車通勤も楽しくなる。

 ザアザア降りの日に、頑張って自転車通勤する必要はないし、ちょっと振り出すか知らん?って日に、準備万全、自転車でGO!ってチャレンジしてみるのがいい。
 「雨の日の自転車通勤は辛い」という、確かにそうなんだけれど、そういう固定概念から一歩も出なければ、やっぱり「雨の日は辛い!」で終わってしまうわけだ。

 「諦めること」と「頑張り抜く」ことを適度にアレンジして、自分にあった自転車ライフを目指す。
 何事も諦めさえしなければ何とかなものだし、何ともならない事は諦めが肝心だと思う。
 そうすると、普段は見えない濡れたアスファルトの反射や雨音も、なんだか新鮮なものに思われるのだ。
 その辺が人生の妙ってことかも知れないわけだ。

 ではここで、雨の日を一句!・・・う~ん浮かんでこない(笑)
 

| | コメント (2)

2010.01.27

カラスの食事

1月27日(水) 寒耕

 少し前のこと、近所の田んぼにトラクターが入って、稲刈りの後の硬くなった土を掘り返していた。
 収穫後の耕しを「秋耕」というが、この時季、田んぼの土を耕すことを「冬耕」とか「寒耕」というようだ。
 冬の雑草が生えるのを防ぎ、春先の作業がしやすくするための大切な作業。

 都市農業といえど、こうして土と暮らすことの大変さだと思う。
 掘り起こされた土のデコボコした田んぼは、日頃塗り固められたアスファルトばかり見慣れている目に、僅かではあるが潤いをもたらしてくれる。

 そんな田んぼからトラクターが引き上げると、待ってましたとばかりに、何処からともなく3羽のカラスがやってきて、土中の虫たちをほじくり返しているようだ。
 カラスの食事なんだろう。
 虫たちも一冬過ごすのも苦労が多いものだが、カラスとて防御ネットで囲われたゴミを、そうそう漁る日ばかりじゃないから、きっと美味しいご馳走なのかも知れない。

 憎まれ役のカラスだけれど、なんだか微笑ましく思うのは、小さな田んぼに繰広げられる自然だからだろうか。
 住宅ばかりに追いやられた名古屋の都市農業にも、いろんな生き物の命の営みがあるってことだ。

20100124


| | コメント (2)

2010.01.26

寝入りの読書

1月26日(火) 杉本苑子「逆髪」(集英社文庫)

 やっと13冊目の杉本苑子の短編時代小説を読み終えた。
 それで、いつ読むかというと寝入りの数十分がコツコツ読書の時間で、こういう読書をもう10年ほどは続けている。
 そうすると、本を開かないと眠れないって習慣になってしまうからややこしい。

 友人たちと泊まりかけで出かけても、家族ででかけても、とにかく寝入りの儀式みたいになっちゃって、たとえ数ページでも活字を追わないと、なんだか居心地がわるい。

 つまらない習慣になってしまったものだと思うが、妻は明るいと眠れない性質だから、ちょっと確執・・・
 「ごめんごめん、すぐ寝るから」と平謝りしながら、枕もとの蛍光灯をつける。
 そうして、少しずつ読みすすめている杉本苑子の時代小説というわけ。

 この「逆髪」という短編集は、仇討、敵打ちといった、侍にかぎらない人間の情念の世界が描かれている作品集で、人はこれほどまでに酷い仕打ちができるものか!と、小説の世界にのめりこんでしまう。
 こういう時代小説も面白いと自分は思うのだが・・・

 たとえば、「奴刑された女たち」という作品では、奉公にあがった主人の家で妾にされたあげく、家臣の若者と駆け落ちに失敗した娘が女牢に閉じ込められるかわりに、吉原の遊女屋に無償で下げ渡され、身も心もボロボロになり使い物にならなくなるまで何十年と客をとり続けなければならない「奴刑」の女を主人公とした作品。

 感情移入して読むと、この世の生き地獄のあり様が、なんとも人間の性の酷く冷たい、そういう女性が商品になっていた時代を浮き彫りにしている。
 こういう時代小説も読んでみるといいと思う。

 女囚に、生まれながら持っているどうにも逃れようのないその、女体の仕組みを利用して罪を償わせる・・・。
 暗い、湿った遊女屋の奥座敷に閉じ込めて、一生涯、夜ごと夜ごとそれを続けさせる・・・。
 なんという冷酷な、おぞましい刑罰でしょう。 
(「奴刑された女たち」) 

 陽の当たらない歴史の中の、そういう時代の人間の悲しさなんだなぁ・・・

| | コメント (2)

2010.01.25

続・自分をプロデュースする

1月25日(月) 「優雅で野蛮な女」

 しかし、とるにたらない事柄を毎日書いて、いや時々休みながら書いてるのだけれど、読む人は呆れているに違いないと思う、よくもまあ・・・ってなもんだろう。

 ほとんど、構成もくそもあったものでなく、ただただ思いつくままに書いてるだけで、それでも何も無い日々を綴るには、無い知恵をしぼるわけだから頭をつかう。
 適度な頭の訓練になってるが、誤字や思い込みの間違いもあるだろうし、何よりも人間性が出てしまうから、恥をかくことの免疫は折り紙つきだと思う。
 「おうおう、まだまだ生きてるな!」と伝わればそれでいいと思っている。

 「自分をプロデュースする」って言葉が気に入ってる。
 先日、友人から「優雅で野蛮な女」ってクールでいいと思いませんか・・・というメールをもらって、「優雅で野蛮な女」ってどんな女なんだ?と思ったが、ふむ、これってああ自分をプロデュースするってことだなと。

 自分をどのような姿として見せるか、というか、自分の人生を恣意的に作り上げようという、究極のナルシシズムであって、こういう「ユニークな発想」こそ、まやかしと見せかけが多い中で、人生を楽しむことの真髄じゃないかと。

 何をやっても楽しいと感じられない人もいるし、ただただ時間を埋めるように何かに没頭しようという人もいる。
 まるで、追い立てられるように何かをしなければ!と思ってるのだろうか。
 そうして過ぎて行く人生は本当に楽しいのだろうか?と、他人事ながら気になってしまうものだ。

 「充実感」を満たそうと必死な姿は苦しそうにも見える。
 他方で、何をするわけでもなく一日一日を過ごしている人もいるわけで、それでも「楽しい一日」であればそれでいいと思う、楽しく生き辛いのがこの世だから。
 楽しく生きることに、あれこれ思いをめぐらせて、そうやって暮らして行けるならば「いい日」である。

 こんな日記を書くのもそういったことの一つだと思っている。
 さてそれで、この友人はどんな「優雅で野蛮な女」を演出するのだろうか?と期待している。
 「頑張って生きて行く人になりたい!」などと面白くもなんともない発想よりも、「社会のために・・・」などと、自己犠牲の精神を崇高なもののように思い込むよりも、ず~っと魅力的じゃないだろうか。

 自分自身を創り上げようとする楽しさだと思う。
 こんな発想はちょっと現実感覚から距離を置いて、つまらない常識に囚われることから逃れて、それでこそ出来るものなんだろうと思う。

 またまたコダワリ日記になってしまったなぁ~♪ 寝る。

| | コメント (2)

2010.01.24

自分をプロデユースする

1月24日(日) 庄内緑地公園でスケッチする

 雲ひとつない快晴の日曜日。
 青い空が広がって、見上げているだけで気持ちが良い。
 今日はスケッチブックを持参して、ちょっと暖かな陽気だったから一つ下絵だけでもと。

 雲の動きは速いものだ。
 しばらく見上げていたら、西の空に小さな雲が現れたと思ったら、増えて行く。
 雲ひとつない空の一角に、しっかりと薄い雲の集団が陣取ってしまった。

 しかし、スケッチなんて初めてだと気恥ずかしい。
 ここを描いてみようと思っても、人がいると・・・勇気がいるものだ、初心者は(笑)

 冬桜の咲く木立のそばで、モデルの撮影会が行われていた。
 ああ、写真ならばサクサクって「冬桜」を撮って、さっさとお終いにできるけれど・・・
 スケッチとなると、しゃがみ込んで、何だか通る人の視線が気になるものだ。

 けれども、せっかくのこの機会だからと、バックから小振りのブックを取り出して描いてみた。
 恥ずかしさがあって、大きなスケッチブックは買えなかったのだなぁ~♪(笑)
 見たまんまの風景の下絵を描いてると、不思議なもので、もう他人の視線を忘れてしまう。

 「楽しいなぁ~」
 率直に、そう思った30分くらいだったか。
 しばらくは練習だと思いつつ、この公園風景を何枚か描いてみようと思うが。
 じゃあ「練習」と「本番」は何が違うのかって考えると、そんな違いは何もなさそうだ。
 今ある、ここを描いてみようという、単純な思いだけが全てで、それでいいような気がする。
 まあ、見たまんまの風景も描けそうもないが・・・

 とりたてて、上手く描けるわけでもなさそうだから、きままに楽しく描けれたらそれでいいか。
 「何をどう描いても誰にも文句を言われる筋合いじゃないぃぃ~」って言葉を思い起こすと、案外気楽に物事を始められる。
 
 自分をプロデュースする。
 ちょっとナルシストな言い方だけれど、自分が何かに向うための考え方だと思う。
 自転車に乗って、街を眺め、公園にあるごくごく普通の風景を、今度は自分のエンピツで描いてみる。
 写真もそうやって、ただただ気に入った風景だけを、いつも同じものばかりだけれど、撮って楽しんできた。
 それを、エンピツや絵の具に置き換えてみるだけだ。

 そうやって、自分の今を楽しむことは、自分の暮らしをプロデュースすることだと思う。
 自転車散歩にプラスアルファーして、「自転車散歩人、ちょっと一休み」という自分をプロデュースするってことだ・・・そういう発想もおもしろいと思うんだなぁ~。

 遊び心ってことかな(笑)

| | コメント (2)

2010.01.23

夢をあたえられる人は凄い

1月23日(土)映画、「のだめカンタービレ」と「デトロイト・メタル・シティ」

 時々雨がパラつく土曜日、はい、お約束の映画は「のだめカンタービレ 最終楽章 (前編)」だった。
 午後からの上映にあわせて、昼は「お好み焼き」を映画館への途中の店で食べた。
 ごく普通の休日の些細な行事でも、我が家というか夫婦にとってはゴージャスな「お出かけ」なんだな。

 映画「のだめカンタービレ最終楽章」、これはテレビドラマで見ていたから、ストーリーもつながって、パリの街で繰広げられる物語も楽しく観られるが、予備知識がなくて観たら楽しさ半減だろう。
 こういう、漫画を底本にした映画はテレビドラマでこそ本領発揮するが、一本完結の映画としては、ちょっとも物足らない。
 まあ、テレビドラマが映画化されることも多いが、ゆっくりと物語の流れを楽しむというのにはちょっと違うのかも。
 それでも、ユーモアとクラッシック音楽という、この取り合わせは音楽音痴の自分でも充分に楽しさを堪能できた映画だった。
 
 それで、今日は夜にも土曜プレミアム映画ってテレビ映画を放送していたので、これも観てしまった。
 「デトロイト・メタル・シティ」、松山ケンイチ主演のこれも音楽を扱った映画だった。
 自分の夢とは違うヘビメタバンド「DMC」の世界に進んでしまった主人公がPOPミュージシャンの夢破れて・・・
 まあ、二つの顔を持たされた主人公が、夢を追い求めてゆく、これもライトなユーモアたっぷりの映画だった。

 「いいじゃない、夢はお金がかからないでしょう・・・」
 「人に夢を与えられるなんて、凄い人だとおもうわ」

 故郷に帰った主人公を近くの神社にさそったお母さんは、悪魔系のバンドボーカルであることをひた隠しする彼に優しくそいう言った。
 なんだか、いいシーンだった。

 人はいろんな夢を持って、クラッシック音楽の世界だったりヘビメタやミュージシャンや、分野はいろいろであっても、夢を追い求める姿の素晴らしさなんだろうな。
 あまりにも、現実社会ばかりに目を奪われると、やっぱり夢はしぼんでゆくものだ。
 大きな志も立派な夢だと思うし、小さなあれこれの夢も立派な志だと思う。

 今日一日、楽しく映画を観て、一週間のストレスを解消して、そうして観た「映画」から何かを感じ取れたら、少しは小さくなった心も広がるだろう・・・これも夢だし、そういう夢は幾つになっても持ち続けたい。
 そんな気持ちになって、そういうちっぽけなものでも人に伝えられたら、それはやっぱり凄いことなんだろう。
 そういう夢を感じさせてくれる人々は身近にもたくさんいるから凄いことだと思う。

 楽しい映画三昧の一日だった。
 お金も僅かで済んだし、あはは・・・

| | コメント (2)

2010.01.21

いやぁ~嬉しいなぁ♪

1月21日(木) イラストと賞状 

 どうもこのところは厳しい仕事が増えちゃって顔で笑って心で泣いてる!ってところかなぁ(笑)
 まあそれも仕事と思ってニ・ン・タ・イ。
 ずいぶんと耐えることも覚えた人生だから、辛いときほど笑って過ごそうってことだ。

 そんな今日、いつも送っていただいてる「寓話通信」が届いていた。
 で、一緒に同封されていたのが「賞状」ってわけで、先月「好きな動物のイラストを送ってね」っていう案内があって、意を決して(笑)送ったイラストの「賞状」だった。

 30年ぶりに「絵」というものを描いてみたわけで、もう上手下手などと思うよりも、つまり、こういう自分で描いたものを、他人様に見せるかどうかという、一点に尽きたってわけ。
 あはは、賞状ってのも小学生以来だからなぁ。

 送っていただいてる「寓話通信」にはいつも写真やイラストやエッセイが満載されている。
 A3版の表裏にぎっしり盛り込まれた「通信」は楽しさが際立って、知らない方々の笑顔や近況などを読んでいると、なんだか「人生」みたいなものを感じる。

 「人間っていいもんだなあ~」って思えるから、今日みたいに「厳しいな!」と疲れる日には、まったく別のところで、まったく知らない、いろんな人たちだけれど、伝わってくる楽しさに元気をもらうようなものだ。
 ほんとうに、不思議なこの「寓話通信」だと思っている。

 それで、記念にやっぱり日記には載せておこうと思って。
 『この会の趣旨は、誰のか分からない動物イラストを通して「自分を語る」ことにあります。ははは、誰がどんな絵を好きだろうと文句を言われる筋合いではないのだぁぁあぁああ!!!』 (マミケンの部屋
 こういうスタンスになんだか安心して、30年の時間を経て描いてみたのがこれ!(笑)

Img_0073

 『1番多く票数集めたから偉いわけではありません。もしもこれが下品な集団だったら、1番票を集めたのは1番下品な絵と言うことになります。ははは。』(マミケンの部屋)
 というスタンスで貰っちゃった賞状がこれ!(どんな賞状よりもこれは嬉しかったなぁ~♪笑)
 
Kkk

 

| | コメント (4)

2010.01.19

焼き芋

1月19日(火) 新年会

 もう新しい年も明けてしまったが新年会。
 新年会といっても、江戸時代の旗本侍の登城よろしく儀式らしいものはどこにもない。
 つまり忘年会のかわりに新年会というだけだ。
 職場の方から、何故か焼き芋をいただいた。
 新年会に焼き芋ってのも、この不自然なとりあわせがおもしろい。
 
 宴会のさ中、「てぇへんだぁ!てぇへんだ!」と銭形平次の八五郎じゃないけれど、連絡が入り「まぁ、しゃあないか」と中座して・・・大山鳴動鼠一匹。
 大騒ぎしたほどのこともなかったという顛末だった。

 美味い料理を食べそこねたかもしれないが、結果、大事なこともなく平穏で良かった。
 帰宅して、いただいた焼き芋をひとつふたつ口にすると、甘さが口中にひろがって安堵の味わいだった。
 平穏無事に勝るものはないということだなぁ。
 
 

| | コメント (2)

2010.01.18

長文メール便

1月18日(月) 記録的文字数

 月曜日ってのは、どうも今ひとつリズムに乗れなくてミスるし持続力も低下して集中力もなくなるトリプル低空飛行。
 いや、単なる歳のせいか?

 先日ちょっと長いメール便を出した。
 文字数を数えると9000文字ほどで、メールという手段を覚えてからの記録的長さになった。

 現在の心境や現状などを何とか正確に伝えようと、もがきあがいた結果が長文メールだったけれど、そんなに文字を連ねても、果たして相手に伝わったものか疑わしいが。

 メールといえば携帯メールが主流の現在、たかだか20個ほどのボタンをサクサクと押して書いたとしても、それほど多くの文字数を費やすことは難しいだろう。
 その分、簡単、明瞭、簡潔な文章でメールを作成するし、絵文字やキャラ文字などが、感情を伝えるには有効な方法となっている。

 この9000文字のメール便は、送信相手がパソコンメールであることを前提に書いてみたが、携帯だったら、これほどには書けないと思う。
 ただ、それだけの文字を書いてみたが、しっかりと構成だった文章かも疑問だし、曖昧な表現も少なくなかったと思うから、後で読み返すとちょっと恥ずかしい思いでもある。

 文章を書くというのは自分自身の良さも悪さも、表裏なくさらけだすことかも知れない。
 毎日ブログを書いていると、もう書くことが無くなったのではないかと思うことがある。
 そういう日は、おそらく「何か言いたいこと」が見当たらない日のような気がする。

 毎日が感動や新鮮な出来事に満ち溢れていれば、書きたくてたまらない!と思うかも知れないが、人生の圧倒的な多くは「とるにたらない日々」でしかない。

 9000文字のメール便を送信できたということは、そういう「伝えたい思い」がいっぱいあったということで、そんなメールを出せることに感謝しているわけだ。
 ブログとか日記とか、とにかく自動筆記のごとくグダグタと思いつくまま書いたものを、しばらく時間や日にちを置いて読み直してみると案外本音らしきものが、是非はべつとして出ているものである。
 たくさん書けばよいわけではないが、たくさん書くには本音でしか書けなくなる、というか自分をさらけ出さざるをえなくなるということだ。

| | コメント (2)

2010.01.17

「アバター」deデート

1月17日(日) キャメロン監督、映画「アバター」を観てきた

 二階で夜更かしして昼まぎわまで寝ている娘と息子に向って「ちょっと出かけてくるから~」と妻が叫んでいる。
 「どこに行くの?」
 「お父さんと映画よ、デートだから・・・」
 なんだかこの「デート」という言葉が照れくさいが、まあいいか。

 妻と出かける映画はいつも好みが違っている。
 「アバター」と「のだめカンタービレ 最終楽章」のどちらにするか?
 チケットと昼食代を私がもつことでキャメロン監督の「アバター」を観ることになった。
 3DとCGの最新技術をもって映画化された「アバター」だから、一度は観ておきたい映画・・・というのが、私の希望だったわけだ。

 入場時に3D用の眼鏡をもらい、観客がみんなメガネっていう雰囲気もおかしいが、3Dっていうと赤青二枚の色メガネで立体(?)写真を見る程度の経験しかないがメガネなしでも一応は見える。
 そういう、映像技術の進歩はいったい何処まで進化するのかと思うと、もはやCG技術なんて当たり前で、あとは文字通りメガネなしの「立体映像」が残るだけだろうか。

 ストーリーはもういろいろ紹介されているので概略をネットで引用させてもろうとして・・・
 
 22世紀、地球から遠く離れた惑星パンドラへとやってきた元海兵隊員ジェイクは、自らの分身となる「アバター」を操り、先住民ナヴィと交流するが、やがて鉱物資源を巡って勃発する人類とナヴィとの戦争に巻き込まれていく。

 「アバター」というと、ネットの世界では自分の分身のようなキャラクターを作って、仮想のネット社会に繰り出す「あれ」のことだ。
 まあ、仏教用語でも「神の化身」という意味もあるそうだから、もう一人の自分を操って別の理想世界で暮らすといったようなものなんだろう。

 よく似た設定では映画「マトリックス」もそうした世界を描いていたが、よく考えてみれば膨大なネット社会では「ブログ」や「掲示板」や「HP」なんていうのも、実は仮想世界でしかないと言える。
 本名も経歴も顔も知らない人の文字や写真や絵が、その人の実態のように思われて、まるで現実のその人のように思われるが、それはほんとうの一部でしかない。
 一部であることを理解したうえで、現実に生きてる人の具体像を探すようなもので、これも「アバター」だろう。

 てなわけで、映画の「アバター」は現実と想像との区別がつかないほど映像的には優れていると思う。
 登場する人間そっくりの種族ナヴィの動きや得たいの知れない猛獣やドラゴン、そして壮大な森の世界は、実に見応えがある。
 調べてみると、撮影にさいして俳優の動きを点にしてコンピューター処理したり、グラフィック技術を駆使したりと製作人数だけでも何千人もの人が関わっているというから、たしかに映像技術としては最前線なんだろう。

 いつも、こういうSF世界を描いた映画を観るときに思うのは、何を問題にしてるのかなぁということ。
 アメリカ原住民であるインディアンを追いやったアメリカ、ベトナムやアフガンやイラクで、力の戦争を遂行してきたアメリカ、もはやインターターネットという社会が現実と区別できなくなったアメリカ・・・
 そういう意味では、アメリカ社会(日本もそうだけれど)の今をよく表していると思う。

 そういうものに対して「種族ナヴィ」は人が命を絆として交わり、自然に回帰する崇高なものの存在として、いわば善と悪のような対比が見て取れる。
 たしかに、人間よりはるかに強靭な肉体を持ち、自然と調和して意識のコミュニケーションを可能にする存在としての「種族ナヴィ」はある意味では理想とも言える。
 
 なんだけれどもなぁ、なんだかこういう構図が大雑把に見えてしまうのも事実で、「種族ナヴィ」のシャーマン的な宗教色はちょっとなぁ、種族の絆って部分がもう少し・・・
まあ、日本的な「私小説」のような映画も好きな自分としては、もう少しそういうところを、この素晴らしい映像のなかに出して欲しい・・・と、欲張りな感想を持ってしまう。
 これは、ないものねだりってことだけれども、そんなことを思う人も少ないかな。

 さて、今度は「のだめカンタービレ 最終楽章」を妻の奢りで観る番だ。
 ユーモアとちょっと感動の楽しい映画鑑賞になりそうだ、あはは、なんと言っても「奢り」なのだから(笑)

| | コメント (2)

2010.01.16

この一瞬

1月16日(土) 全日本卓球選手権

 全日本卓球選手権、午後3時からの放送でした。
 私としてはゴールデンタイムに全国放送して欲しいのですが、この時間帯だとねぇ~
 自転車に乗って出かけるにも中途半端な時間ですよ~、週末ゴルフ放送でもあるまいしってこと。
 今日は女子シングルスの決勝戦、王輝×藤沼戦。
 カットマン対ドライブの戦い、私なんぞは「う~ん、ほぉ~」っと唸るんだが、妻に言わせれば「あれぇ福原愛ちゃんの方がスピードがあるし強いんじゃない?」などと。
 そんなことはありません。
 しっかりと、見応え有るカットとドライブで、ときおり見せる王輝選手のバックの凄さ。

 でもって、男子ダブルスの決勝戦も放送されてて。
 もう、国内敵なし状態の水谷&岸川選手。
 サービスを出す瞬間の緊張感がいい、巷の卓球大会でも、こうした全日本クラスでも、いざ一点を争う競技の始まりの瞬間、サービス。
 試合を経験したことがある方ならば、この瞬間の集中力の高さがわかると思う。
 岸川選手のこの表情、この構えはたまりませんねぇ~♪
 というわけで、テレビ画面から一枚撮ってみましたが、そうそう我が家に来てた義母は「大相撲、高見盛を見たいわ」と。
 液晶画面のメインテレビを譲って、ちっちゃな方で卓球、卓球!・・・国技には勝てん!ってことか(笑)

Img_0216


| | コメント (2)

2010.01.15

時計の時間

1月15日(金) 失くしもの

 お気に入りの腕時計が見当たらない。

 某メーカーのデジタル時計だが、これがipodに無線通信が出来て、選曲や早送り、音量調節ができるから、地下鉄通勤時など、ちょっと疲れた日にぼんやりと聞くときに都合のよい代物だ。
 その腕時計がここ数日見当たらないから困ってるが、まあ携帯にも時計はついてるし、自転車の速度メーターにも時計があるので、それでも何とかなる。

 最近は電波時計が主流になってきた。
 我が家の時計もほとんどが電波時計、といっても、あのデジタル表示の味気なさは、時間を確認するという以外の何ものでもない。
 正しく時間表示してくれれば確かにそれでよいから、数年前に安売りで買った振り子の時計が唯一の非電波時計でいつも数分早く進んでしまう。
 それでも長短二つの針が文字盤を回って視覚的にはこの方が「時計らしい」

 電波時計がまだ普及してない頃には、家中の時計の針がみな違う時刻を指して、はて、どれが本当の時間なのかと思ったもので、初めて電波時計を買ったときには、とても素晴らしいものだと感激したが、そんな感激も長続きはしなかった。

 職場の机の上に小さなカレンダー付きの電波時計が置いてある。
 電波受信するから狂いはないだろうと思っていたが、毎日数分の狂いが生じて、今では30分も進んでしまっている。
 電波時計だから大丈夫、正確な時間を常に示してくれると思い込んでいたら、なんのことはない。
 コンクリートの建物に覆われた事務室まで電波が届かないから、毎日の狂いを補正できないということだ。

 時間を時計で測るのが当たり前と思い込んでいるのが現代人だ。
 一日は24時間で一秒ごとに数字が刻々と変化して1分、1時間と累積した数字が一日となり365日が一年となる。

 そんな当たり前のことが、何だか違うように思われることもある。
 もしも、もしも時計というものが無くなったら、人は太陽と月によって一生を推し測るだろうか。
 いや、そもそも古代の時計の起源は日時計に始まり、水時計、砂時計、動力を用いた歯車・ゼンマイ式など進化してきたように、やっぱり誰かが「時を刻もうと」努めるだろう。
 
 腹時計とか体内時計ってものもあるが、もうこの世は何億分の1まで限りなく時間を区分けして刻むことに慣れすぎて、それが経済活動を支えているかも知れないが、ほんとうのところは「どうでもよい」ことだと思う。

 さしてそれほど人の一生は時間に左右されないものだとも思うわけで、一日がとても長い日だったり短い日だったり、そういうことを数字に置き換えても、ちっとも楽しくないものだ。

 もっともっと、アバウトな暮らしに目を向けて「今日は一日があっという間に過ぎたなぁ~」と感慨にふけるほうがほんとうの一日だと思うわけなんだな。
 日の出とともに起きて日没とともに就眠し一日を終える・・・
 出来ないからこそ、そんな暮らしに憧れるが「あれぇ~腕時計はどこなんだ!」とすぐさま時間に拘束されている自分に立ち戻る。

 なんだろう?これは。
  

| | コメント (2)

2010.01.14

休暇

1月14日(木) さて休みをとったが、あっという間に一日が・・・

 先日の休日出勤の振り替えで本日は有給休暇。
 正規雇用の特権だけれども、派遣社員が増えて、臨時・パートが全業種に拡大してしまった今は、有給休暇という概念すら薄くなっている。

 皆さんが手に汗して働いてみえる日に、一日のんびり過ごす休暇は、なんだか申し訳ないと思いつつ、あれもやる、これもして、あれも、これも・・・欲張りな思いばかりが先行するが一日は短い。
 
 もう、一日が過ぎようとしてる。
 庄内緑地を自転車で走って、そうそうスケッチブックを持って出たけれど、あまりの寒さに、やっぱ今度にしようと、暖かい缶珈琲を飲みながら「寒桜」の向こうに広がる葉の落ちた枝々に冬を感じる。

 少し自転車の締め付けが緩んだのかおかしな音がするので、いつもの「自転車専門店」に見てもらう。
 やはりボルトの緩みが原因だ。
 「寒いけれど、やっぱり走ってしまうでしょう!」と、店の方が笑って話してた。
 そうなんだなぁ~、寒かろうが暑かろうが「ほとんど関係ない」のが、自転車を愛する輩達ってわけだ。

 最近はテレビを観ることも少なくなった。
 せいぜいニュースと天気予報が全てで、あとは時々の映画くらいなものだ。
 連続ドラマはもうめんどくさい。
 毎週、毎回見てればそれなりに、あらすじなどに興味がもてるかも知れないけれど、もういいや!って感じだなぁ。
 それでも、今日はBS放送で「刑事コロンボ」を放送していた。
 たしか、少し前にも放送していたから、「刑事コロンボ」シリーズでやってるんだろう。

 あの、コロンボ刑事っていうキャラクターは好きだ。
 ヨレヨレのコートにオンボロの車、見るからに「さえないデカ」って雰囲気だけれど、その実「凄腕の殺人課刑事」という設定がギャップがあって魅力的なのだなぁ。
 これって、ある種の定番で、見かけと中身の違い・・・「必殺シリーズ」の登場人物もそうだし、あの「水戸黄門」や「遠山の金さん」だってそうだ。

 「見かけ」とはちがう「本当の中身」ってところに、どうも自分のような凡人は惹かれているのに気づく。
 もちろん、犯人が解かってるから、それを追い詰めるというストーリーも楽しいから、以前見たものでも、また見てしまう。

 「携帯を忘れたから終電車に乗れなかったから・・・」インフルエンザ騒動も過ぎて平常に戻った妻に娘からメールが入った。
 「見えすぎた嘘をつくんじゃない(笑)」って返信出したら?
 今ね「嘘つき!(笑)」って返しといたわ。
 「嘘じゃないほんと、ほんと」と再メール。
 二人して「刑事コロンボ」見てた影響か(笑)

| | コメント (2)

2010.01.13

感染の怖さ

1月13日(水) 遅れてやって来たインフルエンザ 

 とうとう、妻がインフルエンザに罹った。
 連休中に発熱して医者にかかったら「インフルエンザ」と診断されて、抗ウイルス治療薬を服薬してる。

 で、注意書きには「異常行動などの精神・神経症状が発現することがある」と書かれている。
 「私って、何か夜中におかしな行動しなかった?」と半ば冗談で言ってたが、インフルエンザと聞いただけで、なんだか自分も熱が出てきたような気がする。(笑)
 最近は「新型」とか「鳥」とか「豚」とか、そういう言い方はしないのだろうか。
 どちらにしても、インフルエンザに罹ったという方が職場でも、あちこち見られる。

 昨年の春先ごろだったら、「新型インフルエンザの国内流行を水際で防止します」などと、某大臣とかマスコミは大宣伝していた。
 それで、感染者がでると濃厚接触者は数日間職場出勤を見合わせるというお達しもあった。
 そんな、新型インフルエンザ大狂想曲はいったい何処へ行ったのか。

 感染予防の大切さは言うまでもないが、あの国民総パニック症状のほうが恐ろしい。
 ある種のマインドコントロールのようにも思われるが、なんと人は宣伝にいとも簡単に踊らされるんだろうかとも思う。

 いろんな宣伝は嘘も含めて、ウイルスのように拡大して行くものだ。
 そういう、イデオロギー操作というか感情操作っていうのは、商品宣伝でも選挙対策でも専門集団によって作戦が練られているんだろうなと思う。
 ましてやマインドコントロールともなれば、自分の内からの自発的意思のような見せかけを持つから、客観的に判断する意志すら失ってしまう。
 
 インフルエンザがそういうものだとは言わないが、情報を正しく判断するのが難しい世相だと思う。
 情報社会の落とし穴のようにも思う。
 「専門家」とか「関係者によると」とか、日々マスコミには、こういう情報を解説する人がたくさん登場して、同じような事柄をしゃべりまくり、それが「社会の主流」になってしまうのが気になる。
 だから、「それって、本当か?」という批判的精神を持ち続けることが大切だと思うわけだ。

 まあ、妻のインフルエンザは本当だし、ウイルス感染に注意するのも必要だけれど、あの新型インフルエンザ騒動が、誰かの別の意図によるものっだったとするならば、それはウイルス感染よりも、もっと恐ろしい何かを意味してるだろうな。

 「エコ減税」「エコポイント」、エコと名がつけば何かしら、地球温暖化にプラスになって、人類に良いことをしているような気にさせられる錯覚。
 何で自動車とか家電製品にだけ「エコ」なんだ?と思う。
 自転車通勤をしている自分からすれば、自転車購入「エコ助成金」のほうが、はるかにエコじゃないか!と。
 あはは、だから「レジ袋有料化」とか「ゴミの分別」なんていうのも、人類を救う温暖化対策に多大な貢献をしているかのような言われ方には「本当か?」と疑問になる。
 大規模都市再開発事業のほうが、はるかに地球温暖化に貢献してるんじゃないか?とね。

 「欲しがりません勝までは!」「贅沢は敵だ、非国民だ!」やっぱりこういう感染が一番怖い。
 

| | コメント (4)

2010.01.11

熱烈大恋愛の勧め!

1月11日(月) 成人の日
 
 成人の日。
 今年も荒れた成人式のニュースが流れていた。そんな成人式ばかりではないと思うが、紋付・袴姿にアルコールも入って騒いでたと・・・
 息子に言わせると「つまらない自己主張さ!」なんだと。

 一方では自分を「草食男子」だと成人式を迎える男性の半数が思ってるらしい。
 「自己主張」と「草食系」一見、正反対に思われる行動様式だが、言えることはどちらも人と関わることの下手さかげんと臆病風だ。
 まあ、晴れやかな成人式で、ちょっとかっての同級生との差別化を計ろうと、つまらぬ暴れっぷりを披露してみても、選挙権と引き換えに雇用不安と安サラリーという大人の事情に飲み込まれる。

 このエネルギーが向う先を「成人式」から自分自身に向けたら、もっと注目される大人になると思うのだが。
 しからば、「草食男子」とは何ものだろうか、恋愛に積極的ではない男性というのが定義だ。
 反対に恋愛に積極的な女性を「肉食女子」と言ってるようだが、これも女性の1割程度という。
 男性も女性も恋愛には消極的!というネットアンケートの結果のようだ。

 しかし職場の若い方がたを見ても、恋愛に消極的と言われるような人は少ない。
 同じ世代の仲間内では、そういう情報や交流は比較的穏やかだが、「消極的」と言われるほどではない。
 ただ重くのしかかる、結婚するには苦しい給料、身を粉にして働かなければ自分や妻や子どもの暮らしが成り立たない現状はたしかだ。

 そういう現実をして「結婚観」が大きく変わってきているのも事実だと思う。
 だから、この成人たちの父親や母親の時代にはまだあっただろう「親の反対を押し切って」とか「駆け落ちしてまでも」という、ちょっと暴走気味だけれど、そんな熱烈恋愛をゴールインさせるほどの危険よりも、ほどほどの金銭感覚とほどほどの祝福・・・いや、ちょっと親のスネカジリの結婚観が大勢を占めていると思うわけだ。

 大恋愛はとにかく経験するべきだと思う。
 そうして経験したものは、たしかに人間らしい感情を豊かにしてくれる。
 たとえそれが破局に終わっても、結婚に至らなくても、「草食男子」などという、つまらないカテゴリーに身を置いて、自分だけの安全パイを求めてどうするんだと思う。

 自分自身の感情表現は、そういう経験のなかで育って行くものだから、若いときは若さをしっかりと表現することが大切だと思う。
 人にあれこれ期待したり、何かを与えてくれるのを望んだり、自分の気持ちを理解して欲しいと要求したり・・・そういう、大人になりきれない子どもの感情は、大恋愛の中では木っ端微塵に吹き飛んでしまうものだから。

 そういう経験値を獲得せずに、40、50、60と年齢を重ねて、おじさんおばさんと呼ばれる時代になって、自分の老いて行く姿を嘆いて、自分には青春時代がなかったと、長年連れ添った夫や妻に物足りなさを感じるのかオチである。

 とまあ、成人の日にお勧めする「熱烈大恋愛」って本日の日記なりぃ。

| | コメント (2)

2010.01.10

1月10日(日) 障がい者自立支援法

 おとといの新聞の朝刊に載っていた「障がい者自立支援法訴訟の合意」
 だれも「障がい者の自立のための法」などと思ってもいないこの制度を、違憲だと訴訟してきた障がい者へ国は謝罪し、このペテン法を廃案にして2013年8月までに新たな法制度を実施するという。

 この法に先立つ「支援費制度」が持ち込まれた頃、「俺ら障がい者家族は死ね!ということだよな」といつも顔を出して、そう言ってた方が自らの命を絶った。
 そして、「自立支援」の文句とは反対な「障がい者の将来」にも不安を膨らませたこの法制度のもとで、無理心中の道を選んでしまったという悲しい知らせ。
 こんな法律のもとで、身近な方々の悲しい現実に接してきたから、なんともやるせなかった。

 新たな法制度を模索する端緒についたということだ。
 社会のなかで、さまざまなハンディをもった方々が幸せに暮らせるかどうか、それが文化社会かどうかのバロメーターだと思う。
 長妻厚生労働大臣が「反省の意」を表明したという。
 この法案を推進してきた議員や官僚は「反省の意」があるのだろうか?
 「障がい者やお年寄りを大切にする社会を目指します」とまだまだペテン師の声が聞こえる。

 休日出勤の今日、堀川は穏やかに水をたたえ青い空には白い雲が浮かんでいた。
 その雲の流れも早く、どこに行くのだろうとしばらく眺めていた。
 
 ♪雲にのりたい やわらかな雲に
  希みが風のように 消えたから

 たしか1969年頃に黛ジュンが歌ってたがまだ若かった。
 そんな歌詞どおりの、柔らかな雲が、なんだか刺々しい世相とは裏腹に優しい。
 この雲は、ほんとうに何処へ流れて行くのだろう?
 なんだか、フワフワと流れる「暖かな雲」が、浮世の自分たちに似てるような気がする。

 左は「国際会議場」、堀川も名古屋港に近くなると水量も豊かだ。

 Img_0202

| | コメント (2)

2010.01.09

河川敷

1月9日(土) 庄内川・矢田川の河川敷から香流川へと走る

Photo

 冬の日の戸外、それも河川敷を自転車で走るなんて、どこが良いのかって思うかもしれないが。
 たしかに新緑の若芽はまだだし、カラッと晴れわたる夏の青空もない。
 けれども、肌を突き刺すような冷たい風と、ときどき親子で凧揚げする光景はこの時季しかお目にかかれない。
 高村光太郎の「智恵子抄」の有名な一節、「智恵子は東京には空が無いという、ほんとうの空が見たいという・・・」の言葉がぼんやりと頭に浮かぶほど、河川敷には遮るなにもない広い空がある。
 いつも見ている空の輪郭にはノッポなビルや余計な高速道路やゴチャゴチャした電柱が映っている。
 何も無い空がこちらから向こうまでずっと広がって、そんな河川敷をポケットに無造作に手を突っ込んで歩いている人の姿を見ながら、一本道のような自転車道を走り抜けて行く。
 こんな季節だから小さな動物の形をした遊具で遊ぶ子どもの姿はないし、ウォーキングする人もまばらだ。
 冬の河川敷のちょっとなんだか、もの淋しげな風景も、自転車に乗れば絵になる。

 職場の友人と帰宅途中でバッタリと会って「じゃぁ明日走ろうか!」
 そういう思いがけない約束は、妻の許可をとるのも一苦労だ。
 正月の餅のせいにして、「ちょっと鈍った体力と贅肉を落とさなきゃなぁ~」と理屈をつけて、今日は庄内川で待ち合わせをした。
 庄内緑地公園をグルリと周回して、庄内川から矢田川、香流川の自転車道を走った一日。
 たった40キロちょっとの走行だったけれど、こういう時間は何ものにもかえがたい。
 「一刻千金」という言葉がある。
 お金にはかえがたい、貴重で楽しさを惜しむ意味で使われる言葉だけれど、河川敷を自転車で走る一刻一刻がまるで至福の時のように思われる。
 お金のかからない趣味といえばそう言える。
 いや趣味というよりも、人生の時間の使い方だと思うから、どんな風光明媚な名所や自然にも負けない河川敷ロードだと思う。
 自転車ライフの楽しさなのである。

 久しぶりに走行GPSマップなんぞを・・・
3


 

| | コメント (2)

2010.01.07

息抜きにパンツの話など・・・

1月7日(木) どーでもいいんです~♪

 朝から小雪がチラホラして、積もるわけでも雨になるわけでもなくて、路面は濡れてるけれども自転車通勤。
 ドロ避けカバーのないスポーツ自転車は24・5キロも出すと、後輪から跳ねた水で背中と尻が濡れて、小1時間も走ればパンツまで滲みてくるが、まあいいか。

 そういえば昨日のこと、トイレに行って「うむ?あれっ!」、どうやらパンツの前後をはき間違えている。
 新年だからと、新品のパンツに履き替えたのがそもそもの間違いのもと、夜中にコソコソ履いたパンツが裏向きだったのならいざしらず(笑)、気が付きそうなものだがなぁ~、まあいいか。

 パンツの話題にまで踏み込んだ会話はおもしろい。
 「洗濯が溜まっちゃってパンツひっくり返してはいちゃった?いえいえ、コンビニに買いに走った」
 人にあえて見せるものではないが、さりとて無くてもよいわけじゃない。ファッションに成りきれない地味なキャラクターだけれども、なんだか人間臭さがかもし出されるパンツの可笑しさか。

 テレビで小島よしおがパンツじゃないが海パン姿で極寒のアラスカにいた。
 お笑い芸人とはいえ見ているほうが寒くなる。真夏じゃ絵にならないから、冬の海パンはもちろん際立っている。
 もう、笑うに笑えないが、芸人根性と言えるのだろうか?

 今でも不思議なのは、かって勝新太郎がパンツの中に薬物を所持していて摘発されたとき「あれ、何だこんなところに入ってるんだろう」とトボケたが、この「パンツの中」ということで、深刻な薬物事件なんだが、妙に変な可笑しさばかりが記憶に残っている。
 まさに、パンツという代物が滑稽さをともなって、なんだか庶民ぽい雰囲気をかもしだす。
 いや、そんなパンツに特別な商品価値を見いだしたり、趣味の対象ににしたりと、そういう御仁もいらっしゃるが、そんなのはここでは取り上げない。

 パンツキャラといえば赤塚不二夫の「おそまつ君」に登場する「デカパン」おじさん。
 ちょっと脇役だけれど、でっかいパンツにいろいろ持って、「ホエホエ」言いながら・・・、赤塚不二夫マンガに登場するキャラの豊富さは、もう天才だと思う。
 
 パンツって言うのは可笑しさから惨めさエロチックと実にさまざまなバリエーションを持っている。
 そんな中で自分が好きなものといえば、松本零児のマンガ「男おいどん」に登場する主人公大山昇太のランニングにパンツ一枚の姿。
 四畳半の下宿の押入れにはパンツが山のように押し込まれ、得たいのしれない「サルマタケ」というキノコも生えている。
 もうこれ以上の極貧と人情味と哀愁はないんじゃないか!と・・・ずいぶん昔のマンガだから、知ってる人は知ってるし、知らない人は知らないが、日本が高度経済成長に向う社会の青春群像とも言うべきマンガだった。
 
 などと、あれこれ書いてみたが、ちょっとヨレッたパンツをはいた日に、自転車事故にでも会って、救急車で搬送され「おや、まあ気の毒なパンツだねぇ~」、そういうことだけは避けたいと思ってる本日の日記なりぃ~
 暇人パンツ話 -完- (笑)

| | コメント (4)

2010.01.05

太っ腹

1月5日(火) カネ、カネ、カネ、お金・・・

 寒い日でした。
 手袋をはめた指先がジンジンと冷えて、ハァーと息を吹きかけて暖を取り戻す。
 そういう寒さを感じて、冬だなぁ~って喜んでるのも変といえば変。
 背中を丸めて玄関先で寝てる愛犬ポン太の器用に折りたたんだ足と腹の間に、冷えた指先を突っ込んで「おお、暖かい~お前も生きてるなぁ~」と一声かけても知らん顔の媚びない犬。

 ちょっとした言動に左右されない太っ腹がいい、と思いつつも些細な言葉に迷走する自分を見る日は、「はぁ~」とため息の一つもでるものだ。
 年末年始の休日を無事に過ごして「やれやれ」と思ったのもつかの間、「悲しい現実」が舞い込んでくると、「まあ、正月を問題なく過ごした反動だな」とおかしな理屈を自分に言い聞かせて、無理やり納得させようとしてみるが、なんだか悲しい現実は増えるばかりだ。

 「人生は金じゃない」と言いつつも、「金で解決する人生もある」という悲しい現実。
 いや、金で解決できるならば、まだマシなことかも知れない。

 年間に何億円も子どもの衣装代を費やす外国の有名人ママの話題がニュースで流れていた。
 「馬鹿じゃない!」と妻は言う。
 一度着た服は二度と子どもには着させないらしい。

 幸せは金では買えないものだという真実。
 けれども、月々数万円の年金暮らしのお年寄りの、その数万円を無理やり奪ってしまう息子の仕打ちに涙するお年寄りもいる、家族だからと。
 そんなお年寄りに「人生は金じゃないよ!」とは場違いなこと。
 地獄の沙汰は金次第! いいえ、この世は金次第!という今の地獄・・・

 だから、そんな悲しい問題にとりかかっても引きずり込まれてはダメだ。
 気になっても、気にし過ぎては意味がないから「おうおう、よっしゃ!よっしゃ!」と声を出してみると、なんだか霞がかかったところにも、ぼんやりと陽が差し込んでいる。

 太っ腹な心持になりたいものだ。
 

| | コメント (4)

2010.01.04

「マンマ・ミーア」で一気書き

1月4日(月) 気分はまだ正月なんだなぁ

 「いやぁ~6日間は短すぎるなぁ」というのが挨拶代わりの仕事始めだった。
 だいたい日本には家族で過ごす長期休暇というものがないので、短い正月やGWや盆休みなどを、キュウキュウして過ごしているんだけれど、そうやって働き続けて、ハッと気がつくと夢も希望もなくなった高齢化社会が待っている。
 それをして勤勉な国民性と言い訳しても、誰も喜びはしないと思うんだけれど、こんな超スピード社会に誰がしたんだ!と文句の一つも言ってみたくなる仕事始め。
 だから、正月気分を持続させようとwowow映画の「マンマ・ミーア」を観ていたら、「あれぇマンマ・ミーアやってるの?」と妻もやってきて、二人して映画鑑賞会になっちまった。
 ABBAの曲にあわせてミュージカルストーリーが展開されるが、残念ながらABBAもよく知らないし、ミュージカルがとりたてて好きなわけでもない。
 それでも、地中海の海と島の舞台はちょっといいし、何といっても屈託の無いノーテンキなコメディぶりが、楽しく思えるから、映画なんて知識も博学も何もなくても、楽しいものは楽しいと思うわけだ。
 そういえば、こんなミュージカルやダンス映画が流行り出した頃には妻と一緒に映画も観にいったものだが、そんな頃からもう25年以上も経っている。だから20歳になる娘ソフィの母親ドナが年齢に似合わない陽気で底抜けな明るさを演じているのが、そこがちょっといい。
 こういう映画は大雑把に楽しめるから、正月気分を持続させるにはもってこいの映画なんだなぁ。と言いつつ、ほぼ何も考えずに思うがままに一気書きする本日の日記だが、こうやって書いていると、案外まとまりのない文章から自分でも思っていないような本音の気分が出る。
 考えながらまとめて書こうとすると日記というのは思ったことも書けなくなるものだ。
 というわけで、風呂に入って寝る。
 

| | コメント (2)

2010.01.03

思い出写真

1月3日(日) 兄弟で新年会だった

 今はもう正月か冠婚葬祭でしか兄弟が揃うこともなくなった。
 両親が亡くなり兄弟とて子どもや孫ができたりすると、そこが「実家」という故郷になる。
 そうやって時代は過ぎて行くもので、特別の感慨はないけれど一年ごとに顔に刻まれる皺や白くなってゆく髪を見ていると、かって子どもの頃には、そんな歳になることさえ想像もできなかった。

 今日はそんな兄弟で集まる新年会であった。
 もうバリバリの現役を退いてる兄たちの暮らしぶりは穏やかである。
 四人兄弟の末っ子である自分も、あと何年かすれば同じような境遇で暮らすことになるだろうと思うと、高齢化社会というものも身につまされるが、とりあえずは皆元気に暮らしている。
 いや、案外こうした時代、団塊の世代の方が、その次の世代である自分たちよりも生き生きとしているようにも思われる。

 昔のアルバムを数冊見せてもらった。
 両親親が持っていた昔の写真で、当然にも子どもの頃の兄や自分が写っている。
 当時はカメラなども高価なもので、それこそ現在のように、カシャカシャとデジカメで簡単に撮れる時代ではなかった。
 だから、記念写真といったたぐいの写真はほとんどない。

 Img_0174

 子どもの頃の写真をみれば、そこに写っている人の暮らしぶりや時代背景が手に取るようにわかるものだ。
 こういう写真をブログ日記に載せるのもなんだかなぁ~とも思うが、もうそんな子どもの顔をした兄弟は、過っての思い出でしかなくて、プライバシーも気にする必要もないだろう。

 一番小さいのが自分である。
 裾が短くて、上の子どもの「お下がり」が次ぎから次へと回っていた時代だから、膝小僧あたりは今にも擦り切れんばかりである。
 そんな着ているセーターも裕福な家庭の子どもたちの姿ではないが、とびきりの笑顔だけはどこの家庭にも負けないものだったにちがいない。

 「男の子ばかりで将来が楽しみだわね」と近所のおばさんに話しかけられて「みんなおかげさまでいい子ばかりで・・・」そう母親が言うのを、親の後ろに隠れるようにして聞いていた自分がこの頃だ。

 「親の背をみて子は育つ」という。
 親の背とは何も親の教えや目に見える子どもへの言葉だけではないと思う。
 ほとんど教養というものとは無縁な生活だった親だけれど、一生懸命、町工場で働き、とにかく「高校だけは出してやりたい」そんな親の背中は、たしかに子どもたちの中に生きていると思っている。

 背景の街はまだ平屋の家が建ち並ぶ中小都市である。
 街全体が見渡せる小高い里山の上に、立派とはいえない木造の我が家が建っていた。
 そこから、何十本ものエントツが見渡せる風景は今はもう想像もできないほどの街に変貌してしまったが、かっては輸出産業も盛んだったせとものの街、瀬戸市である。

 もう、何十年も昔の古いアルバムに写っている「あの頃」なんだけれど、久しぶりに会う兄弟の歳と時間は、お互いが平行線のように一緒に過ぎているだろう。
 何年たっても兄弟は兄弟であるが、そんな今が永遠に続くわけもない。
 子どもの頃の、おそらく兄弟で写っている写真は3枚ほどしかないが、この笑顔は裕福ではなくても、とても幸せだった、そんな時代の証かも知れない。

| | コメント (2)

2010.01.02

正月らしさ

1月2日(土) 夫婦で自転車散歩の事始

 しかし、このブログ日記も「ちょっと一休み」から「自転車deちょっと一休み」に改題したほうがよいくらいだと(笑)
 ほとんど毎日自転車通勤していると、休みの日でも暇さえあれば戸外を走ってみたくなる。
 「自転車好きになったわねぇ」と妻は言うが、自転車が好きというよりも、自転車で流れる景色を眺めながら過ごすのが気持ちよいということだ。

 今年はこの自転車に何かをプラスして、自転車ライフを広げて行こうと思っている。
 それがデジカメか絵か俳句とか・・・まあ、とにかくコラボってことで。
 毎年年末に「今年逝った人」という芸能ニュースがあるが、去年もずいぶんと多くの方々が亡くなっている。
 昔はほとんど著名人の他人事のような気持ちであったが、最近はそうでもない。
 もうあと何年かすると、そういう世代になるかと思うと、生きてるうちにしっかりと、やりたい事はやっておこうと・・・そんな気持ちになる。

 夜中に降った雨は止んだ午前中、しかし曇り空。
 この季節、曇り空は寒さも一段と増すが、昨年からの予定どおり庄内川・矢田川サイクリングに妻と出かける。
 「なんだか、いつも曇りの日が多くない?琵琶湖もそうだったし・・・」
 たしかに、二人で出かける自転車走りは天候に恵まれない日も少なくない。
 
 そういう悪条件であっても、なんだかんだと言いながらサイクリングロードを走る。
 正月なのか曇り空だからなのか人も自転車も少ない。
 ただひたすら走る22キロの道程。
 少し前だったら、こんな曇りの寒い冬の日に自転車なんて100パーセントありえない。
 時々休憩しては「寒いわぁ」と連発する妻だけれど、意外とご機嫌はいい。
 こうやって、ただ走ってるだけだが何かを共有するという満足感は同じなんだと思う。

 その曇り空も午後になると薄日が射すまでに回復した。
 娘と妻は恒例の「正月バーゲン」息子は初詣だという。
 「炬燵ミカン」でテレビ三昧が庶民の正月だと思っていたが、おやおや誰もいなくなったぞぉ~。

 近所の喫茶店で、あいかわらずコツコツ読んでいる杉本苑子の時代小説を読みふける。
 杉本苑子の作品って、情念とか怨念などの女性の世界を描かせたら時代小説であっても現代に通じるものがたくさんある。
 かっての時代を現代の視点から読んで、あれこれ歴史上の人物評価をしても、なんだか一面的なような気がする。
 むしろ、時代を越えて共通するとしたら、ただ人間の中に流れている無常観や怨念といった、そういう情念なんじゃないかと。
 そういう世界は「大河ドラマ」ではやっぱり表現できないところだと思う。
 
 喫茶店読書の事始でもあった本日なりぃ。(笑)
 

| | コメント (2)

2010.01.01

迎春 2010年

元旦 初走り!庄内緑地公園サイクリングロード

 あけましておめでとうございます。Photo_3
 いつも訪問いただいてる方も、たまたま訪れていただいた方も、皆さま今年も幸せな日々でありますように。
 
 名古屋は昨日から小雪が舞って除夜の鐘を耳にする頃にもチラチラと雪の大晦日。
 そして、いよいよ今日から2010年のスタートです。
 いやぁ、正月って暮らしをリセットして、心機一転って気持ちになるから、ちょっと小奇麗になった家の中も、ふだん歩いてる近所の道も、どれをとってもいい。

 まだ溶けることなく残ってる昨日の雪の白さと同じに、なにもかも新しい。
 ほんとうは昨日と今日は何も変わっちゃいないけれど、ここが人の心の不思議さだと思う。
 だから、今年の抱負は?と自問して、う~んと唸りながらもこう思う。
 新しいことにチャレンジしてみよう!

 朝起きて、中村区の豊臣神社に初詣。
 神仏には頼らないという思いから宗旨替えしたのはこの数年。
 それまでは参拝は妻と子におまかせだったが、また今年も手を合わせる。
 そういう儀式めいた習慣が正月ならば、それもいいだろうというわけだ。
 僅かな賽銭を投げ、賽銭に見合わない大きな願い事をするのも、いささか気がひけるが・・・
 参拝の後に公園の小さな茶店で串カツとおでんを食べて冷えた身体を温める。
 近くにある亡き義父の墓参りをして、我が家の一年の始まりである。

 今年は正月早々から縁結びの話で我が家は賑わっている。
 息子も娘もそういう歳になってきたかと、やれ勉強だ、やれ受験だといってた頃が嘘のように歳を重ねるのが早いものだと改めて思う。
 「花ちゃんにふられたよ」と娘が言っていた。
 どうも愛犬ポン太が散歩とちゅうに、同じ柴犬の「花ちゃん」にシカトされたらしい。
 やれやれ「婚活」などという、わけの解からない言葉が流行っているが、ポン太も例外じゃないってことか(笑)

 午後の3時。
 昼下がりなのか夕方なのか微妙な時間だったが、今年初めての自転車初走りに出かける。
 庄内緑地公園から矢田川サイクリングロードまで足を延ばしてみた。
 またしても小雪がチラつき、向かい風も強い。
 日本海側を中心に雪模様の日本列島、河川敷のロードは風がきついものだ。

 正月らしく家族連れで凧揚げの風景がある。
 けっこう勢い好く風に乗って舞い上がって行く。
 向かい風は辛いものがあるが、風があって凧も空を舞うわけで、なんだか凧も人生も似ている。
 無風ならば辛くはないけれど風があってこその凧上げ。
 抵抗もない暮らしなどあるはずはないが、そういう風に乗って泳ぐのも楽しいものかも。

 陽が落ちるのもまだまだ早い。
 今日はきれいな夕陽が庄内川の川面にキラキラと輝いていた。
 夕陽を背にした風景は、あざやかな黒いシルエットも見応えがある。
 さあ、急いで家に帰らなくっちゃ。
 
 Photo_2
 

 

| | コメント (6)

« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »