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2009年9月

2009.09.30

秋の蚊

9月30日(水) さらば、長月!ってことですね

 9月もお終いです。

 よくよく考えると今年も残りあと3カ月、そう思うと一年の過ぎるのが早い、歳を重ねるのも早い、人生ってこんなふうに過ぎ去ってゆくんだろうか?
 何か自分の人生に足跡を刻みこむようなものを生み出してきたのか?と思うと、生産的なものはないし、消費的な人生だったのかと思うと少し寂しくなる・・・

 が、そうであっても、今生きていることに意味があり、悩んだり笑ったりしながら何十年と人間をやってきたことに価値があると思っている。

 昨日、自殺幇助を願望する人と話していて、60を過ぎてもう体が自由に動かないし、新しく何か出来るわけじゃなくて、ただ生きてるだけ、ただ生かされてるだけでなんて何の意味も無いって嘆いていた。
 そういう気持ちになってしまう心情は本当のところなんだろうと思う。

 人がもし何かの目的に向かって生きてゆくことだけに意味を見出すとしたら、老化や障がいは目的を疎外するものでしかなくなってしまうから。
 「生きている」という事実こそ、何ものにもかえがたい素晴らしいことだと思う。
 そして、死ぬまで生き抜くことは、自分の人生というものを生産することだし、ただ一つの自分という芸術を完成させることだと思う。
 それで、「いや、生きてるだけで素晴らしいんだと思うんですよ」と言ってはみたが・・・・
 

 夏を生き残った蚊が事務室の中で頑固に人様の血を狙っている。
 一晩を過ごして空腹になった朝、飽食気味の現代サラリーマンが出勤してきて、美味しい血を満足げに吸うわけだ。
 痒くて痒くてたまらないが、この秋の蚊の生きるエネルギーには、憎き人類の敵ながらこっそりと拍手を送っている。
 蚊の一生がどんなものかは知らないが、まさか冬は越せない運命だと思うが、そんなことには見向きもしないで、貪欲に吸血・・・吸血・・・
 しかし、夏を過ぎた蚊に刺された「痒み」はたまりませんなぁ~(笑)

 秋の蚊にやわ肌刺され始業ベル (by 一休み)
 

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2009.09.29

一駅乗り越すところだった

9月29日(火) 倉橋由美子「偏愛文学館」

 降水確率90%の予報に騙されて地下鉄通勤したが雨なんて降らない。
 天気予報の嘘つきめ (笑)
 疲れた一日で、夜の9時過ぎまで仕事をした。
 「貧しさ」は幸せになろうとする気持ちも萎えさせるもので、「人生金しだい!」という誰かの口癖がリアルに思えてしまう悲しい気分。

 そういう日に、好きなんだけれど難解だと思う倉橋由美子の「偏愛文学館」っていう本を読みながら地下鉄にのった。
 ほんとうは自転車雑誌などを読んだ方がずーっと気分転換になるのだろうが・・・

 カミユとかカフカとか森鴎外とか、洋を問わず小説の読みどころを、ちょっと異質な観点で書かれているから、読んだことの有る小説ならまだしも、知らない小説となると、「う~ん」と唸ってしまう。
 だから、難解だと思うのだけれど、そういう本がおもしろいと思う日もある。
 わからないまま、とにかく読み進んで、何か出てくるのを期待しているようなもの。
 そういう読書もあっていいものだと思う。

 それで、ついつい下車駅を乗り越しそうになって、あわててホームに飛び降りたが、おもしろくて夢中になって乗り越すことはあっても、解からなくて「何?」って夢中になるのもめずらしい。
 やっぱり疲れているんだろう。

 そんな中で、とても解かりやすい箇所があって、こんな小説論だ。

 今日では、普通の人は本を読まず、手紙その他の文章も書かず、読んだり書いたりするとしても、文章らしい文章は敬遠して、しゃべるように、あるいは携帯電話のメールのように書き、またそんなスタイルで書かれたものしか受け付けないようになっています。小説もそんなスタイルで書かれ、それが読まれるというわけです。
 ・・・略・・・小説はすべて「アゴールの城にて」のようなものでなければならないとは思っていませんが、今の若者たちのしゃべり方でしゃべり、メールの文章と同じ調子で文章を書くような人物が登場するような小説は読みたくもないし、勿論自分で書くことなど思いもよりません。
 (ジュリアン・グラック「アゴールの城にて」の部分から)

 ちなみに「アゴールの城にて」は読んだことがないが、話ことばとは正反対の文語調の小説なんだろうかと思うが・・・長いけれど引用しちゃいました。
 こういうちょっと解からない本を感覚的にアバウトに読んで喜こんでしまうそれも「偏愛」読書(笑) 

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2009.09.28

魔の三角地帯

9月28日(月) 雨、雨、秋雨・・・

 天気予報では午後から次第に雨模様となると言ってた。
 妻に「雨降る?」と聞くと「雨降るよ!」会話になってない(笑)

 帰宅するころには小雨がふりだした。
 ここ数年、確信をますます強めていることがある。

 自転車通勤の経路は朝と帰りでは若干違って、途中は三角形のような経路になるが、実はここの地点に来ると、雨の日はいっそう大雨に、小雪が舞う日には大降りになり、風の日にはちょっと強まる。
 今日もやっぱりそうだった。
 小降りだったのでレインコートはまだいいかと思っていたら、この地点にくるとだんだんと激しく降り出して、あわてて自転車のボトルゲージに常備しているレインコートを引っ張り出して・・・

 子どもの頃、少年誌などに「世界七不思議特集」とかが載っていて、ナスカの地上絵とかピラミッドとかネス湖の怪獣とか、子ども心の興味をひく特集が組まれていてワクワクしながら読んだものだ。

 この「世界七不思議」も「新・世界の・・・」となると、ミステリーサークルとかバーミューダー魔の三角海域で忽然と船舶が姿を消してしまうとか、実に興味の尽きないものだった。

 未知なるものへの少年の好奇心をくすぐるには充分なものであったが、今から思うと日本が高度経済成長へとすすみ、万物の科学へのあくなき追求という時代性と一致していたように思う。
 科学によって人が月に行こうとしているその時代に、解明できない事物に科学的に接近したいという要求が「世界の七不思議」という事象におもしろさを感じたのだと思う。

 ところで、こういう解明できない事象というと、最近では「都市伝説」などということにスポットが当てられている。
 今日も、なにやらそうした「都市伝説」特集をテレビで放送していたようだ。
 けれども、昔のそれと大きく違うのはこの「都市伝説」と言われるものの多くが「呪われた・・・」というたぐいの、心霊現象やらカルト的な事象ということだと思う。

 どうも、これは解明できない不思議な現象に科学的接近を試みるというよりも、心的なもの心象てきなものへの、畏怖が根底にあり、謎を解くというよりも、得体の知れないものへの恐怖心だけで成り立ってるようなきがしてならない。
 ある意味、カルトな新興宗教の流布される土壌と同じように思われる。
 時代背景の違いなんだろうか?
 不安定で展望のない世相が心にパニックを呼び覚まし、冷静で科学的な対応を忘れさせているのじゃないかと。
 まあ、そんなふうに思えてならない。
 そう思うと、「魔の三角地帯」などとジョークな題をつけてみたが、実はこの地域は雨雲の通り道になってるのかも知れないし、ほぼ1時間の帰宅路の中間地点で、帰宅を急ぐからスピードも出て、雨粒も激しくヘルメットに当たるということかも知れない。

 不思議なことなんてたくさんあるし、そういう事象を「霊の・・・」「前世の・・・」などと解釈の方法をあれこれ述べてみても、あまりにも滑稽なことだと思う。

 まるで見てきたような地獄や天国や終末論の一つとして「都市伝説」なんてものがあると思うが、どちらにしろ、そういうものは小説や読み物としては面白いが、本気になっちゃったりしたら冗談ですまなくなると思う・・・・本日な~りぃ~。

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2009.09.27

ママチャリとスポーツ自転車の愉しみ方

9月27日(日) 自転車有閑倶楽部な話 

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 てへへ~♪ 長い日記なので有閑倶楽部な方だけお読みください(笑)

 この3日間は毎日庄内緑地公園に自転車散歩をしていた。
 往復18キロ、ゆっくり走って2時間だから通勤距離にまで満たないが満足感はこの上も無い。
 大きなバッタを避けてミミズも避けて、雑草も枯れ始めたサイクリングロードってわけだ。
 毎日休暇だったら、毎日ここを走っていても飽きない。
 
 先日、娘と名古屋駅まで自転車で出かけた。
 娘はご愛用のママチャリで自分はマウンテンバイクだったので自転車を取り替えて走ることになった。
 サドルが低くカマキリの手のようにちょっと上がったハンドル、おまけにタイヤの空気も減ってるので、実に走りにくい。
 「これじゃぁ走りにくいだろう」と言うと、何のことは無い「こんなマウンテンバイクの方が走りにい」と。
 
 ママチャリにすっかり慣れているとサドルにどかっと座って、ちょっと「くの字」に曲げた足でペダルをこぐのがあたりまえだから、前傾姿勢でしっかり延ばさないと道路に足が届かないスポーツ自転車は走りにくいようだ。
 はた目にはママチャリ姿よりも少し前傾で走る姿のほうが若々しくて爽快感があるのだが・・・

 職場でママチャリ専科の人に「スポーツ自転車は疲れないしいいよ」と声をかけても、ほとんどが「えぇ~!」って反応だ。
 学生さんも通勤人もほとんどがママチャリといっても過言ではない自転車=ママチャリ文化の日本。
 でも、たまに仕事でママチャリに乗るとヘトヘトに疲れるのは何故?

 そんなふうに日ごろ思ってるが、そんなママチャリ文化にも訳がある。
 日本のように自転車が車道を走ると「危ない!」って言われのだから、もう小学生の頃から自転車は歩道を走るものだという「常識」が文化になってる。
 いや、歩道の端に自転車道などというわけの解からない道が出来て、それが自転車対策と本気で思われてるから始末も悪い。

 根底から自転車は車道を走るという概念が抜けて、お巡りさんでも歩道を走っている。
 自転車の歩道通行可の標識などなくても歩道走行。
 そういう歩道を走る自転車なんだから、スピードなんて5~10キロで充分だし、なにしろ長距離を乗ることなど毛頭考えられていない。
 ママチャリのコンセプトってのは、短い距離を荷物を載せてゆっくり走る安価な自転車だと言える。
 
 たしかに、ちょっとそこらのスーパーに買い物に、ちょっと駅から自宅まで、そういう便利な足代わりなのがママチャリという自転車なんでしょう。
 ママチャリがダメだなどとは思ってはいないのだが、もし自転車の歩道走行がお年寄りやお子さんや障がいをもった方を除いて、本格的に走行不可で取り締まり強化されたら、車道を走る車は「危なっかしくてしょうがない自転車め!」と嘆くに違いない。
 車道を5~10キロ程度でカマキリスタイルで走るのは、やっぱり不安定といえるわけだ。
 
 「足代わりの自転車」、ちょっとそこまでの、ちょっと駅までの・・・・そういう自転車も必要だと思うし、足腰の弱い方のためにアシスト電動自転車も意味があると思う。
 しっかりと空気を入れれば少し軽くなるし、サドルもできるだけ高めにして、ヒザをのばしてペダルを漕げば疲れも軽減する。

 ママチャリの重量の重さはメーカーになんとか改善してもらって・・・これは値段が上がるが、放置したり乗り捨てしたり、盗難にあわないように、自転車を大切にあつかう意識も向上するだろう。
 そういうママチャリライフも自転車専用レーンが出来て、路肩もなく自転車などもってのほか!と言わんばかりの道路も整備されなくてはだめだろう。

 と、ママチャリの安全で快適な走り方について思うのだが、本当は「足代わり」から「車代わり」の自転車という発想がもっと出てきてしかるべきだと思う。
 車優先社会が大気汚染とCO2排出で温暖化に一役買ってるとしたならば、選挙のパフォーマンスでママチャリを乗るのが庶民だとアピールするだけでなく、交通システムとくに都市交通システムの中に自転車を位置づけるべきだと思う。

 「車代わり」の自転車など今のままでは不可能に近いが、本当に車代わりの自転車を考える必要もあるのでは。
 残念だがママチャリのコンセプトは10キロも20キロも乗るという自転車ではないし、何よりも道路自体が自動車専用道路になってるから、せっかくちょっと大枚をはたいて買ったスポーツ自転車も車道を走るとなると、けっこう神経を使うものだ、通勤となればなおさら。
 しかし、自動車を減らすというには公共交通機関の充実は不可欠だし、赤字だから採算が取れないからと路線廃止が現実では流れに逆行しているし、車に代わる自転車の利用が位置づけられる必要がある。
 
 幸いにも最近は自転車がブームだと言われている。
 雨や風や雪に弱いという克服しがたい点もあるけれど、自転車に乗って季節を肌で感じて爽快感を知ると、こんな素晴らしい乗り物はないと思えてくる。
 ゆっくり走れば、歩くのと変わらぬほどで景色を堪能できるし、早く走れば都会の渋滞でイライラする自動車並のスピードもでるのが自転車。
 もちろん、ママチャリはそのうちの一部分を楽しめるってことで、ママチャリでは味わえないスポーツ自転車の格段に違う爽快感を知って欲しいと思っている。

 この三日間、ロードバイクにヘルメットを着けて、ゆっくりと裏路地の狭い道を10キロほどで走ってると、こんな街並みもあったのか、この家の庭の花はいいなぁなどと、およそロードバイクにふさわしくないような散歩をしている。
 もちろん、サイクリングロードでは30キロほども出せるのだけれど、自転車の走り方にもそれぞれある。

 5年ほど前にママチャリで「旧美濃路街道」を垂井宿までの延々何十キロと走って、何かが違う!と思って以来、スポーツ自転車の楽しさに方向転換した自分だけれど、別にロードバイクのギアがフレームがと、自転車談義が好きなマニアなわけでもない。
 自分流の自転車の愉しみかたをしているだけだ。

 だから、自転車=ママチャリという概念からちょっとだけスポーツ自転車の軽快で爽快な走りを知って欲しいと思うし、何よりも自転車を大切にして欲しい。
 交差点で信号無視をするのは自動車よりも歩行者よりも自転車が一番多い。
 無灯火で歩道を勢い良く走る自転車や、車道を右側通行する自転車があまりにも多い現実は残念で情けなくなる。 
 まだまだ歩行者にも自動車にも嫌われる自転車だから、だからこそ自転車の価値観の復活が望まれる。
 自転車という乗り物を見直す機会になってくれればいいと思っている本日の長い日記でした。
 
かべに棲むシャチ跳ね上がる爽やかさ(by一休み)
 

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2009.09.25

庄内緑地公園のコスモス一枚

9月25日(金) 庄内緑地公園、今年のコスモスです

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 金曜日だが休み。
 ギリギリセーフでやっと夏休みがとれた。
 10月に長野県の安曇野に行くサイクリングの案内葉書を手書きで作りました。
 このブログを読まれていたら、どうぞ下手くそな案内葉書が届きますのでお楽しみにって、誰も読んでネ~か(笑)

 そんなわけで、どんなに長い連休でどんなに有名なところよりも、ここが一番と言えば庄内川と庄内緑地公園。 ここには、ほっとする季節感がたくさんある。
 コスモスが咲き始めて、もう少ししたら、もっとコスモスの花が咲き乱れるだろう。

 なんか、じっくり見ていると人間が持ってるエネルギーを吸い取られるような気がして、まあそれでもいいかと思えてしまう。
 「癒し」って言葉はあまり好きではないけれど、肩に入った余計な力を全部持って行ってくれる!
 「花を愛でて、花に癒される」ってのは、つまりそ~ゆ~ことなんだと、花の持つエネルギーに人間のつまらぬ馬鹿馬鹿しいエネルギーが吸収されるということなんだ。
 コスモスの花の哲学みたいなものか?(笑)

 しかし、実に経済的かつ有効な休暇の過ごし方だと自負しているが、そう思ってるのは自分ばかりじゃなくて、休みに挟まれた平日の今日は人もまばらだったけれど、カメラ片手にのんびりと散策してる人もいる。
 ファミリーではなくて、一人高価そうなカメラと三脚を抱えた人を見るにつけ、ふふふ、ここにも同類がいる!と。
 まあ、そんなふうに勝手におもうのだけど。

 「今どこにいるの?せっかく昼ごはん一緒に食べようと思ったのに・・・」携帯でふと我に帰るのだ(笑)

 庄内川とんぼとニアミス笑ってる (by一休み)

   

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2009.09.23

甘ったるい日

9月23日(水) 秋分の日

 今日から一日の夜が長くなる。
 長くなると帰り道は真っ暗、なんだかせっかくお天道様が顔を見せてるときに事務室で仕事をして、日が暮れると戸外で通勤って生活は、自然に反してるような気がする。
 どちらにしても、この季節はなんとなく寂しい気分になるものだ。

 今日は曇り空。
 何を思ったのか娘が「お父さんコメダの珈琲でシロノワールを食べたいから・・・」と。
 中京地区では知られた珈琲のチェーン店のコメダの珈琲だが、どの店に入っても同じ味だから、当たりハズレのないのが安心できる。
 暖ためたデニッシュの上に冷たいアイスクリームがのり、メーブルシロップがいっそう甘さを引き立てる。
 女性に人気があるが、甘党の男性にも好まれている、ちなみに私は一口目が最高にうまいと思うが。
 CMかぁ(笑)

 そんなシロノワールが食べたいからとワザワザ朝のモーニング珈琲タイムに二人してでかける親子もなんだか変な親子のような気がするが・・・
 もちろん、それほどの甘党というわけでもない自分は珈琲だが、さっさと口に運ぶ娘を見ていると、人生はこれからと元気なのはいいが、その口の中の暖かく冷たくそれでいて甘いシロノワールの味のように美味しいことばかりではないんだがなぁ~と

 まあ。そんなことは「野暮な説教するんじゃないが~♪」か・・・・(笑)

 なんか、甘い一日だったような気もするが、案の定午後からは一雨ザーっときて、やっぱり思いどうりにばかりいかない一日である。
 
 天高し靴カツカツと二十歳の娘 (by 一休み)

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2009.09.22

よく眠った日

9月22日 すっきり顔は睡眠からだ!

 休みだと夜更かししても気にならなくて、その分今日は昼寝三昧。
 犬も良く眠るけれど、退屈しないのか?といらぬ心配もしてみる。
 シャカリキに何かをしていないと気がすまないって人もいる、仕事はもちろんだが、家に居ても「何か」していないと充実した気持ちになれないので、家事に掃除に、買い物に・・・
 そういう追われる生活は、ぽっかり空いた隙間を何かで埋めようとしているようなものだと思うわけだが。
 
 「風天 渥美清のうた」を読んでると、渥美清という人の知られざる人柄みたいなものが見えてきておもしろい。
 「寅さん」をイメージして読んでしまうのだが、そうじゃない一面が何となく役者じゃない人間味があっていい。

  股ぐらに巻き込む布団眠れぬ夜
  乱歩読む窓のガラスに蝸牛
  ひばり突き刺さるように麦のなか

 この3句がいい。
 いいというのは好きな句だというだけで、ただそれだけだが、なんとなくいい。
 渥美清という人はいろんな遊句会に顔をだして、俳優じゃない顔で遊句会を楽しんでいたようだ。
 楽しんで句を詠んでる姿が目に浮かぶ。

 さて、一週間ほど前から田んぼに案山子がたっている。
 こんな都会の小さな田んぼになぜ案山子がというと、この田んぼは小学校の生徒さんたちが育ててると看板に書いてある。
 ストップ・ザ雀!って気迫がじゅうぶん出てるなぁ~
 よその田んぼにはないし、今どき案山子などたってる田んぼもめずらしいが、スズメもせっかくだからこの田んぼの米を喰らうのを遠慮してほしいと思う。
 
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 灯つき家路忘れた案山子かな (by 一休み)

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2009.09.21

敬老の日

9月21日(月) いつ見てもいい!笹島貨物場の引込線

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 連休の真ん中で敬老の日だったが仕事に。
 ワーカーホリック患者のように、休暇が怖くてしかたない・・・というわけでもないが、出勤時間に制約されない休日の仕事は、それはそれで別の愉しみもある。

 名古屋駅南の笹島貨物場の引込み線に老朽化した陸橋が架かっていて、この陸橋は車の通行には耐えられないのか、人と自転車専用の知る人ぞ知る抜け道になっている。

 休日出勤の帰り道は、この陸橋から見る鉄道の景色が好きで、ちょっと遠回りだが通るようにしている。
 あまり使われない貨物の引き込み線路なのか、ここを通過する貨物列車をほとんど見かけないが、レールの上面は銀色に輝いているから、まだ少しは通っているんだろうか。

 線路は続くよどこまでも~♪って唱歌があるが、よくよく観察すると鉄道は交叉する分岐点では繋がっていない。
 あちこちの引き込み線が交わって、線路は切り替えられているんだと。
 なんか子どものように今更ながら感心するのも、普段は真上からこんな鉄道を見下ろすポイントがないからだと思う。
 
 敬老の日。
  「老い」を否定的にみるか肯定的に見るか?
 資本主義社会はたしかに「老いを労働力商品価値の無い」ものととらえ、かっての「姥捨山」の棄民思想と嫌老観がイデオロギーとしては根底にあると思える。
 だからといって、「敬老」ってものが道徳規範のように先行している現実もなぁ~まだまだ考える余地ありってところだろう。

 しかし、「肉体の凋落が精神の衰退」などとは意にも介さず、まだまだ元気な方もたくさん見える。
 昨日も愛知県森林公園のテニスコートでは、ちょっと薄くなったり白くなった頭の60歳代の一団が、小脇にテニスラケットを抱えて喫茶店に入ってきました。
 自分の父親のその頃に比べると、今のお年寄りは人生を楽しんでるって姿だと思うし、そういうふうに生きたいものだ。

 そういう、お年寄りばかりでもない。
 喫茶店でコーヒーを飲みながら煙草を吸っていたお年よりが、テーブルの灰皿には目もくれず、足元にポイ捨て、靴のまま入る喫茶店とはいえ驚いてしまう。
 ポイ捨ての習慣が身について修正できないのだろう、そういう一つの行為からも、「寂しい人生」が見えてしまうのも、なんだか。

 敬老の日の列車通らぬ引込み線 
 敬老の日の引込み線の銀色かな  (by 一休み)

 しかし、我流のこんな五七五でいいんだろうか?
 俳句教室でいろはを学ばなきゃいかんのかなぁ~と思いつつ・・・
 まぁ、いいか。今は人目をはばからないってことに意味があるから (笑)

 

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2009.09.20

墓参り

9月20日(日) 自転車で瀬戸市まで・・・

 「こんどの連休に墓参りに行く?」という妻の一言と、「自転車で行こうか」という私の一言が合体して、今日はの自転車墓参りとなった。

 名古屋から庄内川の堤防を走り、春日井市を抜けて、守山区の志多味地区から、愛知県森林公園、瀬戸市へと、所々昇り坂のある道を走った。

 しかし、庄内川の堤防というのは季節感満載で、トンボやバッタやチョウなどの昆虫も多く、ところどころには彼岸花も咲いている。
 河川敷のグランドでは野球の掛け声も空まで届かんばかりに。
 この季節はまだまだ歩くとなるとジワリと汗もかくが、自転車だとちょっと涼しい秋の風が気持ちよい。
 何台ものロードバイクとすれ違うと、「こんにちは」と挨拶をくれて、「こんにちは」と。

 夏の圧縮されたような空気と違って、秋の雲ひとつ無い空まで広がった空間が、「何も無い!」心地よさに感じられる。

 瀬戸市の外れの墓地に両親の墓があって、名古屋からだと車で1時間ほどだが、自転車となるとほとんど一日がかりの墓参りとなる。
 おまけに、マウンテンバイクに乗る妻のスピードは、時速15キロ前後だから、計算はずれもはなはだしいが、そういう乗り方に付き合って、歩調ならぬペダル回転を合わせるのも、予定のうち。
 
 人の歩く速度は4キロ/時、この倍数の8キロはお年寄りのゆったり自転車、12キロはごくごく普通のママチャリで、16キロとなると、汗をかかない自転車散歩、20キロもコンスタントに出ればじゅうぶんだし、それ以上のスピードを出すためには、車道をしっかりはしらなければならない。
 まあ、自転車の速度なんて、おおよそそんなものだと思ってるが、ゆっくり走れるし、速くも走れるのも自転車のよいところ。

 庄内川の堤防をゆっくり走り季節の風物を楽しむ、ちょっと市街地の車道ではスピードも上げて、車に嫌われながらもしっかり走る、昇り道は変則ギアを使ってかわり映えのしない日常のように、コツコツと走る・・・
 自転車は走るための道具なんだけれど、いろんな楽しみ方がある。

 ・・・というのは私の感想で、日ごろ走りなれていない妻は「足が痛い、お尻が痛い、疲れた、休憩したい」と言いどうしで、挙句の果ては「車で迎えに来て!」と・・・
 往復60キロの道程は、人生観と性格がみごとに表われる(笑)

 というわけで瀬戸市内に入ったところで、兄宅によってちょっと一休み。
 そこから、兄の車に乗せてもらい墓参りしたのだけれど、自転車のサドルに痛めつけられたお尻と筋肉疲労の足から解放されて、一番喜んでいたのは妻。 
 まだまだ余力充分だったのは自分だと日記に書いておこう(笑)

 グランドに影のびて彼岸花 
 線香立て兄から拝む墓参   (by ちょっと一休み)

 はい、恥を捨てて俳句の練習です、練習・練習(笑)

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 夕陽ってのをスナップしてみた。
 瓦屋根のむこうのビルの屋上に日が沈む頃、なんだか街並みがこんなふうにぼんやりと撮れたのだが、ピンボケは安物のカメラのせい。
 けれども、やっぱり太陽が沈む頃というのは、輪郭のしっかりした「一日」が淡く壊れていくようなものなのかも知れない。
 そんなふうにも思えるのだが・・・

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2009.09.19

小さな秋、小さな秋、小さな・・・

9月19日(土) 風天俳句、見ぃつけた~♪

 高速道路が何十キロも渋滞してるってニュースが流れている。
 それを見ていて、意地悪な心がムクムクと起き出して、やっぱりなぁ~、Vacationとは程遠いちんけな小連休に、高速道路1000円に乗せられるからだ!ふんふん・・・と。
 なんともまぁ了見と度量の狭い自分がアホらしくなってしまう。
 渋滞する車の波をかき分け、かき分けガンパッテる、世のお父さんの苦労を労わなくっちゃ。

 久しぶりに図書館に行った。
 このところ新刊本とBOOKOFFの古本ばかり読んでいて、図書館から少し足が遠のいていた。
 毎月決まって通っていると、蔵書量もそれほど多くない区の図書館なので、目新しい本にお目にかかることも少なくなって、しばらく行ってなかった。

 で、今日は見ぃつけた~♪って本は。
 「風天(フーテン) 渥美清のうた」 森英介 (大空出版)
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 男はつらいよ、フーテンの寅さん、渥美清ってタイトル本は図書館であれ古本であれ新刊であれ、とにかく目につく限り読んできたが、また一つというか、また一冊図書館にありました。おまけに、それが渥美清の俳句に関する本だから、驚きとともに宝物を見つけたような嬉しさ。
 へ~~、渥美清の俳句だ!知らなかったなぁ。
 映画の中の無教養でおっちょこちょいな寅さんと渥美清がダブって見えてるから、よけいにそう思えたのかもしれない。
 「え~え~、あの寅さんがぁ?」って、完全に錯覚なんだけれど・・・

 お遍路が一列に行く虹の中
 赤とんぼじつとしたまま明日どうする

 そんな句が紹介されているが、まだ読み始めたばかりで、まだまだ気になる句もでてきそう。
 
 フーテンの寅さんって、種田山頭火とか尾崎放哉とか井上井月とかの漂泊俳人に似て、いつも柴又のとらやから放浪の旅にでるから、何だかそういう俳句なんだろうか?読むのが愉しみだ。

 詩も俳句も文章も書くことってほんとうに難しい。
 小学校の授業でも一番嫌いな教科といえば国語、作文なんてなくなればいいと思っていたから、当然にも毎度通知表は3、3、3・・・ばっかしだった。
 古典、古文ときたらほとんど意味不明で、そんなもん、この先社会に出たら誰も使わへんで~ぇって、都合の良い解釈してたのが、今思うと、一生懸命勉強しておけばよかったと。

 我流で俳句を作ってみようと真似事なんぞをしてみたが、ちっとも言葉がでてこないし、出てきた言葉も何だかな~って・・・
 ようするに、上手に書こう、巧く書こう、素晴らしい言葉を見つけよう・・・そういう、まぁイイカッコしいが、マウンテンのようにそびえ立ってるわけなんだな。
 心に残る感動のシチュエーションを5・7・5の文字で表現しなきゃ、そういう虚栄心と無いものねだり。
 そんなチョモランマというか、ロッキー山脈というか、見えない障壁が、心のどこかにそびえ立っているので、楽しく書けないというのが正直なところ。
 この「カッコつけ」の気持ちがなくならないと、素直に作ってみようという気持ちになれない。

 ほんとうは、そんなことなんかどうでも良くて、今自分の思うことが思うように書けたらいいのであって、技術や歳や評価なんて気にしなくて、日記のように普通に書いてれば、そのうち自分で気に入った句もできるのかな?
などと思ったりもする。

 読書の秋のちょっと本の話でした。
 ちなみに、「風天」っていうのは渥美清の俳号だそうだ。
 
 案山子たつ田んぼもはや黄金色  (by ちょっと一休み)
 
 うぅ~そのまんまだけど、人の目を気にするな!無いものねだりするな!
 まず人の目にさらして、そこからか・・・(笑)  

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2009.09.18

シルバーウィーク

9月18日(金) それでも、連休ってことだが・・・

 へんてこなネーミングだと思う「シルバー週間」。
 春の「ゴールデン」にあわせて、敬老の日もあるから「シルバー」って名づけられたのだろうか。
 たかが数日の連休を「金」とか「銀」とかいうんだから、そのうち「プラチナ週間」ってのが出来てもおかしくないが、まだまだ「働き過ぎ」の日本、いやいや「働かされ過ぎ」の日本ってわけだ。
 
 9月になってもまだ「夏休み休暇」が3分の1も残っている。
 褒められた話でもないが、たしかに労働密度が上がって、一日が終わると「ふぅ~」とため息もでる・・・

 「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とした日本国憲法のいう、健康で文化的というのは、自殺者大国日本、長時間労働の日本、雇用不安の日本・・・と、どれをとっても満足どころか、およそ非健康的で非文化的なレベル。

 従順で「おしん」的体質を脱却できないマゾヒズムが国民気質なんだろうか?

 だから、ゴールデンとかシルバーとか、押し付けがましいネーミングをするならば、現実をもっとハイレベルな社会にしろ!少なくともそういう、安定した労働環境を実現しろ!と誰に文句を言ったらいいのか。

 そんなわけで、このシルバー週間を利用して、友人旅行や家族旅行で、北海道に行く~♪とか東京に行く~♪って職場の話題になっている。

 高速道路も混むだろうなぁと思いつつも、家族旅行の計画もない自分としては、ちょっと羨ましい(笑)
 乏しい休日に群がるように旅行・旅行なんだけれど、そういう文化になってる日本だから、小市民的感情がムクムクと湧き上がって、なんか世間の流れにのり損ねているような気にもなりがちな没個性にちょっと自己嫌悪(笑)

 まあ、人は人だし自分は自分でいいわけで、数日しかない貧しいシルバー連休でも、サラリーマンにとっては嬉しいこの連休を皆さんいかにお過ごしなんでしょうか?

 思いっきり読書三昧の、思いっきり自転車三昧の、思いっきり家事仕事の・・・なんだかなぁ~(笑)
  

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2009.09.17

餅は餅屋

9月17日(木) 続・トイレの水漏れと謝罪会見

 トイレのウォシュレットから水漏れしたって書いてから、一向に止まらない水漏れなんだなぁ~
 ホームセンターでパッキンを買って取り替えてみたが、やっぱりダメで、再び待ったなし!
 しかたなくメンテナンス工事屋さんに頼んで診てもらったら、給水管じゃなくて取り付け部品に問題が・・・
 今は、あれほど垂れていた水もピタリと止まった。

 餅は餅屋というが、餅はやっぱり餅屋の餅が一番美味しいという、その道の専門家を称える諺。
 事がうまくいかずに「やっぱり、餅は餅屋だなぁ~」って使うのがどうも好きになれない。
 必死でなんとかやれば、そのうち餅屋の餅のように美味しい餅が自分にも出来るにちがいない・・・って使うほうが好きだ。

 パッキンを買って、水道管をばらし、ついでに本体のネジを空けて、挙句のはてに、メンテナンス業者だったけれど、まずは試してみて、自力で修理して、ああでもない、こうでもないと考えて・・・やっぱり無理か!
 何事も手をつける前に「餅は餅屋」では、せっかくの楽しみを自分から放棄しているようなものだと。
 まあ、そんな面倒な事は大っ嫌い!って人もいるが性格と好みの問題だろうか。

 そんなわけで、午後から急遽休暇をとって、メンテナンス業者にきてもらった本日。
 久しぶりに家にいて夕方のテレビのニュースなんぞを見ていたら「酒井法子容疑者、謝罪会見!」なんてのが放送されていた。
 芸能人の薬物事件だとしても、こんなにも報道陣が多く馬鹿みたいに延々と番組を放送している。

 ドラマでも見ている感覚で、「謝罪会見の言葉」がうんぬん・・・ってのに、ちょっと違和感を覚える。
 「迷惑をかけ、お騒がせして申し訳ありませんでした」謝罪の言葉はだいたいそんなもので、ドラマの主人公が「どんな謝罪の言葉を発するか」なんて感覚もおかしい。
 視聴率がとれるならば、こんな記者会見をまるで国民的事件のようにフラッシュがたかれ、仰々しく「会見セット」するマスコミのしらじらしさが目に余る。

 もちろん、覚せい剤がごくごく普通の市民の中に入り込んでいる現実をみると、芸能人というインパクトのある薬物汚染の事件が、その恐ろしさを周知させる役目となればいいのかも知れないが・・・
 
 けれども、そういう事件を起こし、そういう薬物依存に陥った人が、本当に社会復帰するには想像以上の困難を乗り越えなければできないと思うわけです。
 覚せい剤と飲酒は決定的に違うものだが、どんな依存症であれ「決別」には、社会や家族や同じ問題を抱える人たちの援助がなければ難しい。
 
 思うのですが「過ち」というものは、本人がそれまでの価値観をきちんと変えなければ立ち直るのも困難だと思う。
 時間はかかっても自分の生き方を問う作業をしっかり取り組んだ後にしか、再出発の道はないんじゃないかと・・・そうして薬物依存から立ち直る人生こそ、もっとも目を凝らして注目するに値するんじゃないだろうかと。
 
 だから、あの、のりピーの流した涙が、記者会見をドラマのように見ていた側と同じで、役者のそれでないことを願うばかりですね。
 

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2009.09.16

ご飯ですよ~♪

9月16日(水) 毎年撮ってる稲穂なんですが・・・

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 家の前の田んぼの稲に実がついて、まだ青々としてる粒がまぶしいくらいです。

 それでも、この若い稲穂の実の中に、真っ白な米粒がぎっしりとつまってるわけで、毎年飽きもせず「おお、今年も大過なく育ってるな!」と、たかが稲穂なんだけど、見入ってしまいます。

 都市農業なわけで、近くには「生産緑地」と名づけられた「都市農業の畑」もあって、野菜が作られています。
 都市化によって、農地もだんだんと狭小化されているし、その農業すら食料自給率の低下が言われるように、大事な日本の食料の源から遠ざかっているような気がします。

 この近くの田んぼの手入れをしているのも、お年寄りだし、その田んぼも去年から今年にかけて宅地になってしまったところがあります。

 田んぼがあれば、ザリガニや蛙やアメンボウなども見ることができて、こういうのは些細なことかもしれないが、心の潤いにもなります。

 「サラリーマン生活」を終えたら、自給できる程度でいいから、農業をやってみたいと思ったりしてるけれど、そういう考えも、腰をかがめて田植えをし、雑草を駆除し、収穫をしている方の姿を目にしていると、「甘い!大変なんだぞ!」って声がどこかから聞こえてきて、シュンとしてしまう。

 もうあと、一月もすれば黄金色に輝く稲穂が、しっかりとコウベを垂れて、「食料を自国で自給せんかい!」と叱咤激励する風景が見られる・・・というか、毎年そう思うんですね。

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2009.09.15

花の名前の秋

9月15日(火) キバナコスモスって名前なのだ!

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 ♪野に咲く花の 名前は知らない
  だけども 野に咲く花が好き
  帽子にいっぱい 摘みゆけば
  なぜか涙が 涙が出るの

 調子にのって、今日も歌の歌詞を書いてみたが、ちゃんと調べてある(笑)
 というか、青春まっただなかの頃、好んで聞いたフォークソングだから・・・

 作詞 寺山修司 作曲 加藤ヒロシ 歌手 新垣 勉  「戦争は知らない」
 
 というわけで、その当時は寺山修司なんて・・・って、好きでもなかった作家なんだけれど、この数年読み返してみると、なんかいいんだなぁ~
 夢とロマンと反抗心が微妙にいい、何十年も経て自分の中で好みが180度変わった作家なんです。

 少し前にこのブログ日記に「コスモスか?」と載せた花の前を妻と通って
 「あれって、コスモスだよね?」って言ったら、即座に「コスモスなんかじゃないわ、ひまわりの一種だと思うわ」と。
 そうか~やっぱり!
 間違いは誰でもある、失敗は成功のもととも言うじゃないかと自己弁護 (照笑)

 花の姿かたちで「花の名前」を言い当てる人が実に羨ましい。
 そりゃぁそうだ、自転車散歩して戸外で目につくものは色鮮やかな花だし、ちょっと遠目でも咲きほこる花々は気になってしかたがない。

 野に咲く花の名前は知らない だけども 野に咲く花が好き・・・って心境なのだ。
 野ではなくて、道端や人家の花壇に咲いてる花なんだけれど、名前がわからない。
 けれども、わからない花でも、気になるほど好きなことにはちがいない。

 キバナコスモス コスモスの一種で庄内緑地公園に黄色い花びらをつけて植えられている。
 白やピンクのコスモスが一般的なんだろうけれど、黄色いコスモス・・・これも秋。
 細い茎がす~と延びて可愛らしい花が咲いている。

 可憐さ、か弱さが・・・そこがなんとも言えない。
 一昔前の少女のイメージだと思っていたら、なんてことはない、本当は繁殖力も旺盛な強い花だそうだ。
 いやはや何とも、美しい女性の本質に似ている(笑)

 こんな、とるにたらない街角話に花が咲くのも秋、ちなみにコスモスは「新秋の七草」の一つだそうだ。
 

  

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2009.09.14

ベンチの秋

9月14日(月) セピア色は昭和の色

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 ♪ も~し、も~し、ベンチでささやくお二人さん
  早くお帰り 陽がくれる~

 ラジオから流れていた歌なのか、それとも「リンゴの唄」をときどき口ずさんでいた母親が歌ってた歌なのか、いまでは記憶もはっきりしないけれど・・・

 情景はもうすぐ帳も下りる夕暮れ時、公園のベンチで寄り添うように語り合う若者に、まだ「官憲」って雰囲気が残る警察官が「おい、こら、ちょっとこっちに来い!」とまでは言わないが、早く帰れと諭しているってところか?

 ここで言う、ベンチは背もたれのある木製のベンチって感じだが、この庄内川縁の公園にあるベンチは、実にシンプルで、フラットなものだ。
 ただ、だだっ広いだけの公園に円形に4つ5つ、このベンチがポツんと置いてある。
 
 夏にはこのベンチに寝転がって本を読んでる人や、ジョギング途中に休憩する人もいたり、シンプルなベンチの良いところは、なんか誰でもご自由に!って雰囲気がある。
 
 一年中そこにあって、自転車散歩の指定席のようなベンチなので、どんなに傷ついてペンキが禿げていても、そこに来ると、ちょっと一休みしてしまう。

 スナップを撮って、思いつきのようにセピア色にしてみたら、なんと「昭和色」になった。
 まだカラー写真のなかった子どもの頃の写真は、やっぱり脱色してなのかこんな色に変わってしまう。
 その前の時代、親の持っていた写真となると、出征する軍服すがたと思われる写真や満洲の開拓団の粗末な農家の写真などは、完全なセピア色に変色していた。

 写真そのものが少ない幼年期でもあったし、今のようにデジ・カメでカシャカシャと自由に撮れる時代でもなかったので、子どもの頃の写真なんて数枚しか残っていない。
 
 古ぼけた写真はセピア色と公式のように言われるが、そのセピア色の写真でも貴重なものだった昭和の時代。
 
 ♪ いらぬ説教するんじやないが
  ここらは ちかごろ近頃物騒だ~
  早~く お帰り~
 

 ここまで、うろ覚えの歌詞を思い出したが、続きがでてこない。
 「昭和」という時代がだんだん遠のいていくことだけは確かだ。

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2009.09.13

HACHI 約束の犬

9月13日 久しぶりに夫婦で映画鑑賞の日曜日

 昨日の雨も上がって秋晴れの日曜日でした。

 数日前から今度の週末は映画を観ようと、一ヶ月半ぶりの休みとなる妻の予定に合わせ、職場の「駒ケ岳千畳敷カール旅行」もお断りして、けなげに休日を空けておいたというわけです。
 映画を観ようかといっても、べつにこれといって無いわけで、映画を観るというよりも、そんな週末の過ごし方を大切にしたいというもの、だから何を観るかなんて未定でした。

 新聞の映画の上映案内を調べても、「う~ん、これっていう映画がない!」
 「20世紀少年」とか「X-MEN」とか「炎天の城」とかやってるが、ちょっと旬をすぎた映画「HACHI」ってことで、ちょっと優しくなれる映画にしてみたわけだ。
 「これを観る!」という強い気持ちがないときには、こういう映画を観てのほほんとするのがいい。

 というわけで、「忠犬ハチ公物語」のアメリカ版「HACHI」である。
 見どころは帰らぬご主人を10年もの間、毎日駅の前で待ちわびる日本的な忠犬美談物語が、いかにアメリカンナイズされているのか?というところでした。
 じっと耐えて耐えて耐え抜く日本的侘びしさの世界が、果たしてアメリカという国では、どうなるのだろうか?
 動物を主人公にした物語は、どんな国でも受け入れられる要素を持っているから、おおきく期待外れということはないにしても、感動の忠犬物語になってるのか?そこんところ。

 日本からアメリカの誰かの元に送られるはずだった秋田犬「八」が、主人公の音楽教授が毎日降りる駅で迷子になり、主人公と「HACHI」がめぐり会い・・・
 しかし、日本犬っていうのは秋田犬も柴犬もたしかに飼い主を喜ばせるのが下手といえば下手だ。
 洋犬のラブラドールやコーギーなどが、ペロペロ飼い主を舐めまくるのとは違って、無愛想なんだなぁ。

 秋田犬とアメリカ・・・まあ、これだけでも違和感があるんだけれど、HACHIの忠犬ぶりもちょっと筋書き通りで変化に乏しい、これが日本映画ならば、もっと悲しく辛いシーンを伴った忠犬ぶりがスクリーンに展開されるんじゃないかと思うんだが、教授の突然の死があっても、ハッピーな家族とヒーローの「HACHI」だから、やっぱりアメリカ版らしい。

 「帰らぬ主人を待ちつづける」悲しさも、ほどほどにアレンジされて涙をさそう。
 ほとんどの観客が小中学生という映画館で、大人二人が子どものように観たってことです。
 
 「ハチ~♪」少し前に同じ映画を観てきた娘が、我が家のポン太を抱きしめて、そう呼んでいた。
 「忠犬ハチ公」は現代でも、それぞれの家庭で飼っている犬と人間の愛情物語として生き続けている。
 10年も待ち続けることはないにしても、1日を終え帰宅すると、愛想の少ない日本犬の表情で、ちょっと尻尾を振ったり、ちょっと起き上がり振り向いたり・・・・やっぱり待ってることに違いはない。

 「あのねぇ~、渋谷の忠犬ハチ公の銅像は、ハチ公がまだ生きてるうちに建てられたんだって」それで、「ハチ公が死んだときにさぁ、お腹の中から串が何本も出てきたそうよ、歳とってもらった餌を上手く食べられなかったんだって」
 帰りの車の中で「忠犬ハチ公」のうんちく話を得意気に語りかけてきた妻だった。

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2009.09.12

トイレの水漏れ

9月12日(土) 一日中眠ってばかりの週末

 夏の疲れがここに来てずっしりと体にへばりついているのか、それとも惰眠の秋だから眠くてしかたがないのか、と二者選択してみたが、ほんとうのところはちょっとストレスと睡眠不足で眠たいだけ。
 たっぷり過ぎる睡眠というのも、よけいに体が重たくなるもので、一日5時間とか6時間寝て、慌ただしい毎日を送っているほうが、生活のリズムができる。

 とはいっても、やっぱり7~8時間の睡眠が健康的なのかもしれない。
 寝不足が続くと物忘れもひどくなる、去年まで一緒に働いていた友人の名前が、ふっとド忘れして出てこない。
 これはマズイと思って、なんとしても思い出さなくては申し訳ないと、何食わぬ顔で世間話をしていても、心の中は落ち着かない。
 若年認知症じゃないかと心配してみるが、何のことは無い、しっかり眠って起きたら、スラスラと名前がでてくるから不思議です。

 一週間前からトイレの水道管から水漏れしているので治してくれと妻に頼まれている。
 ほんの少しの水漏れなので、もう一つ気乗りもしないし、「まあいいか!」と日頃のいい加減さで「うんうん」と返事だけは立派に返してきたが、「塵も積もれば山となる」「水も漏れれば水溜り」ってなわけで、もう待ったなしになってしまった。
 まあ、それ以上に「水漏れ治してくれた?」と毎日言われるたびに、「うんうん」という2文字4文字の返事だけでは説明できなくなってきたのが本音というところ。

 トイレの水漏れ修理は男の仕事と思っているのか、それぐらいの家事はあなたがやって当然でしょと思ってるのか、いずれにしてもトイレの水漏れ修理は「あんたの仕事」って決め込んでる。
 たとえ、トレの床中が水浸しになっても彼女は、もう一つの二階のトイレで用をたすだけで、自分では修理なんてやらないだろう。

 水道管のパッキンの不具合なんだろうと思うが、取り外して掃除して、しっかり締め直したら止まったみたいである。
 明日の朝もういちど点検して、漏れてなければ、「男のしごと」は大成功?と口には出さない嫌味をとなえてみる。

 「男の書斎」とか「女の厨房」とか、そんな古臭い考え方をしている人は今どき少ないはずである。
 杉本苑子の「小鳥の食卓」(中央公論社)のエッセイ集にこんな文章が載っている。

 職場では男女の雇用機会均等、性差の撤廃をかちとるべく闘っているミセスが、家庭では、
 「うちの主人が、日ごろ、ひとかたならぬお世話になりまして・・・」
 などと、何の抵抗もなく口のするのはいかなるわけか。夫が「主人」ならば妻は「召使」か?「奉公人」か?
 単なる慣用句とは思いながらも、世間のおおかたの妻たちが、主人主人と連発するのを聞くと、私あたり何とはなしに奇異な感じを抱かされ、耳のあたりがムズムズする。

 
 おそらく、慣用語として使ってるのが圧倒的なんだろうと思うが、会社の新婚さんの夫が「うちの家内が・・・」って言ってるのを聞くと、同じように自分も耳がムズ痒い。

 3年前に結婚した友人のご夫婦が「これからは旦那さん奥さんって呼ばないで、夫さん、妻さんと呼んでください」とスピーチしたのを思い出す。
 「こだわり」というのは、その人の思想性を表しているものだと感心して、このブログでも「家内」のことを「妻」と書くようにしてきた。
 たかが、言葉であるけれど、そういう考えを表現できることは素晴らしいことだとおもうわけです。
 
 杉本苑子さんは1925年の生まれの作家で、このエッセイを書かれたのが1992年だから67歳のとき。
 どれほど歳をかさねても、そういう衰えることのない観察力を持ち続けて表現している姿は自分も目標にしたいと思っている。
 もうひとつ、このエッセイのおしまいにこんな事が書かれていた。

 「お前はワイフをなんて呼ぶの?」
 こころみに電柱のカラスに訊いてみたら、
 「きまってらあ嚊(かか)ア さ。カカア、カカア」
 と嘯いた。言葉づかいの下司な鳥だ。

 杉本苑子さん、この最後のくだりを書きたくて・・・・って、これは自分の下司のかんぐり。
 笑いのセンスも持ち続けている作家なんだ。いいなこういうの。
 

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2009.09.10

娘の部屋

9月10日(木) 役を演じきるってこと

 「いや~、めっちゃ大変なんよぉ~♪」「それって、カワイイ~♪」
 つまり、若者言葉。

 若い方が採用されて、世代の異なる一つの仕事場で、そんな言葉が会話されてるのを聞くと、どことなくムズかゆく感じてしまうのは歳のせいかもしれないです。
 たぶん、自分もかっては彼ら彼女らと同じような会話をして、同じように年配の方に違和感を発していた頃があったと思うわけです。

 言葉だけ聞いてると、最近の若い人の「ノリのよさ」に圧倒されるんだけれど、そうかといって、仕事もノリノリの「軽薄短小」というわけではなさそうだ。
 けっこう、しっかりと考えながら、むしろ慎重なぐらいにコツコツと処理をしている姿に、何だかギャップを感じてしまうわけです。
 別に若者言葉が嫌いなわけではないが、何となく「作られた個性の役を演じてる」って気もする。

 娘に「パソコンが上手く動かないので見て欲しい」と頼まれて、内心は「それぐらい自分で解決しろよ」って思う気持ちを抑えつつ部屋に入ると、「まったく最近の若い者は・・・」と、いつの時代にも発せられる、お馴染みの言葉が出てしまう。

 床の上は足の踏み場もないほど雑誌やら買い物袋やらが溢れてても、当人はいっこう気にしていない。
 ベッドの上に「ファッション雑誌」が置いてあり、ちょっとペラペラとめくってみると、「まぁ~、なんということなんでしょう~」と、ビフォーアフターのナレーションのような驚きの、ファッションモデルさんの写真が、これでもか、これでもかと掲載されている。
 
 なるほど、こういう雑誌に目をとおして、こういうモデルさんと同じメイクやファッションを身につけて、演じようと努力しているんだなぁ~と半ば呆れながらも、その努力には脱帽してしまう。

 先日、ネットニュースで「芸能人のスッピン顔」がとりあげられていた。
 よくよく、見れば、ふつうの娘さんの顔をしていた。
 普通の娘さんが、あっという間に「モデルふうの美人顔」に変貌するわけで、そういう努力っていうのは、役者が役になりきって演じるのに、なにか似ているような気もする。

 そういう意味では、現代の若者は「役を演じる」努力を惜しまないし、良いとか悪いとかは別にして、「役になりきる力」は、シーラカンスのような親の世代にはなかったものである。

 飲み会とか「合コン」とかで、芸人以上の芸を披露して、笑いをとる若者も増えているらしい。
 職場の飲み会などで、巧妙な話術を披露できる若者の姿がある。
 努力しているんだなぁ~と心底から感心するのだが、同時に「役になりきって」疲れなければいいんだがなぁとちょっと心配にもなる。
 
 今も昔も、若者のエネルギーって言うのは「惜しまない努力」っていう意味では同じなんじゃないかと思う。

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2009.09.09

仕事

9月9日(水) サクサクと書いて寝てしまおう

 帰宅してソファーでうたた寝してしまい、ちょっと肌寒さに気がつくと、イカンイカンこんな時間だ。

 9月になって、秋の過ごしやすさとは裏腹に、相談仕事が増えてちょっとしんどいなぁ~って感じです。
 人さまの相談話を聞いて、人生の悲喜交々な生き方をたくさん知るにつけ、こういう仕事は自分には荷が重いと思いつつ、何十年も続いています。

 機能不全家庭で育ったアダルトチルドレンの方が、知らぬ間に同じような生き方をしてしまうのに似て、人さまの人生に関わる仕事なんて、最も苦手だと思いつつ、そこに仕事とはいえ自分も関わってしまうことに、今更ながらなんと言えばいいのかと、苦笑いする日々です。

 仕事と家庭とか仕事と遊びとか「公と私」とか、そうやって上手に区別できればいいのだけれど、どうも上手くできない。
 仕事に費やす時間も遊びに費やす時間も、同じ自分の時間、同じ自分の生き方だと思うと、あえて仕事と自分というのを割り切って考えられないのです。

 別に仕事人間じゃぁないんだけれど、古くは植木等の「無責任男」、ちょっと前なら高田純次の「5時から男」というメリハリの利いた生き方は目標でもあります。

 不器用な性格なんだと納得して、まぁ不器用な人間は、不器用なりに生きていけばいいんだと、そう思えるようになって、なんだか人さまの身の上話も、落ち着いて聞けるようになりました。

 ドラマのような不幸せな境遇が、現実に目の前にあると、つくづく世の中もうちょっと何とかならないかなぁ~と、落胆したりもするけれど、別の見方をすれば、幸せなんて、ほんの小さな契機さえあれば、誰しも掴めるものだと、楽観的にもなれます。

 「自分の幸せが社会の幸せにつながっている」そういう気持ちで自分の幸せを求めたいと思う本日の日記です。

 ふぁ~ 寝る。 
 

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2009.09.08

卓球練習日

9月8日(火) 2時間動きっぱなし~♪

 久しぶりの職場の卓球の練習日だった。
 卓球台を準備して、冷たい飲み物と菓子を用意して。

 ちなみに、菓子は「おばあちゃんのポタポタ焼き」って昔懐かしいあられせんべいで、こういう菓子を若者が「好物なんだわ~♪」と買ってくるところが微笑ましい。
 準備万端、ヤル気満々・・・って臨んだが、クチコミのお知らせだったせいで、参加者はちと淋しかった。

 先回は台が足らないほどの盛況だったのに、一転して少数精鋭(笑)
 やっぱり、お知らせを作って渡さないとなぁ~
 この忙しい職場では、「火曜日練習だよ!」「わかりました~♪」って言っても、翌日には仕事のことで頭が一杯になってしまうからな~
 裏方仕事としては反省、反省。

 卓球を英訳するとtabletennis(テーブルテニス)なんだけれど、ピンポンっていうのは何処から来たんでしょうか?
 ピンポンパン体操じゃぁないが、ピン・ポンっていう球の響く音なんでしょうかねぇ~
 娯楽がピンポンで、スポーツ競技が卓球って使われ方が巷の区別なんだけれど。
 そうすると、卓球を目指すピンポンってところがこのクラブの現状なのかも(笑)

 そんなわけで、少数精鋭?がニコニコ・ワイワイと2時間汗を流しました。
 卓球も対戦相手がある個人スポーツ。
 「読み」を的確にすると、相手の弱点が見えてくるので、そこを攻める・攻める・・・

 攻めても防御されて反転攻勢に出られて神経の磨り減るのが勝負ごと。
 そこまで到達すれば、卓球も楽しいスポーツなんだけれど、中途半端だと、なんだか陰険なスポーツにも思える(笑)

 なので、冗談を飛ばしながら、楽しくミスして、まぐれのスマップじゃなくてスマッシュが決まれば、それはそれで元気になる。
 
 では、次回の練習は「おばあちゃんのポタポタ焼き」を増量入荷して、地獄の特別練習メニューとしましょうか?
 いやぁ~、老若男女、誰もが楽しめる生涯スポーツ・卓球の良いところですね。

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2009.09.07

お月さんと走る

9月7日(月) 今夜の月も叙情的

 少し欠け始めたけれど、まだ丸い月がきれいな今夜です。
 自転車を走らせて大通りから外れた裏道を帰宅するんですが、裏通りにはアパートや二階建ての家が密集していて、昼間とは違う雰囲気があります。
 暗いから、三角の瓦屋根の黒いシルエットの上に明るい月が浮かんでいるわけです。
 1時間弱の自転車帰宅のあいだ中、月を眺めながら、いろんなことを想像したりして、もうこんなに叙情的な時間は他にはないと思えるくらい。
 そりゃあそうです。
 ちょっと空を眺めて今日の月はきれいだなって思うことはあっても、1時間も月を眺めて暗い夜道を自転車で走る機会なんて、通勤どきくらいなものだから。
 そのお月さんが民家のシルエットから顔をだしたり、消えたり、また現れたり・・・
 この今の瞬間をデジカメならば、どのように写すといいんだろうか?などと考えたり、古の貴族や農民も、こうして空に浮かんだ月を眺めて、暮らしんだろうなと思うと、なんだかそれだけで書けない詩人の気分になったりもします。
 自転車で一時間もかけて通勤するなんて大変なことだと言われることも多いが、こういう風景を楽しめるのが、自転車通勤の醍醐味だと思うんです。
 

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2009.09.06

季節はずれの花火

9月6日(日)諏訪湖(長野県)の秋でした

 今日の夕方、義母が訊ねてきたおり、「東の空に大きな月がでてるよ」と。
 たしかにちょっと赤みがかった丸い月です。
 そういえば、昨日は満月でした。

 この週末は長野県の諏訪湖で開催された全国新作花火大会を見に行ってきました。
 季節外れの花火大会でしたが、諏訪湖畔の空にもきれいな満月が輝いて、トンボの群れが飛び回り、カラスの集団が花火客を見下ろすように飛び去って行きました。

 何もない諏訪湖の広い空の帳もおりると、いよいよ花火大会の始まりです。
 ビールを飲みながら、カメラを三脚にセットして、まるで「ムダな刻」のような時間を過ごした後の、花火の鮮やかさは、またいいものです。

 どうも、このところ旅に出ても、あんまり良いことがありません。
 先月は浜名湖に出かけて夫婦喧嘩をしたし、今回は妻は留守番でしたが、旅先での「言葉の棘」が何となく後味の悪いものでした。

 人は生きていれば、いろんな事に出会うけれど、この諏訪湖の秋の風景のような、「穏やかな」心もちで何時も暮らせれたら、「諍い」なんて生まれないだろうと思う。
 自分も「ちっちゃい人間だなぁ」と思いつつ、人の気持ちに無頓着であれば、人は何も言わずに去って行くものだとも思う。

 そんなわけで、「ちっちゃい人間たち」がザワザワと騒いでいるあいだにも季節は遷り変わっていきます。
 諏訪湖のスナップ3枚載せておきます。
 兄に高性能なレンズでないと花火は上手に写せないよと言われ、たしかにと納得です。
 まあ、腕にも問題ありですが、レンズのせいにしておこう(笑)

 諏訪湖の夕暮れどき

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 湖上の舟から打ち上げるスターマイン、写真よりも実際はもっと綺麗でしたね

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 ビーナスラインと車山高原、シンプル!の一言 

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2009.09.04

嬉しい一冊

9月4日(金) 「名古屋散歩」

 残業を終えて帰宅したら茶封筒に入った一冊の本が届いていました。
 「名古屋散歩」間宮健二さんが名古屋に在住のおりに出版された本です。
 筆ペンで描かれた名古屋の街とエッセイが50編ほど収録されています。

 5年ほど前、このブログ日記を書き始めた頃に図書館で見つけた一冊でした。
 この中に「ちょっと気になるテント屋さん」と題して、親戚のおばあさんのことが描かれていました。
 図書館で何気に見つけた一冊。
 まったく見ず知らずの方が描き留めてくれたという不思議さに、ちょっと感動したのですが、それにもまして、名古屋の街を散歩して、こうして気に入った風景を描くって、なんと楽しいことだろうと思ったものです。

 「散歩」というものの楽しさと、自分で表現することの素晴らしさとの出会いでした。
 「なるほど!じゃぁクレヨンを持って自転車で散歩してみようか」
 ものまねしてみようかと思っても、絵なんて何十年も描いたこともないし・・・

 ただ言えるのは、散歩して、まだ知らなかった路地裏の風景やおもしろさの発見ができれば、それも楽しい。
 そんな事を、拙い文章でも日記に残せれば充分なんじゃないかと、潔くクレヨンは諦めて(笑)
 それ以来、今日まで、裏路地の生活のある風景を自転車散歩するのが続いています。
 
 5年ぶりに間宮さんからコメントをいただいて、「名古屋散歩」の最後の一冊を送っていただきました。
 あらためて、真新しい一冊を読み返してみると、やっぱりこんなふうに街を描き留めれたらなんと素晴らしいのだろうと、羨ましい限りです。
 図書館で借りたあと、古本屋も何軒か探しても、奥付けの発行所に電話しても繋がらず、もうこの本は残ってはいないのだろうなと諦めていたところでした。
 
 自分の感じたものを、自分流に表現できたら、人生ってもっともっと楽しくなるだろうと思います。
 表現方法はいろいろあっても、自分なりの感じ方を表す、絵や字や写真やスポーツや・・・
 そんなふうに思っているのですが、こんなブログ日記というのも、下手な文章でも自分流の表現になってればいいかと思って、もう5年ほどになるわけです。
 いやいや、そのうちエンピツ一本持って、近所の野良猫の陽だまり風景でも描いてやる!・・・って(笑)

 上手、下手なんてものより、自分の思いが込められた「表現」がいいんだよ。
 間宮さんに教えられた人生の楽しみ方の原点ような気がします。

 親戚のおばあさんのページです。(小さくて読みにくい時は拡大して)

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2009.09.02

自虐的ジョーク

9月2日(水) 新型インフルエンザに気をつけて

 労働者は体が資本だと言います。
 健康で元気に働けることが一番の幸せなんだけれど、若者からシニアまで労働環境がなんだか右肩下がりのような気がしてなりません。

 汗水流して働く喜びは社会発展の原動力なのに、なかなか「希望」が見えてこない日々。 
 逆境に耐えて、嘘でもいいからカラ元気をだして・・・・

 午後からなんだか急に体がダルくなって腹痛もでて、「持・持病の癪が・・・」などと時代劇の娘さんならばカッコもつくが、おじさんが「ダルい、腹が痛い」では様にならないし、そうしたら何だか熱っぽいような気にもなって、新型インフルエンザ?
 そんなわけないか(笑)

 隣の係りに顔を出して「うん、ちょっと調子悪いから新型インフルエンザかもねぇ~」などとジョーク一発。
 世間では学校も始まって10月頃には新型インフルエンザもピークになるだろうと言われている。
 で、このジョークに対してすかさず返事が・・・

 「近寄らないでよ、ただでさえ仕事が忙しいんだから、病人が増えたらこまるでしょう、あっちに行って(笑)」
 労働者ってのは、どんな話題でも、笑いに代えてしまうところにパワーがある、というか、そういうコミュニケーションの上に安心して働ける人間関係がある。

 反撃!!
 「え~、そんなこと言って、インフルエンザで職場から人がいなくなって、君だけ一人残されて、仕事が押し寄せてきて、私にもインフルエンザをうつして!って泣いても、うつしてやらないよ(笑)」

 病気で休んでいる方がたくさんみえます。
 効率と生産性だけが追い求められ、文化的で人間らしい豊かな職場環境とは程遠いのが現代のサラリーマンの職場です。
 雇用状況も悪化して、臨時職や嘱託職が増え、いきおいそのツケは正規雇用労働者にきているのも実情です。
 
 自分の体は自分で守らなければなりません。
 自虐的ジョークを言えるうちはまだしも、いやぁ~やっぱり労働者は体が資本です。

 正露丸トーイをいただきました。
 たんなる腹痛です(笑)

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2009.09.01

秋色の影、ちょっと一冊

9月1日(火) 今日から長月(ながつき)です

 歳時記カレンダーによると明日は「禾乃登」、穀物が実り始める頃だそうです。
 「禾」ってのは稲のことのようですが、国語辞典にも載ってない漢字です。
 まあ、秋らしい歳時記なんだけれど、なんで明日の話題を書いてるかというと、「禾乃登」って何て読めばいいのかわからなかったからという単純な理由です。
 「くわすなわちみのる」と読むようですが・・・こんな言葉にきままに興味を持つのも読書の秋?

 秋といえば、いつも通勤途中で休憩する公園の樹の影がいつもより長くのびて、夏のそれよりも、いくぶん淡い影になってるように思えました。
 日射しが弱まって、こんな影ひとつとっても変化があります。
 
 9月になって、学校も新学期がはじまり、猛スピードで車道の右側を走る自転車通学の学生さんや二台横並びでお喋りしながら走る学生さん・・・また悩まされる通勤自転車事情です。
 小学校の児童たちも集団登校がはじまりました。
 新型インフルエンザの猛威も懸念されてますし、この秋はいっそう健康管理が必要ですね。

 どうも疲れが抜けなくて困りものの自分です。
 ちょっと涼しくなって、体が変化について行けない・・・歳を感じてしまいます。
 久しぶりに帰宅途中で喫茶店に入り短編小説を読みきりました。

 杉本苑子の「西鶴置きみやげ」という小説で「二条の后」(集英社)に収められている作品です。
 西鶴とは井原西鶴のことで、作品のほとんどが実は門弟の作品で、西鶴自身は「書けなかった」という説に基づいて、その門弟「団水」の鬱屈した人生に視点をあてています。
 いやぁ、どの小説を読んでも杉原苑子という人の作品登場人物は気味がよくない。
 とはいっても、ちゃんと歴史考察の上で資料にしっかりあたって書いてるそうだから、そこがドラマチックで興味深いところでもあります。
 
 暖かいホットコーヒーを注文して、客数も多くない喫茶店で、ほんの20分程度なんだけれど、そうやってほっとする、文字通り「ちょっと一休み」(笑)

 一年12枚もあったカレンダーも、いつの間にか残り4枚になった・・・秋。

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