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2008年6月

2008.06.30

我慢しなさい!

6月30日 値上げラッシュの7月だそうです

 なにやらまたしても値上げラッシュの7月になるようです。
 新聞記事で拾っただけでも、食品、ガソリン、電気、ガス、航空運賃といったところが、原油原材料価格の高騰を理由に値上げというから、たまったものではないです。

 気のせいか街のファミリーレストランや映画館は客の数が減ってるような気がしますし、高速道路なども車の数が一段と少なくなってるような気もしますね。

 買い控え、家でじっと我慢するというのが、庶民の暮らしの防御方法というわけだから、「エコ」とか「地球温暖化」とか、そういう意味では、下手な宣伝よりも大きな成果を上げてるってことか。

 などという、自虐的なエコロジースタイルをやむなく強いられてる庶民だけれど、本当はそんなことよりも石油エネルギーを膨大に消費して、膨大な富を蓄積している経済そのものに問題があるってもんだ。

 まあ、そんな堅苦しい話はあのねのね~♪ということで、昨日図書館で借りてきた本の話です。
 「ビートたけしのウソップ物語」メチャメチャページが少なくて10分で読み終えてしまいます。
 イソップ寓話をもじって「ウソップ」と茶化しているところも面白い。

 アリとキリギリス

 働き者のアリは暑い夏の間、汗水たらして働き、冬に備えて食料をためておきました。
 怠け者のキリギリスは木陰に涼んで、唄を歌ったりバイオリンを弾いたり昼寝をしたりして遊んでいました。
 やがて、夏が終わり秋が来ました、アリは夏の過労がもとで寝込んでしまい、冬が来るまでに死んでしまいました。
 キリギリスはアリが貯めた食料を食べて楽しい冬を過ごしました。

 たけしの教訓 「クソマジメに働く者より要領のいい者が楽をする」

 ビートたけしっていう人のブラックユーモアのセンスは、ツービート漫才の頃から「赤信号みんなで渡れば怖くない!」なんていう、「社会の常識人」の神経を逆なでするものが多い。

 スポーツ新聞や雑誌などでも、こうした類の「社会批評(?)」がほとんどです。
 この人のエライところは、ちゃんと言うべき内容を言うべき場所にあわせて展開しているところだと思うのですね。

 イソップという人の「寓話」が、宮廷詩人が権力者への献上の詩を書いていたのと同じように、奴隷主からよろこばれる話作りをしていたと寺山修司は「さかさま世界史 英雄伝」で書いています。
 
 彼の寓話は奴隷のユーモアであり、「長いものには巻かれよ、他人の愚かさを利用せよ」といった卑屈なものなので・・・・・ここに見られる道徳的規範は「偉大な小人物」の処世のためのものであって、ギリシャの海の青さの前で、大自然の雄大な叙事詩の前ではたちまち色あせてしまうようなものばかりである。 (同書より)

 しかし、こうしてみると現代の「格差社会というけれど、真面目に働いて成功したものが報われる社会、それを妬むのではなくて・・・」などという論調や、官僚ご用達の「Co2を減らして地球温暖化防止のために・・・・」とか、社会の富を一極集中させて、社会還元してこなかった御仁が無反省に言う「高齢化社会のための後期高齢者医療保険」、こういうさまざまな主張が、なんとイソップ寓話に似ていることかと思うんですね。

 ビートたけしという人の書いてるものを読むと、その辺のことを分かった上で、現代のイソップのような輩にたいして痛烈に皮肉っている、とまあそんなふうに思えるのですね。

 我慢しなさい!あんたら庶民は!我慢は地球を救う、現代のイソップならそういうかもね・・・・ 

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2008.06.29

「昭和ジュークボックス」森まゆみ著

6月29日 ついてない!ッス。

 週末の休みが雨にたたられると損な気分です。
 いやぁ~、一日家でゆったりと読書などもできるから得な気分だって?

 雨が少し上がったから、今が図書館に出かけるチャンスとばかりに自転車に乗ったら、またパラパラと降ってきました。
 しかたなく、あきらめて自動車で出かけたらザーザー降り出す本格的な雨
 自転車で出かけなくてよかった。
 と思ったら、図書館の駐車場は入庫待ちの車の列でした。
 やっぱりツイテナイなぁ~。
 
 背表紙のタイトルだけで本を買うことはまずありません。
 パラパラと立ち読みして、買おうか買うまいか考えるのが一般的です。

 森まゆみ「昭和ジュークボックス」(ちくま文庫)を見つけて中身も確認しないで買ってしまった。
 「昭和」という文字と「ジュークボックス」という文字が何か手招きしているような気になったからです。
 二日ほどで読み終えたところですが、ちょっと面白い。

 この著者の本は読んだことがありませんが、同じ時代を背景にしているから、そこがなんとなくノスタルジックでもあったのですね。
 1960年代から70年代にかけて、当時の「流行歌」を著者の生活と絡ませて取り上げています。
 たとえば、♪チョイト一杯のつもりで飲んでいつの間にやらハジゴ酒~と歌った植木等の「スーダラ節」についてこんな風に書かれています。

 中学高校の頃友だちがなぜ、自分の父親がそんなに嫌いなのか、見くびるのかわからなかった・・・・父親みたいな人とはぜったいケッコンしたくない、と彼女たちは力説していた。それには彼女の母親たちがあきらめのうちに持った「亭主丈夫で留守がよい」という夫像が影響していたように思う。
・・・・高度成長期の”哀愁のサラリーマン”が胸にせまる唄である。

 全篇、こうした著者が生きた時代と流行歌の想いがつづられています。

 1960年代から70年代という「過去」には、惹き付けられる何かがあると思っている自分だから、この時代をどんな気持ちで生きたのかと、そんなあれこれが書かれている本は一段と面白く感じるんですね。
 たんなるノスタルジックな過去のような、それでいて何か違うようなそんな想いがつよいからです。

 エピローグの中で書かれています。
 ジュークボックス・・・・曲が流れ出すと、かけがえのないその時代、その経験が浮かび上り、とるに足らない人生もビールの泡とともに少しだけ黄金色に輝く

 過去の郷愁、ノスタルジックな想い出話を書いていったい何になるんだろう?ブログを書いていると、時々思います。
 でも、エピローグのこの部分を読んで思いましたね。
 「とるに足らない人生」の中にも自分にとっては「黄金色に輝く」と思える過去という時代があるんだって。
 そんな経験や想いが、現在を形作っているんだと。
 だから、そんな時代を古いものとして取り扱うよりも現在につながる過去として大切にしたいと思うわけです。

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2008.06.28

赤ちゃん訪問

6月28日 新しい命が誕生するということ

 曇り時々雨。
 日記らしい日記を書いてみようと思う。

 姪のうちに赤ちゃんが生まれたので、妻と二人で三重県にまででかけた。
 数年ぶりに訪問する姪の家は周りに戸建住宅も増え人の暮らしの変化を感じる。
 手足のすらっとした、「美人」の赤ちゃんだった。
 小さな手と足がこれから成長する未来に向かって力強く動いている、そんな感じ。

 顔はどちらに似ている?、お父さん、お母さん・・・・どちらにも似ている。
 そして、生まれた命を愛し育むのが父と母ってことです。
 親子の絆の始まりは、生命の神秘さと初々しくぎこちない父と母の育児から始まる。

 赤ちゃんが泣けば、お腹がすいてるのか、うんちがでてるのか、どこか痛いのかと心配は尽きないし、静かにしてれば、元気がないんだろうか、何故泣かないんだろうかとこれまた不安になる。

 新米の父と母がたどるお決まりのコースでもある。
 そんなふうに、我が家の子どもたちも生まれ成長して今を迎えているから同じなのだ。

 子どもが生まれるというのは人生観をひとつ変えるものもある。
 いままで、存在しなかった命が「そこにある」、当たり前のことが当たり前以上に感じて、頑張って生きなきゃ、この子らと一緒に生きなきゃ!と生きる意味ももう一つ大きくなる。

 微笑ましい「家族」模様を見ていると「幸せのおすそわけ」という言葉が浮かんでくる。
 だから、ちょっと人生の先輩面をして。

 「早くハイハイして、早く歩き出してと思っていると、あっという間に、目が離せれないほど成長するから、あ~あ、寝てばかりの赤ちゃんの頃が楽だった、な~んて思うよ」
 そんな、なりたての親にしてみれば「先の先の」どうでもよい話を言ってみたりして。

 昔から「子どもは3歳までに親孝行をすませる」と言われるように、この生まれた赤ちゃんから親孝行をしてもらえる楽しい育児の始まりでもあるんですね。
 
 いやぁ、本当におめでとう!

 姪の夫のご両親も見えていた。
 初孫だから「ほんとうに可愛い」と、とても嬉しそうだった。
 帰りの車の中で「やっぱり、孫っていうのは可愛いんだろうか?」って妻に言うと
 「うちのおじいさんだって孫ができたら、自分の子どもにすらしなかったオムツ替えをしたくらいなんだから」
 そういうもんだろうか?
 
 まぁ我が家は当分先の先のことだろうが・・・
 

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2008.06.27

ユニセフからの手紙

6月27日 子どもたちの命

 仕事を終え帰宅するとユニセフからの活動支援募金の手紙が届いていました。

 「何か連絡でもしたの?」と妻がいいますが、さてそんな記憶もありません。
 世界中では幼い子どもたちが尊い命を落としていること、そんな子どもたちの喪われてしまう命を止めたいという訴えが手紙に綴られていました。
 
 最近、振り込め詐欺とか人の善意を逆手に取った詐欺も横行している悲しい現実もあります。
 だから、メッセージの文面を読んで、インターネットでも調べて、たしかに支援募金の取り組みをしていることを確認しました。

 本当は、そんな「猜疑心」など持つことなく、素直にメッセージを読んで共感したら応じればよいのですが・・・
 いちいち真偽のほどを用心深く確かめなきゃならないなんて、嫌な世の中になったものです。
 
 世界中の子どもたちが深く傷つき苦しんでいる現状が記されていましたので書いておきます。

 21世紀を迎えた現在もなお、3秒に1人の割合で栄養不良や予防可能な病気などにより幼い子どもの命が失われています。
 守ることのできるはずの大切な命が、21世紀を担うはずの子どもたちの命が刻々と失われていくこの現実を何としてもくい止めなければなりません。・・・ 

 募金するばかりが善意ではないのでしょうが、こうして届けられた手紙を読んで、素直に援助活動に共感しようとする気持ちは忘れたくないですね。

 そうそう、過って学校で「美味しくない!」って言いながら飲んだ「脱脂粉乳」も、実はユニセフの日本の子どもたちへの援助だったそうです。
 そんな話を聞くと、世界中の善意が寄せられたわけだから、「美味しくない」なんて言ってはいけなかった・・・かな(笑)

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2008.06.26

稼ぐに追い抜く貧乏神

6月26日 驚きもしなくなった偽装

 昨年の偽装事件は終わりを知らずに今年も続いているからなんとも腹立たしい。
 「飛騨牛」の偽装に続いてこんどは「うなぎ」ときたと思ったら、きょうの新聞の社会面には「豚しゃぶ」食べ放題店で食べ残し肉の使いまわし記事が載っていました。

 もう「偽装」についてはさんざん懲りたはずだと思っていたらそうでもないってことか!
 人が見ていなければ、バレなければ何でも有りという世相ですね。
 
 ちょっと前の新聞の囲みコラムで宗教家の方「騙す」ということについてを書いていました。
 どんな話かというと、自然界において生き物は相手を騙すことがあるが、それは擬態とかの方法で騙す。

 つまり騙す相手が「敵」であると見做したときに、昆虫や動物はそうするのであって、自分と同じ仲間に対してはけっして騙すことも無い。
 だから、「偽装」などという手段を弄するのは、消費者である国民を「敵」とみなしているわけだ、とまあそういう意味のことでした。

 食品偽装にかぎらず、後期高齢者医療とか消費税のアップとか労働者派遣法とか、どうみても国民生活を悪化させる法律を「社会を維持するために必要だ」というもっともらしい説明で実施してきたことも、立派な「偽装」なんじゃないかと思うわけです。

 消費税なんか典型で、高齢化社会のために国民の皆さんに負担をしてもらう、と言いつつ企業の法人税は下げているわけだし、これじゃあ片手落ちというものです。

 つまり、これって「国民」にはもっともらしく自己負担をお願いするなんて「偽装」をしつつ、一方では税金を下げてあげる「仲間」がいるってことか?

 貧乏人からは税金を少なく、金持ち大企業からは税金を多く納めてもらう「累進課税」というのが税金の原則で、高齢化社会をみんなで支えあうということじゃないんだろうか。

 「稼ぐにおいつく貧乏なし」ってことわざがあります。

 一生懸命働けば、貧乏は追いつくこともできないから、頑張って働こうという意味ですね。
 戦後、日本の国民は一生懸命働いて、まがりなりにも貧しさから豊かさへと成長してきました。
 団塊の世代といわれる世代はその中心を担ってきたわけですね。
 そうして一生懸命働いたのに、このところ貧乏神のほうが追いついて、追い越そうとしてるわけです。
 
 ことわざって言うのは面白いもので、ちゃんとこう言うのを用意してるんです。

 「稼ぐに追い抜く貧乏神

 貧乏っていうのは、どれだけ働いてもあとからあとから追い抜いてしまい、いつまでたっても貧乏というのは抜け出すことができない・・・・ということです。

 資本主義という社会だから、富めるものはわからないように「偽装」して「稼ぐにおいつく貧乏なし」。
 貧しい国民は「稼ぐに追い抜く貧乏神」ということのようですね。

 思うんですね。
 消費税を上げるというなら、どこのなんという名前の代議士が「賛成」するのかしっかり覚えておこうとね。
 選挙のときだけ、まるで国民生活を豊かにするって「偽装」公約で一票をかすめ取っておきながら、まったく反対の政策・法案に賛成票を投じるのは「騙し」なんだよなぁ~、「敵」って見てることか?

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2008.06.25

放置車輌

6月25日 今日のチョロ・スナ一枚

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 だれの だれの だれの だれの
 だれの だれの だれの だれの

 ここ数日、朝の自転車通勤でちょっと休憩する公園の片隅に子どもの自転車が。
 一昨日は雨に打たれていたんでしょう。
 補助輪も自転車かごもついた自転車です。
 どこかの、だれかのマイ・自転車なのに、ずっと置いてきぼりになっています。
 
 大人にとっては、たかだか幼児のおもちゃなのかも知れないが、子どもにとっては立派な自転車です、
 だから、放置車輌なんです。
 この公園に自転車に乗って遊びにきたけれど、友だちと夢中で遊んでて、すっかり忘れてしまったのかも知れません。

 どこかの、駅に錆びついたまま捨てられた盗難自転車と同じ?
 それでは、自転車も可哀想というものです。

 生まれて初めて自力で走らせた自転車に違いありません。
 凄いことです。
 だから、だれの自転車かわかりませんが、貴重な宝物のはず。

 早く、持ち主の元に戻るとよいですね。

 だれの だれの だれの ・・・・ぼくです!ってね。

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2008.06.24

現代若者気質?

6月24日 自立心、それとも現実主義


 食卓の上にゲーテの「若きウェルテルの悩み」が置いてあった。

 懐かしく思って手にとって少し目を通してみたが、10代の頃に読んだ外国文学の一冊。
 純粋に愛することをテーマとしたこの本を読んだ当時の若者たちが何人も触発されて自殺したのは有名な話だ。

 一冊の小説に共感して自分の人生を同化できることの純粋さというか若さというものは、もはや現代では想像もできないことである。

 出勤前の朝のテレビ番組で若者たち10人程に質問していた。
 「勝ち組負け組みという格差社会は肯定できるか?」といった質問に、ほぼ半数が「是」と「否」と答えていた。
 「是」と答えた若者の言い分は「自分が頑張れば、勝ち組になれるということ」そんな意味だった。

 社会を縦の目盛りで刻んで、自分がどこにいるのか?そんなふうに考えているのだろうか、それとも大きな自立心と自信に満ち溢れているのだろうか?
 どちらにしても、考えさせられる。

 昔、中流意識というのがあって、アンケートをとったら「自分は中流!」と考えている人々ばかりだった。
 中流とはまこと日本的中庸の精神ともいえるが、さてさて、勝ち負けの二極化されようとしている現代では、自分をどちらと位置づけるのだろう。

 しかし、じつはもっと時代の流れを感じさせたのがこんな質問の答えだった。
 「恋人がいないのは不幸なことと思うか?」
 一人を除いて他の全員が「不幸と思わない」という答えだった。

 Jポップスにしろ、ドラマにしろ「恋愛」を描いたものに憧れをもって見たり歌ったりしているのだが、現実の恋人は幸福の象徴でもなんでもないようだ。

 だから「恋人がいるかいないか」よりも、もっと「やりたいことがあり」そうしたものの中にも「幸福がある」ということらしい。
 価値観の多様化、自立心の表れと言ってしまえばそれまでだが、どうもそれだけではないような気がする。

 「恋人=恋愛」とは、理想であり夢ではあるが、それは現実の社会生活ではお互いのコミュニケーションの大変さを伴うから、「気楽なもの」では無いということか。

 「若きウェルテルの悩み」を読んで人生の幕を引いてしまった、かっての若者たちと現代の若者たちの「恋愛観」の違いはどこから来るのだろうか?
 

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2008.06.23

乾電池

6月23日 久しぶりに一気書きの日記です。

 自転車通勤してると筋力がついたり健康力(?)がアップしたりと、増えるものが多い中で消耗するものがあるのです。
 自転車ライトの乾電池なのですね。今日も夕闇迫る街角で~♪、ライトONしたけれど、ちょっと暗いわけで、ライトは点いてるけど光量は落ちているってわけ。
 もう乾電池の取替え時期なんだろうと思うのだけど、まだ点灯する、けれどもちょっと暗いから、貧乏性の自分には、う~ん電池交換するか?もう少し大丈夫か?と、つまらない決断の鈍さなんですね。
 ところで「乾電池」って言うのは、なんとも「昭和」の雰囲気の色濃い「もの」だと思うのです。今ではボタン電池とか充電バッテリィとかが小型の機器には全盛の時代だけど、私の子どもの頃は「乾電池」が唯一のバッテリィ源だった。
 プラモデルの駆動はマブチモーターを乾電池で動かしていたし、トランジスタなどという超小型電子機器(笑)なども「乾電池」が電源だったわけで、それはもう昭和という時代とともに庶民のバッテリィだったわけです。
 今ではコンビニや家電量販店でいつでもすぐに手に入る代物になったが、それでも「なんかもったいない貴重品」(笑)という気持ちが抜けきらないのですね。
 それで、乾電池で思い出したのが、たしか「東京乾電池」って劇団があったんでは?たしか高田純次とかが所属していたような気がしたが・・・・
 ネーミングが妙だったから記憶の底のほうに残っているんですが、残念ながら名前の記憶だけで、公演を見たことが無い。
 話はかわって、帰宅時に自転車通学の女子高生が、無灯火・携帯・道路右走行とトリプル違反、きわめつけは赤信号横断と、まぁ自転車無法地帯そのものに遭遇しました。
 べつに、めずらしくない日常茶飯事の光景でしたが交通量も多くて危ない。
 「マナー」っていう言葉はあまり好きではないんですが、マナーだから規則だから「ルールを守れ」っていうのではなくて、若い命を粗末にしてはダメだ!ってことですね。
 そんなわけで、たかが乾電池の取り換えに、あ~でもないこ~でもないと思った本日です。
 

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2008.06.22

自転車deポタリング

6月22日 今日の主役は小さなでんでん虫

Photo

 やっぱり雨の日曜日になってしまいました。

 外出から戻った妻が紫陽花のそばで「カタツムリ」を見つけたようで。
 「ねぇ、小さなカタツムリがいるから写真撮ったら!」
 ブログネタのご協力ありがとうございますってことか(笑)

 せっかくの情報提供でしたので、紫陽花下のブロックにいたカタツムリを紫陽花の葉に乗せました。
 舞台は整えました。
 つのをだして役者の「役作り」を少し待って、一枚撮りました。
 わずか1センチにも満たない小さな赤ちゃんカタツムリですから、これが限度の接写です。
 梅雨時の主役の雰囲気が出ていればそれでよし!ってことです。

 ブログの左サイドバーの「自転車deポタリング」に自転車サイクリングの写真をアップしました。
 「ポタリング」聞きなれない言葉ですが、日帰りやちょっとしたサイクリングのことを言います。
 ロードレースなどの本格的なスポーツ自転車ではなくて、車にスポーツ自転車を積んで出かけます。

 見知らぬ街をゆったりと走ると、そこには駆け足の「旅行」とは違った、自然や普段の人の暮らしが肌に伝わってきます。
 自転車の良さなんですね。

 たいした写真なんてありませんが、自転車を走らせて見る風景です。
 楽しさや面白さや情緒などが伝わればと思ってアップしてみました。
 作り始めた「サイドバー」ですから、続編や説明は暇を見つけて・・・・
 
 というわけで、訪問いただいた方々が暇つぶしに見ていただければ嬉しいですね。 

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2008.06.21

アメンボ赤いな・・・・・

6月21日 雨空のあい間の生き物たち

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 雨模様のカラッとしない日が続いています、農作物にとっては恵みの雨、「慈雨」ってわけです。
 そんな雨と曇りのあい間の晴れた空が顔を見せた今日です。

 戸外で小学生たち数人がしきりに田んぼを覗き込んでいました。
 子どもたちのハシャギ声につられて、昨日の大雨でいっぱいになった田んぼの水面を覗き込んでみましたら。
 生き物たちが「命」の営みを見せていました。


 田んぼにはいろいろ棲息しているんですね。
 アメンボ、おたまじゃくし、名前のわからない昆虫・・・・
 鳥が水面すれすれを飛びます、昆虫を捕らえるためなのでしょう。
 モンシロチョウもひらひらと飛んでいます。
 雨の合間のひと時を一生懸命生きている・・・そんなふうに思われましたね。

 ところで、田んぼの水面をすいすいと泳ぐアメンボは実に気持ちよさそうです。
 昔、母親がアメンボのことを「みずすまし」って言ってました。
 なんで「みずすまし」なのかわかりませんが、たしかにそう呼んでいたのです。
 でも、「みずすまし」は別種の昆虫なのです。

 ネットで探していましたら、地域によっては「みずすまし」というところもあるようです。
 少しずつ曖昧になってゆく母親の記憶が一つ取り戻せた、そんな「みずすまし」の懐かしい想いですね。
 しかし、このアメンボの想い出はもう一つあるんです。

 水馬(あめんぼ)赤いな。アイウエオ
 浮藻(うきも)に小蝦(こえび)もおよいでる
 柿の木、栗の木。カキクケコ
 啄木鳥(きつつき)、こつこつ、枯れけやき

 北原白秋の作だと今日初めて知りました。
 「あいうえおの歌」正式には「五十音の歌」というそうです。
 学生の頃のクラブ活動で練習させられたものです。
 「アメンボアカイナアイウエオ・・・・」って。
 発声の基本練習だったが、サボり症の性格はこの頃から一級品でしたね。

 アメンボ、飴の棒のように体から匂いを出すというが嗅いだことはありません。
 本当だろうか?
 あはは、まるで小学生のような興味が沸々と湧いてくるいい大人です。
 あの、細くて長い足の先にはフロートでも付けているんじゃないかと想像できます。
 表面張力なんでしょうが、実に奇妙で不思議な生き物だと感心させられます。

 ぐずついた天気が続いています。
 全国では大雨の地域もあるようです。
 明日も雨がパラつくようですから、おとなしく家に居て、日頃できない写真の整理でもしてみようかな!

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2008.06.19

机の上の荒野

6月19日 能力と整理学の関係

 パソコンの置いてある机といえば奥行き45cm×270cmの造り付けの机です。
 家を建てたときに大工さんにピッタリ納まる机をお願いして作ってもらいました。

 その机の上ときたら、最近では旅行のパンフレットや本や音響関係の小物やらとにかく雑然としています。
 元来はシンプルライフ嗜好のはずがちょと逆行現象です。
 あまりにも整理されて無い机の上をみると、自分の好みが変わってきたのかと心配になります。

 「青年は荒野をめざす」、荒れた机の上でも夢とロマンを考えることを忘れたくないが・・・・

 それで、子どもたちの部屋はもっと乱雑で、机の上ばかりか床に雑誌や服や本やあらゆるものが散乱しているから、もうそれだけで錯乱してしまいそうなんだが、当の本人たちは気にもとめていないわけです。

 まあ、慌ただしい日々が続くと、ビューティフルライフは貧民窟へと変化してしまい、今度はそれを正常な生活の部屋に戻すのに労力がかかるから、「もうすこしこのままでいいか!」となるのです。
 悪循環というのはこういうことです。

 職場というのもよく似たものがあります。
 今日、出張している同僚の机を使って仕事をしていたら、ハッと気がつきました。
 ホコリも無く整理整頓されています、もう綺麗そのものでした。

 それに比べると、ああ何ということでしょう私の机の上は書類のエベレスト、いや一つの山ですまないから山脈、ロッキー山脈なんですね。
 おまけにパソコンもデンと置かれているから、濃尾平野の小さいこと狭いこと。
 せめて、大草原の小さな家のようなやすらぎのある机にしたいのだがねぇ・・・・

 整理整頓ができることと、仕事ができるというのは比例しているのかどうか?
 あまり論理的ではないのだけれど、仕事の能力の一つに書類の整理学というものがあります。
 きちんと分類して、背表紙にタイトルを貼り、几帳面に分類する人もいます。
 そういう人はけっこう論理的な思考もするから「比例している」といえば肯ける面もあります。

 ただ、長い職場生活でいろいろな人の机を見てくると、多様な発想や応用力を発揮している人の机の上が、案外雑然としているというのも多いものです。

 そして雑然としているにもかかわらず、記憶力もよく山脈のような書類の中からもすぐに必要なものが取り出せるのですね。
 まあ、「書類がな~い」などとわめいていると忽然と探し物がでてくる自分とは大違いです。

 それで、能力と整理学の関係からすると、整理下手=能力が低いなどという式は成り立たないのです。
 ただ、この整理整頓を苦手としている人も少なくないのですね。

 ある意味、「美」の問題なのか「多忙」という問題なのか、それとも複雑多岐にわたる社会生活の網の目を比較的容易に解き明かす能力が秀でているので、チョモランマのような書類の山も不便なこととは思っていないのかも知れませんね。
 机の上を整理整頓するべきだ!という人との違いは、ただ美意識の違いほどでしかないのでしょうか。

 ただなぁ、机の上事柄は理解できるのですが、我が家の子どもたちの部屋のように、床の上に足の踏み場もなくなるほど、「物」が広げられている光景は「荒野」どころか、廃棄物処理場のようなものだ!と言ったら言い過ぎか・・・・
  

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2008.06.18

イケメン・美人談義

6月18日 とある場所でとある会話を聞きながら・・・

 最近はほとんどテキトウに書いている日記です。
 もう自動筆記のように、あれこれいい加減で無責任でたれ流しのようなものですが、毎日書いていると、気分の波長がよくわかるから、自分でも苦笑してしまいます。

 ほとんど、誰が読んで、どう思うのか?な~んて気にも留めていません。
 もともと、自分に向かって書いてるだけ!って雰囲気ですからねぇ

 それでは今日のつまらない本題ですねん。

 「さっきねえ、イケメンの人が来ていたでしょう?見なかった」
 「え~、そうですか」
 「そうそう、カッコよかったよ~」
 (ほほ~ぉ、そんなイケメンがいたのか、見たかったなぁ)
 
 しばらく、イケメン談義が続く。

 「大抵はイケメンと美人はいっしょになるでしょう。それでイケメンと美人から生まれる子どもは超イケメンか超美人ってことだから、そこからまた生まれる孫ももっとイケメン・美人でしょう」
 (お~、単純だが、なんとなく説得力もありそうな理論だなぁ、こりゃぁ)

 「世の中はイケメン・美人の群れはますますイケメン・美人の度合いが上がり、そうじゃない人たちはますますそうじゃなくなる」
 (なんと、世の中は二極化して行くってことか!格差社会に似てるな、こりゃあ面白い)

 「でもねえ、美人は三日で飽きるっていうでしょう」
 (う~ん、本当に三日で飽きるのかなぁ?そんなこと無いと思うけれどなぁ)

 ああ、( )の中は私ですが、ニヤニヤしながら黙って聞いたつぶやきです。

 この会話を聞いていて「悪貨が良貨を駆逐する」って言葉が浮かんできましたね。
 もともと、経済の法則として「同価値の貨幣ならば質の良い貨幣は貯蔵されてしまい、質の悪い貨幣ばかりが市場に出回る」ってことのようですが。

 でも、「悪いものは簡単に世にはびこり、良いものまで無くしてしまう」という意味の使われ方が一般的かもね。

 イケメン・美人が良貨だなんて思ってはいませんけれど、イケメン美人二極化論とでも言えるこの話を当てはめるとですね。

 イケメン美人はその美形がゆえに、だんだんと特殊扱いになり、世の中は「イケメン美人じゃない人」たちが大勢をしめる、するとますます「そうじゃない人」が「そうじゃない人」を産んで「そうじゃなくなる」ってこと

 やっぱり、この二極化論は破綻する(笑) 

 「悪貨が良貨を駆逐する」というのは「流行」とかの法則には適用できるかな。

 「偽装」が出てきて、偽装を誤魔化す「偽装」が生み出されるとか、後期高齢者医療制度なんてのが出来て、健康保険制度の負担軽減なんて理屈で、高齢者の負担増が広がってとかね。

 高齢化社会を維持するために消費税を導入すると言っておきながら、その高齢化社会をもはや支えきれないからさらに消費税の税率アップは必至だとか・・・・ありますね~。
 

 (ところで、そういう君は二極化のどっちと思ってるの?美人の部類、それとも?)

 あ~あ、また今日もくだらない日記です。   

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2008.06.17

蛍雪時代、そして今は

6月17日 蛍の光、窓の雪~♪

 ブログもそうですが、ネット社会が陥りやすいのが現実と虚構の倒錯だと思うのです。
 一日何時間もパソコンに向かって、ネット生活を続けていると、このネットの世界が心の中で現実味を帯びて来るんですね。

 非現実的な「虚構」なのに、そこには自分を実現できると思えてしまうワナがあります。
 現実の疎外感が大きいと、パソコンの世界にこそ不自由な自分の生活を解放してくれる「世界」があるように思えてくるものです。
 PCゲーム依存症などは、ある種その典型なのかも知れません。

 想像力を鍛えるかのように思われるネットの世界ですが、一歩間違えると、現実社会が希薄に思えて来る、そこから自分の存在感を発揮できるのが唯一ネットの世界という倒錯した空間になるんですね。
 大いに自己反省をもって、そう思うんですね。
 
 さて、そんなわけでブログ日記を書き続けていると、睡眠時間を削られてしまう傾向になります。
 睡眠時間が減っても、きょうの日記を書いてやろう!と、こうなるからあまり健康的ではないんですね。
 それでも、こういう時間は頭を整理したり、頭を使ったりするから老化は防げる(笑)

 ところで、話はちょっと方向転換して、卒業式で歌われる「蛍の光」ってスコットランド民謡で作者は不詳のようですね。

 ♪蛍の光 窓の雪
  書よむ月日 重ねつつ
  いつしか年も すぎの戸を 
  開けてぞ 今朝は別れ行く

 夜が更けても明々と照明がついている現代と違って、飛び交う蛍の光や窓の外の雪の反射による、かすかな灯の下で本を読み学問に励む・・・・とまあ、そんな光景なんですね。
 だから「蛍雪時代」という雑誌が受験生に読まれていた時代もありました。

 もう一つ、「四当五落」などという言葉もあって、睡眠時間を惜しんで4時間ならば合格するが、5時間も眠ってしまうと不合格になるという戒めみたいなものでした。
 昔の学校の校庭にあった石像「二宮金次郎」はマキ運びの時間も惜しんで本を読んでいました。

 つまり、学問というのは暇を惜しんで、劣悪な環境でも頑張るもの・・・・そんなイメージがつきまとっているんですね。
 そうやって、頑張った者だけが知識を身につけ立身出世するという「教育見本」だったわけです。

 でも、現代では誰も眠むる暇を惜しんで学問に励めば成功するなんて思っていないですね。
 効率的な学習方法と専門的な受験塾でいかに学ぶかっていうのが成否を分けると思っていますし、事実そういう体制になっています。

 勉強は辛くて苦しいものだというイメージが「蛍雪時代」であった昔、今では「いかに効率的な知識の習得をするか」に変わってしまったような気がします。
 そして、あいも変わらず「勉強は辛くて苦しくてつまらない」ものだという点は続いているんですね。

 そんなところには想像力を働かせるという興味は生まれないし、学ぶ楽しさは育つわけがないと思いますね。

 ネット社会が歪んだこの社会の批判的な真実を学ぶ手段であるならば、この現実社会が人々にもたらしている疎外感に敏感に反応し、苦しんでいる自分や自分の仲間たちに心をよせることができると。

 そう思うんですね。

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2008.06.16

宇宙

6月16日 静寂なひと時の風景

 初夏の昼間の気温も夜になると別人のような涼しさです。
 愛犬の散歩に出かけると。
 空に丸い月が、ちょっと欠けた丸い月が浮かんでいました。

 あの欠けた部分は、地球の影です。
 今夜の月は、一段と輝いています。
 田んぼに一杯張られた水面に月がきれいに映っていました。
 小さな風や虫や蛙たちが水面をゆらして輪郭を崩します。

 心なしか愛犬も、ゆったりした足取りの散歩です。
 すべてのものが、落ち着いた静寂の中で時の過ぎ行くのを受け入れているのです。
  
 少し離れた学習塾の灯が場違いのように煌々と光って。
 何台もの自家用車が列をなし、子どもが出てくるのを待っています。
 教育戦争という戦場の幼い兵士と親たちのようです。

 人の暮らす家は塊のように夜の闇の中に置かれています。
 その家の二階の窓から蛍光灯の青白い光が漏れて。
 暖かいとは言えない、人工灯の不気味さなのです。

 そんな人間の繰り返される日常っていうものをちょっと止めて。
 夜空に輝く月と地球と太陽を包み込む宇宙の雄大な広がりが。
 愛犬のリードを持つ手のなかで、しっかりと握れるような気にもなります。

 静寂なひと時がもたらしてくれる生活の断片。
 わずかな階段を、ためらいもなく駆け上がり玄関が開くのを待つ愛犬のしぐさに。
 宇宙とともに生きる「命」を感じるのです。
 

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2008.06.15

チョロスナ

6月15日 ごくごく普通の日曜日

 ソ○トバ○クのCMに遂に「ホワイト猫」が登場しました。
 前評判ばかりが先行した割には、おもしろくありません。
 「白い猫」が何匹も登場して、猫好きには「可愛いぃ~」な~んて言わせてるかも知れないが、期待ほどのインパクトのないCMですね。
 まあ、CMだからね。
 ホワイト父さん犬の「旅シリーズ」を超えるCMは期待できないと思って見ていましたが・・・・

 庭の花壇に小さな小さな白い花が咲いていました。
 とても涼しそうでしたから、「あれ、この花いつ植えたん?」って聞きまして、ついでに花名札を見ましたら。
 「ユーフォルピア・ダイヤモンドフロスト」

 名前からしてややこしい、「ユーフォルピア」が属名で「ダイヤモンドフロスト」が花名なんでしょうか。
 「暑さ乾きに強く、初夏から晩秋まで咲きます」と書いてありました。
 ちなみに、ネットでしつこく調べましたが・・・・お手上げ!!
 簡単に降参してしまうのが、素人の強みです(笑)
 しかし、こうして花壇に植えられる花々を見ていると妻の「花好み」の特徴もなんとなく分かってくるような。
 写真も撮ったけれど、気に入らないからボツ。


 図書館で借りた本「木村伊兵衛と土門拳」(平凡社ライブラリー)を読んでいます。
 戦後の日本の写真家の双璧と言われている二人の巨匠について書かれている本です。
 どちらが好きかと問われれば「土門拳」ですが、二人の作品の業跡を読んでいると、その凄さに圧倒されます。

 そんな話からは外れて、この中に写真コンテスト評などで使われる言葉として「チョロスナ」という言葉が紹介されていました。
 「チョロ」っと「スナップ」した写真の意味のようです。
 「事実の表面にとどまって背後の真実にまで及ばないものとして・・・・軽蔑的な言葉」
 たしかにそうです。
 ブログにアップした写真なんか自分でも「チョロスナ」そのものだと思うわけです。
 ましてや、技術的にも「オート専科」でいい加減そのもの。

 ・・・と、ここで「白旗」を掲げてしまったら、ド素人写真家が泣くというもんです(笑)
 緻密で優れた写真はその道の「腕達者な方」にまかせて、「これこれ!」って勝手に感動した自分勝手な写真にこそ、自分らしさが出ている・・・・とポジティブ解釈。
 
 チョロスナ写真 : タイトルは「覗き込む」 (笑)
 踵を浮かせて、いるいる魚がいる!堤防から身を乗り出して海中の魚を眼力釣り。
 
Sakanaimg_0022
 

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2008.06.14

父の日

6月14日 世間では明日は父の日ですが・・・

 ブログ日記を書いてると、やたら「○○の日」というのが多いのに気がつきます。
 それで、6月の第3日曜日の明日は「父の日」ですが、こういう「なんとかの日」っていうのは我が家ではほとんど意識されていません。
 まあ、プレゼントを貰ったり贈ったりそういう儀式めいた日だから、そんなことはどちらでもいいが。

 姪の家族に待望の女の子が生まれたという連絡をもらいました。
 連絡をくれたのは私の兄ですから、いわば「おじいちゃん」というわけで、とても嬉しそうな声だったから、こちらもよけいに嬉しくなります。
 生まれた子どものお父さん、つまり姪の夫には「父の日」の何ものにも代えがたい最高の命の贈り物ですね。
 
 「命」といえば、秋葉原の通り魔殺人という痛ましい事件が起こり、尊い命が傷つき失われた。
 「誰でも良いから殺したかった」こんな自己中心的な動機で人を殺めること自体信じられないが、現実にはネットの中の書き込みには「殺す」とか「死ね」とか、そういう言葉があふれている。

 病んだ社会がそこにあるが、それでも「命」の尊さをもっと強く叫ばなければ「忘れてしまう」とでも言うのか?
 そんな現代なのかと思うと、気も心も暗く重くなってしまうものです。

 息子が大学のゼミのコンパから帰ってきて一言。
 「コミュニケーションをとるのが難しい、人とどう話したらいいかわからなくなる」 
 30人ほどのコンパ、人を楽しく笑わせるような上手な会話ができない!ということらしい。
 べつに、上手になんか話さなくてもよいと思う、自分の生活に自信を持って、普通に話せばいい。
 「見た目」ばかりが云々されてる社会だけれど、そんなのに惑わされずに「正直さ」も宝だと思う。

 娘が大学の夏の福祉系の実習先をどこにしようかと言う。
 施設関係でも、事務所でも、地域団体でも何でもよいから、とにかくいろいろと経験することだと思う。
 「お父さんのところでも頼もうかなぁ?」
 なんとなく照れくさい気がするから、それだけは、やめて欲しいと正直思う。

 結局、明日は「父の日」なのですが。
 子どもたちにとっての父親、威厳や風格やそんなものとは無縁な私ですから、人生ってやつを少し長く生きてきた、ただそれだけの「普通」の父親像で充分だと思ってくれれば最高です。
 
 今日はWOWOWで感動的な「映画」を放映していました。
 「あなたをわすれない」 2006年 日本/韓国 監督は花堂純次です。

 2001年にJR山手線・新大久保駅で線路に転落した乗客を救出しようとして亡くなった韓国人留学生イ・スヒョンさんをモデルに、日本と韓国の若者の姿を描いている映画です。
 若者たちが勇気と未来を見つめて生きることの素晴らしさ、日本と韓国の歴史もこの映画の根底に流れています。

 本当に良いものを見つけ出し、たくさんふれることが大切だと「父の日」を前にして子どもたちには伝えたいですね。

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2008.06.13

ザ・マジックアワー

6月13日 金曜ロードショー

 「マジックアワー」とは、映画の専門用語で、
     美しい夕暮れ時のほんの一瞬のこと    
(映画解説より)

 仕事を終えたその足で、いや自転車で県道を西へ西へと向かいました。
 ちょうど30分ほど過ぎた頃に、県道を東に向かう妻の運転する車とドッキングして、そのまま後部座席に自転車を積み込んで、映画館へと直行したわけです。
 見事に計算どおりの場所で待ち合わせできた時間は「ザ・マジックアワー」の頃合でしょうか。

 週末を明日に控えた金曜日に三谷幸喜監督作品「ザ・マジックアワー」を見ました。
 「100回以上は笑い声が起きる映画らしいわ」
 という前評判の高い映画です。
 キャストも主役級の有名人が顔をそろえていますから、いったいどんなものか?と。

 なかなか楽しく観られるコメディ映画でした。
 観客の入りはもう一歩でしたが、子どもも大人も大声で笑う声が聞こえましたね。
 最近はテレビによく登場している三谷幸喜監督ですから、まあ、あらすじは置いとくとして・・・

 最初から最後までコメディがしっかり詰まってるという映画です。
 テレビのお笑い番組が一発ギャグの笑いばかりで,少々つまらないと思ってる人にとっては、必見の価値あるコメディ映画です。
 
 この映画を観ていたら、昔見たアメリカのテレビのホームコメディ「ルーシーショウ」とか「奥様は魔女」を思い出しましたね。
 「勘違いの面白さ」が最後まで続きます。
 その「勘違い」を映画を観ている観客は「どこまでやるんだろう?」って思いながら引き込まれていくのです。
 「あれぇ~、そこの一線を越えたらコメディ映画として成り立つのか?」って思いながら私は見ていました。
 それで、映画の中の「映画」と「現実」の境目がわからなくなって、「もうどうでもいいや」って思うと、また楽しく笑えるわけです。
 久しぶりに、肩の凝らないコメディ映画「ザ・マジックアワー」でした。

 映画館を出たのは夜の9時をとっくにまわっていました。
 どうせ、明日は週末のお休みですから「コーヒータイム」です。

 「100回も笑えなかったわ」
 「うんうん、でもコメディの定番シーンがテンコ盛りだったなぁ~」

 などと、勝手気ままな素人映画批評会のような喫茶店談義です。

 「まだ、映画券が6枚あるから次は何をみようか」
 「そうか、じゃぁしばらく毎週金曜日の仕事を終えたその足で映画館通いをしようか」

 金曜日の仕事を終えた後の「劇場・金曜ロードショー」ってわけです。
 テレビの「金曜ロードショウ」は「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」やってましたね。 
 

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2008.06.12

こんなポスターが・・・

6月12日 電車の中で

 朝から小雨模様だったから電車通勤の日です。
 名鉄電車に乗りましたら、車体にこんなポスターが描かれていました。

Eko

 地球温暖化対策の一環の啓発キャンペーンです。
 車内もグリーン色のポスターがいちめん貼られていましたので、目立ちます。
 列車は自動車の10分の1のCo2排出量だそうです。

 企業といえど地球温暖化への取り組みの意思表示としては悪くありませんね。
 とにかく目立ちますからね。

 もうひとこと言わせてもらうならば自転車のCo2排出量は限りなくゼロですからね。

 でもですね。
 利用者が少ないからとローカル線を廃止し続けている現状もあるわけで、そうした地域は自動車に頼るしかないじゃないですか。

 自転車が環境にも健康にも良いというならば、本格的に「自転車交通システム」を検討してみても良いではないですか。

 輸送の軸を列車に転換してトラックを減らしたらCo2も減る、でも中小トラック運輸業界はただでさえ苦しい事情の上にガソリンも値上がりして倒産する会社も増えているというし、悪循環ですね。
 
 いつも産業構造が大きく転換するときに犠牲になってきたのが中小零細企業だしそこに働く労働者というわけです。
 
 まあ、こうした運輸・道路交通行政のことは政治家がしっかりと考えて欲しいとおもうんですがね。
 政治家の目線が国民から遠く離れているからなぁ

 エコも健康も宣伝されるほど良い方向には向かっていないような気がします。
 耳触りのよい掛け声ばかりが虚しく聞こえますね。

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2008.06.11

嫌われ辛口日記

6月11日 「韓流」嫌いですねん

 職場のパソコンの壁紙が「韓流」映画のワン・シーンになっています。
 「冬のソナタ」とか韓流映画なんて見たことも見る気にもならないので、「嫌いです」って言う資格はないのですが、ヨン様・ペ様とか人気の韓国映画俳優が嫌いというわけではないんです。

 で、何が嫌いかというと、世のおばさん方がワーワーキャーキャーと言ってる姿が嫌いだから、当然の帰結として「韓流映画」も嫌いなだけです。

 それで、中年以降の女性が何が楽しくて「ペ様はかっこいい」などと口にしているのか不思議でたまりません。
 「V6の誰々が大好きです」「スマップがカッコイイ」などとは口が裂けても言えないのに、マスコミの「韓流ブーム」に乗って世の中年女性の多くが「韓国の男性俳優はカッコイイ」と言い出したから、これまで言えなかった「ミーハー(死語?)」的な、若い俳優への追っかけを公然とできるようになったとでも?

 中年のおじさんが、若者気取りで芸能界のアイドルの歌をカラオケ熱唱するのも気が知れないが、同じくらいおばさんたちが「韓流映画の男性俳優が大好きだ」って公言するのも見れたものではない。

 そろそろ、このパソコンの壁紙を「癒し系」の写真と取り替えてしまおうと思ってるんです。

 それで、韓流スターに「ホの字」を公言してはばからない、世のおばさんたちは「空気のような存在」になってしまった亭主との現実生活の中での「恋愛感情」なんてすっかり忘れてしまったんでしょうね。

 だから、昔の若かりし頃の「恋愛物語」、それはそれはビューティフルな恋の物語に、今は痕跡すら無くなってしまった亭主との恋愛感情を断念して、置き換えているにすぎないように思われます。

 なんか、情けなさが見えてしまうんですね。
 もっと、自分の亭主と出逢った頃の情熱の10分の1でもいいから発揮する努力をしろよ!と言いたい。

 だいたい自分の夫や妻に対して「空気のような存在」などという言い方はないと思う。
 「存在感がありません」って言ってるようなもんだから、これでは韓流スターの追っかけをやるのも当然だろうと思うんですね。

 せめて、自分の青春時代に観た映画やドラマのスター達にいつまでも思い入れをもつぐらいならば理解できるんだがねぇ。
 というわけで、このパソコン壁紙を貼り付けた人が、おばさんであるならば、とても幸せな気持ちで家庭生活を楽しんでいるようには思えないのです。

 これぐらいならば、辛口日記もたまにはよいだろう!!
 

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2008.06.10

鍵・鍵・鍵・鍵・・・・

6月10日 若狭路のおもしろスナップ

 今日も思いつきブログ日記&スナップ写真です。
 若狭レインボーラインの中腹に梅丈岳山頂公園があります。
 その公園のチェーンの手摺にいくつも鍵がかけられています。
 あまりにもおびただしい鍵の数に圧倒されるというか、人間の行為の不思議さに大変驚きます。
 「誓いの鍵」というそうで、こんな解説があります。

 昔から神秘的なパワーを持っていると言われている鍵に、誓いを立ててみませんか?

Kagi19

 そうなんです、この山頂を訪れた人たちが誓いをたてて、この鍵にその思いを封印(ロック)するということです。
 なんという、面白い発想なんだろうと感心しました。
 
 で、その数11万個以上もあるそうです。
 11万もの人間の誓いを受け止めるこの山の神も大変な苦労がある?

 浮気などしないで、この恋が永久に続くことを誓います・・・・
 受験勉強一筋に邁進することを誓います・・・・
 末は必ずや天下国家の要人になることを誓います・・・・
 タバコをやめることを誓います・・・・
 きっとアイドルタレントになるまで頑張ることを誓います・・・・

 な~んて、ありとあらゆる誓いをこの鍵に託して誓ったんでしょうね。
 それで、11万個以上もあるわけだから、そのうちの何割かは誓いを破ったんでしょうね。
 誓いを破った人は、山頂に行ってロックした鍵をオープンすべきじゃないか!
 それが、山の神に対する謙虚さだと思うんですがねぇ。

 誓いは破られるためにある!って言ったら言い過ぎかもしれませんが、誓いほどもろいものもない。
 そんな心情が本音だから、人は物に託して弱い心を補強したくなるってもんです。
 そのポジティブな心意気は私なんか見習うべきかも知れませんが。
 しかし、鍵に託した誓いを守り抜く固い決意でロックした人がどれほどいるか興味のあるところです。

 こんな「鍵パワー」を観光名所に導入して、商売として成り立たせた先駆者の「誓い」の凄さを見せているというもんです。

 「誓い」といえば、もう数枚の「誓約書」を書いている私ですね。
 例えば「朝は早起きして、ゴミだしします!」とか、え~となんだっけ・・・・
 もう忘れてしまうほど、いい加減な「誓約書」を妻に何枚か提出させられています。
 何度も約束を守らないから、いい加減頭にきた妻が考えた「誓約書を取る」って方法なんですね。
 
 「誓い」を紙に文字として書き残す・・・・「誓約書」パワーに期待して。
 誓いはやっぱり破られるものです。
 破られるが、なんとなく心に残り続けることは間違いありません、そこが狙いだったりして。

 山頂にかけられた鍵のそれぞれにどんな誓いが込められているかは知りませんが、人の心というものは、物質で補強しようとしても、うまく行かないことだけはたしかです。
 

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2008.06.09

大きな杉の木

6月9日 ふたたび若狭路の旅

 福井県の三方五湖を後にして小浜市にむかいました。
 小浜市といえばNHK連続テレビドラマ「ちりとてちん」の舞台になったところです。

 この小浜市には子どもが小学生の頃、毎年夏休みに友人Aさんの家族といっしょに「海水浴」に来ていたところです。
 暑い夏休みに海水浴で疲れたところに車の渋滞が追い討ちをかけて、ほとほと疲れた想い出があります。
 それでも翌年になると、そんなことはすっかり忘れて、若狭海水浴へGO!6~7年は続いた「夏の定番家族サービス」ってやつでした。

 「ちりとてちん」が始まった頃には「小浜かぁ懐かしいなぁ~」と思ったりしましたが、このテレビの影響ってのは凄いもので、今では市内の各所で「寄席」が開かれているという住職さんの話です。
 というわけで、小浜市にある羽賀寺と明通寺の寺めぐりをしました。

 ところで、旅にでていつも思うのは旅先の風景がどこも似たようなものということです。
 車を走らせて見えるのは、昔ながらの街並みは消えて、日本中同じような街並みばかりです。
 都会も田舎も大差はありません。
 日本の住居は30年もてばよいと言われ、何世代も同じ家で住むなんてありえない。
 だから、明治から100年以上経った現在では古民家なんて探すほうが難しいです。

 その点、古き歴史を堪能できるのはお寺です。
 建築物はどこも特徴のある大工職人の芸術品と思われます。
 そして、どこのお寺でも境内には多かれ少なかれ杉の古木がまっすぐに空に延びているのが見受けられます。

 樹齢数百年の古木はその歳月をじっと生き続け、戦乱や人々の暮らしを見続けてきたんですね。
 もう表面は枯れて死んでしまったように見える古木の中に、しっかりと命のエネルキーが詰まって生きているわけで、古木を神木と崇める風習は全国各地にあるのもうなずけます。

 旅の良さは、その地域に伝わる文化や伝統や風光明媚な光景でもあるが、旅人といわれる訪問客が、その土地から何を感じとるのかってことが大きいです。
 何万人もの観光客が同じところを歩き、同じものを見ても感じ方は千差万別ということです。

 たった一本のなんの変哲もない杉の木にも時代を感じます。
 いっしょに行った同僚が乾いた杉の木に顔を近づけて「杉の香り」を嗅ぎ取ろうとしていました。
 そりゃぁ、そうです都会にはこんな大きな杉の木なんてありません。
 自然の息吹を感じ取ろうとする旅人の姿なんですね。

Sugi53


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2008.06.08

湖畔の宿

6月8日 若狭路を旅する

 職場の仲間たち9人で三方五湖・小浜に行ってきました。
 といっても、かって同じ職場で仕事をしていたが、今では職場も変わったり退職されたりと、生活環境もずいぶんと違っている仲間たちです。

 不思議なことに「若狭に行く」というだけで、そのほかの詳細は場当たり的な旅、これはいつものことです。
 「気の置けない」仲間たちの旅というだけで、楽しい旅が成立してしまうというのも珍しいものです。

 ただ、道中や泊まる宿では学生さんの修学旅行のように、延々と喜怒哀楽の「話」が繰広げられ、本音で世相を語るのが、一風変わった旅人たちということです。

 だから、本当は行き先なんてどこでもいいわけです。
 知らない土地や知らないものに素直に反応して、旧交を温めているだけナノかも知れません。
 変な力も抜けて、船頭なき集団合議制のようなものだから、民主主義そのものか、単なる烏合の衆なのか(笑)
 
Yado30

 宿泊した福井県の三方五湖の宿から眺める湖の風景写真です。
 それで、この風景を見ていたら、「湖畔の宿」というかなり古いが有名な歌を思い起こしました。

 作詞 佐藤惣之助 ・ 作曲 服部良一 ・ 唄 高峰三枝子のこんな歌詞です。

 ♪ 山の淋しい 湖に ひとり来たのも 悲しい心 
   胸のいたみに たえかねて 昨日の夢と 焚きすてる
   古い手紙の うすけむり

 ♪ 水にたそがれ せまる頃 岸の林を しずかに行けば
   雲は流れて むらさきの 薄きすみれに ほろほろと
   いつか涙の 陽がおちる

 戦前の歌なので私もなんとなく一番の歌詞をうろ覚え程度です。
 そして、この歌が感傷的なイメージを持っているし、戦時下では、国威発揚にはふさわしくないと発売禁止になったそうです。
 それでも、前線の兵士たちはこの歌を愛唱していたと言われています。

 2番の後に台詞も入っています。どんなのかというと。

 この静けさ この寂しさを抱きしめて 私はひとり 旅を行く 
 だれもうらまず みんな昨日の夢と あきらめて・・・ 

 聞いたことがあるような、ないような台詞ですが、戦地に赴く若い兵隊の心情に重なるところがあります。
 それが、また厭戦感情に連なると大本営は思ったのでしょう。
 
 高峰三枝子といえば、もうずいぶんと前ですが、JR(当時は国鉄)の「フルムーン」というCMで、上原謙と熟年夫婦役で温泉に入浴するというシーンがありませた。
 これも、古い話だから若い人は知らないCMでしょう。

 熟年の夫婦二人が仲良く旅をして、温泉でくつろぎのシーンということです。
 山口百恵の「いい日旅立ち」がヒットしていたのもこの頃だったと思うのですが、「日本再発見の旅」が若者たちのブームにもなった時代でした。

 そんなわけで、若狭路の宿では夫婦ではなくて、かっての同僚という仲間たちがワイワイとやって、宿泊した宿も立派な建物で「湖畔の宿」で歌われたような、感傷一人旅とは程遠いものでした。
 それでも、写真だけならば、静かな湖畔を眺めながら、失恋の傷心を胸に秘めて、恋人の手紙を焚きすてる・・・・そんな風景を想像できるものです。
 

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2008.06.06

帽子あれこれ

6月6日 機能性とファッション美

 つくづく帽子が似合わない自分だと思うんです。
 この歳になって自転車通勤を始めてから学生の頃以来の帽子を被るようになりました。

 しかし最近では学生さんもほとんど通学時には帽子なんてしていません。
 が、休みの日にはファッションとして帽子を被っている若者もいるが、それはもはや帽子というよりも「CAP」という言い方のほうが似合います。

 小学生の頃の黄色い帽子とか赤と白の運動会の帽子や中学生の頃の学生帽、それらはみな機能性に基づいたものでしたが。
 現代では帽子はファッションの一つになっているわけです。

 だから、ファミリーレストランなどでも帽子を被ったまま食事をしている若者も多々見うけられます。
 昔は、日射しをよけるための帽子だったから、家の中では「帽子をとりなさい!」ってよく叱られたものですが、そんなところにも時代の違いを思う最近です。

 帽子が一番似合うスポーツといえば、やはりプロ野球です。
 とくにピッチャーが捕手のサインを帽子越しに覗き込む姿はとてもカッコ良いものだと今でも思います。
 プロ野球選手が野球帽を被らないで守備についていたら、なんと間抜けに見えるものだと思いますね。

 中日ドラゴンズの帽子に憧れていた頃、世の中は巨人のYGマークの帽子がどこでも見られたし、そんな中で中日のCDマークの帽子はちょっと異質だった。
 それほど弱いドラゴンズだったから、CDマークの帽子を被るのも勇気がいった、そんな子ども時代だったです。

 それで、先日帰り道にスポーツショップに寄って、夏用の発汗性のよい安価な帽子を買いました。
 しかし、鏡に映った姿をみても、ほんとうに似合いません。
 そのちょっと前には、これもスポーツ用ですがハンチング帽を買いましたが、やっぱりイマイチです。

 もっと厳つい体型でガッシリ型の顔つきならば、そこそこ似合うのかも知れません。
 私なんかはファッション性とは縁遠い存在なのでしょう。

 まあ、そもそも帽子といえば華やかな女優さんのソレはとても似合ってるけれど、男性の帽子は種類も少なければ似合う人は似合うが、似合わないひとはまるで場違いのような帽子になります。
 いや、これは男も女も同じか?

 自転車通勤では夏の強い日射しや雨の日の視界確保の帽子は必需品です。
 そんなちょっとしたことに、あれこれと楽しみを見出すのも面白いものです。

 明日は福井県の「若狭路」でさすらいの旅人です・・・・いや、ただの旅です(笑)

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2008.06.05

駅へ

6月5日 またしても・・・・雨降り

 娘から携帯の連絡が入りました。
 「いま、駅に着いたから迎えに来てくれない」

 我が家から歩いて15分、車で7分ほどのところに地下鉄の駅があります。
 ちょうど同じ距離のところに私鉄の駅もあって、帰宅が遅くなった日や飲み会の日や、今日のように雨降りの日には、「迎えに来て!」の携帯コールを入れるのが普通になっています。
 娘だけでなく妻も私も、たまに息子も・・・・

 だから、この「駅」というのは我が家からの生活の発着点のようなものです。
 このわずか数分の迎えの車の時間なんですが、今日の出来事が独り言のように話されるから、いわば家族のコミュニケーションとしてはとてもよい時間です。

 今日は「私なんだか多勢の集まりって苦手だわ」っていうのが娘の独り言。
 どちらかと言えば、いつも聞き手にまわって「ふ~ん」とか「そうだなぁ」って相槌をうつのが私の役目です。

 家族そろって一家団欒といっても、そうそう親密な家族会話なんてありえないものです。
 ましてや、食事の時間など不規則なのが日常です。
 移動中の車の中のわずかな時間に語られる本音とでも言えるのでしょう。

 「駅」というのは、なにか特別な地点のような気がします。
 太宰治が生まれた津軽の金木町の斜陽館に行ったとき、この津軽鉄道の金木町の駅をどんな気持ちで太宰は汽車に乗り、また降りたのかと思いましたが、そんなふうに旅立ちの駅もあります。

 そうした風景は、このたかだか小さな地下鉄の駅ではありえないかも知れませんが、この我が家で何年も暮らし、ゆくゆくは別のどこかで生活してゆくであろう子どもたちにとって、何年かの後に、この小さな「駅」というものが人生の旅立ちの駅だったと思う日がくるかも知れないとも思います。

 まあ、そんなことを考えながら、この迎えの車に乗り込んで「ありがとう」という娘の成長した姿を見るのも幸せなことかも知れません。

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2008.06.03

「戦後腹ペコ時代のシャッター音」

6月3日 ノスタルジア写真?

 最近「あの頃」という言い方がずいぶんと増えたような気がします。
 それがどの時代を指しているのか、それがどんな想い出を言ってるのか、人それぞれです。

 ただ、「あの頃」というものが、郷愁をもって語られるのだけは間違いないのでしょう。
 今が幸せならば、語られる「あの頃」は苦しく辛い事として思い出すことが多いし、反対に今が不幸ならば「あの頃」とは引き返して戻りたいそんな時代のことを言ってることが多いように思います。

 そんな、「あの頃」について考えさせられる本がありました。

 「戦後腹ペコ時代のシャッター音-岩波写真文庫再発見-」赤瀬川原平(岩波書店)

 1950年といえば、敗戦後のアメリカ占領下から日本が復興の道を歩もうとしていた時代です。
 そんな時代に岩波書店から刊行された文庫サイズの写真集ということですが、私は見たことはありません。

 それで、この「戦後腹ペコ時代の・・・・」であらためて、戦後の日本の文化というものに写真でお目にかかったというわけです。
 時代が時代ですから、それでも「ああ、そんな風景の日本もあったんだなぁ」とちょっと郷愁にかられる本です。

 ただ、ノスタルジックに当時の文化を懐古しているかというと、この著者はそうでもないんです。
 現在につながる過去としての戦後という一時代を語っています。

 写真というのは、ある時代の瞬間を切り取って伝えてくれるものですが、その切り取られた「瞬間」の中に現在に連なる現象や意味などが詰まっていて、それを感じることを要求されてると思うんです。

 たしか記憶があいまいですが、俳句や短歌や演劇などの多彩なジャンルに才能を発揮した寺山修司が写真については、撮った瞬間から過去になってしまう、だから好きじゃないんだといった意味のことを書いていました。

 たしかに、そんな気もしないでもないが。

 写真なんて(なんてとは失礼ですが)明日を撮ることは不可能です。
 現在は撮れてもすぐに昨日のことになってしまう・・・・

 ただ、そんな時代を撮った写真というものは、今につながる過去という意味では、むしろ「今」を正確にとらえる方法の一つになっているようにも思うわけです。

 「戦後腹ペコ時代のシャッター音-岩波写真文庫再発見-」なかなかユニークで面白い本だと思いましたね。
 

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2008.06.02

雨音のシンフォニー

6月2日 雨と音楽と 

 出窓の銅板の屋根に当たる雨音が大きく小さく聞こえてきます。
 単色の音色ではなくて、いろいろな響きぐあいはまるでシンフォニーのようです。

 雨に打たれることもない部屋のなかで、そんな雨が奏でる音楽に耳を澄ます幸せ。
 たったそれだけの幸せが今必要なことなのかも知れません。

 くり返しくり返しエンドレスに流れ続ける「中島みゆき」の曲が雨音と調和しています。
 優しく語りかけるような歌詞とメロディです。

 なぜかやたらと言葉の意味を追い続けているとミュージックと雨音がひっくり返ります。
 歌の中から言葉を取り出してみるのもおもしろものだと知りました。
 
 やたらと耳障りな不協和音ばかりが聞こえてくる現代です。
 心地よさを追い求めても灰色の未来ばかりが見えてくる病んだ世界のようです。

 6月になって改正道路交通法が施行されました。
 自転車関連部分が気になって、夕方は雨降りを承知で、レインコートを持参した今日でした。
 何か変化はあるものかと期待もしましたが、昨日の、一昨日のそれと変わりはありません。

 無灯火で傘をさした自転車乗りが何台も走り去って行きます。
 今日は、「ルールを守れ!」とことさら言う気持ちにはなれません。
 どちらかというと、「規則」と「ルール」と「罰則」が人間生活の規範や道徳のような顔をして一人歩きしているから。
 人が生活の中心にいると思っていたら、いつしか人は生活の端っこに追いやられている・・・そんな感じです。

 息苦しいほどの「管理社会」だと思います。
 モグラたたきのように、お互いを叩き合ってストレスを解消している構図が見えてしまいます。
 社会自体が「夢」や「展望」を喪失している中で、個人の未来にいかほどの幸せがあるというのか?
 ・・・・などと思ってみたりします。

 雨音が小さくなってきました、小休止のようです。
 一段と「中島みゆき」の歌声が部屋に染み込んで流れています。
 ひとそれぞれですが、彼女の曲はネガティブな心を一歩づつ落ち着かせてくれる、そんな曲です、私には。 

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2008.06.01

6月(June)

6月1日 衣替えの月


 寝転がって本を読みふけっていました。
 ふと、ページから目を離して開け放たれた窓の外を見ると電線にスズメがとまっていた。
 でも、しばらくキョロキョロと見回していたかと思うと、どこかへ飛んでいった。

 夕方には、水田の蛙たちの鳴き声が一段と大きくなります。
 それに合わせたわけでもないのでしょうが、ポン太もしきりと散歩に出たがります。
 発情期なのでしょう、「クゥ~ン」と情けない声をだしています。

 6月になりました、衣替えの季節です。
 学生さんたちも明日は夏服にかわるんでしょう。
 6月1日から着物を変える日本の習慣は相当古い頃からの慣習のようです。

 でも、この頃は温暖化現象で四月や五月でも、夏のソレと同じ服装の若者たちも多いし、クーラーの普及で夏場でも膝掛けとカーデガンを必要とする職場も多いですね。
 季節感というのも、怪しいものになってきたのかな?

 それで、6月からは改正道路交通法の実施とか消防法の改正とかタバコの自動販売機ではへんてこなカードを必要とするとか、社会生活も「衣替え」を思わせる事柄が多いです。
 
 だから、6月です、そろそろ気分をポジティブ・モードにチェンジしなくちゃ!などと書いて・・・前向きな上昇志向にできればそんなに良いことはないのだけれども。
 そんな気分にも到達してはいないのに、無理にカラ元気というのも性に合わない。

 寝転んで本を読んでいると体がふわふわとして、右を向いたり左を向いたりすると、余計に目眩のような状態になるのはなぜだろう?
 立ち上がれば、そんなのも解消されるのだが。
 何か体に変調をきたしたのか、たんなる体のダルさなのか・・・・

 可笑しなものだと思う。
 ある時「疲れているな」と自覚した瞬間から、ほんとうに疲れている状態になってしまうのですね。
 どんなにハードでも、「元気だ」と言い聞かせていると、疲れているが「疲れ」を忘れることができる。
 人間ってやつは、気力に負うところがずいぶんと大きいわけです。
 ですから、まあ「今は疲れてるんだ!」という状態が続いているならば、それはそれ。

 元気が全て良いわけでもないし、憂鬱なものが悪いわけでもない。
 しかし、こうして、あれやこれやと自問自答している姿は、実に滑稽なことかも知れません。

 だから、久しぶりに佐賀のがばいばあちゃん「三日めくりカレンダー」です。

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 まだ、笑えない自分がいるなぁ~  (ちょっと笑い)

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