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2007年2月

2007.02.22

70%のポジティブ思考

2月21日 「前向き・積極的だ」ということ

 いよいよシーズンの到来です。

 花粉症、受験、転職・赴任・・・と、まあ年度の末はいろいろ大変なことが待ち受けていますね。
 花粉症の妻はもう鼻水、くしゃみが出始めて苦しみに突入しはじめました。
 今年は中国大陸の黄砂も多いようですから、これからが楽しみな戸外のサイクリングは御法度といってました。
 春風に誘われて気持ちよいサイクリングは出来そうにないから、可哀想です。(・・・と思っているのは私で、本人は花粉症の辛さで頭の中はいっぱいのようですがね)

 この時期、受験を控えている学生さんたちは大変です、受験生も大変ですが、親たちはもっと心配でしょう。
Mgp0114

 毎日の自転車通勤の途中で神社の境内のベンチに座って、家から持参の珈琲を飲んで一休みします。
 ちょうど3分の2ほどの距離で一服というわずかな休憩ですが、この神社に毎日必ず同じ時間に自転車に乗った高齢のおばあさんが参拝にみえます。

 それだけでなくて、子ども連れの親子や、今日は40歳前後のお母さんも参拝していましたから、よほどご利益のある神社なんでしょうか。

 境内を休憩所かわりに使わせてもらっている私なんぞは、まだ手も合わせたことが無いのですが・・・
 それで、「困った時の神頼み」と、ず~っと思っていましたが、ふと「これは違うかも?」って思いました。
 何が違うのかって言うと、どうも、もっとポジティブな感覚で神社に参拝のようなんですね。

 高齢のおばあさんは、日々健康に感謝し、親子連れの方は、一日良い日が送れるように、40歳前後のお母さんは、ちょうどお子さんが受験生の年頃だから、無事、試験に合格しますように(・・って見えます)

 神様の御利益が本当にあるのか、そんなことよりも、神の力も我が元に引き寄せる・・・これは、きわめてポジティブな生き方の一つなんじゃないかな・・・とまあ、そんなふうにも思いましたね。

 ポジティブ、「積極的な・肯定的な」そんな意味の言葉ですが、受験生は大胆にポジティブな発想をしてもいい時期でしょうね。


     自分は諦めないぞという自信と闘志を持つ、
     そしてもてる力はケチらず全開すること。              
                    (金八先生 贈ることば より)      


 「金八先生 贈ることば」3日めくりカレンダーはこのところ受験生諸君に激励ことばのテンコ盛りです。
 自分自身で人生を切り開いていくポジティブ精神を説いています。

 ポジティブな方とネガティブな方と人間いろいろいますが・・・

 正直なところ積極的で明るくてポジティブな思考の持ち主のような方は誰からも好まれる・・・っていうのが、まあ一般常識というところでしょうが、本当にそうなのかと、私なんかはひねくれモンですから思っています。
 
 娘が大学の事前レポートで「中日新聞」に掲載された、いじめ問題「ドラえもん」についての記事をまとめていましたので、ちょっと盗み読みしてしまいました。

 外国では、いつも「ドラえもん」に助けを求めてばかりいる「のび太君」があまり評価されていないという、それはボジティブな人格を肯定的に評価する外国の文化によると「のび太君」はネガティブな弱々しい主人公になるからだということらしいのですね・・・

 何をもってポジティブというのでしょうかね、人前で明るく積極的に物事を処理する姿なのでしょうか?
 ふ~ん、私なんかポジティブ思考って広い豊かな人間性を備えていて、初めて「ポジティブ」って言うんではないかと思っていますね。

 案外、心の中では、見かけの「積極性」に疲れ果てている・・・そんな人が多いんではと思っていますね。

 ですから、100%のポジティブもどき人間、まあ「根あか人間」と言われる方々の心の裏側の「葛藤」が見えてしまいます。
 「葛藤」があればまだマシですが、己の利益や権勢や評価ばかりを欲しがるポジティブもどき人間も少なからずいますから、こういう方はポジ・ネガ思考より以前に、その坊ちゃん嬢ちゃん体質が問題ということですがね。  

 だから、「あのひとはネガティブな人だ」な~って言っても、話してみるとけっこう、心の広がりのある人もいますね。
 追われるように「何かを知らねば、身に付けねば、学ばねば、良き人を演じなければ」って思考、これは味の素じゃなくて・・・疲れの素ですね。

 まあ、ちょっと「憂い」をもった70%程度のポジティブ思考がちょうどいい加減、そんなもんだろうなぁ・・・
 

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2007.02.19

名古屋喫茶店文化

2月19日 名古屋では喫茶店も文化なんですね

 今日は月曜日です、当たり前ですが・・・

 ブログ仲間から東京と名古屋の喫茶店の違いについてコメントをいただいて・・・あらためて、たしかに名古屋の喫茶店文化の不思議さに面白いと思いましたね・・・って、「記事ネタがないってことか」と突っ込まれそうですが(笑)

 名古屋人気質が書かれた本では必ず「名古屋の喫茶店」の特異なあり方にふれられています。

 たとえば「100%名古屋人」(舟橋武志著)では、喫茶店の数の多さについて「ひどいところでは交差点の四隅に一軒ずつある」「名古屋人は喫茶店をわが家の茶の間や応接間と同じような感覚で利用している・・・」って指摘しています。

 「ナゴヤ帝国の逆襲」(ペリー荻野著)によると「なごやのおばあちゃんは家族には朝食を用意するのに、自分は通い慣れた近所の喫茶店の『モーニング』で朝食をすます・・・」「喫茶店の常連同士にとって、個人情報などはツーツーのツーだ・・・」というわけです、それで「完全無欠の喫茶店情報網」って。

 実にまったく、その通りなんですね。

 わが家から図書館までのほんの数キロの間には十軒以上もの喫茶店がありますし、休日ともなれば「コメダの珈琲」店はモーニングサービス狙いの客が順番待ちするほどです。

 裏道にも夫婦でやっている喫茶店があり、こういう店は近所の常連さんが大きな声で「○○さんちの・・・」なんて会話が大声で飛び交っています。

 モーニングサービスもトーストや卵やサラダが付くのなんて、ごくごく普通ですから、やっぱり名古屋の喫茶店は文化の領域に達しているような気もしますね。

 かく言う自分も、その名古屋喫茶店文化にどっぷり浸かっているから、ちょっと地方の都市に行くと喫茶店を探すのに苦労するから、「何でたかが喫茶店ぐらい無いんだ!」って思うほどで、駅前あたりにやっと見つける程度なんですね。

 それでも、これだけ多くの喫茶店があると、名古屋喫茶店ランクもつけやすいです。

 ちょっとのんびりする喫茶店、新聞雑誌の多い喫茶店、帰宅途中の喫茶店、ゆったりと本の読める喫茶店、モーニングサービスの豪華な喫茶店・・・まあ、あるわ、あるわって改めて思い知らされますね。
 
 そんな、名古屋の喫茶店はとても好きです。

 そんな、喫茶店を探すのも自転車での街角散歩の楽しみですから、ちょっと雰囲気のよい喫茶店に出くわすと、この店はどうだろうか?って興味がわいてきますね。
 
 やっぱり、こんな名古屋の喫茶店というのは、他所から見れば変り種なんでしょうね・・・・はい、二夜連続で喫茶店話でした。チャン・チャン。

 
 

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2007.02.18

喫茶店読書

2月18日 本を持って街に出よう・・・って感じかな

 快晴です。
 昨日の娘の卒業式の体育館が寒かった、それでちょっと風邪をひきそうな雰囲気でしたが、こんな好天の日には、自宅でうだうだしているよりも、ちょっと本でも持って街に自転車散歩すると気分がよい。
 ついでに、少し離れたbookoffまで足をのばして、捜している本を調べる・・・これは、実に楽しい。

 本日の成果・・・「路上観察学入門」赤瀬川原平・藤森照信・南伸坊の編集、何でごく普通の日常性の中に「いろいろなもの」を見出せるんだろうか・・・って。
 お次に「井上井月伝説」江宮隆之:著、これものすごく探していた本でした。
 信州の生涯を伊那谷で放浪していたという俳人井上井月(せいげつ)、あの山頭火もその墓の前で涙したという井月、芥川龍之介も震撼させたという井月、長野県の伊那谷は自分が生まれた故郷でもありますし、興味深いんですね。
 ・・・というわけで、読みたい本も増え続けているんですね。

 それで、ポケットに仕舞っていた読みかけのチャップリン本を読もうと、喫茶店に入りました。
 隙間の時間を喫茶店で読書するのは、休日の最高のくつろぎです。
 珈琲一杯で、ゆとりの時間をすごせるわけですから、それに、いろんな人もいますし。

 オープンカフェになっている喫茶店の外のテーブルで一人女性の方が読書してました。
 ちょっと寒いが、じゃまされない、もってこいの場所なんですね・・・何を読んでいるのか、ついつい興味深々ってところです。

 円卓状のテーブルに座ってちょっと本を取り出していると、向こう側の席に座っている方がニコニコしながら、キョロキョロしていました。
 上着を着たり、脱いだり、水を飲んだり、立ち上がって、また座ったりと・・・職業柄の観察ですが、彼女はちょっと多動傾向のある軽度の知的障害の方のようでした。
 でも、こうして日曜日の日に喫茶店でミルクを飲んで、ひとりで過ごすことができる・・・彼女の「幸せの時間なんだろうな」って思うと、ああ自分と同じだなぁ・・・ってみょうな親近感を持ちましたね。

 休日の喫茶店ではいろいろな方々と出会える、別に会話するわけでもないのですが、この街には人の生活があるって、当たり前のことですが、当たり前でない「それぞれの、ゆとりの一時」というわけです。

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2007.02.17

18歳の卒業式

2月17日 娘も親も、皆に感謝の日ですね・・・

 今日は愛知県の知多半島にある娘の高校の卒業式に妻と二人で車ででかけました。
 それにしても、三年間もよくもまあ、毎日通学したものだと感心するほどの距離があります。

 卒業というのは、やっぱり節目です。
 この学校の「校風」なんでしょうが、生徒たちの自主性を重んじて、個性や仲間というものを大切にするという教育をとても感じます。

 ですから、親としては三年間いろいろあったと思うが、無事この学校を卒業できたことを、娘の友人たちや先生方への感謝の気持ちでいっぱいです。

 しかし、最近の高校生はおしゃれですね。
 化粧も立派なもんです(笑)そんな高校生が父母の前で「お父さんお母さんありがとう」って涙声で挨拶をする・・・ちょっとアンバランスな見かけと心の中ですが、それでも、この節目を境にもっと広く豊かな個性を発揮して、それぞれの道を歩んでゆくのかと思うと「みんな頑張れよ!」って声をかけたくなります。

 娘の高校の卒業式、そして今日が娘の18歳の誕生日でもありました。
 この「卒業式」が最高の誕生日のプレゼントだったことでしょう。

 朝方は晴れていた空も式が終わるのを待ちかねたかのように、午後からは小雨模様となりました。
 知多半島の海岸線を少しドライブして、遅めの昼食をとったレストランから小野浦の海と水平線が淡い風景画のように広がっていました。

 幸せな心もちというのは、こんなことなんでしょうね。

 最後に卒業プログラムに載っていました校長先生の言葉がとても印象的で素晴らしいものでしたので全文引用させていただきました。


     ☆    ☆    ☆    ☆    ☆

      「 誠実と希望 」      校長先生

 人の営みの集積である歴史は、均一には流れず、時には飛躍し、あるいはねじれたり後戻りもしながら、いくつかの「節目」を作り出します、「時代」が生まれるのです。
 「現代という時代」は、どういう階段の、どういう仕組みをもつものなのか。
 その中のどの位置に君たちは居るのか、そしてどの方向に向かって踏み出すのか。
 それを考え抜く力を身に付けることは、君たちの責任であるとともに権利でもあります。
 フランスのある詩人が、「学ぶとは、誠実(まこと)を胸に刻むこと。教えとは、永遠(とわ)に希望を語ること」と歌ったのは、そういうことなのだと、僕は思っています。

 

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2007.02.16

チャップリン「モダン・タイムス」です

2月16日 チャップリン映画のおもしろさ

 チャップリンの映画がこのところ静かなブームになっていると何かの本に書かれていました。
 それで、「book・off」などで探してみましたが、なかなか見つかりません。
 新潮文庫から「チャップリン自伝」(上・下)がでていて、上巻だけ買いました。

 無声映画時代の喜劇といえばチャップリンとキートンを見たぐらいですが、キートンは洗練されたドタバタ喜劇で、チャップリンはどことなく寂しさを持ち続ける喜劇のように思われます。

 500円DVD映画の「モダン・タイムス」を見ました。これまでも2~3回は見ています。
 始まりは羊達が柵の間を追われるように走っていて、その次に工場労働者が工場に流れるように出勤してゆくシーンからです。

 風刺ですね。
 1936年に発表されたこの映画は当時のアメリカのフォード社がオートメーション機械を導入して、その繰り返しの作業で精神病を発症する労働者が続発された、そんな時代をヒントに喜劇映画として製作されたという。

 おなじみの山高帽子と窮屈な上着にダブダブのズボンと靴、ステッキ、そしてちょび髭のチャップリンが、ここではオートメーションの流れ作業員のスタイルで仕事をしている、工場主は機械のスピードをアップさせるのですが、単調作業におかしくなったチャップリンは精神病院に収容されるんですね。

 大きな歯車に挟まれてクルクル回るチャップリンのシーン有名ですね。

 このころといえば1929年の世界恐慌のあとの不況や失業者がアメリカ社会にもあふれた時代、街にはストライキをする労働者のデモ隊が・・・・ひょんなことから警察にデモ隊の首謀者にされたチャップリンですが、犯罪者の逮捕に一役買って、無事出所したチャップリン、そこには、孤児からダンサーになった少女がいる。
そして「正直者」としてレストランの給仕の仕事につくんです。

 少女とチャップリンは、マイホームごっこのような生活を始めるのです。

 「マイホームに住みたい」というささやかな希望を実現しようとするチャップリンと少女です、少女の屈託のない明るさが、この時代の暗い社会と対照的なんですね。
 
 ラストは「夢」というものに向かって、孤児院行きを嫌って逃げ出した少女とチャップリンが、また再び手に手を取って、長い道を二人で歩き始める。
 何処に続いているのだろうかと見る側は思うんですが・・・・そんなところでこの映画は終わっています。

 無声映画から時代はトーキー(音声入りの映画)へと変化していく映画の歴史の過渡期です。
 初めてチャップリンの生の声が流れたのがレストランでの「出演シーン」。
 何を歌っているのかわかりませんが、こうした無声映画からの変化にも慎重だったチャップリンですね。

 チャップリンの伝記を読むと、街の劇場歌手だった母親の精神病院への入院、貧困生活による孤児、そうしたチャップリン自身が経験してきた生活が少女に投影されていますし、それでも夢を持ち続けたいという希望が浮浪紳士チャップリンの姿となっているんですね。

 こんな映画ですから、アメリカ社会がチャップリンを反資本主義・共産主義の思想の持ち主として、その後にアメリカが行った「チャップリンの追放」という酷い仕打ちの端緒と思い込んだ映画かも知れません。

 チャップリン映画の喜劇としての笑いはドタバタでもあり、パントマイムでもあり、そこに「人間愛」という思想性を持ち込んでいるところが、当時の無声喜劇役者の映画との大きな違いでしょうか・・・・

 いろいろと、考えながら、笑いながら見ていると、楽しんでいる自分と悲しく思っている自分との両方を発見します。

 面白いですよ・・・まだまだ500円DVD「チャップリン映画」が何本か本棚に残っています。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 【 お勧め本 】
 「チャップリン~アメリカと闘った天才道化師」 著者:福川粛 (株:メディアファクトリー発行)
 「チャップリン」 著者:橋本 勝 (現代書館)
 「チャップリン再入門」 著者:大野裕之 (生活人新書)
 「チャップリン自伝(上・下)」 チャールズ・チャップリン (新潮文庫)

*面白い本があったら教えて欲しいんだなぁ・・・ 
 
 

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2007.02.15

褒めるということ

2月15日 厳しく育てる、甘やかして育てる・・・子育て論

 人は誰だって褒めてもらいたい、
 自分を見守っていて貰いたいと思うンですよ。
 それがやがて自信につながって行くんです。
 
          (金八先生 贈ることば より)

 かって、「究極の選択として、子どもはものすごく甘やかして育てるのと、無茶苦茶厳しく育てるのを選ぶとしたら、私は甘やかして育てることを選ぶわ」って、ある女性の先輩がそう言っていました。

 そして、続けてこうも言ってました。
 「厳しく育てた子どもよりも、甘やかして育てた子のほうか優しい心を持った大人になるが、社会を生き抜くパワーの不足にもなりかねない」って。

 厳しさと甘さという区分は曖昧なんですが、おおむね妥当な考え方ではないかと思いますね。

 親に十分に甘やかされて育った私なんか、親からひどく叱られた記憶というものがほとんどありません。
 まあ、親自体が生活に追われて、子ども達の行いに充分管理が出来なかったということかも知れませんが。

 ですから、人から褒められるのは大好きですし、人に見守ってもらいたい・・・今でもそんな気持ちは持っていますね。

 それは甘さといえるかも知れませんし、自立心の不足と見えるかも知れません。
 しかし、誰しもそう思っているんではないかと思うのですが、悲しいかな、そんなことを大の大人が堂々と述べるべきではない!って思っている人が圧倒的に多いんでしょう。
 
 甘えること、褒められることを学ばなかった子どもは、大人になっても、硬い鎧で身を守りながら、圧倒的なパワーで攻撃的性格を発揮します、人間関係が閉ざされがちになります。

 「甘える・褒められる」ことを知るってことは他人の弱さを自分の中にも見出すことなんですね、だから、人の弱さにも敏感になる、人の優しさにも敏感になる・・・ならざるを得ないってことでしょうか。

 だけれども、人を踏みしだいても前に突き進むパワーは明らかに不足してしまうということでしょうね。
 なかなか生き難い社会ですから、幸せなような不幸せなような・・・どちらでしょうかね。

 これは私の自己流の曖昧な子育て論です。

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あらまし事

2月14日 春一番・春あらし・三寒四温・・・・

 今日は春嵐がやってくるという期待(?)にレインコートを用意して準備万端してましたが思ったほどでもありませんでした。

 「あらまし事」っていうわけで、「あら」「まし」な「事」じゃないんでして、「こうあればいいな」という希望的観測のことを「あらまし事」というそうですねん。

 それで、まあ、嵐の中を自転車で走るとどれほどか?っていう体験も希望的観測に終わりました。
 
 でも、これからはいよいよ「三寒四温」っていう三日寒く四日暖かい、春が一段と近づいてきたということです・・・いや、すでに春めいた陽気ですがね。

 バレンタインデーです。
 チョコレートもちらほら飛び交っていましたが、思い起こせばバブルの絶頂期には、生命保険のおばちゃんや職場の女性たちが、それこそ「義理」のチョコレートの嵐状態だったですなぁ。

 そういえば「義理チョコ」でも、嬉しいチョコもありましたね。
 前に勤務していた職場で卓球のコーチもどきをしていたのですが、その時の弟子・生徒・舎弟・(あはは冗談です)お二人の方から宅急便じゃなくて職急便で何年も「チョコレート」を職場に送っていただいてました。

 有りがたいというか、嬉しいというか、鼻たかだかというか、今では、彼女らの方が格段に進歩して、技量もひっくり返って、私は勝てなくなりました・・・こういうのはとても嬉しい思い出ですね。

 あらまし事、希望的観測ではないが、帰宅したら妻から「ネクタイ」が一本差し出されました。
 「バレンタインデー」だからだそうですが、「息子にも買った」らしい。

 つまり、息子のネクタイを買ったついでに私のも買った・・・ってことか。
 私のネクタイを買うついでに、息子のも買った・・・ってことか。
 まあ、どちらでもいいか・・・感謝しています。
 「ポンちゃんが付いているから」っていうので見ましたら。
 はいはい、たしかに愛犬に似た「犬柄」が散りばめられていました。

 あらまし事っていえばもう一つあった。
 2月17日は、いよいよ娘の卒業式を迎えます。

 それで、娘が「お父さん、今度の卒業式に来てくれない・・・」
 おうおう、なんと優しく親思いの娘なんだ、高校生活を無事終えた姿を見て欲しいちゅうことだな。
 な~んて思っていましたら・・・まったくの希望的観測でしたね。
 「あのね、太鼓のバチとか荷物がいっぱいあるので、車でお母さんと来てくれない・・・」
 おうおう、なんちゅう不届き者奴が、アッシー代わりに使おうって魂胆かよ。

 ・・・・というわけで、二日連続でブログの更新をさぼってやろうかと思っていましたが書いてしまいました。
 我が家のプライバシーは徐々に失われていくかも知れません。
 
 バレンタインデー、歴史でいうと古代ローマの出征する兵士の結婚が禁止されていて、これに反対したバレンタイン司祭という人が処刑された日が2月14日だそうで「愛を守る聖人」の記念日だそうですよ。

 そこで、今日も金八先生の登場です。

 (人を好きになるのは)柔らかい心を持っている証拠だ
                    (金八先生贈ることば より)

 そうですね、相手の想いを知ろうと努めますし、少なくとも利己主義からは出発できないですね。
 たとえ、それがチョコレートのように溶けて形がなくなっても・・・

 

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2007.02.12

ゆったりポタリング・・・小牧山

2月12日 連休3日もあるとポタリング(自転車散歩)でちょっと小牧山

 春先のような陽気にさそわれて今日は小牧山(愛知県小牧市)へ自転車散歩です。
 例年ならば寒い2月ですが、暖かな陽射しを背にうけるとポタリング日和なんですね。

 小牧山(標高85.9m)の小高い山ですが、な・な・なんと国の史跡に指定された城跡なんですね。
 時は戦国、織田信長が城を築き、その後には「小牧・長久手の合戦」時には徳川家康が陣を張り、ここから北方に見える秀吉側の陣地、犬山城の軍勢とにらみ合ったといいます。

 まあ、戦国の信長・秀吉・家康の三大武将が関わったのですが、街の中央に位置し、敵陣が人目で一望できる城としては最適だったんですね。
 
 現在は頂上に天守閣を模した資料館があるが、残念ながら改装中でした、それでも、この城跡には樹木も多く自然公園としては、市民の憩いの場ですね。
 
 近すぎて、なかなか来れなかった城跡のある「小牧山」です。

 ・・・・ってわけで、ゆったりポタリングを楽しみながら写真も撮ってみましたが、風光明媚なレンズ越しよりも、ちょっと違うもの、変なものに興味が行ってしまいます。


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 ソメイヨシノの花の咲く頃はきれいだろうな、それよりも自然歩道の砂地の道がなんとも心地よいのです、都市部の自転車乗りはいつもアスファルト道ばかりだから・・・


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 休憩しているベンチのすぐそばの小枝に野鳥がとまって「撮ってくれ」って言わんばかりでしたから、記念撮影してみました。
 鳥の名はよくわかりません、鳥語が話せたら環境問題について聞いて見たいもんだ。


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 青空と雲と城もどき・・・・それでも、戦国時代にはこんなふうに天守閣が見えて、敵方の足軽や武将たちが攻め上ろうとしていたんだろう。
 たかだか数百年前に、そんな戦の数々があって農民や町民は逃げ惑う日々だったのか・・・この日本という地では。


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 ゆったりポタリングのよいところは、地図を無視して裏道を走り、名前の知らない川の堤防道を走る・・・ゆったり走るから景色も面白い。
 写真は堤防沿いの枯葉とススキの名も無き小道。こんなところ二度と走れんな~

 自転車でポタリング・・・ますます楽しい「春」がもうそこまででしょうか。 

 

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2007.02.11

映画「それでもボクはやってない」

 2月11日 ちょっと重い映画だったかな~

 周防正行監督が選んだ「Shall we ダンス」の次のテーマは「裁判」な~んて言うキャッチフレーズに魅かれたわけではないのですが、映画「それでもボクはやってない」を見に行ってきました。

 今日は妻も行っても良いというので一緒に見ましたが、あ~、毎回見たいものが違うんですね。
 今回は「それでもボクはやってない」VS「守護神」という対決でしたが、あっさりと引き下がってくれましたので、もっか不戦勝(一人で見た)も含めて2連勝中の私です(笑)

 この借りは、どこかで「君の見たいものに付き会うからね」って言うことですから・・・

 100パーセント社会派映画というだけあって、「裁判シーン」の連続で構成されていました。
 就職面接に行くために満員電車に乗ったボク=徹平は女子高校生から痴漢に間違えられるのです。

 逮捕・拘留・公判・判決と物語は進行して行くのですが、徹平は電車の扉に挟まれた上着を引き抜こうとしていたが、痴漢などしていないと主張するんです。

 鉄道公安官や警察官、検事そして裁判官とのやり取りを通じて「冤罪」というものの恐ろしさ、ごく普通の市民が、ある日突然身に覚えのない罪にとおとし込められる恐怖は十分に伝わってきます。

 それ以上に、この社会の公平であるべき警察署や検察庁や裁判所という機構で職務する人々が、それぞれの立場と利害関係の上に成り立って、「社会正義」というものを忘れていく姿は、リアルです。

 「痴漢冤罪」を立証するには被告人側から「無実の証明」が立証できないと、99パーセントの確率で起訴され有罪の判決が下されるという。

 へぇ~そうなんか!

 痴漢の被害にあわれたかたがその後遺症(PTSD)で苦しんでいるのも事実でしょうし、冤罪でも長期の裁判と社会的制約のために「無実であっても、やりました」と言うケースも多いという。

 ラストのシーンで徹平は言います「裁判は罪を裁く場所ではなくて、罪状を一旦決める場所だ、裁判官あなたは間違った判決をだしている。ボクはやってないし無実だ、それはボク自身が知っていることだし、僕を裁けるのはボク自身なんだ・・・」(だいたいそんなような台詞でした)

 裁判に関わる人々が「社会正義」を貫き通す意思と努力を怠ることがなければ、冤罪はきわめて例外なことなんでしょうが、この国の今の現状は、資本と権力を握った人々の都合の良い社会の機構・イデオロギーが優先されて、真摯に真実を追究し、自由・平等・博愛という民主主義すら投げ出されようとしている・・・そんな思いですね。

 役所広司と瀬戸朝香がベテランと新米の弁護士役でしたが、役者さんというのは本当の弁護士に見えてくるから不思議なものですね(映画だからあたりまえか!)

 瀬戸朝香って私が育った愛知県瀬戸市の出身の俳優さんですから・・・・・それでも、映画では一生懸命の演技だったから、やっぱり弁護士制度なども勉強しているんだろうな(・・・?)

 なかなか重い映画でしたから、たまにはこういう映画もいいか。
 妻の映画感想は「・・・・・」、まあ、とくに無いようでしたが・・・まあいいか、借りです、借りです。

 かって、民事訴訟の告訴という問題に被害者として直面して、警察署の取調室というところに入った経験がありますし、民事訴訟の公判傍聴をした経験もあり、また刑務所というところを見学したこともありますが、どちらにしても、ごく普通の市民がお世話になりたく無くないところであることは間違いありません。

 そんなことも人生経験しながら今回見た、映画「それでもボクはやってない」でしたから、母親や支援者や真実を追究する、少数であっても、そんな人々の存在は、共謀罪とか冤罪とか恐ろしい社会に抵抗する「光明」のように思われましたね。

 良い社会も悪い社会も人間が作り上げている。

 今日はちょっと真面目に書いてみた連休の二日目でした。

 そうそう、映画をみた帰りに、新築中の友人の家が内覧会をしていましたので見せていただきました。
 明るい陽射しが楽しいマイホームを約束しているような、そんな雰囲気の新居でした。

 世の中から「社会悪」が一掃されてごく普通の市民生活を楽しみたいものだ・・・なんて率直に思いましたね。
 

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2007.02.10

デパ・地下で豚肉はなし

2月10日 ちょっと一杯飲みながらブログ日記なんぞ・・ 

 月に一度のわりで所用で大須に出かけています。
 なかなか活気のある商店街ですから、ウインドウ・ショッピングだけでも面白い物を見つけられるからいいですね。

 で、そんな用事ですから、帰りに名古屋駅のデパート・地下の食品売り場で豚肉を買ってくるようにと言われて、「はいはい、切り落としの豚肉500グラムね」と生返事と調子のよさは天下一品の私です。

 大須商店街から名古屋駅へ自転車でふら~りと。

 休日ですから人出もありましたが、途中の伏見通りで裸婦像のブロンズ像を見つけました。
 たいてい、こういうものを見つけたときは、まずこの作品のタイトルは「○○」だ、な~んて勝手につけるんですが、これは「都会の孤独だな」って、都会に佇む女性がひとりってところをイメージする。
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 「望郷」という題の作品でした、ふむ、だいたい感性は一致しているな・・・って。

 デパートの地下食品売り場なんていうのは、ほとんど一人では来た事がないのですが、ここに「柿安」っていうお肉の美味しい店があるのです。

 でもって、「グラム980円」「切り落とし」「肉」の三点覚えで買いました。

 我が家の簡易でもっとも喜ばれるレシピ(といえるかどうか)というと・・・
 名古屋市の港区にある「四川」という中華料理店の「激辛バンバンジー・ソース」を買ってきて「茹でた豚肉」と「きゅうり」と「レタス」と好みの野菜にソースかけ・・・・それだけですが、これにご飯とスープが付けば、今夜は最高~!って皆が喜ぶ。

 庶民ですな~、激辛ソースがいいんですな~。

 というわけで、無事買い物も済んで貴重な休日をゆったりと昼寝なんぞをしながらいると、「値段が違う~、肉が違う~、グラムが違う~」って声が、どこかで聞いたような歌があったな♪

 まあ、子どもの使いのようなものだった、豚肉の切り落としが100グラムでそんな値段のはずがない。
 牛肉だったんですね、値段も3倍以上だった・・・ようです。

 「頼んだ私が間違いだった」って妻のセリフ。
 「そ~、そ~その通りですよ」、なまじ気のない返事と行き付けないデパチカなんぞに行かせる事が間違いのもとだとピーンと来なきゃダメなんですよ・・・ふむ、それにしても、あのブロンズ像「望郷」なのか!、「都会の孤独」って雰囲気だったがなあ。
 

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2007.02.09

ひとり自転車放浪

2月9日 ひとりの時間 

 サラーリーマン生活をしていると無性に拘束されない「放浪の旅」をしてみたくなります。

 給与生活ってのは、いわば時間を売る商売ですから、一日8時間の奴隷のようなものです。
 ・・・って言っても、好きなことを仕事にしている場合はそんな事もないでしょう。

 「職人」っていうのは憧れですね。
 年季が入って「いい仕事をしてますね」な~んて言われると、いいだろうなって思います。

 その点、サラリーマンは「縦社会」「組織の中の仕事」ですから疎外感も多く感じます。
 
 人間の感情の中で「差別感情」ほど醜いものはないと思っています。その次に「自己顕示欲」ですね。

 人間相手の仕事というのは「物作り」とちがって、そうした「呆れるほどの人」とも接しなければなりません。

 素晴らしい人々とたくさんふれあうことができるときには、充足感も多い仕事ですが、そうでない「醜い感情」を平然と露出する人々との関わりに我慢できないほどになると、これはとても淋しさを感じます。

 
 彼も人なり、我も人なり  
           (「金八先生贈ることば」より)

 金八先生、ちょっと別の意味でそう言ってるんですが、同じ土俵で相手とコミュニケーションが成立するときには、我も彼も・・・同じ人間じゃないかって思えるが、そうでない時は難しいもんです。
 
 ・・・・というわけで、ひどく人間嫌いになる日には、自転車で放浪するのもいいもんです。

 サラリーマンが放浪するなんて不可能なことですが、仕事を終えて自宅に直帰するまでの、ほんのわずかな時間を「自分のための無駄な時間」に費やすということです。

 少し遠回りをして、ファミリーレストランあたりで、一人コーヒーを飲みながら「チャップリン」の伝記本などを読んでみます。
 数人で楽しくお喋りしている集団の客の中で、ただ一人で本を読みふけるってわけ。
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 帰宅の道から外れて、人通りの多い名古屋駅前に自転車を止めてJR・ツインタワービルを見上げると、地上に飽き足らなくなった人間が上へ上へと延びて行く建物にしがみついているようにも思われます。

 情報過多のような、つまらない書籍がこれでもかこれでもかと出版され、それをリサイクルして売っている古書店に入って、誰も見向きもしないような本を探してみます。

 自転車散歩というよりも「都市放浪」の感覚なのです。
 日常生活に嫌気がさして、ふらりと「無駄なことに」ひとり時間を費やすのが、サラリーマンのできるささいな「放浪」なのでしょう。

 こんなことも必要な事かもしれませんね現代人は・・・
  

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2007.02.07

愛すべきモノたち

2月7日 出かけるときには忘れずに・・

 いわば「お出かけグッズ」っていうところでしょうか。

 「消費は美徳」という時代を経て、モノへのこだわりも「新製品」への興味から、自分の生活スタイルに合ったものへと嗜好が変わりつつあります。

 「モノを大切に・・」というのも何か違います。
 やっぱりライフスタイルに沁み込んだモノは手足のようなものですから、ちょっと出かける時にも手放せません。
Imgp0005_1 
 オーディオプレーヤー「ipod・nano」と最小携帯「premini」とデジ・カメ「IXY1000」です。
 携帯ストラップは「華麗なる一族エキストラの記念品」ですが、ピンク色がいやはやなんとも・・・

 それで、ipodを首から下げて理髪店に行きましたら「若いねぇ~」って、いやいや若くありません。
 入っている曲は懐かしい曲ばかりですから、見かけと中身の落差が大きいのです。
 
 先日、テレビ番組で爆笑問題が司会をして「昔はよかったか?」ってテーマで比較検証をしていました。

 いじめ・教育問題とか、格差社会とか、いろいろ取り上げて「昔も今と同じようにあった、そんなに変わっていないのに、何故昔はよかったのか?」ってやっていました。

 「昔はよかった」って思っている一人です。
 で、何がよかったかと言うと、おそらく自分がまだ若くエネルギッシュであったから、若さを全面に出して暮らしていた、それが「昔はよかった」って思わせるんではないかとも思うのですが・・・

 でも、本当は「管理社会」がこれほどに出来上がっていなくて、ちょっと規格はずれの人達も、社会の一員として認知されていた時代・・・そんな、気がするんですね。

 優秀な人も出来の悪い人も、健常者も障害者も、右翼も左翼も、裕福な人も貧しい人も、それなりに社会の中でうごめくことが許容範囲の内として感じられた、そんな気もします。

 今では全てのものが統制され、見えざるファシズムの雰囲気が出来つつある・・・って。

 ですから、こんな歌も堂々と流れていたが、ヨッパライのたわご「ジョーク」として理解する余裕があった。
 今では、マナーの悪い飲酒運転、公共秩序の敵として弾劾されるような歌詞ですがね。
 

 帰って来たヨッパライ 
      ザ・フォーク・クルセダース 

   おらは死んじまっただ
   おらは死んじまっただ
   おらは死んじまっただ
   天国に行っただ
   長い階段を 雲の階段を
   おらは登っただ ふらふらと
   おらはよたよたと 登り続けただ
   やっと天国の門についただ

   天国よいとこ一度はおいで
   酒はうまいし
   ねえちゃんはきれいだ
   ワーワーワーワッワ

   おらが死んだのは
   酔っ払い運転で
   おらは死んじまっただ
   おらは死んじまっただ
   おらは死んじまっただ
   天国に行っただ
   だけど天国にゃ こわい神様が
   酒をとり上げて いつもどなるんだ
   ・・・・・
   ・・・・・
 

 1967年の歌です。ちょっとレコードの回転を早めてアニメの声のように・・・
 こんなことを書くと叱られそうなのが今の時代、「飲酒運転を肯定していません」って、ワザワザ断り書きが必要なんですね。

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2007.02.06

赤い月は不吉な前兆?

2月6日 東の空に赤い月が出ていた

 暖かい日です、名古屋の気温は3月下旬並だそうです、どおりで、ちょっと出遅れた自転車出勤でペダルを高速回転して30キロも出すと汗ばんできました今日です。
 
 迷信ごとや神がかり的な出来事は信じないたちです。
 見てきたような嘘を天国や地獄やハルマゲドンのように脅しの手段とする新興宗教は胡散臭いです。
 あの○木○子のように、先祖の因果などと説明する姿は「どこで見てきたんやろ」な~んて思ってしまいます。

 それで、帰宅して暗くなった夜道を愛犬と散歩していて東の空を見上げますと、お~っと「赤い月」が輝いています。

 夕焼けのあかね雲などはきれいなもんですが、赤い月の、あの赤色は・・・何ともいえない色彩です。
 子どもの頃には、「赤い月は不吉なことの前兆」なんてことを信じていたものですが、今はとても信じていませんが、何で赤い月なんだろう?と思いましたね。

 そこで困ったときのネット頼みで、インターネットとは便利なものです「赤い月」って検索すると・・・出ましたやっぱり。

 「2000年3月25日、赤い月が出てて・・・3月26日宮城県仙台湾沖でM4.7の地震」ってのが。
 いやあ、面白いものです、因果関係までは説明ありませんでしたが・・・

 もう少し科学的に説明してあるサイトもありました。
 「月が赤く見えるのは・・・地表に近いところに月があると、月からの光は、大気を長い時間通ります。その間に、青い光が散乱され、残った赤い光だけが見える、ということになります。」だそうです。
 
 実はもう一つ知った事があります。
 映画「赤い月」、直木賞作家、なかにし礼の体験を下にして、彼の母親の姿を描いた小説を映画化したもので、2003年2月に上映されていました。

 なかにし礼っていうと直木賞作家というよりも、奥村チヨの「恋の奴隷」とかドリフターズの「ドリフのズンドコ節」などといった作詞家としてのほうが、私には知名度が高い。(・・・っていう歳ですが)

 その、なかにし礼の母親が満洲に渡り、そこからの波瀾の半生を描いた映画だそうで、4年ほど前の封切り映画だが残念ながら見ていない・・・TVで再放映しないだろうかなと期待します。

 満蒙開拓団という日本の侵略戦争という国策に引きずり込まれた人々の歴史、その苦労は、もちろん私の母親の生きた道でもありました。

 満洲からの引き上げを題材にした作品というと、藤原てい著「流れる星は生きている」(中公文庫)でも、満洲からの引き上げ・・・生きるためには、どのようなことでも耐え、生きるためには残酷な事実をも踏みしだく母親の力強い姿が書かれていました。(ブログの友人から紹介いただいた本です)

 ・・・というわけで、「赤い月」を見たおかげで「赤い月」という小説と映画の存在を知りました。
 いやぁ、映画ってほんとにいいですね・・・じゃなくて、いやぁ、今日の月は本当に「赤」く染まった月でしたね。

    人生には越えなきゃならないハードルがあるンだ。
    それが十五の春にやってくる。
    生まれて初めての受験という選択だよ。
                 「金八先生 贈ることば」より 


 ふむ、自分の十五の春を思い出すと・・・そんなに高いハードルは無かったかなぁ
 でも、受験勉強もどきはあって、深夜のラジオ番組のディスクジョッキーの語りかけに青春を感じていたもんです。
 森本レオとか天野鎮雄とかがラジオで活躍していた時代です・・・古いな~

 由紀さおりの「夜明けのスキャット」っていう曲が流れていた ♪ル~ル~ルル・・・な~んてね。
 まあしかし、高いのもあれば低いのもある、人生の最初のハードルっていえばそうかもね・・・
 いや、最近では有名幼稚園の入園試験が最初のハードルって子どもたちもいる・・・ふ~む、私には気の毒としか思えないが。

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2007.02.05

気まぐれな流行もの・・・「フードファディズム」

2月5日 メディアに操作される流行もの

 昼休みに食堂に置いてある中日新聞を読んでいて、ふと目にとまったのが「フードファディズム」っていう見出しです。

 何時もは読み飛ばすことがほとんどの「生活欄」に載っていたこの言葉・・・「熱狂的で気まぐれな流行」という意味だそうです。

 それで、何かっていうと、例の「発掘!あるある大辞典Ⅱ」の「納豆ダイエット」のデータ捏造のように、テレビで「納豆」がダイエットによいって放送されると、翌日には店から納豆が姿を消すっていう、とんでもなく簡単に「メディア」の情報に流されてしまうような事なんですね。

 熱狂というか、心酔というか、何でまたこんなにも単純に流行してしまうんでしょう。
 ・・・と言って、新聞の「繰り返される気まぐれブーム」「納豆騒動」っていう切り抜き記事を妻に見せたら、

 「・・・・」
 「でも、寒天はいい・・・」って
 「いやいや、そうじゃなくって、フードファディズムって言うことが問題なんだがな~」

 ココアも寒天も黒酢も・・・古くは「紅茶きのこ」「卵ダイエット」などなど、考えてみるとあるは・・・あるは・・・・。

 健康ブームという言い方もできるが、「○○ブーム」ということ自体がいろいろなメディアによる情報を、無条件に鵜呑みにして乗ってしまうということですね。
 
 メディアの情報に踊らされる・・・ってことか。

 今回の「納豆ダイエット」捏造データj問題なんて、バラエティ番組だからまだしも、こうしたものが報道番組や社会面などで繰り返されると大変です。

 そして熱狂しやすくメディア情報を簡単に受け入れてしまい、それが流行となるとしたら末恐ろしいものを感じる。

 よくよく考えると「狂牛病・不充分な米国輸入牛肉検査」や「耐震偽装問題」なども流行のようにメディアに登場して、流行のように受け入れているから、流行のように去ってしまう。

 ある意味「フードファディズム」と同質なのかも知れませんね。 
 

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2007.02.04

チャップリンを・・読む

2月4日 立春です、爆睡です、チャップリンです。

 昨日は亡父母の法要で久しぶりに愛知県の瀬戸市のお寺に行きました。
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 以前にも書いたんですが、この山間のお寺、「山寺」の雰囲気もありますが、一昨年の春先には境内に梅の花も咲き、名古屋市内の喧騒を忘れられる静寂なよいところです。

 親戚といっても、歳月の流れは息子の時代、つまり私の兄弟とその子どもの家族だけで何十人にもなるわけですから、歴史っていうのは、こうして流れていくものだとつくづく感じましたね。

 もうあと何年もすると、さらに次の世代が、この流れを引き継いでいくわけです。
 ・・・で、思いましたね。人間上手に歳を重ねることが大切だと。

 私はあまり好きではないタレントのテリー伊藤がTVでいってました「歳をとったら軽くなることが必要だ、なかなか軽くなるのは難しい」って。

 私は4人兄弟の一番下なのですが、とうとうこの春で現役の勤め人は自分ひとりとなるようです。
 それで、歳をとり世代の交代の時期というのを見誤ると、「うっとうしい爺、うっとうしい婆」という、いつまでも「オラが主役」の重い人生を歩くことになるのですね。

 なかなか歳を重ねて「軽くなる」というか、「自己パワー」を上手に捨てれない人が多いようにも思うんですね。

 そんなわけで、昨日は法事も終え帰宅したら、疲れもあふれて爆睡してしまい、もちろんブログの更新もなく、今朝は昼前まで寝てしまったというわけです。

 毎週土曜日に見ていた「男はつらいよ」も終わってしまいましたから、ちょうどよかったってことかな・・・
 「寅さん」の映画を何回か見て思いましたね、あの「軽さ」は「人情と愛情」の深さと反比例するんだって。
 「笑い」にも薄っぺらなものもあれば「深い」ものもありますし、「情」も言葉だけのものもあれば、相手の「心」をつかんだ「厚い」ものもありますね。
 
 喜劇の原点とも言える「チャップリン映画」のDVDをまとめ買いしてしまいました。
 カミサンいわく「大人買い」っていうらしいが、500円×6枚で3000円なりですから、そこそこでしょう。
 で、チャップリンの映画の主なものは、ほとんど見ていますが、もう一度見直そうっていうことなんです。

 車寅次郎というよりも渥美清こと田所康雄の多感な青春時代は、上野の浮浪児たちの兄貴分のような生活をしていたという、いわば、世間から嫌まれる存在だった彼がコメディアンの道、喜劇役者の道を進んだことと、チャップリンの生き方に似たものを感じるんですね。
 
 チャップリンの父チャールズと母ハンナは劇場のバリトン歌手と踊り子として、そこそこの生活をしていたが、父はアルコール中毒で母親と離別、その母親も喉の病で一家は屋根裏部屋で暮らすという極貧の生活が始まるんですね。

 そのうち母ハンナは栄養失調による精神病となり、チャップリンは浮浪児同然の生活をするんですね。

 貧しさや社会からの疎外という生い立ちの類似性を、私なんか「寅さん」と「チャップリン」に見るんですが、喜劇・コメディ、こうした「笑いの世界」の中にある、何か不思議な「暖か味」のようなものが、何だろうと、何処からくるんだろうかと、とても興味深いんですね。Img047

 チャップリンや「男はつらいよ」に関する書籍はたくさんあるようです。
 名古屋市内の図書館にもチャップリン本が三冊ありました。

 面白そうです・・・・面白いというのは、何かよく分からない「人」の生き様を見て知ることかもしれません。
 自分の目で見て、読んで、こういう人生もあるんだということを知りえたら最高です。

 ちなみに私はチャップリンの「街の灯」を見たときに「喜劇の傑作映画」だと、ある種のカルチャーショックを受けたものです、ずいぶんと前ですが・・・ 

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2007.02.02

金曜日の夜のたわいもない話

2月2日 鰯の頭も信心から・・・それもいいもんだ

 やっとかめ(「ひさしぶり」の名古屋弁)で冬らしい冷たい戸外でした。

 ダイニングの窓に貼り付けてある「温度計」の針が0度を指しています、雪になるかと思われた今日でしたが、思いどおりにはならないものです。

 こういう日は暖かい風呂に入って、ゆったりするのが幸せの絶頂感、ボタン一つで風呂も沸きます。
 子どもの頃は、こんな便利な風呂ではなくて、「五右衛門風呂」ってやつで、でっかい釜の底に丸い板をひいて、もちろん薪で湯をわかすんですね。

 ジャワーなんてもんはないから、風呂の湯で体を洗い洗髪もするから、「湯」なんて貴重なもんです。

 風呂の湯が減ると水道水を足すが温度が下がるので、「ちょっと風呂の湯がぬるくなったよ~」って言うと、薪を燃やして沸かして暖める。

 時代劇の風呂そのものなんですが、総檜の立派なものではなくて、死んだ親父がセメントとタイルで造った自家製の風呂でしたね。

 そんな風呂でも、「もらい風呂」って、近所の知り合いの方がわざわざ風呂に入りに訪れていました。
 貧乏ながらも、古きよき時代の光景で、子どもごころの記憶です。

 ですから、ボタン一つで風呂が沸き、レバーをひねればシャワーができる現在、便利さと引き換えに、生活感のなかの風情なものを消し去ってしまうような気もしますね。

 利便性に慣れきってしまうと、その利便性に見合う生活時間が普通になり、どんどんと無駄なものがそぎ落とされてしまいます。

 究極的には「無駄な時間」を何かしていなければならない時間に感じられてしまうんですね。
 だから、車のハンドルではないが、遊びがなくなってしまう・・・・絶えず「何か有意義なことをしなければ」と追いまくられる、そんな気もするんですね。

 昔昔のそのまた昔は人生50年の時代もありました。
 55歳で定年退職する方もいましたが、今では人生80年はありましょう。

 便利な生活というスピードに慣れしたしんで、いつも駆け足の生活をしていると、「ゆとりの時間」が貴重に思えるものですが、かといって週末を迎えると、たいした事もしていないのに、あっという間に時間だけが過ぎて行くんです。

 サラリーマン(ウ-マン)は、そうやって、スピード狂の現代に生きているから、ほんとうは人生50年であった昔の50年と現代の80年なんて、感覚的には同じぐらいなものじゃないかなと・・・・

 自転車通勤にして、通勤時間が余分にかかるんですが、これを「余分な」と思うと「なんでわざわざ大変なことを」って思われるが、通勤途中に神社の境内のベンチで一休みすると、昨日と今日では樹々の影の位置が変化していることに気がつきます。

 大きな石の窪みに溜まった水でスズメ達が「水浴び」をしたりします。
 通勤には「余分な時間」のひとコマですが、それも、慣れてきますと季節や時間の一部になります。
 でも、そうした時間の流れと職場の仕事の流れには段々とギャップが生まれてくるものです。

 時間というものは誰しも同じですが、生活の在り様でそんなふうに、ずいぶんと違ってくるものですね。
 時間という概念から解放された我が家の愛犬「ポン太」が実にうらやましく思われます。

 明日は節分です、その次の日はもう立春です、春の始まりです。

 そういえば、「柊挿し(ひいらぎさし)」といって、母親が焼いた鰯の頭を柊の枝に刺して戸口に飾っていた記憶があります、節分の頃の風習です。
 鰯の臭いを嫌って鬼が来ないという意味なんですが、「鰯の頭も信心から」って言うほどのことです。

 そんな母親の七回忌と父親の三回忌の法事が明日行われます。
 時間が過ぎ去るのが、歳月の流れるのが、ほんとうに早く思われる今日この頃です。
  
 
 

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2007.02.01

一億分の一の意味

2月1日 選挙公報・選挙通知・初めての選挙

 夕方から肌を刺すような冷たい空気が自転車で走る頬にあたります。
 明日は雪マークもついている天気予報です。
 雪国でもない東海地方ですから、豪雪地帯で暮らす方には申し訳ないですが、ちょっとワクワク気味。

 雪道になったらマウンテンバイクの走りはどんなものかと、未体験の楽しみでもあります。

 2月4日に愛知県知事選挙があります。
 それで、選挙公報紙と選挙通知の葉書が届いていて、20歳になる息子は初めての投票というわけです。
 「・・・で、選挙はどうだ」ってちょっと聞いてみましたら「政治家なんかみんな同じようなもんだ」って返事。

 たしかに、選挙公報には、ここぞとばかりにばら色の庶民の暮らしの向上政策が書かれていますからね。
 選挙が終われば有権者の関心も薄れて、公約がどうなっているのかも何もわからない・・ってのが一般的ですから。
 ネットなどの「政治ブログ」などは、それぞれの主張をしっかり書き込んでいたり、批判や反論や自己主張の激しさは、それなりに興味をそそるものがあります。

 それで、息子に「じゃあ選挙公報でも読んで、投票したら・・・」って言いましたら、読んでいました。
 誰に何を期待して投票するのかは、あえて聞きませんでした。

 日本の有権者人口はおよそ一億人です。
 「誰がやっても同じだ!」って本音では思っている人も多いのが現実でしょう。
 
 二十歳になって初めての選挙に行く「若者」が「投票に意味を見出せない」という現実には、これまでの政治家が「何もやってこなかった」という結果でもあります。

 愚民政策というのは、民衆は愚かな者たちだから、そんな愚かな連中は騙しても分かりはしない・・・っていう前提で権力をふるう政治なんですね。

 ナチスドイツのアドルフ・ヒットラーは「大衆は女のようなものだ。自分を支配してくれるものの出現をまっているだけで、自由をあたえられてもとまどうだけだ」「大衆はごくわずかのことしか理解しないし、忘れることが実に早い」(著書「我が闘争」より)と言ってました。

 日本の現代の政治権力を持っている人たちも、たぶん腹の中では、同じように考えているでしょうね。
 「日本の有権者はレベルが低いから、土下座と連呼でじゅうぶんだ、すぐ忘れてくれる」って・・・

 自分の投票権はたった一億分の一でしかありません。
 ですから、そんなわずかな政治権利の行使なんて屁のようなもんだ・・・・っていうように考えて欲しい・・これが愚民政治の考え方です。

 ですから、たった一億分の一である自分の「投票用紙」に自分の意思を書くというのが民主主義の基盤かも知れませんね。
 
 そんなことの積み重ねの中で真実をたしかめる、本当のことを知り、忘れずに考え続ける「意思」を持ち続けることが大切なんでしょう。

 「一億分の一」で十分だと思います。そんなわずかなことだからこそ大きな意味を持つのではと思いますね。

 二十歳の息子が、どの様な考えを持つのか・・・それが、この窒息しそうな社会を変革する力の源泉ではないかと・・・そんなふうに思うんです。 
 

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「失言」は本性の表れ!

1月31日 「女性は産む機械」発言・・・

 何ともまあ恥ずべき発言なんでしょう。

 ブログ仲間の「銀河の幌馬車隊」さんも言及していましたが、もっとも私が許しがたいのが、こうした人権と人格を否定する言葉を平気で喋るというその腹の奥底に隠している本性ですね。

 厚生労働大臣という、国民の社会生活に心をよせるべき人物が女性に対して「産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」(中日新聞)ってなことを、失言であるにしてもよくも言えたものです。

 女性、母性の尊厳なんて、これっぽちも考えたことがない人物でしょう。

 国民の生活、とくに若い方々が、子どもを産み育てるために、どれほど苦労しているのか。
 雇用年数の少ないがゆえに所得水準の低いのが若年層ですし、一方では社会保険料もたくさん納め、大衆課税である「消費税」も家計を圧迫しています。

 この大臣、知っているんだろうか?子育てに要する苦労を・・・子育てなんかやった事が無いんだろうな。

 子どもが熱を出せば、いい顔をされず、肩身の狭い思いをして会社を休まなきゃならないし、保育園や幼稚園、学校教育にかかる費用が膨大なことを。

 「子どもが多いと親は遊べない」からとでも考えているんだろうか、それに、こともあろうに「女性は産む機械」とは驚きを通り越して、こんな人物が国の政治の権力を握っていると思うと「美しい国」の本姓が見えてしまう。

 しかし、こういった言葉が仮に「失言」であったとしても、何十年も「子どもを産む機械」っていう思想、女性蔑視であり、人権感覚ゼロの考え方を持ち続けてきたという本性がうっかり表れたは確かなことです。

 「本性」といえばこんな会話を職場で小耳にはさみました。

 ちょっと太り気味な女性に対して「・・・バルーンのような・・・」って言葉を吐いていた職場の管理職。
 すかさず、それを聞いた女性の職員が「それはセクハラ発言ですよ」ってたしなめると

 「本人がいないからいいじゃないか・・・」って言うんですね。
 本人に面と向かって言おうが、本人のいないところで言おうが、それが個人の人格や人権を傷つける言葉であるのは同じことなんですね。

 その管理職、「失言」だって思ったようで、あわてて自己弁護していたようですが、これは日頃から職場の部下への人格的差別意識をもっているという「本性」が表れたということですね。

 職場のセクハラにより、多くの人が傷ついているという現状をまったく理解できていない、そうした人格や人権の侵害によって、「うつ病」や自殺者も出ているという社会問題だという意識もなければ、人間的な品位も無い。

 自殺する人は4年連続で年間3万人を超え、これは交通事故の死亡者を上回る人数だそうで、世界でダントツの1位だそうです。

 職場では「うつ病」で休職する人が増えていますし、潜在的な「うつ状態」の人はその何倍もいるでしょう。

 先日、知的障害者作業所の所長さんと話をしていましたら、わずか10数名の職場で複数の「うつ病」による休職者がでているというのですね。
 
 その作業所が特別に劣悪な環境だからというのではなくて、いま日本という国自身が「高度なストレス社会」だということです。

 こうした、現状に正面から向かい合うことが出来ない、やらない、組織の管理者がこの状態をさらに悪化させているのですね。

 日本社会の中枢、国や市町村や企業や組織の責任ある地位のこうした人物の無能ぶりが、現実の社会問題を深刻にさせているのです。
 
 「言葉」は本性の表れです。
 本音を言葉にしてコミュニケーションをとるのは大切なことですが、醜い人格や人権否定の本音はちょっとした「失言?」の中で間接的な「うつ病」や自殺の幇助者になるということですね。 
   

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