堀川 :橋のある風景

  • 19 堀端橋より名古屋城を
     名古屋の歴史を物語る「堀川」の現在を撮ってみた。  清流の戻る日が待ちどおしい。

堀川:桜のある風景

  • 74 庄内用水元杁樋門
     4月上旬の桜が満開となった休日  「堀川」端の桜のある風景を撮ってみました

2020.06.28

小説のなかの人生観

6月28日 読書日誌

少し前に読み終えた藤沢周平の小説藤沢周平のです。Img_0008_20200628213101  
「三屋清左衛門残日録」「麦屋町昼下がり」「闇の梯子」「海鳴り(上下)」
武家もの、市井もの、お店もの、に分類されるのですが、「海鳴り」二冊が面白かったです。

どれも人の人生を垣間見るようなものです。
すっぱりと前を向いた人生などなかなかありません。
道理にあわぬ人生や腑に落ちない人生。
そういった人の生き様を見させてくれるのも小説のおもしろさでしょうか。
たとえば・・・

 骨身をけずり、果てにむかえた四十の坂。残された日々は、ただ老い朽ちてゆくばかりなのか。
 ・・・・家は闇のように冷えている。心通じぬ妻と、放蕩息子の跡取りと。
 紙商・小野屋新兵衛は、やがて、薄幸の人妻丸子屋のおかみおこうに、果たせぬ想いをよせてゆく。(裏表紙より)

という物語です。
で、こんな思いの文章も出てきます。

 男はつねに、どこかに生涯の真の同伴者がいるのではないかと夢見る。
 そしてそれが結局は夢でしかなかったことを悟るころには、男はもはやどうあがきようもないほど老いてしまって、やがて死にむかって歩むのだ。
 ・・・・だが、おこうは・・・・。
 ひょっとしたら夢にみる同伴者かも知れないと新兵衛は思いはじめていた。

現実の実生活にあって目の前のことや、好きなことから、すこし意識を離して。
そこから、たぶんあり得ない人生を想像できるのも小説のよいところです。
新兵衛は妻と息子らの家を捨てて、人妻おこうと新たな逃避行の旅にでます。

単なる不倫や通俗小説とは違う、仄かな生きる希望というものが見えてくる小説でした。
読後感よかった。







2020.06.18

オンライン会議

6月18日 梅雨の季節はあじさいが似合う

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「自粛のあとはみなさん自己防衛を・・」とどこかの首長が言ってたが、自粛のあとはもう自己責任で・・と聞こえてしまいました。

雨の日が続いています。
梅雨時は紫陽花がやはり一番似合います。
今年は直植えから大きめの鉢に植え替えたので少ししか花(ガク)がつかないのが残念です。

ここしばらく予定の会議などが中止や延期になっていました。
それも少しづつ再開されつつあります。
あらためて人と直接会い会話することが新鮮に思えました。

会社や学校ではリモートワーク、オンライン会議が珍しくはなくなってきました。
それも一つの時代かなとは思います。
大学の講義などもオンラインで行っているようです。
先生によれば、授業ではおとなしい学生が、リモート画面では俄然はりきるといった一面もあるそうです。
合うあわないが人によって違うようです。
もっとも対面式ではないと、教室の全体の雰囲気がつかみにくいようですね。

どちらにしてもそういうご時世なのでしょう。
コロナ禍とはいえ、こういうオンラインでの授業や会議は今後、一定定着するのでしょう。
今関わっている福祉施設でも「スカイプ」とか「ZOOM」など、部分的には試行しているようです。
私にも「遠隔会議(リモート)ならば、自宅でできるのでしょうか?」と問われているのですが・・・
この歳になってパソコンに向かって会議をするのも、やはり慣れないことです。

人と面と向かい雰囲気を確かめながら行う会議のほうが、言葉に隠されたものを掴みやすいと思ってしまいます。
なんだかコロナ禍を契機に人と人との関係も大きく変わりそうです。

しかしリモートではできない職種もたくさんあります。
福祉などはまだまだ「現場」労働です。
会議などを除けば、直接人とふれあいながらする職種です。
直接人と関わって知る人生があり、そこから得たものも多々ありました。

朝から夜まで「人の暮らし」に向き合う仕事は、ある意味「泥臭い」わけで、溜息もたくさんつきました。
膨大な仕事量に追いまくられエンドレスの仕事に、きれいなオフィスでパソコンに向かった仕事環境が羨ましく思ったこともありました。
それもこれも、かっての事ですが。

コミュニケーションですね。
人とのコミュニケーションとオンラインやリーモートワークがどのように融合していくのでしょうか。
まあ、時代の流れのなかで、試行錯誤しながら進められるのでしょう。




2020.06.10

梅雨入りだから本でも読んで

6月10日 暇のつぶしかた

東海地方の梅雨入りにあわせたように昼前から雨が降り出しました。
これからひと月ほどはぐずついた日が続くのでしょう。

「年金暮らし」の身となり暇が増えました。
毎日ストレスと格闘していたような現役時代からはずいぶんと「のんびり」した日々です。
暇というのは「退屈」でもあるし「時間を持て余す」とも言えます。
実際に退職して「さて今日はどうしよう」と思う人いるでしょう。

だから「何かをしよう」と考える。
そのポジティブ志向もわからなくはないけれど、晴耕雨読の日々でもよいのでしょう。
小説を読みふけるというのも、よい「暇つぶし」なわけです。
その程度のものとして本を読むのが日々のライフワークになれば、この梅雨時は本物の「晴耕雨読」なわけです。

藤沢周平の時代小説を読んでいます。Img_0003_20200610232001
この作家の発表した小説は1970年代がもっとも脂ののった頃だと言われています。
日本が高度成長を続けていた時代です。

「冤罪」「竹光始末」「暗殺の年輪」「時雨のあと」そして「橋ものがたり」
この五冊を読み終え図書館に返却しました。
いまは次の五冊を読み始めています。
ブログに書くのは読書記録のようなものだとわかりました。

藤沢周平の本はたくさん図書館の本棚にあります。
当分は「日頃読む本」としては困りません。

藤沢周平の時代小説は「武家もの」が多いなかで「橋ものがたり」はめずらしく「市井もの」でした。
江戸にかかる橋にまつわる人の出会いと別れが10編の物語となっています。
人生という長い道のり中での男と女の出会いと別れ。
いろいろな愛情や想いが錯綜するのは、人生もようそのものです。

とても暗いといえば暗いし清々しいといえば清々しいのですね。
そういう論理だて出来ない、あるいはしにくい情緒を知るのですが・・・
「心のひだ」なんですね。

そういうものを一つ一つの橋になぞらえて物語に仕立てています。
なんだかタイプ化された感情とはちがう「心のひだ」に何をかを思うというところです。
時代小説というか市井ものの原型のような短編物語です。
1970年代だからこそ描けた、あるいは読者も感じたものがあったのでしょう。
今読んでもおもしろい時代小説でした。

2020.06.08

検査と数値

6月8日 「ヘモグロビン・エーシーワン」値

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【元気に泳ぐメダカが群れをなして指に寄ってきます】


糖尿病で薬を飲んでいます。
1~2ケ月に一度ほど検査をするのですが、検査値で重視されるのがこれです。
正常値5.9%以下、突然死のリスクは8.0%以上だそうです。
いつ倒れてもおかしくないと言われた時の数値は9.3%もありました。

それから服薬し、三食きちんと食べ、間食はやめて、散歩も欠かさず続けました。
もちろんアルコールなどは飲んでいません、というか飲酒習慣はありませんので。

地道に頑張って、8.7% →7.7% →6.1%と、あと一息です。
ただ、薬を飲んでこの検査値なので、糖尿病は持病といえるのでしょう。

まあ、よく頑張っているという自己評価です。
自己評価することで頑張ろうと言う気持ちにもなります。


毎日新型コロナの感染者と死亡者の数値が発表されます。
もはや慣れっことなったのですが、その数値は人の数です。
そこには一人一人の人生や暮らしがあって、辛いことや悲しいことがとりまいています。

数字の向こうにある一人一人の人生や生活に思いが至るのでしょうか。
感染によって生活苦になる方、愛すべき家族の命を奪われたかた・・・
悲しみがそこにあることを知るには想像力が必要ですね。

自粛が解除となり、それなりに人出も増えてきました。
無症状感染者の存在が指摘され、感染実態はよくわかりません。
「秋冬の第二波」が爆発的に発生したらと思うと、ぞっとします。

自粛が言われて人出も少なく、車の量も減り、店の経営は大変だとは思いますが。
それほど悪いことばかりだとは思いませんでした。
なんだか落ち着いた暮らしが少しだけ戻ってきたようにも思いました。
もっと「シンプル」に、もっと「スロー」に暮らすこともあっていいのだと。

ふだん行く近所のクリニックは受診者も少ないです。
感染のリスクを考えて近づかない?
治療の必要な人も受診を控えているのでしょうか。
街のクリニックの経営も手厚くしないとと思います。

「検査と隔離」が言われて、少しづつ増えてるのでしょうが、もっと大きな波が来たら・・・
きっとまた「キャパがない」「自己責任」で対応しろ!ということになるのでしょうね。
くわばら、くわばら。

 

2020.06.06

土の匂い

6月6日 田植えがはじまりました。

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田おこしの耕運機が入り、カラスが人を怖がることもなく掘り返された土の虫をとっていたのが数日前。
庄内川から引かれた用水の水が田の表を張り、田植えが始まりました。
賑やかな子どもたちが田に入り、いつものこの季節の風景です。
穏やかな風にのって、土の香りが届きます。
アスファルトばかりの地面の日常に、土の香は清涼感です。
子どもの頃は赤土ばかりの近所で、雨が降れば靴はすぐに土だらけの地方都市で育ちました。
それから、土のある風景など暮らしのなかには存在しなくなって、もう何年が過ぎたのだろうか。
田んぼの苗も子どもらしい植えかたで、ところどころに裸足の跡も残っています。
街の中に田んぼが残っているほうが不思議な時代になりました。

 

2020.05.30

足元の幸せ

5月30日 花の命は短いなぁ

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少し前に咲いた薔薇一輪です。
狭隘した花壇の一画でそれはそれは見事に咲きました。
まるで掃きだめに鶴のごときの薔薇です。
あまりにも見事だったのですが、そのあと散って、いまは次の蕾も花開きました。

今年のアサガオは順調に蔓をはわせています。
ネットの網目にそって芽を少しづつ矯正して、伸びすぎた芽は摘まみます。

ブログの記事など目新しい話題を載せようとしても、それほどありません。
無い方が日常の暮らしだと思います。
だから、ほんの些細な庭の薔薇の成長に、にっこりする。

足元の幸せを感じられる・・・という暮らしこそ幸せなのでしょう。
ブログの記事も、美味しそうな料理や自前の梅酒や手作りマスクや、そういう暮らしの記事を読むと安堵感を覚えます。
暮らしている足元の、なんでもない日常の一コマに、そこにコロナ禍という時代の背景を感じます。
ブログは日記なのでしょう。
人に見せるよりも自分に納得することに意味があって、だから「たかだか日記、されど日記」の良さがあると思います。

2020.05.28

縫製工場

5月28日 アベノマスクはどこに

スーパーに行ったらマスクが値崩れして大量に積まれていました。
別に期待もしていませんし、有難みも感じませんが、あのアベノマスクはどこにあるのでしょうか?
マスク不足で品薄のときならば、もうすこし「有難み」もあったかもしれません。
マスク2枚と10万円で国民の感謝と支持率があがると見込んだ見識不足にちょと呆れたのですが。
その10万円も今日明日の生活に困っている人には届いていない。
生活実感からかけ離れた施策は、ほんとうに大変な人の実態をつかめていない表れでしょうか。

ともあれ「縫製工場」です。
生活のお遊びのような話です。
おうちで片づけをコツコツしていて、タオルと固形石鹸がたくさんでてきました。
昔は冠婚葬祭のお返しといえばタオルや石鹸という時代でした。
それらがごっそり出てきて、今使っている物と取り換えたりしました。

固形石鹸も時代のなかでいつしかボディソープに変わり、石鹸は使わずしまわれてました。
この機会にボディソープを止めて固形石鹸に変えました。
タオルは雑巾に縫い直ししました。
ついでに昔の服を手直しして孫の服に変えました。

こういう作業はカミさんが一手に作業していましたが、さながら縫製工場のようにミシンが唸っていました。
まあ、言葉あそびですがプランター農園の次は「縫製工場」というわけです。
もちろん工場主は私で女工はカミさんです。
工賃はないので「搾取」という資本主義のもうけのしくみはありません。

雑巾ってのは少し使い古したタオルや布のほうが水を含みやすく使い勝手がよいです。
「農園」とか「工場」っていう言葉は手工業時代のイメージがあります。
近代化されIT全盛の時代です。
グローバルゼーションで資本が世界を駆け巡る時代です。
こういう時代を少し逆行して「古き時代」を感傷的に摑まえるのも言葉の遊びこころです。
言葉にも楽しみがあって良いのだと思います。

で、捨てるのは「勿体ない」ということで縫製工場を稼働していたのですが・・・
ふと、思いました。
物を捨てるときに「勿体ない」と思うのが普通です。
でも実は物を買う時に「勿体ない」と思うべきじゃないかと。
こんなものを買う必要があるのか?まだ同じものを幾つもあるのでは?買わなくても済むのでは。
買う時の動機はいろいろあるけれど、買うときにこそ考える「勿体ない」です。

大量消費時代に逆行するから消費社会にはそぐわない考え方です。
必要な物だけを買い、不要な物は買わないことを心に命じれば、物があふれた暮らしからオサラバできます。

「新しい生活様式」が言われていますが、3密とソーシャルデスタンスとに集約されています。
でもちょっと待てよ、それだけかと思います。
医療体制の崩壊の危惧や保健所機能のひっ迫などを思うと社会のインフラの拡充を「新しい社会の構造」として抜本的に拡充していく必要があるのではと思います。
大都市に集中した街のありかたも、もう限界点に達しているのだと思います。
グローバル経済といわれる物と人の経済のありかたも疑問です。

何を大切にして何をすてるのかという命題が頭にうかんできます。

2020.05.26

プランター農園の追加

5月26日 茗荷(みょうが)をいただきました

「プランター農園」などと名付けていささか可笑しいですが、遊びながら日常を楽しんでいるということです。
遊び心というのは、どこでも持てるので、面白いものです。Img_0003_20200526231201
その農園に友人から「茗荷」を一鉢もらって、農園の拡張です。
3年ほど前にももらいましたが絶えてしまい、今回が二度目です。

キュウリ、ナス、ミニトマト、茗荷の四品目栽培です。
ミニトマトはまだ青いのですが、小さな実がつきました。
次はネギを仕入れたいと思っていますが、こんな土もない都市の狭隘敷地ではいっぱいいっぱいです。
そこのところを、遊び心で補って、立派に収穫できれば、それこそ立派な農場主というわけです。
人生は楽しく生きなくては・・・楽しいと思って遊ぶのに「財力」は少しですみます。

図書館も一部再開して6月には全館オープンとなりそうです。
五冊ほど藤沢周平の小説を取り寄せしました。
また楽しみが持続できる喜びのようなものです。

つなぎに本棚の隅から引っ張り出して読んだのが吉本隆明と辺見康の対談集「夜と女と毛沢東」という一冊でした。
1990年代終盤に書かれた対談集です。
20年以上も前のもので、思想信条も自分とは異なるのですが、時代をどう見るかという視点には学ぶものがありました。
この時代にはオウム真理教の地下鉄サリン事件があり、そういう歴史の事実を見る視点はちょっと面白い。

本はいつも「なぜ」「本当は」と疑問をもちながら読むと見えてくるものがあります。
一つの事にも拘りながら批判的に読むと教科書的読書とは違う本の読み方になると思うのです。
さて、しばらくは「ふじさわしゅうへいわーるど」です。

2020.05.24

「菜の花の沖縄日記」を読んで

5月24日 図書館と新聞と・・・

図書館が自粛のため休館となる前に「取り寄せ本」で借りた本でした。Photo_20200524214201  
一月以上手元にあり予約している人が10人以上待ってるので、この記事を書いたら返却しようと思っています。
図書館は一部再開してるが、まだまだ全面開館には至っていません。

ずいぶん前に新聞の書評欄を読んでから予約してずいぶん待ちました。
十五歳の春に石川県から沖縄の「珊瑚舎スコーレ」という無認可の学校へ通いだしたのがこの著者の女の子です。
沖縄の学校での生活で学ぶことや地元の人々との交流で知る沖縄の文化と歴史への思いが綴られています。

太平洋戦争で本土防衛の名のもとに多くの島民が犠牲となり、そうしてアメリカからの返還をへて今も続くアメリカ軍の戦略的基地の島。
沖縄の歴史は一通り知っているつもりの自分でも、やはりどこか本土で暮らす者としての「他者」の心苦しさがあるものです。

著者の坂本菜の花さんは、そういうとまどいを持ちながらも沖縄での人々との交流のなかで成長して行くのですね。
沖縄の文化、沖縄の言葉、米軍基地の問題や少女暴行事件、辺野古への基地建設などに率直な自分の思いを綴っています。
普段自分たちの新聞の記事を通して、テレビのニュースを通して知る沖縄の現状を、そことは少し違う視点から生きた人の言葉として知る機会でもありました。

そういう感想とともにこの十代の若者が発信する感性というか、新鮮な社会を見つめる目、人との交流から学ぶという思いの清々しさが読後感として残り続けます。
ともあれ沖縄に暮らそうがあるいはどこで暮らそうが、この「沖縄の今」を自分事として考え直す、そういう見方を一人の若者の著書から十分に学ぶことが出来ます。

沖縄で学んだことは、多くの問題につながることです。意見の違う人とどう向き合うのか、非暴力の抵抗運動はどう続けれらるのか。じつは私たちの周りには小さな沖縄がいっぱいあります。(著書より)

ほんとうにそうだよね。沖縄にいようが日本の他の都市に暮らそうが、そこにある「小さな沖縄」と同じ問題に、老いも若きも向き合って考えてゆけたらいいよね!と彼女に伝えたいですね。

2020.05.21

素直に自転車が嬉しい

5月21日 風景は心象風景

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およそひと月半ぶりに自転車で庄内緑地公園とその河川敷を走りました。
晴れた空が広がりロード脇の草の匂いが新鮮でした。
至近距離で眺める自宅付近の風景とは異なって解放感がいっぱいです。
そういえば出がけにメダカに餌を与えると、ちゃんと指に触りに寄ってきました。
プランターの野菜も少しづつ成長しています。
コロナの影響も大きい春から初夏への季節のうつろいです。
この先のコロナ禍はどうなるのかという思いも胸にしまって、久しぶりの自転車散歩でした。
公園の人出はぼちぼちです。
自転車を走らせる人もみかけられました。
いつもの公園と河川敷の風景は、いつもどおりの風景でした。
そのいつもの風景が広がるサイクリングロードで風を感じて走りました。
雑草のなかに名も知らない花も咲き、ときどき蝶々も舞っていました。
思いますね。
風景は心象であって、その心象をつかまえて、ああ気持ちがいい!
と、そう思う日はそういう心象風景になるものです。
あたり前ですがときどき忘れがちになります。
どうも写真にしてしまうと、つまらないものになってしまいそうです。
ああ、しばらく前に降った雨が今はここまでやって来て庄内川の水量はたっぷりでした。
この水が周辺の田んぼへと用水になって注ぎ込まれます。
ここはとても気持ちのよい風景が広がっています。

2020.05.19

おうちでせっせと・・・

5月19日 断捨離も終活も えいやぁ!ガラガラポンで

資源ごみ回収場所で大量の紙袋が出ていたとカミさんが言ってたのが先週でした。
今日、環境事業所の粗大ごみセンターに電話しても話中でなかなか繋がりませんでした。
月一回の粗大ごみ回収なので、コロナ自粛で「片付け」に心がけた方が多かったのでしょうか。
環境事業所の方にはお世話になります感謝しています。

ずいぶんと片付け作業がはかどりました。
とくに趣味に関する自転車関連の部品やバッグや古いテレビ映画の撮りためテープや事務用品やあれこれもう何年も手付かずだったので思い切って処分しました。

趣味で集めた物はなかなか思い切って捨てられません。
「もし自分が死んだら、あっさりポイだよね」「しっかり捨ててあげます」などという家庭内会話もありました(笑)
趣味で集めた物の大御所は書籍です。何年もダンボールで眠っています。
取り出して並べるほどの棚もないのです。
読まない本は糞の役にもたちません、本の価値は読んだ頭の中にある分だけです。

それでも東京の神田古本街あたりで買い求めた本などが多くあり本の処分はいよいよ最後の仕上げとなります。
本当に必要で最低限の本に絞り込むのに心の葛藤が予想されます。
結果的にコレクターのように収集したことの「惨めさ」が葛藤の一つでもあります。
しかし、そういう苦難の末に手元に残る本はきっと自分の生活に影響を与えたり潤いをくれた本であるとそう思いたいです。
もっともそれらも「はい処分!」と捨てられるでしょう。

今回のコロナ禍でも思うのですが、もう大量生産されるモノやメディアといった消費社会そのものから「新しい社会様式」に転換を考えても良い時代になったように思います。
必要な物だけを厳選して買うことや買わなくても借りれば十分なことや、なによりも刺激を求め過ぎないことだと思っています。

「安物買いの銭失い」はカミさんが常々戒めで言っているし、物が溢れた家から脱却してシンプルな暮らしをというのが自分の口癖です。
なかなか出来ないからこそ常々呟いているようなものです。
「百円均一とバーゲンセール」は消費をくすぐる消費社会の典型だと思うこの頃です。

さてこの自粛の折だからこの機会に「おうちでせっせと片付けを」と誰しも思うんでしょう。
「リモートワーク」をして仕事ですらPC一台で済んでしまうことやオフィスすら不要だと、そういうものが垣間見えてしまいました。
実際はマンパワーが必要な仕事場はたくさんありますが、少なくとも大量消費に支えられた現代でも、アッと思う間にモノなど役に立たなくなってしまう局面が来ます。

必要なものが不足し不必要なものの消費をあおる続けそこに消費経済を作って来た社会の在り方を見つめ直す必要があるのでしょう。
モノの消費を美徳として「売らんがため」と煽って来たメディア関係は罪作りです。
こんな社会構造を転換するのは本当に大変なことで、強権的に「戒厳令」でコントロールしろと市民意識が求めだしたら恐ろしく思います。

大所高所からの物言いはこれくらいにして、せっせとお片付けです。
3年5年と見ない使わないものは捨てるとか一つ買ったら一つ捨てるとかコレクションの趣味はやめるとかいろいろ言われています。
ペットの多頭飼育崩壊があるように部屋中に物が溢れて手が付けられないというのも根っこは同じでしょう。
生き物やモノがあることによる充足感、潤い(と思う)など、その心理はわからないわけでもありません。
物の少ない昭和という時代を経て、家電製品三種の神器からなんとかの三種の神機などへと便利な物をそろえる事に人生の家庭の平穏を感じた世代ですから。

でも、もはや物の呪詛から解放されるというのが昭和の時代を経た人々の人生の命題だと、そう勝手に自分は思っています。
断捨離で物から解放される、終活で不要なものを処分に後に禍根を残さずというのは、やはり自分らの時代を生きた者たちに理解しやすいのでしょう。

若者たちがスマホ一つで用事をこなし、家だ車だという欲を持たないのは必然だと思うのです。
格差社会でそういう物欲に自己充足感を持たなくなった、持てなくなったというのも一因でしょう。
あれこれ物に溢れた世代をしり目に現代のシンプルライフは進んでいるのでしょう。

時代に敏感になることも大切なことかも知れません。
だから断捨離も終活もいろいろな方法はあるのでしょうが、ここは一つガラガラポンと不要な物を処分する。
不要かどうかは百人十色ということもありましょうが、捨てない理由はいくらでも探せます。
捨てる理由を挙げてみる方が時代に即しているのだと思います。

ガラガラポンと思想を変えてみるのも「新しい時代の(生活の)社会様式」なのでしょう。

2020.05.14

お家で読書

5月14日 「用心棒日月抄」シリーズ(藤沢周平)

外出するイベントに慣れていないので「自粛暮らし」はあまり苦にはなりません。
「お家にいよう」というので、これを機会に足元の暮らしに目をむけたいとおもいました。

日頃できなかった片付けや整理にも精を出して部屋も少しさっぱりしました。
図書館で借りた本も5冊ほどあり、4月は藤沢周平の「用心棒日月抄」を楽しんで読みました。

早く読めないたちなので、ゆっくりと物語のストーリーをかみしめ、情景を想像しながらの読書でした。
読書の良いところは、自分で想像して情景を描くところでしょうか。
場面としての情景だけでなく「心情」という、微妙な心模様も想像できます。
本がそばにあると退屈しません。
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藤沢周平の「用心棒日月抄」は四冊にわかれています。
出だしはこうです。
藩主毒殺の謀を知った青江又八郎はそのことから許嫁「由亀」の父親を切ってしまう。
藩を出奔した又八郎は江戸にでて、用心棒の日々をおくることになります。

職の口入れ屋「相模屋」の狸に似た吉蔵が主人で、その日の糊口もおぼつかない又八郎にとって、用心棒は時に土方や守りも用心棒の一つでした。

藩出奔し刺客にも目を配り、かつかつの裏店暮らしで手当ての多少にも気に病む日々です。
相棒には髭面の子だくさんで酒好きの浪人細谷源太夫と組むことも多いのです。
剣客としての腕もたつが、貧乏暮らしの裏店住いというギャップが土台です。
シリーズの前半はこの細谷という用心棒仲間との情味のある関りが主で、なかなかユーモアもあっておもしろいです。

藩の江戸屋敷の「嗅足組」の佐知との出会いがシリーズの後半を大きく占めます。
嗅足組というのは藩の忍者・秘密組織といったもので、その頭領が佐知なのです。
この佐知という女性の存在に関わり、藩の謀事にも又八郎は腕をふるうことになります。
佐知と又八郎の微妙で繊細な関係は「まるで恋愛小説」とすら思える伏線ですね。

時代が移り、国許では許婚者由亀と子に恵まれる身となった又八郎。
16年の歳月を経て江戸で佐知と再会する又八郎です。
揺れ動く心のはざまで思う男心と女心とでもいいましょうか。
腕の立つ剣豪小説とは違う庶民感情と男女の仲、ときにユーモアがあったりします。
そういうところが藤沢周平という作家のおもしろいところではないでしょうか。
微妙で繊細で揺れ動くこころ模様・・・こういう感情は小説でしか味わえない感情で貴重です。

※「ですます調」で書いてみました(笑)




2020.05.11

メダカとタニシ

5月11日 波長というか相性というか・・・

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一昨年のヒメタニシはメダカと相性がよかったかのでしっかり鉢の掃除をしてくれた。
去年のヒメタニシは働きが悪くて途中で死んでしまった。
環境のせいかメダカにいじめられたのか、それとも個体差によって他との波長のちがいがあったのか。
今年も15匹ほどタニシを取り寄せて鉢の中で共存体制を作った。

メダカも昨秋生まれた稚魚が20匹ほどすくすく育っている。
多頭飼い崩壊にも気を付けねばと憂慮している。

人間とコロナのせめぎあいが続いている。
コロナ禍で心が痛むような差別や偏見も生まれているのは悲しいことだ。

家庭のなかで、ほんのちょっとした価値観の違いにも過敏になることもある。
(幸いに我が家ではコロナ事情での相違はないけれど)

人の多様性はいろいろあるけれど、どうしても波長のあわない場合もある。
別に悪意があるわけじゃないが「違うのだなぁ~」と思うこともある。
そういう場合はあまりとやかくは言わないし聞き置くことが多い。

自分自身の若い頃を思うと、とにかく自己主張、意見する、断定する・・・
そういうことが多かったので、きっと「胡散臭さ」も人一倍だった気がする。
歳を重ねて「多様性」も少しは理解してきたつもりだが、振り返ると後悔することも多い。
振り返ることができてるだけ良しとしようと思う。

「自分」などという代物はたかが知れているので、一億三千万分の1人にすぎないと思う。
この「すぎない」という感覚を理解するのに多くの日々を費やしたような気もする。

コロナ禍で著名人も若くして亡くなって、それ以上に普通に暮らしてきて突然亡くなる人もいる。
なんだかこの先の自分の人生もどれほど残っているのかと、ふと考える。
自分の好きなことだけをするという生き方もあるが、何もしないという生き方もある。
年寄りの鬱感とは違う、淡々とした生き方だと自分は思う。

人は愛おしいものであるが、人との距離感もたいせつだと思う。
人を愛おしいと知ってる人ほど、人との距離感や相性を大切にしているようにも思う。

メダカが新しいタニシという闖(ちん)入者をどう思うのか、騒々しく動き回るメダカをタニシはどう思うのか。
きっと淡々と自分の生きる道を歩いているだけなのだろうと思う。

2020.05.10

プランター農園

5月10日 ナスとかトマトとかキュウリなど

農園というのはおこまがしい(笑)が、少し大きめのプランターにナス、ミニトマト、キュウリを植えた。
今年の新しい試み、チャレンジ、お遊び。
美味しく実がつけば多少は暮らしに色を添えられるか。
もっとも、この三品種を決めたのはカミさんで、そういう暮らし方が今年の特徴です。
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もし田舎暮らしをするとしたら、やはり畑で作物を育てたいと思う。
つまり「新しい生活様式」になるということだが、田舎に住んで、田舎の暮らしができなければ、場所は田舎で心は都会暮らしのままになる。
とはいえ、そんな田舎暮らしがおいそれと出来ない金銭的環境的な実情があるので、「プランター農園」が身の丈にあっている。
農業従事者になるのだ(笑)
もっとも近くに遊休の畑でもあれば借りて野菜作りに精を出すのだと思う。
ふむ、実験的試みが上手く行けば、プランター農地を開墾「増やす」のもいいかもしれない。

畑作業をしている友人によると、雑草の処理から植え付け収穫まで、「大変だよ」と言うがけっこう充実した笑顔である。
大変なことを好んで行い、収穫の季節をむかえる。
都会の「田舎暮らし」の神髄のような笑顔で、そんな話を聞くのは楽しいことだ。

そんなわけで、人との間隔は2m空けて、室内でもマスクをして、毎朝体温チェックをして等々「新しい生活様式」を専門家会議が提唱している。
感染予防に努めましょう・・・と庶民は努力する、間違いなく努力します。
この努力、為政者は「新しい防疫の様式」、徹底した検査と感染者隔離の「様式」を実行していただいて、自粛と補償を徹底していただく。
新型コロナと経済は相反する問題ではなくて、徹底した検査と隔離をしてこそ、すみやかな経済回復に向かうのでは・・・
そんな未来に向けた戦略的な展望が欲しい。

さて「プランター農園」であるが。
「土が無い、欲しい」と嘆いていたけれど、無ければ無いなりに発想も転換する、これも「新しい生活様式」の一つだと思う。
生活の中のユーモア、生産的なお遊びだと信じたい。

2020.05.07

植物のある風景

5月7日 初夏の訪れとコロナ禍

今夜の月はとてもきれいな満月です。

春爛漫な小さな花壇の花も終わりを迎え、夏もようにかわりました。Photo_20200507221201
自粛ムードだった4月も、色とりどりの花々が和みをくれました。
初夏。毎年のGWの恒例となっている「グリーンカーテン」の仕様にチャレンジ。
あさがおです。3年目のことしこそは成功させたいという思いです。 
プランターから直植えにしましたが、この試行錯誤がうまく行くか。

思うに近所を散歩していて、手入れの行き届いたお宅の花々を見つけると、その人となりがわかるような気がします。
植物への距離感は「優しさ」への距離感でしょうか?なんちゃって。

コロナ禍。
大変な時だからこそ見えてくるものがあります。
「手洗い」「マスク」「うがい」「不要不急の外出の自粛」。
自分でできることはやって・・・

「自粛警察」とか「医療従事者差別」とか、価値観の問われることも出てきて。
自宅にいる機会が増えれば、「コロナ禍による価値観の違い」に悩む夫婦や家族もでてくるからDⅤ被害も心配である。
日頃は見過ごされがちな問題も顕在化したりする。
そういう問題だけではなく、コロナ禍への考え方にも「呑気」から「過敏」までさまざま。

毎日伝えられる「感染者数」や「休業要請」や「自粛」などのニュース。
「目に見えない敵と戦う」というけれど、ウイルスだから目に見えないわけではない。
感染実態が明らかにされていないから、PCR検査も抑制してきたから目に見えない。

本当の実態が誰にもわからない中での「自粛」という自己防衛。
休業し解雇され怖くて医療も躊躇する暮らしがいつまで続くのか。

「行動変容」と「新しい暮らし方の模索」といえど、いったい感染実態はどうなってるのか。
PCR検査数が諸外国とけた違いに少ないから、社会の中のコロナ禍の実態は見えない。
何を基準にするのか?感染者数?陽性率?死者数?
靄のかかった社会のなかで、とにかくソーシャル・ディスタンス(フィジカル・ディスタンスがいい)
休業とリモートワークで緊急事態宣言。

もともとは「新型コロナ」という疫病・医療の課題にどう対応して社会生活を維持するかということのはずが。
市中感染ほぼまちがいないならば、徹底したPCR検査と感染者隔離の医療体制の確立なくして・・・
休業補償の徹底と検査体制の確立という、「新しい暮らしのかたち」に転換がなければ。
8割の人との接触を減らして・・・それでも感染が収まらないのは国民の努力が不足しているから?

こういうのが鬱々病なのかな?
嫌なものもいっぱい出ているけれど、なかなか知見のある方の意見が救いの気分になっている。
2月から4か月経とうとしているのに出口すら見えてこない。
「アベノマスク」が届く前にマスクの値崩れが始まり、今日明日の暮らしに困っている人にさえ10万円はでていない。
なんだかんだ言っても議員を選んだ国民の選択、忖度政治がもたらす無能、無責任な言葉だけの「責任」

やってられませんので、室井佑月さんが言ってたように「ため息を意見に変えよう」ということでしょうか。


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