2019.06.04

曇り富士

6月4日(火)日本平から富士山を眺めた話

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一週間ほど前の話を書いている。
もっとも三人目の孫が生まれ、娘と孫たちが実家帰りしていたので、ブログ更新も・・・何日ぶりだろうか。
で、5月の末に友人ら12人ほどで静岡県の「日本平」というお山と久能山東照宮、こちらは徳川家康が埋葬されているところだが、歴史のうんちくはどこかの本にでも書いてあるのでそちらを調べるとして・・・
「新緑のハイキング」の名目だったけど、新幹線、バス、ロープウエイと乗り継ぎ、ハイキングとうよりも「友だち旅」。
で日本平の頂上にある「夢テラス」という展望台から眼下に駿河湾と清水港があり、その景色の前方には雄大な富士山...
あいにくの曇り日でくっきりはっきりの富士ではなくぼんやりと。
デジカメでは富士の稜線すら撮れず以外なことにiPhoneのカメラでやっとどうにか写っていた。
古いデジカメだからかな、最近のスマホのカメラの優秀なこと。
しかし、富士山というのはとてつもなく雄大だと改めて思い、あの裾野の広がりはそんじょそこらのお山ではお目にかかれない。
眺めているだけでいいもので、たしかに神々しさとか存在感とか思う。
「お山」や「巨木」が信仰の対象たりえるのは、古来から変わらないその存在感にありそうだ。
不変、変わらないということの持つ意味だろうか。
人が創ることのできない自然の産物であり、何万年前からか知らないが日々流転しているような人間の暮らしとは比較できない存在。
「お山」信仰の神々しさってそういうことかなぁ~、神々が宿る富士山、ちょっとだけ納得してしまう。
そんな事を思いながらカシャとカメラで写したり、富士の絵を描いたりなんてのは、人間の勝手な行為でしかなくて、変わらないものは変わることなく、ただただそこにあるということかな。
日本一のお山とか、富士の根雪の白さが素敵だとか、稜線が素晴らしいとか・・・いろいろ説明しても、なんだかつまらない気がしてくるから不思議だなぁ。

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2019.05.18

庭とか花壇とか

5月18日(土)花の名札をつける

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【アサガオがぼちぼち咲き始めたので期待も大きいグリーンカーテン】

自宅の南側に花壇がある。
庭はというと駐車スペースに占領されて無い。
季節の花々は花壇植えされ、それでも足らないので植木鉢やプランターを置いて「土」を確保するしかない。
「もし広い庭があったら花も木も野菜も出来るのに・・・」と妻はいつも残念がっている。

娘がマンション暮らしから戸建て暮らしになった。
郊外の比較的土地もゆとりがあるので南東側と西側が庭になっている。
狭小の住宅住まいからすれば、燐家とは連ならない空間の広さは羨ましくなるほどだが、妻などは「庭があるなら花々をたくさん植えられるのに」と思っている。

住む地域や土地に制約されるのが暮らしというもので「住めば都」の例えのように、今ある環境に順応し季節の花を楽しんでいるのが現状だ。
「花がきれいですね」とときどき所用で訪れる方から褒められると「いやぁ~カミさんの花壇で自分は水やりの世話人ですから」と答えるが、近所は花壇のある家も多くないので、褒められれば「カミさんの花壇」ではあっても嬉しいものだ。
だから、せっかくの庭をコンクリートで固めてしまうのも、放置するのももったいないことだと・・・
しかし、いったい今の我が家にどんな花が植えられてるのか?正確に知らずに毎日水を撒いているので確認してみた。
端から、おもと、アロエ、こでまり、クレマチス、カサブランカ、牡丹、あじさい、ウノハナ、門柱前の花壇にはカーネーション、星桔梗、ラベンダー、日日草、ミヤコワスレ、南天などなど。
他にはジャスミン、スモークツリー、スイセン、シクラメン、ライラック。
今回確認のため妻に聞いて知った花というとイソトマ、ゼラニウム、サフィニア、スカビオサ、デルフィニウム、アッツザクラなどで、アサガオはグリーンカーテン仕様・・・

もう狭い花壇と植木鉢に押し込まれて、さながら都会の狭隘な住居で暮らす我が家に似ているので、ちょっと笑えてくる。
大輪の牡丹やクレマチスやあじさいの花(ガク)など大ぶりの花はそれなりに見応えがあるし、ジャスミン、ライラック、ラベンダーなどのほのかな甘い香りは季節を感じさせてくれる。
しかし小さな花壇と植木鉢では花も育ちにくいのかほどほどのサイズ、枝切や蔓切りしされて身の丈以下に収まっている。
数年前までは「花の名」は何も知らなかった。
せっせと花いじりする妻に「どこが楽しいのかな」と疑問の視線だったが、とにかく水枯れしないようにと日々世話を始めて知る花の名も少しずつ増えた。
そこで20種類ほどの花のつ一つに名前を書くことにした。せっかくだから名前も覚えて愛でるのも楽しいことだと。

植物の命を身近に知ると、人間のいろんな人工的な造作物とは違う自然の営み、枯れたり萎れたりふたたび意気揚々と輝いたりという、なんか人間の傲慢な暮らしぶりを顧みることができる。
使い古された言葉「コンクリートジャングル」の中にあっても自然と向き合う事はできるものだと教えられた気もする。
さて、娘の庭の話に戻すと、以前は畑地であったので雨の日にはミミズも蛙もやってくる。
肥えた地所ならでこその雑草も芝の中にのびる。
そこの地域は畑もまだ残る土地柄なので、マンションとは違い、蚊も蠅も蜂だってやってくる。
「虫は嫌いだ!」と嘆いているので「虫が嫌いな奴は中心街のマンションにでも住むべきで田舎暮らしは不似合いだ!」と、ついつい嫌味な言葉がでてしまうので反感を買う。
どうも反感を買う人生を反省せねば。
「せっかくの庭だからねぇ、虫も生きてるからねぇ、嫌わずに慣れるように努めないとねぇ」とでも優しく言うべきか。
とはいえ、人は自分の都合に合わない環境を嘆くが、その環境に合せて自分の住み方や暮らし方を変えて行くというのが自然との向き合い方だと思っている。
せっかくの「お庭」だから手入れをし、そこに命ある花とか食生活の一部になる野菜などを拵える。
そんな暮らし方ができたらいいなぁ~と常々語っているのが妻で、そこは価値観を共有出来るけど、不便な田舎には住みたくないとも。
やや矛盾してるが……

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2019.05.13

江戸の夢

5月13日(月)時代小説の面白味

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図書館から好んで借りている宇江佐真理の時代小説、もっぱら文庫本なのでとうとう棚の本が尽きてしまい、いよいよ単行本へと手をのばした。
ついでにエッセイ本「見上げた空の色」も今読んでいる。
「江戸情緒」と言われる風情は今の大都会東京にはないのだろう。
400年前の江戸時代の姿を残す建造物などは見られるが、情緒を感じるよりも観光都市の名所であり、そこから昔の姿を想像するにはちょっと無理がある。
むしろ映画やドラマの中の一つの風景の方が、江戸情緒を思い起こしやすいのだろう。
とはいえ、宇江佐真理の描く深川あたりの情景を当時の古地図などと見比べながら読むと、少しだけ情景も膨らむ。
そんな江戸時代の情景を思いながら、登場する町奉行や同心や商売人などが闊歩し話が展開されるのを、小説の醍醐味だと楽しんでいる。
宇江佐真理さんは言う「江戸時代から我々が学ばねばならないこと」は「人間の生き方にほかならない」と。
小説を学問と思う心意気はともかくとして、その学ぶべき「江戸時代」の情緒って何かと考える。
小説には「なさぬ仲」「割無い仲」の人々がけっこう登場する。
「なさぬ仲の母と娘」血のつながらぬ親子関係だったり、「割無い仲の男と女」理屈ではどうしようもできない男と女の情愛。
昔から今日に至るまで、市井の人々の持つ感情であり、心の在り様はきっと変わらないのだろう。
もっとも人間関係が希薄となったと言われる今、血縁なき家族の姿も珍しくないし、熱愛が突出するほどの関係を冷めた目で見る人も少なくないような気がするが・・・
情緒というのは人の感情をさすと思う。
恋愛感情に悶々としたり、なさぬ仲の家族に悩んだりというリアルな暮らしを経てきた人にとっては、小説のなかで描かれる人間関係にちょっと救われる気持ちになるのではないかと。
小説を読み終えたあとに残る清々しい気持ちは、宇江佐真理という作家の人間関係にたいする心の広さが深味としてあり、それが読後感として残るのだと思う。
そういうものを支えているのが江戸の町々の風景の描写であり、そこで暮らす登場人物の個々の心情である。
頭のなかで江戸の町々を思い浮かべ、人物が意気揚々とあるいは喜怒哀楽を持ち生きている姿を想像する。
映画やドラマで見る情景の裏側の人間模様とでも言えるだろう。
「糸車」はそうした江戸情緒を想わせる一つの作品であるが、作品を読み終えて改めてこの絵をみると、なるほどと納得するものがある。
絵だけを見ていても通り一遍の「小間物の行商をするお絹と町方同心持田」の町人と武士の姿でしかないが、自分の心情を登場人物に投影して読んだ後に見る絵はなかなか感慨深く、まるで生きているような二人に見えるものだ。
しかし歳を重ねると「感動」という気持ちも薄れるのは、自分の心持もあるが情緒なき社会の世情によるところも少なくない。
気持ちを新たにしたり感動したり爽やかさに心が動かされたり、時には落涙したり・・・若い頃には純情に反応した心持が、こうした小説を読むことで再び新鮮に味わえるのはなんと倖せなことだろう。
「江戸の夢」はどなたかの解説の中で宇江佐真理さんの小説は私たちを「しばし江戸情緒の夢に誘ってくれる」と言ってた。
まったくそうだと思うのだな・・・

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2019.05.12

太閤祭(名古屋中村区)

5月12日(日) 母の日

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この週末、中村区の太閤祭が開催されていたので義母に声をかけて3人で出かけた。
出がけに「まあ、お揃いでお祭りですか!いいですね」と近所の娘さんが笑顔で言っていた。
「お揃いかぁ」義母と娘(妻)が腕を組んで、後ろから自分も歩く、たしかにお揃いの光景である。
80歳を超える義母だが、いたって健康で、目は良し、耳も良し、口も達者。
背筋もシャキっとしてるが、転んだら大変なので娘(妻)が腕をとる。
祭りの会場の参道は、やたら食べ物の屋台ばかりで、高校生あたりが大人びたメイクの背伸びをして友達らと繰り出している。
そういう祭りが現代の祭りの姿で「太閤祭」という名前からの風情はあまりないが、この人の混み具合は昨年以上だった。
おそらく妻も義母も祭りが楽しくて行くというよりも、娘と一緒に腕を組んで出かけるというのが楽しいのだろう。
毎年のこと、稲荷寿司と巻き寿司を娘の家族にと拵えて用意してくれる。
今年84歳になる義母である。
まだまだ元気そうだし意志の強さも持っている。
その昔はこの母(義母)を娘(妻)が乗り越えるのは大変かな?と思ったこともあったが、歳とともに親子の関係は自然に落ち着くものである。
どうも母と娘というのは「夫」とか「婿」という立場の自分には理解しがたいものがある。
娘自身が母となり、なかなか自立しがたい母と娘の関係に、同じ道という「同志的感情」が生まれ、その瞬間に娘というのは、母親を乗り越えるのではないのかと思う。要するに親が愛しく可愛く思えてくる瞬間である。
父親と息子というのはこれとはまた違った自立のしかたをするもので、そもそも共依存関係も発生しにくい。
もっとも、父であれ母であれ息子や娘であっても、経済的な自立がなかなか難しいのも、格差が広がる今日の姿ではないだろうかと思う。

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2019.05.09

中山道・柏原宿サイクリング

5月9日(木)連連休も過ぎて普通の日々に

見上げれば三日月がきれいな夜空、月を眺めながらウォーキングしてるのかな誰かさん。
暇を見つけてすること。
好みの小説をコツコツ読み、めだかの観察と植物の世話、そしてほんの少しの時間をぶらり散歩。
したがって、パソコンをたたくことも少なくなった。書く意欲の減退だとしたら歳をとった証拠だろうか。
自分に向かって書くのを旨としてるから、誰かが「いいね」と言おうが(ブログに「いいね」はないけど)訪問の数の多少など何の意味も持たないと思うが、人それぞれなのでそこに意味を見出す人もいてもいい。
ここが流行の「SNSの価値観」とちょっと違うところだが、ただ、書く意欲や言葉が流暢に出てこないのは困ったもの。
まあ、昔から流暢な文章でもないから、今と昔もそれほどの変化でもないか。

・・・てなわけで、連休もすでに過ぎ「五月病」で辛い人もいるだろうが、そんなに頑張らなくていいし、人生なんとかなるから、辛ければ逃げればいいし、ミスや失敗も人生にはつきもの。
もっともその苦しみに直面すると、そうは思えないが生きていさえすれば、ほんのわずかだけれどもそのうち余裕もでてくる。
生きているだけで素晴らしいと実感できる日がきっとくるから大丈夫。


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【中山道・柏原宿】

・・・てなわけでと、てなわけでを繰り返したけど、連休中にサイクリング(ポタリング)に行ったので足跡だけは残そうと思う。
4月29日に、中山道の醒ケ井宿から柏原宿までを友人ら7人で自転車を走らせた。
いつものように自転車を車に積んで、名神高速道を西に走り、米原ICで降り、走りだしの起点は琵琶湖の東「近江母の郷」。
ここから田園風景を抜け、車の多い国道を走り、醒ヶ井から柏原へと向かう。
柏原宿に着いたのは昼時、連休だというのに、宿場町なのに、観光客らしき人影は皆無。
中山道の馬籠宿や妻籠宿のあの観光客と土産物店の並ぶ風景とは人出が180度違うのに驚く。
散策マップがあり史跡標示なども立ち宿場跡の雰囲気は申し分ないと思うが、PRが控えめで遠慮がちなのか?
もっとも、観光地化された喧騒の宿場よりもよっぽど自分は好感を持つのだが・・・


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【清瀧寺徳源院の三重塔】

昼のうどんをすすった後は、地元の人に教えてもらったと「清瀧寺徳源院」という京極家の菩提寺のお寺に向かう。
あまり歴史には疎いが、枯山水の庭園を見据えながら、京極家にまつわるお話を聞く。
聞いてる間に野生のサルたちが庭から山へと駆け上って行く。
お話下さったのはご夫婦で寺の管理と手入れ維持しているという「住職(管理)」の方。
広い寺の管理維持も大変だと知る。文化財を保護して行くのも苦労が多いのがわかる。
落ち着いた庭と三重塔が静寂なひと時だったし、知らない歴史にふれる愉しさもあった。


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【清瀧寺徳源院の庭園(枯山水)】

帰り道は梅花藻が清流に浮かぶ醒ヶ井の街道、(「わくわく街道」と命名されていた)から元来た道に戻る。
途中お土産に「山ウドの新芽」を買う。これはあとで天婦羅にして食べたがホロ苦さがなんとも言えなかった。
さて、すべて順調だったのはここまで。
帰路の途中で友人Oさんの自転車が転倒というアクシデント、ふだんの自転車は気にせず乗るものだけれど、旅先では十分に注意が必要だと反省のサイクリングでもあった。

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2019.05.01

連休

 5月1日(水)孫が来て、年々にぎやかになる

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10連休の前半を終えようとしている。
孫がやって来て、狭い我が家の中が賑やかだ。
もうすぐ4歳と2歳、なんでもかんでも遊び道具にするからおもしろい。
幼児の行動は観察していると、「なるほど」と思うことがしばしばだ。
昨日帰って行ったから、今日は静かさが戻った。
孫は来て良し帰って良し!名言だと思う。
そんな連休中の日に名古屋ドームのチケットをもらったので中日×阪神戦を見に行った。
だけど負け試合。見どころ少ない。
しかし今年のドラゴンズは頑張っている!あのカープよりも上位で試合をやっている。(笑)
4月はAクラスに留まった、この先もワクワクした試合を期待したいが・・・予想最下位チームだからなぁ。

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2019.04.23

ぶらぶら夜の散歩に演歌

4月23日(火)ストリーミングミュージック

数日前には満月が夜空にうかんでいたが今日は曇り。
「平成最後の満月」と、あれもこれも「平成最後の・・」元号狂騒曲かなぁ~と思うが。
夕食後の散歩が日課となり8か月が過ぎる。
よくもまあ続いているものだと思うが、「・・・ねばならぬ!」と力を込めていないのが良いのかもしれないし、それとスマートホンの歌を聞きながら歩くのが心地よいということでもある。
CDから取り込んだ曲はいつでも散歩の友になっている。
ところで、このところは「ストリーミングミュージック」のお世話になっている。
いやいや、音楽などは不得手であり何が良いとか悪いとか、それほど拘りもないが、何か曲が流れ、聞くとはなしに聞きながら、夜道を歩くのが心地よいだけだ。
そこで聞くのは「演歌」、八代亜紀なんて暗い路地を歩きながら聞くには最高であると・・・
演歌は艶歌。その哀愁がなんとも言えないし、ひたむきな愛情がこれまた、一人散歩にはよく似合う。
若い頃の蹉跌、若い頃の情熱、若い頃の哀愁・・・認知症の予防にはいいらしいがまだ早い(笑)
レコード盤もカセットテープもMDとかCDとか音楽媒体は変遷して、最近はネット配信される楽曲が手軽でよろしい。
それほど好きでもない歌手やちょっと耳にした歌など、CDなど買うこともない曲を、おまかせのネットのプレイリストで再生する。
ほほう・・・こんな歌もあったのかとちょっと聞き入ったりするが、「懐メロ」これがけっこうお気に入り。
きっとこういう音楽の風景、環境が主流になっていくのだろう。それほど音質や曲にこだわらない、手軽に耳にするミュージック。
なんだか、流行というものには、その状況というか、経済力というか、それを支える環境があるのだろうと、クラッシックもジャズもよくわからない、おっさんの戯言である。
まあ、そういう音楽を聞きながら、3キロほどの散歩なので10曲は聞きながら歩いている。
スマホにAirpods(ワイヤレスイヤホン)が常備の散歩風景、変なおっさんが「耳からうどん」と思われているに違いない。

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2019.04.21

生き物たちが意気揚々と・・・

4月20日(土)新緑の季節

桜も葉桜となり新緑の季節となって、花々や生き物たちが元気だ。
気温も20度を超えると100匹ほどのめメダカが水面を泳ぎ回り、それを眺めているだけで楽しい。
チューリップは花びらを散らしたが、大輪の牡丹やライラックやミヤコワスレが咲き、いい香りと彩を見せている。
ほとんど彩のない冬を越し、今年も花や生き物たちが、ちょっとだけ潤いをもたらしてくれる。
義母さんを誘い2キロほど離れた「花屋」に出かけた。
これと言って買う花のない時でも、季節ごとの花々がガーデンに並ぶ。
この季節である。格段に種類も増え、「花いじり」の好きな客も増える。
今年も夏のグリーンカーテン作りに挑戦しようとあさがおの苗を探しに来たわけだ。
品種としては「琉球あさがお」「ドイツあさがお」が目に留まったが、「葉が大きく育つ」と花札に書かれていた「ドイツあさがお」の苗を9つ購入した。
一つ200円弱だったので全部で1800円ほどの命を買って、買ったからには上手に育てようと思う。
昨年は「摘芯」をそれこそ「若い芽を摘む」と躊躇したのが原因で、蔓ばかり上にのびて肝心の「緑のカーテン」にうまく育てられなかった。
「失敗の経験値」こそ物の上手の源だと思うが、めだかも最初は購入した全匹が天国へと旅立って行った。
動物も植物も自然界で共存する生きとし生きるもの。
死なせてなるものか、枯らせてなるものか・・・と、そこに趣味的世界の意味をみいだす。
何に自分の意志を込めるのかという選択も、これまた一つの人生観の選択なのだろうと思う今日この頃なのだ。

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2019.04.10

桜雨

4月10日 花を散らす雨

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朝から一日雨模様だった。
近くの用水路脇の桜並木も孫が遊びくる神社の公園の桜も雨に打たれ散り始めた。
この季節、桜の花見ももうお終いだけど、その短い開花にあわせて、あちらもこちらも花見風景がみられた。
入場料もいらない「イベント」というのが、庶民の暮らしに似合っている。
もっとも桜の花そっちのけで酒と会話が弾む、見ているだけで楽しそうだと思う。
ここ何年か、この桜の満開にあわせて岩倉市の五条川まで自転車を走らせている。
最近は一人で走ることが多いのは、仕事などでみなさん忙しいし、満開にあわせるのが難しいから。
けっこう一人孤独に(笑)自転車花見というのも乙なもので、時間もコースも好きに決められるのがいい。
先週末に往復43キロほど走り、久しぶりの遠出となったので、寄る年波?に応じて筋肉痛が続いた。

校庭に咲く桜、小さな公園の桜、神社の桜、用水路の桜、城の石垣に咲く桜・・・どれもこれも桜のある風景はいいものだ。
毎年、その時季と空模様でどこかしらちょっと違うのも桜、それでも短い開花だからこそ楽しむことが出来るのも桜。
いや花が散り、葉桜となった風景もいいという人もいる。
いろいろである。ただ言えるのは365日いつも咲く桜だったら、きっと飽食気味になる。
ある瞬間、ある時期、限られたものに心を惹かれるのも心情と。毎日、毎日「桜の鑑賞会」はできないのが良いのかも知れない。
そういう、ある一定の条件や環境下で、そこに執着して喜んだり、失望したり、我慢や辛抱もして、生きて行く日々が「日常」なのだと思う。
さあ、桜の季節もお終いになって、世の中はGWという連休を楽しみに動き出した。
四月病、五月病・・・一筋縄でいかないのがこの世。我慢と辛抱も必要な季節かなぁ。

 

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2019.04.06

桜チェック

4月5日 あちこち桜が満開に・・・

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そろそろブログもマメに書こうかなぁと。
「ココログ」がリニューアルされ、使い勝手が変わった。
店舗の商品陳列と同じで、とまどってしまうのは歳のせい?
まっ、頑張ってみようかな。

 

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2019.03.11

あれから

3月11日(月) 普通に暮らせるありがたさ

8年前の2011年3月11日、東日本大震災で多くの方々が被災した。
あの日、職場のカウンター越しに来客対応をしていた。ゆっくりと揺れが来て、眩暈を起こしたのかと思った。
遠く東北地方の地震が名古屋でも感じられた日。
しばらくして、テレビ報道を見たYさんが「津波の被害が凄い、地獄のような・・・」たしか、そう言ってたことを思い出す。

その後しばらくして、福島の原子力発電所から水蒸気があがり爆発を起こした。
メルトダウンを起こしたら、もう汚染は拡散して、あのチェルノブイリの二の舞になると思うと、とてつもない恐怖や不安が襲ってきた。
あれから8年の歳月が経つが、復興も途上だしまだ故郷に帰れない方々もいる。
何にもまして、原発を廃棄して自然エネルギーなどへの転換が基本のはずが、「原発廃棄」という方向すら見えなくなって、いったいあの8年前に感じた思いはどうなったのだろうかと。
今でも思い続けているのは、何事もなく普通に暮らせることのありがたさであり、原発を廃棄して、自然エネルギーなどへと「エネルギー政策」の転換が未来への道、ということ。
何事も忘れずに、あの8年前の衝撃を心に持ち続けることだと思う。

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宇江佐真理さんの本を読み続けている。
最近面白いと思ったのは「十日えびす」。江戸の時代小説であって、実は現代小説の読後感だ。
引っ越しした先の裏店で繰り広げられる人間模様。もう、そのまま現代の親と子、兄弟関係、向こう三軒両隣、よくもまあ、こうした住人たちの暮らしぶりや人間関係を描いたものだと感心する。
貧しいけれど普通に暮らす、その普通の暮らしのなかの喜怒哀楽。
普通に暮らすために、人は我慢もしながら、情を交わせあうという、下町風情がある。
良いも悪いすべてを受け入れ、辛抱しながらも、人との交情を築いて行くという、普通の家族にあるしがらみを捉えるところが見事といえる。
そうした市井の裏店人生ともいえようか、人間っていいものだ!とちょっと心が洗われる思いの作品で、読み応えがあるのでおすすめ。

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2019.03.10

土筆(つくし)ニョキニョキ庄内川

3月10日(日) 今年は大収穫だった!

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昨日、花屋さんに行ったその足で庄内川の堤防で土筆取りをした。
毎年義母さんが「土筆取りに行こうよ」とお誘いがあり、明日は雨模様だから今日中に・・・
天気予報が的中して、土筆取りが昨日で正解だった。
私も妻もさほど土筆が好きではないので収穫は義母宅へ、卵とじになった土筆が帰って来るのは恒例のことだが、少し癖のあるあの味には、どうも。

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庄内川の堤防工事があった頃はほとんど姿を消したが、ここ数年は復活してきた。
ビニールの袋いっぱいの収穫に笑顔が、義母さんは満足したと。
都市部では田んぼや小川が減って、土筆もどこにでもあるという訳にはゆかなくなったが、庄内川のここには残っている。

春の風物詩、昔ながらの風物詩、残しておきたい風物詩、いつまで続くやらの風物詩。
こういう遊び心はとても楽しいものだと思う今日この頃、ああ孫にも体験させてやりたいところだなぁ。

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2019.03.09

花屋にて

3月9日(土) ウインティ(芝桜)

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カミさんが花屋さんに行きたいというので、義母さんも誘ってでかけた。

前はまだ寒い頃に来たので店の花も数が少なかったものだが、三月となりちょっと花の色どりも多くなった。

春だなぁ~と、花々をながめて思う。
その昔の若い頃には、花の名もほとんど知らず、興味も薄いものだったが、どこにでもいる「花いじり」の好きな爺の仲間入りをしたのかと思うと、ふと苦笑してしまう。

花屋の店先で一つ二つ好みの花を買い、狭小敷地のプランターに植え、そうして水や肥料を与えながら実際に育ててみると、「好き嫌い」を超えて、身近なものになる。

花が散るのに「ものの哀れ」を感じるとはよく言ったもので、キレイに咲いていた花が萎れて、もう花期もお終いになると、ちょっと寂しくも思う。
それでも枯れてしまったかと思っていた枝先に新しい芽が出てるのを発見すると、なんとなく嬉しくなるものだ。

「花の命は短くて・・・」と謡ったのは「浮雲」?、「放浪記」?。
散る花の短い命はそうだけど、実はそうでもなく、実を付け種を散らし、また新しい花を咲かせると考えると、花はけっこう生命力が強いものだと思う。
子々孫々、花は絶え間なく命の葛藤を繰り広げている。

こういう文章も、愛でるだけから、実際に育てることことに関わって、実感として知ることでもあるが、とても花好きの方からすれば、園児レベルの感想と言われそうだけど、「それを言っちゃあお終いよ!」と小声でつぶやく。

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少し大きめの「ウインティー」を我が家は買い、小ぶりのものを義母さんが買い求めた。
「ウインティー」、ああ芝桜のことだと妻と義母さんがぼそぼそ話していた。
どうも横文字の花名が多くて、自分などは困ってしまう。
「芝桜」って言えば良さそうに思うが、きっと種類の多い花々なので日本名だけでは区別できないからかしらん。
少し早いが今年もあさがおのグリーンカーテンに挑戦してみようと、培養土と粒の大きい底石を買い求めて・・・春の風景のひとこま。

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2019.03.06

おきゃあがれ

3月6日(水) 啓蟄


大地が暖まり土の穴から虫が顔を出すというのが二十四節気「啓蟄」の意だという。
少し季節も穏やかになると、人間も虫におとらず、いろいろと顔をだす、「虫の居どころ」ってやつだ。

宇江佐真理さんの「髪結い伊三次捕物余話」シリーズを読み終え、あわせて他の小説も読んでいる。
前後したが最後に読み終えたのが「黒く塗れ」、ちょうどシリーズの五作目で、この中の「慈雨」という作品が読み終わりになった。

巾着切り(スリ稼業)の直次郎は惚れた娘お佐和のために、自ら指を潰し稼業から足を洗っていたが、惚れた娘を忘れられない。お佐和も同じである。
恩ある人の娘に「巾着切り」の過去をもつ直次郎とは添遂げさせるわけには・・・伊三次は悶々と悩むものの、最後には伊三次に見守られお佐和に意を告げに行く。

雨降るなか「抱き合う二人の姿は、まるで紗をかけた一幅の絵だった」。
この作品の文庫版によせてで、作者みずからが「あとがき」を書いている。
この「あとがき」がつくづく面白い。

読者から函館じゃなくて浅草の下町あたりに住んでじっくり下町情緒を学んではどうかと言われ「おおきなお世話」ときりかえし、巾着切りの直次郎を幸せにしてくださいと読者の悲痛な声が聞こえ、この「慈雨」で成就させている。

人の意見は聞かないほうだと自分を評しているが、どうしてどうして、今を生きる読者の声もちゃんと反映させた作品になっている。
こうした今も昔も変わらない市井の人情を見事に捉えているから、伊三次とお文はどう歳をとってゆくのかと気になる。

もっとも宇江佐さん自身があとがきで述べていたが、「宇江佐真理の作品には人情はあるが哲学がない」と言われたと。
なるほどなるほど厳しい指摘ではあるが、その市井に人情物語を構成するために、江戸の本所深川や日本橋や河岸などを細かく調べ、市井にとどまらぬ江戸時代文化などを調べたりと、とても精力的な成果と思う。

「哲学がない」言いえて妙ではあるが、江戸時代の下町文化を土台にしているから、読み重ねていると、実際には見たこともな「市井の街角や裏店に息づく人々が、絵のように動いているのである。
江戸の市井の人々の言葉使いにも目をみはる。粋でいなせと言われた「深川芸者」の言葉使いなど、なんともまあ面白い。
そんな中でほとんどの作品で出て来る「おきゃあがれ」という言い回しに、文化、文化というけれど、こういうのが「市井文化」の典型かもと思ってしまった。

「おきゃあがれ」、やめてくれ、ばかを言うな、よせやい、といった意味で、江戸言葉??
相手との会話のなかで成立する否定の言葉ではあるが、そこに溢れる愛情というか人情というか、ストレートな物言いばかりが目立つ昨今、少し気持ちの込められた会話が、肯定も否定も含めて、人間関係をつくり上げて行く・・・と思う今日この頃、人の思いは千差万別であるという、忘れがちな事実である。

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2019.03.05

ぽかぽか陽気に誘われて

3月5日(火) 庄内緑地公園の春

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天気予報をみながら今日は晴れ、春らしい陽気なので庄内緑地公園へと自転車を走らせる。
体調も良いので自転車を走らせる気が起こるのか、自転車を走らせていると体調も良くなるのか・・・
どちらにしても、まだまだ自転車を走らせることに飽きてはいない。
家事を済ませ、昼少し前に家をでる。
快晴の空を見上げると生きている実感も増す。
自転車の散歩はイベントではないので、どこかで何かを見たり、何かをするという目的はない。
普通の暮らしの延長線なので、ある意味「暮らし方」そのものでしかないが、「何か」をしていないと暇をもてあますというパワーは、どうも自分には不似合いである。

3月、公園のマンサクが季節にふさわしく咲いていた。人出はわずかでとても静寂。
寒い季節の公園は淋しい気もするが、ぽかぽかの春の陽気が淋しさをかき消してくれる。
ベンチに座り冬枯れした木立を眺めたり、早咲きの「フユザクラ」も粋な景色だから、どれほど居ても飽きがこない。

そうだ!久しぶりに自撮りでもしてみようかと思い立つ。
自撮りが好きな訳ではない、どことなくナルシストの行為のように思えるから、自分を撮ることに照れくささがともなう。
なので、年に数回こうしてアップするのは、誰が読んでるかしらないけれど、「今日も元気です!」というサインってわけで、ほんとうは別に自撮りも必要ないかもしれない。

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20キロくらいのポタリングが可もなく不可もなく、身体と頭によい刺激となり、そうして季節が一歩々々春に向かっているのを感じるのが楽しい。

何もすることがない時間(ほんとうはいろいろ用事もある)のある有難さ。
暇は持て余すのほどがいいし、その何もない事に充足感を持てれば、どんな環境でも人生を豊かに暮らせる。
ゆったり生きるにはイベントなき日常生活、平凡な衣食住のあれこれに楽しさを見つけることかも知れないと思う今日この頃。

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