2017.07.15

人間ドック

7月15日(土) 忙しかろうが暇だろうが日々は過ぎて行くなりぃ~

孫の世話に追われパソコンを開くのも久しぶりだが、ネットを見るだけならばスマホとかタブレットで事がたりる。

起動し立ち上がる速さはPCの比じゃない。もっともアンドロイドなどはその初期は遅いしフリーズするしで、今とは雲泥の差だった。

というわけで、少し時間とれたのでキーボードをたたいている。
「孫の世話」と書いたが、孫の相手をして遊んだりしてるだけじゃなくて、掃除や洗濯や昼飯や・・・、一人よりも二人、二人よりも三人と家族の人数が増えた分、洗濯は通常の倍々、埃だってやたら増えるわけで、ただただ孫の相手をするだけならば少しは気楽だけど・・・

ボランティアの活動もしばらく猶予をもらい、調整をして昨日は「人間ドック」を受診した。
この2年ほど医療機関とはご無沙汰していたが、いよいよ妻の健康保険の被保険家族から外れることとなるので、最後の「被保険者」としての受診となった。

検査機関で検査用の衣類に着替えて順番を待つ。みな同じような検査服で待合所に並ぶ姿は当然のこととはいえ、なんとなく不思議な光景のように思える。

病人ではないから暗さはないが、検査結果によっては問題があるかも知れない・・・と、きっと誰彼なく思っているに違いない。見えない不安とでも言おうか。

ごくごく普通に尿検査、心電図、胸部X線、腹部X線、エコー、血液検査などを終えたが眼圧と眼底カメラ(だと思ったが)がちょっとおかしい。視力・聴力項目数値は歳相応なものだったが、眼圧と眼底カメラがうまく測定できない。何度も繰り返した結果、ちょっと首を傾げながら「いいでしょう」と・・・
こういう測定者の「?」という表情を目ざとく見つけて、もしかして~もしかして~♪
「眼」のなかに何か異常でもあるのだろうかと、いやいや目を酷使してきたツケがやってきて、行く々々は「異常~!」ってなことになって、読書も禁止!などと、まあ不安ってやつは、どこまでも増殖するものである。

後日検査結果が送付されてくるが、どうぞ歳相応の衰えは我慢するとして、通院とか入院とか手術とかは勘弁してほしい。
病院は普通人を病人にしてしまう!と言ったら言い過ぎだけど、あまりお世話にはなりたくないものである。

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2017.07.05

保育士みたいなもの

7月5日(水) 三輪車と孫と・・・

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個人的な感想として言えば、写真ってものを撮って、その写真の被写体と自分がどう関わっているかという、ある意味「物語」がある写真が、まあ好みであって、そこに「物」や「風景」があったとしても、個人的なものではなくて一般化された対象物であるならば、それは自分の好みではない。

三輪車が乗り捨てられて、これは孫が実家帰りした時のお散歩用にと購入したもの。
ただの三輪車で機能や形などどうでもよく、こいつに乗れば数百メートルは「散歩」できるという、子どもにとっては秀逸な乗り物で、大人にとってもご機嫌な孫のキコキコ姿に気を良くするという代物。

三輪車というのは実に子どもが、ある意味「家庭」から脱出する夢のような現実の乗り物だと思えてならない。

娘の二人目の子が生まれ、親子で実家帰りしている。さぁ~てえへんだ!
0歳クラスと2歳クラスの保育園と化した我が家では、自分はさしずめ二人目の保育士のごとく、一日が過ぎている。

近所の公園まで午前中は「遠足」し、午前だけでは足りないのか午後も近所をぐるぐる。
保育園ならば、広い園庭や遊戯室などがあるものだが、狭い我が家では、やはり狭すぎる。

雨の日も「雨傘」がお気に入りときたもので、傘をさしてお出かけ・・・昨日も車に気を付けながら800メートルは一緒に歩いたが、これも幼児の体力勝負で、疲れると「抱っこして~」と。

抱っこするのも60肩に重くのしかかるが、寝てしまうと、もう13キロの幼児の体重がただでさえ重い、とてつもなく重い。

そうして子どもの相手をしながら、洗濯をしたり昼食の用意をしたり、いやはや体力勝負になるが、下り坂を転げるように体力の低下を余儀なくされるこの歳、かたやそんなことなど「忖度」するわけのない「孫」のあれこれへの興味は一日尽きることがない。

返却期限の迫った図書館本の読書も遅々として、自転車散歩など論外中の論外というわけで、私めの気力と体力も、この小さな「悪魔」には勝てないという今日この頃なのである。



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2017.06.27

自転車健康法

6月27日(火) Happy Birthday
 
めでたい日である。しばらくは賑やかしく忙しい日々になるだろう・・・

今日は15キロほど、まだ走ったことのない路地を選んで自転車を走らせる。
梅雨の合間をぬって、ほどよい感触、ほどよい負荷、限界の数歩手前の「ほどよさ」がいい。
一昨日、半日ほど研修会場ですごし、誘われて慣れぬ豪華な・・・とはいえ普段よりはであるが、昼食を摂ったあと、少し小雨の中を帰宅した。
なんとなく体調がよろしくないと思ったら、腹痛と嘔吐に見舞われた。

この季節だから熱中症のような症状で、昨日はプチ絶食を試みる。胃も腸もすっかり空っぽにして、ほぼ正常に戻った今日は自転車健康回復法というわけだ。
歳のせいとは思いたくないが、どうも意識と体が微妙にズレてしまうところに、やはり年齢を感じざるをえないのである。

ただ、そういう時に自転車に乗って、少し汗をかく程の運動が、健康回復に効果があるという、万人に共通する方法ではないが、自分には絶大なる効果をもたらす。
夏に向かう季節だからか自転車通勤をする姿が増えてきた。
仕事に疲れた日など、気分を変えるにはとてもいい。

疲れた身体をほんの少しだけ上回る体力の消費が、疲れそのものを取り除くという、不思議な関係なのである。



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2017.06.20

図書館のある暮らし

6月20日(火) 図書館はとても有難い公共施設です

明日は西日本の太平洋側は大雨になるという。
梅雨に入って本格的な降雨、植物には恵みの雨だろう・・・ということは、明日が返却期限となってる図書館本は今日返さねばなるまい。

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自転車にとっては雨は大敵だから。
区の図書館は大変お世話になっている。冊数こそ県や中央図書館には及ばないが、限りある蔵書のなかから手にするのは、「目的の本」というよりも、たまたま見つける本の面白さがある。

最後のごぜ「小林ハル」さんや、伊藤礼さんの自転車エッセイ、杉本苑子さんの時代小説、間宮健司さんの「名古屋散歩」等々・・・、目的のない図書館棚の、いわば散歩のなかから見つけ出した優れもの(自分にとってはだが)というわけだ。
一冊の本から、思いもかけない嗜好や思想やいろいろと広がって行くものである。

こうした本をとりそろえ蔵書として貸出するのは、やはり図書館司書という方々の力によるところが大きいと思っている。

限りある冊数の区の図書館が質の高い蔵書を棚にならべて貸し出ししてるからこそ、単に売れ筋、評判の良い、ベストセラー本とは、また違った文化を提供してくれていると言える。

本屋に並ぶ本とそっくりそのまま同じでは、面白くもなんともないものになってしまう。
というのが、最近増えてきた「委託化」にあたって願うことでもある。

さて今日はまだ本格的に読んだことの無い松本清張の短編文庫本二冊、メダカ飼育がらみで一冊、取り寄せ本の精神医学本一冊を借りた。
まあ、こういう本の借り方は、ある意味「図書館散歩」だと僕は思っているので、いつまでも質の良い文化の香がする、そして本を読むのが楽しくなる区の図書館であり続けて欲しい。

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2017.06.18

日めくり

6月18日(日) 父の日

梅雨の曇り空、今年はカラ空梅雨か?と聞くと、曇り空もなんとなく悪くない。

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「父の日」である。母の日よりも認知度は低いというが、この世知辛い世の中、子どもが元気で暮らしていてくれるのが一番のプレゼント。

最近はカレンダーはあっても日めくりのある家庭は見かけなくなった。子どもの頃の家には近所の酒屋か米屋かの名前が入った「日めくり」があった。
毎日一枚破るのが日課ならまだしも、忘れた頃に何枚か破り捨てていた、そんな意味をなさない日めくりの記憶である。

「今日は何日か」退職して日にちの感覚がにぶると、月のカレンダーを見ても用を足さなくなる。
そんな時はスマホを起動させ「ああ今日は18日の日曜日か!」となるから可笑しい。
勤務してたころは「何日か」よりも「今週の予定は」「今月は」と、書類には「日付」は必須項目だったので、今日が何日かなどは意識しなくてもよかったものだ。
ついでに西暦と元号が入り混じって??となることも。

だからカレンダーはそれだけでは用を足さなくなる。毎日が「休日」というのはそういうことで、予定のない週は「高齢者生活」そのもの (笑)
父の日を前に「何か欲しいものは」と娘から聞かれた。即座に「日めくり時計が欲しい」と。
いたって堅実な妻は「そんな散財させなくても、気持ちだけで何もないよ」と言えばいいのにと言う。

もっともなことだが、義父への「父の日」のプレゼントは何にしようと毎年悩むという。
そうであれば、素直に「欲しいものはこれ!」と伝えた方が正直であるし、貰えば嬉しい。

というわけで、自分の部屋用に「日めくり」が飾られ、「今日は18日、日曜、仏滅、気温27度、湿度49%」と表示されている「父の日」である。

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2017.06.16

めだかのストレス

6月16日(金) めだかの飼育、その後

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国会中継を見ていて、なんともまあ権力者の驕りの姿、真摯に「真実」をあきらかにする姿勢の無さに、ストレスさえ覚える。
家にひきこもってテレビを見ていた一日。書類の整理や資料請求の準備や手紙を書いたり予約したり、落ち着いた一日を過ごすはずが、心かき乱されると・・・

さて、めだかの飼育を始めて、その後である。
水槽に気持ちよく泳いでいたはずが、なぜか4匹ほど死んでしまった。
カルキ抜きした水道水の水替え、酸素補給、適度な餌、環境維持には万全を期したはずだったが・・・
それでも死なせてしまった。水槽という周囲から見える環境がめだかにとってはストレスだったのかと思い、残っためだかを元の睡蓮鉢に戻してやった。

あじさいの傍の睡蓮鉢は酸素補給はとくにない。ときどき水を替えて朝晩5分ほどで食べきれる餌をやる。
稚魚は丸い網輪で成魚とは区別している。水草の下にじっと隠れてなかなか顔をださないが、ここ数日は餌やりに睡蓮鉢を覗くと少しだけ顔を見せる。

金魚よりも耐性があると思っていたが・・・やはりストレスのように思われる。
人間でもいつも監視されて見られていたら、病気になってしまうに違いない。
自由な意思で普通に暮らせるのが一番なのだ。

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2017.06.14

「家族はつらいよ2」を観る

6月14日(水) ふつうの暮らしの中の家族の意味ですね

毎月一回のレンタル掃除道具の交換日にあわせて「小掃除」をしてるが、天気が良いので「掃除」などもったいない?
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変な理屈をつけて映画「家族はつらいよ2」を観ることにした。シニア割引とシニア飲み物割引で、ちょっとは懐事情に優しい。

70歳を超えた高齢夫婦と息子夫婦と孫の三世代で暮らす一家のちょっとぎくしゃくした家族模様の物語である。

ひょんなことで長く消息不明だった高校時代の同級生、事業に失敗し家族も離散し淋しく一人アパート暮らしをする友人との再会を果たし、飲みすぎた友人を自宅に連れ帰ったまではよかったが・・・

どこにでもあるちょっとしたボタンのかけ違いをみせる家族。高齢化を迎えた社会のなかで、「孤独」というのはなにか?、家族の意味を考えさせられる映画である。

ごくごく普通の家族に起きる「諸事件」、社会の歪みが反映しない、絵に描いたような幸せ家族などありえない。
・・・が、一人の友人の「孤独な死」を通じて、普通であることの意味を問い返している。

見終えて不思議と「爽やかさ」が残ったのは、ぎくしゃくしようが理解してくれないと思おうが、それでも「家族」として生きて暮らしているという、「それが家族だ」と思う実感に、なんとなく安堵の気持ちがわいてくるからなのだろうか・・・

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2017.06.13

太宰治の忌日

6月13日(火) あの頃の自分は・・・

歴(こよみ)を見ていて太宰治を偲ぶ「桜桃忌」が6月19日で、玉川上水で情死したのが13日、その後発見された19日は、奇しくも太宰の生まれた日。

16日と19日の違い。なんともまあ無頓着に思い込んでいたことを知り、おもわず苦笑してしまった。
その日19日には三鷹の禅林寺で「桜桃忌」としてイベントが開かれるというが、現在でも開催されているのだろうか・・・

高校生だった頃のもっとも感銘を受けた作家が太宰治であり、筑摩書房から刊行された「太宰治全集」は、いつも教科書といっしょに鞄にいれるほどの愛読書であった。
多感な青年期というのは、一人の作家に思い入れを強く持ち、その小説世界と自分の心情が一体化するほどに愛好する。

おそらくそうした小説への没頭は、情報も文化も多様化し、いろんな価値観に接することができる現代とは、かなり違う時代だったのかも知れない。

孤高のナルシスト、負の十字架を背負った太宰、哀しみと優しさを書き連ねた作家・・・
そうした太宰の小説の世界は没頭するには十分な作品群で、その情死さえ破滅的な人生を歩んだ結末だと、そんなふうに美化して読んでいた・・・

若さとは思い込みの激しさなのだと、それはある青春期の「流行り病」のようなものだと、何十年も経ってから、やはり苦笑しつつ思い出す。
自分の人生と重ねて小説を読むことが普通だったあの頃。
ああ、自分も哀しさと優しさを持ち合わせた旗手として、人生を歩んで行くのだ・・・と、まあ、若かったなぁ。

しかし、そうして得られた人生観は心のどこかに今も続いているのだと、ふりかえるとそう思える。
だから青春期というのは、ものすごく速く走ろうとするのである。速く走ろうとするのはその好奇心と達成感と完成された「人生観」を体現したいという欲求が強いからに他ならない。
良いことなのである。青春の特権なのである。そういう時期を通過することによって、何かをつかむのである。

さて、その太宰治の世界は3年ほどで終わりを迎えた。没頭するように次から次へと読んでいた小説も、どこかに足らないものを感じ始めたということだった。
「社会性」とでもいうのだろうか。小説としてはとても気に入っていたが、読んでいる自分のほうが、もっと広い社会の歴史や思想や哲学や・・・そうしたものに視点が移っていったからに他ならなかった。

などと「あの頃」を思い出し、歳と共に感受性も乏しくなったと、今を思うのである。

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2017.06.12

港町、敦賀市サイクリング

6月12日(月) 自転車旅のアルバム

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梅雨入りしたがジトジトと鬱陶しい雨の日がない。自転車に乗る身にとってはありがたいが・・・

昨日の日曜日(6/11)友人ら5人で福井県の敦賀市へサイクリングに行った。
サイクリングというよりも、ポタリングというのがふさわしいが、「ポタリング」なんて認知度が低いので、誰もがわかりやすいサイクリングと書いている。

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まあ、のんびりと観光もかねて自転車に乗る一日を楽しむ。行き先も思いのまま気の向くまま、美味しそうな昼ご飯とおしゃべりなどが、旅の友である。

こういう気ままな観光自転車もどきなサイクリングであるがゆえに参加者もアバウト。
自転車は移動手段ではあるが、楽しくペダルをギコギコしてこそ、そこを外せば、単なる「軽車両」でしかない。

敦賀市は日本海に面する港町。貿易と交流の町の歴史は鉄道の町でもあるようだ。
日本海で最初に鉄道が敷かれた町の駅舎を模した鉄道資料館、杉原千畝で知られる「命のビザ」遠くシベリア鉄道を経て着いた日本の港が敦賀港、そんな「敦賀ムゼウム」資料館もある。

そんな昔の歴史を知るのも楽しいし、そんな港町、敦賀湾にそってアップダウンをする海岸道を自転車で走るのも、これまた楽しいものである。

「若い時から自転車が好きだったのですか?」と聞かれ、「いやいや50代になって、それまでのマイカー通勤から、ある日突然自転車通勤に変え、それ以来・・・」などと話しながら走る自転車。

自転車に乗り始めて、自転車を通じて知り合った人たち。知ってはいたがほとんど話もすることがなかった人たち・・・これも自転車が結ぶ縁というものか。
もう速く走ることも少なくなって、ゆったりのんびり過ごす自転車旅になった。あと10年は元気でペダルを漕ぎたいものだと思っている。

【自転車旅のアルバム】

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【敦賀の駅前に車を停め、自転車で・・・】

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【杉原千畝の資料館】

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【敦賀湾を見下ろす。原発やミサイル・軍事力展開も嘘のような穏やかさ】

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【金崎宮から眺める敦賀港】

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【気比の松原:松林を走る自転車】

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【日本海へとつながる浜辺、水がとてもきれいだ】

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【なんで「メーテル像」が・・・漫画家松本零士の出身地?ではないらしいので町起こし?】

 

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2017.06.08

バナナの話

6月8日(木) バナナスタンドを仕入れる

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バナナスタンドがあるとは聞いてたが、そんなもの「おまけ」のようなものと思っていた。
気温も上がって冷たい飲み物が美味しい季節になり、生バナナジュースを作ることが多くなった。

いたってシンプルにバナナと牛乳をミキサーにかけ、そのままコップに入れておしまい。
しかしバナナという奴はなんでこうも傷みやすいのかと、バナナジュースを飲む機会が増えるにつけ思うこと。

ジュースの作り手はもっぱら自分で、風呂上がりに「バナナジュースを飲むかね?」、朝の一杯に「バナナジュースを飲むかね?」、何というか凝りだしたらこの先、飽きるまで続くような気がする。

バナナも安価になり、栄養もしっかりとれるので、晩酌とかはあまりしない我が家にとっては、やはり風呂上がりの一杯というわけだ。
というわけで、最近はバナナが切れることなく買い置きされ、冷蔵庫ってわけにもいかないから・・・バナナスタンド。

Amazonで喜び勇んで注文したら「バナナスタンドなんてスーパーに売ってるよ!」ときたもんだ。
知ってるならば今まで何故に使わない!

ああ、バナナが高額で珍しい時代を生きた私としては、たかがバナナでも買った以上は美味しくジュースにするのは必然的な作法・・・なんちゃって。
もっとも、あれこれ食することに興味をもちだしたここ数年のことだけど。
「バナナジュースを飲むかね?」と、押し売りのように聞き、「もらうわ」という返事に、今日もふぁふぁふぁ・・・と満足しているだけなんだが。

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2017.06.06

菖蒲が見事だった日

6月6日(火) 久しぶりに庄内緑地公園自転車散歩

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来てみたら庄内緑地公園の菖蒲が見ごろだった。
高齢者施設のお年寄りたちが、車椅子できれいに咲いた菖蒲の花々を愛でていた。
郊外にでて、花に親しむひと時は、ほんとうにほっこりする時間に違いない。

午前中は家事にいそしみ、昼は残り物の食材でチャーハンなど作り、天気も良く暑くも寒くもない気候に感謝して、ヘルメットにサングラスにお茶も用意して、スポーツ自転車を走らせて庄内川の堤防道をギコギコ。
二つほどの急坂も元気に上がる。この坂が上れなくなった時が自転車散歩の終焉だろうと心に誓ってるが、そうしてやって来た庄内緑地公園の菖蒲の美しさだった。

自転車を走らせるのは健康によいというのは当たり前のことだが、身体を使う心地よさと実は心の健康にも大きく寄与している。

どこそこに何かをしに行くという、そういうものではないところに、実は心の解放感がある。
ただただペダルをギコギコし初夏の風を体に感じる。
「目的」や「目標」なんてものに縛られていては解放感は味わえない。「何も無い」ことに自己充足感を持てるかどうか・・・散歩というのはそういうものだろう。

財布に1500円ほどの小銭を入れて、結局何も使うことがなかった。節約といえば聞こえが良い、貧乏臭いといえば当たらずとも遠からず。
自転車に乗って20キロほどの散歩をしたことになるが、金には換えられない、初夏の街角の風物詩を堪能できる。

ちょっと気も心も晴れ晴れとしたいときは、庄内川の川の流れと走り、ちょっと人混みが恋しい時は車や人の往来の激しい騒音を聞きながら走る街角。
ふと見つける看板の文字に目をとめたり、最近は同じような建売住宅が増えたなあと思い、その玄関先の紫陽花の花に目をやる。

ゆっくり人生を歩むというのは、そういうことだと・・・何もないような日常に、ふと人の生きている姿を見つける。僕はとても満足しているのだ。



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2017.06.05

初夏の風景 祭り

6月5日 尾張西枇杷島の祭り(2017年)

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夏がやって来たんだなぁ~と、つくづく思うのです。それも他の夏祭りよりもちょっと一足早い祭りと花火がここの祭りだからでしょう。

先週の終末「尾張西枇杷島祭り」に妻と出かけました。昔は子どもらと親子で行ったものですが、歳を重ねてここ数年は夫婦のみの夏祭りになりました。

からくり人形のある山車と旧美濃路街道の両側の屋台と花火大会が楽しいのですが、毎年のことで珍しい風景ではなくなりました。
それでも、その日の午後に花火の空砲が「ドカン」と聞こえると、なんとなく楽しくなるので、「では行こうか!」となるものです。

山車は5台あるようですが、3台までは見ることができました。
年々人出が増えてるように思えるのは、名古屋市内の矢田川花火がなくなって、浴衣などを着て夏を楽しむことが減ったからなのでしょうか。

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人出が多く、狭い旧街道を人が流れるような混雑ぶりで、まあそれは大変です。もっともそれは昔からで、そういう人混みもここの祭りの特徴だと・・・整然と作り上げられた祭り会場ってのは情緒があまりありません。
祭りというイベントには違いないのですが、自分のなかでは夏を告げる祭りとして、ある意味、季節感のある日常生活の風景になったように思います。

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いつもならば混雑を避けて花火は帰り道、枇杷島橋あたりから眺めたりしていたが、今年は庄内川の堤防に二人して腰を下ろして見ることにしました。
打ち上げ場所に近いと花火の大輪はいっそう大きく見えるものです。こういうのも初夏の風景としてはいいものです。

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世の中の流れはだんだん速くなり、新しいものにばかり目を奪われがちになる最近です。変わらないこと、毎年同じこと、変わり映えのしない地域の風情に、心穏やかになるのも、それはそれで心地よく、また来年も再来年も変わりなく続いて欲しいと思う日本の初夏の風景だと思うのです。

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2017.06.03

初夏の風景 田植え

6月3日(土) 今年も子どもらの田植え風景があった

小学生たちによる田植えを見ることができた。
田お越しされた田んぼに用水から水が引かれ、待ちわびたかのように蛙が合唱をはじめ、そして毎年の風物詩となった「田植え」が行われた。

一列になり泥だらけで一生懸命に苗を植える子どもらの姿は、なんとも微笑ましい、見ている自分には、ありがたい風景である。

賑やかな黄色い声がはずむひとコマ、楽しそうな雰囲気を撮ったが、こういうブログに載せる写真となると、どうしても制約されるので、そこが残念なところである。

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2017.06.01

めだかの飼育

6月1日(木) めだかを水槽に移す

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【水槽のガラスに自転車が写り込んでしまった(笑)】

戸外の睡蓮鉢に入れていためだかを玄関の下駄箱の上に移した。めだか8匹ほどならば小さな水槽で大丈夫だろう。

実は睡蓮鉢の水草に卵が産みつけられ、ほんの1~2ミリほどの稚魚が誕生していたので、放置すれば大人のめだかに喰われてしまう。

ホームセンターで水槽、床砂、ろ過装置などを買い入れ、稚魚はビンに分ける。
たかだか一匹80円くらいのめだかに水槽ですかぁ~、睡蓮鉢で十分なのに!というのが妻の反応だが、けっこう元気に泳ぎ回っているし、稚魚はまだ小さく目を凝らして探さないとわからないほどでも、5~6匹は泳いでいる。
水草の根に卵が産みつけられてるのをみると、いったいどれほど増えるのか・・・

もう20数年ほど前に金魚を飼っていた。子どもが夏祭りの金魚すくいで獲ってきたものを、丁寧に世話をして長く生きていた。水替えや藻の繁殖を抑えたり、けっこう大変だったが、その金魚に比べればめだかは環境適応力に長け鑑賞魚としては飼いやすい。

日本の川や田んぼに生息するめだかなので、珍しい金魚よりもシンプルなわけだ。
生き物を飼う。可愛いねぇ~と見る分には良いが、元気で長生きさせるには、それ相応の世話が必要になる。

犬でも猫でも小鳥でも、可愛がるだけじゃだめで、ほんとうに幸せに生きるには人間の愛情を込めた世話が不可欠だ。
ほんの小さなめだかでも、人と一緒に暮らすということを肝に命じて、それなりの世話をすることになった。

さて卵が孵化し稚魚が成長し、いったいどれほどの「めだか環境」になるのやら。こういう小さな魚が元気よく泳ぐ姿を見て、やって来る孫はどんな感想をもつのやら・・・大人も子どもにとっても「命」とのふれあいだと思う。

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2017.05.28

新緑ハイキング

5月28日(日) 高雄・清滝川ハイキングで心の洗たく

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5月27日の土曜日、京都の高雄・清滝川の東海自然歩道ハイキングに行った。
昔の職場仲間から声をかけていただき、11名の日帰り旅。
8時前の新幹線こだまで京都駅へ、そこから市内バスで高山寺へ行き、ここを起点に高雄・清滝川に沿ったハイキングコースで、終着は嵐山というもの。

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【指差す先は刹那・西明寺かな】


この季節、目に飛び込んで来る新緑が心地よい。昨日の大雨が嘘のように晴れ上がりハイキング日和の1日だった。
20代から70代までの過っての職場の友人という顔ぶれは、歩きながら笑顔、話しながら笑顔・・・屈託のない初夏の香りが爽やかな新緑の間からこぼれ落ちる。

清滝川の清流に沿って山道を歩く。少々の上りもあれば下りもあり岩場に足をとられないように気を付けながら、視線は日差しに輝く青葉へと向けられる。
京都の洛西、市内から一歩踏み込めば、こうした自然があるという、これも京都の魅力の一つに違いない。

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【木漏れ日も青々として】


初夏から夏にかけて「目には青葉山ほととぎす初鰹」なんて江戸っ子が好んだ俳句の情緒も思い起こされる季節。
ほととぎすではなくてウグイスが鳴いていた。それよりもカジカ蛙の鳥の声かと紛う鳴き声に「ああ、これがカジカの声なんだ」と妙に感動もする。
ここらにはオオサンショウウオも生息するらしい。
目には青葉 山カジカガエル 握り飯 なんちゃって、語呂が悪いなぁ(笑)

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【杉木立の中をハイキング】


おおむね10キロのハイキングコース。京都駅で仕入れたコンビニ弁当も木漏れ日の下で食べるのは、それはそれでおいしいものだ。
午後の3時前には嵯峨野に着く。小洒落た茶処で清涼の一服、冷たいトコロテンわらび餅を胃におさめて、祇園寺を拝観する。

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ところてんわらび餅も美味し】


若い娘さんたちは元気だが足が痛いと、年寄りたちは足腰の痛さを隠して平然そうに(笑)。
退職して6年を迎えるが、年に数回とはいえ、こうして一緒に一日ハイキングが出来るってのも不思議な縁だしありがたいものである。

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【嵯峨野の古民家保存地区】

 

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