2019.09.17

月日は・・・

9月17日(火)

2019

中秋の名月は雲の夜だったが、晴れたり曇ったり、秋らしい夜だと思うと、まだまだ暑さも抜けきらない。
それでも昨夜は月もきれいに輝いていた。
夜の散歩に出かけ、ふと方向を変え路地を東に歩く。
月に向かい少し足を速めると、林立する高層ビルに隠れてしまった。
雲間に隠れるならば風情もあるが、ビルに遮られ、時折ビルの谷間から顔をのぞかせる、おそらく秋の夜の月あかりに季節を感じたのは、その昔も同じなのだろうが、すっかりビル群に空を狭められた現代、これも風情といえば風情なのだろう。

相変わらず昔の流行歌を聞きながらの散歩で、懐かしい曲が流れて来た。

♫~黄色い麦わら帽子の女の子
  今年も逢えるかな 夏の日出逢った女の子
  探してみたいな 妹みたいな女の子
  ・・・
  帰ってほしいな 風吹く月夜は女の子
  銀の小舟に 思い出をつないで ハハハハ・・・

こういう時代の雰囲気はとても懐かしい。麦わら帽子、女の子、風吹く月夜、思い出をつなぐ・・・
幾つになっても「青春時代」はときめき輝いていたと思いたいものだ、昨夜の月みたいに。

てきとうに好き勝手に「日記」めいた文章を書き、あれから何年の歳月を過ごしてきたのか。
 『月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり』と松尾芭蕉が「奥の細道」で綴ったのは幾年前なのか。
人生を言いえて妙な言葉の数々を、ときに思い起こし、ときに感慨深く今を生きる。
秋と言うのは感傷的になる季節ではあるが、それも瞬時のことで、またふたたびいつもの日常がやってくる。

そうこうしていると棲家の前の田んぼが少し実り始め、ああ少し前は田に水が引かれ、蛙が騒々しく鳴いていたかと思うと、ちょっと黄金色にはまだ早いが、穂に実が付き、もう一月もすぎれば、賑やかな子どもらの刈取りの声が聞こえて来るだろう。
2004年の9月にブログを始めて15年が経つ。あっという間の歳月であり、恐る恐るパソコンにむかい書いたのが、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という記事だった。

歳を重ねるほどに、己のつまらない欲や、財の僅かばかりなことに嘆いたり、そういう傲慢さから、人に感謝し人とともに生きるという実りのある人生を生きて来たのか・・・はなはな疑わしいものだ。
まあしかし、執着する気持ちをいくぶん開放して、取るに足らぬ人生であったとしても、今の自分に納得して、あと何十年か知らぬが、精いっぱい事にあたれば、それなりの終焉をむかえられるのではないかと・・・
ある意味「人間至る処青山あり」で、故郷の父や母の元から巣立ち、いまここに生きているのだと。


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2019.09.14

車窓

9月14日(土) 

やっと秋らしい気候になってやれやれと胸をなでおろしている。
夏の暑さと冬の寒さが身体に堪えるようになったのは歳のせいか。

9月になって兄弟で一泊の旅にでて、その翌週には夫婦で「日帰りバス旅」に出かけた。
こちらの方は「星空ナイトツアー旅」だったが、あにくの曇り空の暗い夜空の鑑賞会だった。
まあ、それはそれで初秋の楽しい一日であった。

連泊をするほどの旅は生まれてこの方あまりない、ましてや外国など行ったこともない。
が、連休に外国に行く旅行客の姿をテレビでみても、凄いなぁ~とは思うが、それ以上の思いはない。
生まれつき貧乏性で、目新しいものよりも、ほぼ日常の生活の範囲のなかのちょっとした変化に喜ぶ性質なので、知人が一か月北海道を旅したと聞いて、そりゃぁ凄いなとは思うが、やはりそこまでである。

そんな性格なので、日帰り旅などでバスの車窓から見る町々の風景は、今日びはちっとも珍しくもないけれど、ちょっと家屋の庭に趣向があるのを見つけたりすると、そういうのが好きなのである。
なので、日差しが強いとバスの窓いっぱいにカーテンを閉め切って何時間も過ごすのは、なんともまあ「勿体ない」と思ってしまう。

バスや列車の窓からぼんやりと眺める。自転車に乗ってぼんやりと流れる風景を眺める。
移動手段というよりも、そのぼんやりとした景色を眺めながら、風景を考え、思考を整え、子どもの頃の思い出や、楽しかったことや辛かったことなどを思い浮かべたりする。
考える時間なのだと思う。

日々の雑残としたあれこれという情報の喧騒から遮断された時のようなもので、そこでは論理的にもなり情緒的にもなる。
どうもねぇ~、視覚や聴覚や与えられる環境ばかりが増えると、ちょっとだけ、そうしたものから遊離した「自分」というものに身を置きたくなるのである。

ふと思ったが、これは小説という世界に入って、あれこれ想像して楽しむという遊びに似ているのかもしれないと・・・。


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【和歌山県串本市:橋杭岩】

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【岐阜県中津川市:付知峡の不動滝】

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2019.09.06

補陀洛渡海

9月6日(金)旅は道連れ・・・②

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春夏秋冬、なんとなく平凡な日々を過ごし、知らぬ間に歳を重ねる。
兄弟というのは幼い頃から同じだけ歳を積み重ねてるから、二才上の兄との距離はそのままなので、その年の差はどこまで行ってもそのままだが、果たしてお互いにあと何年生きられるのか・・・と、ふと考えてしまう歳になった。

旅の目的地の一つが「補陀洛山寺」だったが幾つかあった名所の中では際立った寺でもない。
小さな寺で本堂の横にこれまた小さな木船がある。
補陀洛渡海船(レプリカだと思う)というもので、補陀洛とは極楽浄土を意味し、そこへ行く渡海船がこれ。
ただし、これはこの寺の歴代の住職が入船したあと、しっかり釘打ちされ、そのまま沖へと曳航されたあとは、風のまま波のままなので、いわば即身成仏の船であった。

この「補陀洛渡海」を知ったのは浅田次郎編集の「見上げれば星は天に満ちてー心に残る物語」に収録されていた井上靖の「補陀落渡海記」という小説からだった。
仏教徒である僧侶、この寺の住職は何年か勤め上げた後に、補陀洛渡海船に乗って極楽浄土を目指す習わしだったが、そこは生身の人間のこと、様々な葛藤や悟りやはたまた諦めや・・・人間界からの死への旅立ちの話。

小説に登場するこうした場所や建造物などを、確認するように行ってみる。その逆に、そこを訪ねて知る「小説登場した舞台」。
どちらにしても、面白いもので、よく知られた社寺とは一味違う、小さな寺に伝わる補陀洛渡海の歴史に、なんとなく納得するのである。
この補陀洛山寺は、小説を読み終えてから、ぜひ一度は行ってみたいお寺だったので、今回の旅はここだけでも自分には意味があった。
小説と結びつく旅というのも楽しいものである。

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2019.09.05

吊り橋

9月5日(木)旅は道連れ・・・①

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9月も始まった今週、すぐ上の兄と紀伊半島のバスツアーに行った。
お互いに退職して「隠居」の身だから、比較的自由がきくし、これで三回目の旅となる。

「旅は道連れ・・・」というが、誰々と連れだって出かけるのか、というのは案外、旅の一大要素かも知れない。
気心の知れた仲ならば、少々のことは笑い話になるが、そうじゃないといつまでも「あの時は・・・」と納得感も減るのだろう。

夫婦、兄弟、親子というのは、おおむね「笑い飛ばせる」仲であることがほとんどと言えるが。
いやまてよ、血縁関係であっても不仲はあるし、夫婦であれば、なおさらそもそも他人ってわけだし。
旦那と行くよりも気の合う友人との旅のほうが楽しいっていう話もあるから。
旅の道づれも難しいものだ。

【谷瀬の吊り橋】

和歌山県の真ん中ほど、十津川(熊野川)に架かる吊り橋で、地上54メートル、長さ297メートル。
この吊り橋の歴史を聞くとすごい。

戦後の復興期、たびたび洪水で流される丸太橋に困り、谷瀬の集落の人々がお金を出し合い自前で作ったという。
私財を出し合って、この吊り橋をかけ、現在でも村の交通の橋として使われ、同時に十津川村の観光名所にもなっている。
これみよがしに作る立派な「観光橋」とは、中身が違う、歴史が違う、心根が違う「吊り橋」というわけだ。

人一人すれ違うと少し揺れ、おお怖いと言いながら、さながら空中散歩の気分だった。


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2019.08.30

気ままな読書はエトセトラ・・・

8月30日(金)彷徨読書ってことで
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図書館で五冊ほど取り寄せしているが、順番待ちで待ちくたびれて、目につくタイトル本を借りている。

これと決めずに借りる本をながめると、なんとなく嗜好というか思想みたいなものが出て来るものだ。

6冊のうち「宮本常一」は取り寄せ本、「夕映え 上・下」はやっと見つけた宇江佐真理の文庫本、その他は気ままに借りた三冊。

〇「夕映え 上・下」宇江佐真理
江戸幕府が終焉を迎え、薩長連合の維新軍が江戸を攻め、明治時代を確立する時代背景のなかで、おでん屋稼業と十手持ちの夫婦、娘は青物屋に嫁ぎ、息子は彰義隊に参加する。
市井の家族が幕末期のなかで生きる姿、日々の暮らしから、激動期とからみあう。維新の英雄から時代をとらえる小説とは、ちょっと異なる庶民目線がこの本の面白味ともいえる。

〇「宮本常一 伝書鳩のように」
民俗学者、宮本常一のファンである。コツコツと日本中を歩きまわり土地々々に生きる人々の暮らしを記録した、この作者の本は学問が人の暮らしと直結していることを教えてくれた。久しぶりに読むが、新聞書評で知り取り寄せた本。
気になった一節があったので。
「ちかごろ、自分と立場を異にするものをつめたく冷ややかに見、その欠点をあげつらうことを批評と心得、批判精神が旺盛だと心得ている人が多いのだが、対象の中へとけこみその本質的なものにふれることなくして本当の批評というものがあり得るのだろうかと思っている」
「気のきいた言葉とその場その場を調子にあわせて生きていくことが、はたして本当の人間の姿であろうか。人生というものはそんなに浅くまた小波のたった流れのようなものであろうか」と。
もう遠い昔の著書であるが、物事に真摯に関り生きるという意味では、深く示唆に富んでいる一冊だった。

〇「宮部みゆきの江戸怪談散歩」
怪談ものは好きである。途方もない非現実的な「恐怖心」を思い起こされるような小説は、居心地がよいのであるが、一瞬の読書の間だけでも、陰鬱な実社会から遊離できるのが楽しい。
のであるが、怪談話の虚実にかかわらず、その恐怖心が「人間の心の闇」に結び付けれれていると、さらに怖くなる。
「曼殊沙華」という作品は傑作だと、曼殊沙華の花の中に見える「顔」が・・・ああ怖い!

残りのあと二冊を読み始めているが、貸出期間の延長をしなきゃならないだろうなぁ。

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2019.08.25

ぶんぶんぶん、蜂が飛ぶ・・・

2019年8月25日 屋根のひさしに蜂の巣が

ホテイアオイの鉢に蜂がやってきて水を飲む姿がみかけられた。
「あれれ」と思っていたら、屋根のひさし蜂の巣ができていた。
カミさんがえい!やぁ!と物干しざおで叩いておとした。
蜂もそんなことぐらいでは負けてはいない。
今度は二階の出窓のしたに巣つくりして、おやまあ、こんどは二つもである。
睡蓮鉢に水があり、あれこれ花も咲いてるから、蜂にとっては好都合かもしれない。
近所の家には花を育てる家はほとんどないから、巣作りしやすい家なのだろうか。
田舎でみうけられるスズメバチやミツバチではなくてアシナガバチと思われるが、蜂は蜂であり針も持つ。
俳句の蜂の頁を読んでいたら、蜂は人間との関係も古く、古来「空飛ぶハチは人間の肉体に出入りする霊魂の働きと結びつけられていた・・・縁起の良いもの」云々という一文を見つけ。
「ふむふむ、生命力の強いエネルギーが我が家から放出されている・・・ははは」
などと馬鹿なことを思ったりするが、やたらコンクリートばかりが増えて、棲家を奪われた自然界の生きものたちも、生きるのに四苦八苦であるとしたら、人間界も同じようなもの。
同情もしつつ、孫たちがやってきて刺されでもしたら、これも困ったものだから「蜂の巣駆除スプレー」を買って、さていつ頃、退散願おうかと苦慮している。
ぶんぶんぶんと蜂が飛ぶ・・・あれはお池の花の蜜を求めた「ミツバチ」のことか、20数年前に子どもと一緒に歌った日々も懐かしい。


 

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2019.08.15

終戦の日

8月15日 感受性

台風10号の接近が伝えられ、風にとばされそうな植木鉢を避難させ、自転車やエアコンカバーをビニール紐でくくる。
窓を閉め、熱中症にならぬように28度にエアコンを設定する。
洗濯した衣類の部屋干しは一挙に湿度があがるので熱中症もどきになる。
凄まじい強風ではないが、歩くには気を遣う強風なので、今日は外出はできそうにない。

8月15日、日本の軍国主義が敗戦とともに崩壊した日。
戦争への思いはいろいろあるが、別の意味で、自分にとって、西暦と元号を突合させる起点となっているのが1945年8月15日。
1945年と昭和20年という具合に置き換えて数える。昭和と平成と令和を生きてきた者がなせるワザかも知れない。

暇の退屈しのぎにスマートホンで記事を読んだりしていた。
短い文章でときに感情的に断定し他の意見を否定するような記事や文章も少なくないのがネットの記事。
選択する幅もせまく、新聞のように好むものも好まないものも関心のあるなしに関わらず、少しだけ「考えること」の手助けとなっている媒体のほうが好きであるが、それも今の時代の流れには沿っていないかも知れないが。

「あいちトリエンナーレ」の賛否が云々されているこのところである。
いろんな人が発信しているが、ちょっとおもしろい記事を読んだ。
ネットの記事ではなかなかお目にかかれない長い文章であり、いろいろ考える手助けになった。
督あかりという方の「あいちトリエンナーレの分断に思う・・・」というもので、この筆者の方は良くはしらない。
さまざまな考え方があってよいものだと思うし、意思表示されることは素直に尊重されるべきだ。
ところで、この記事中で紹介されていた茨木のりこの詩にちょっと心が動いた。

孫引きで申しわけないがこんな詩である。

ばさばさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりをおこたっておいて
(中略)
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

よく知られた詩のようで、いま一度あらためて、中略なく全部を読み返してみた。
時代と関わろうとする人の感受性の問題に、はっ!とさせられる詩だった。

 

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2019.08.13

戦争映画

8月13日(火) 「硫黄島からの手紙」を見て、いろいろ思う。 

もう数回は見た映画「硫黄島からの手紙」がテレビ放映されていた。
戦争が個人の意思を押し殺し、巨大な軍部という組織のなかで抹殺される。
人間の殺戮は残酷で耐えがたいものだ。
戦争というおぞましい濁流のなかで無力感しか残らない人間の歴史だと、思いたくないが思えてならない。
過っての「戦争」をどう見るのか、戦後70余年過ぎた今、あの戦争を肯定する人々の声が聞こえ始め、「愛国心」「日本人の心」・・・と、過ってはナショナリズムの臭いがプンプンする言葉も、普通に使われ始めている。
白いものをいとも簡単に黒と言いくるめる。戦争の遂行には事実から目をそらさせるのが常套手段か。
「大本営発表」のような世論操作が必要不可欠だろう。

もやもやと鬱病的な気分が、心を塞ぎがちにさせる。
それは、個人の心のありようだけではなくて、理性と事実から乖離している社会の在り様も一因ではないかと思っている。

数年前テレビのリポーターに「もう戦争でもしてくれないかと思う」という意味を話していた若者がいた。
貧困と閉塞感が広がり、この社会を「戦争」で壊したく思う気持ちの「闇」は、一人の貧しい若者の特殊な心境とはけっして思えない。
勝ち組と負け組から確実に格差社会の拡大へと進み、社会の圧倒的な多数が貧しさに喘ぐ。
かつかつの暮らしの中に市民的な平和を見出そうと努めてはいても、巨大な富める者たちの権力組織のなかで無力感が広がる。
戦争待望とまではいかなくとも、「小さな自分という社会」のなかで、じっとしているしかないという気分。

もう「戦争にでもなって、この不公平と不正と貧困に溢れた社会を破壊したい」・・・と思う「気持ち」をいったい誰が理解してくれるのか。
社会が戦争状況へと進む過程では、そうした「無力感」の蔓延を基盤にするのは間違いないのではと思う。

とても残酷で耐えがたい戦争映画を見て、はたして平和への強い思いがふつふつと湧き上がってくるのか、そういう強い平和への思いへとチェンジする気力を、どうして維持していったらよいのか。
どうも人間の歴史は、まだまだ不条理な時代を必要とし、それを試練として神は与えているとでも言うのか・・・

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2019.08.03

ねぎ

8月3日(土)家庭菜園もどき

こうも暑いと朝晩はともかく気温もぐんぐん上昇する昼時は喉越しのよい麺類がついつい増える。
昨日もソバを喰ったが、まっ、今日もソバにするか!と。
けっこう前に九条ネギを買ってきて、根っ子の部分を植木鉢にさしておいたら、これがけっこう成長する。
20センチほどに延びたので収穫して、ソバの薬味にしてらちょうど良かった。
ほんの遊び程度の「プチ家庭菜園もどき」というわけだが、土地を耕し、畑をつくり、食する野菜を育てる。
そういう醍醐味の数百分の一でしかないが、自分で植えた野菜を自分で食べるっていうのが「普通」であって、土地がなくても「プランター菜園」に勤しむ方の、楽しみの気持ちがほんのわずかではあるが理解できた気もする。
食べること、着ること、住まうこと・・・そうした暮らしの在り様に、できるかぎり自然であり、謙虚であり、そして清貧。
なんだか衣食住のあれこれがわずらわしく思える時、金さえ出せば何事も済んでしまうと思える時・・・きっと精神が病んでいる兆候なのだと思う。
メダカとアサガオの次は「プランター菜園」かなぁ~と思う貧乏庶民の叶えられそうな夢か(笑)

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2019.08.02

来た!来た!暑い夏が真っ盛り

8月2日 酷暑

耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び・・・今年もこの暑い夏を乗り切らねばならない。
少々の打ち水や、風鈴の音色や、扇風機の風といった、昭和の風情では、この酷暑を乗り切るにはいささか心もとない。
もう我慢せずにエアコンをかけて、外の日差しと熱風を遮断する。
この暑さのせいか睡蓮鉢のメダカも数匹死んでしまっていた。
エアコンをかけ、ますますヒートアイランド現象に拍車をかけるのは承知だが、熱中症になるよりはましだろう。
なんだか「水分をこまめに補給し、日中は不要な外出をさけて・・・」といった、対処療法のような「夏の過ごし方」を繰り返し注意喚起されても、そんな自己責任ぐらいで、なんとかなるレベルではないような気がする。
地球温暖化が身近な「季節感」として身に沁みる。
春夏秋冬、日本の四季は素晴らしい!!とは思うけれど、長い梅雨の後に酷暑がやってきて、ほんとうは「季節のせめぎあい」という、その情緒すらどここに行ってしまった。
エアコンがなければ生きて行けないという現実の日本の夏である。
クーラーすらなかった子供の頃、部活では水は飲むな!と訓示された精神論、暑いけれど我慢もしていたあの頃、もう遠い過去のものになった。
環境の激変が人的な行為によるならば、自然な都市環境を目ざしたり、CO2を削減したり、自然エネルギーを活用したり、人が普通に暮らせる住環境を人間自身が見つめ直す・・・といった抜本的な手立てを講じなければ、人間は暑さや寒さをしのぐ為に「地下生活」を強いられるのではないかと、SF物語のようなものが、なんだかじわじわと迫ってきているように思えてならない。

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2019.07.18

目と芽の話

7月18日(木)ちょっとだけ幸せなこと

自動車免許証の更新時期だったので最寄りの警察署に出かけた。
前回の更新時に「もう次は確実にダメだと思いますよ」と告げられてから5年が過ぎたが、「ダメだ」というのは視力。
眼鏡なしの裸眼では免許は更新できませんよというわけで、覚悟はしていたが・・・
しっかり睡眠をとり、霞目疲れ目に効く目薬を点眼し、検査の機械にのぞんだ結果は裸眼でパス。
「やったー!」
運転中の眼鏡は夜間や遠出にはかけるが、普段はかけないことも多いので、眼鏡条件がつくとちょっと面倒。
夜の読書や携帯など酷使する目だけれど、よくぞ頑張っているものだと褒めてやりたい。

残業も増えた妻の仕事。
久しぶりにカレーでも作ろうかという話になり、不足する食材ややれこれのメモを渡される。
最近は忘れてはいけない買い物品はメモをとることも少なくない。
歳とともに「ど忘れ」も増え、せっかく行ったスーパーをもう一度行くは目にはなりたくない。
タマネギの在庫がないというので、袋入り4個を買い、あれこれ買った後でレジに。
夕方のレジは少し混み始めていたが、タマネギをレジ打ちしようとした若い店員さんが「これちょっと芽が出はじめてるから取り換えしましょうか」と近くの店員さんを呼び、別のものと交換してくれた。
気がつかなかったから、ありがたい、ありがたい。
思うにきっと「買い物を頼まれたダンナが家に帰って、なにこれ!芽がではじめてるじゃない!」って、奥さんに叱られるのを危惧して・・・
歳をとるとちょっとした親切がありがたく感じられるものだ。

といった「目と芽」にまつわる話の本日。

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2019.07.17

梅雨と自転車

7月17日(水)自転車がパンクする
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ぐずついた空、梅雨時はいつ雨が降るかと気がかりなので、自転車の遠出は控えて近所に出かけるほどだ。
数台の自転車のうちロードバイクは出番がいささか減り、小径の自転車で買い物や図書館へ通う程度。
乗る機会の減った自転車の前輪が何故かパンクしている。
空気が抜けているのだが、車輪を外し調べてみると、空気入れバルブの付近に小さな穴があいて空気漏れしていた。
毎度のパンク。年に一度以上はこんな状態になるので、メンテナンスは慣れている。
もう15年は乗っていると思うし、玄関にひっかけているので錆もない。
パンク修理のついでにハンドルバーのテープも綿の白いものにまき直す。
なにやらハンドル回りだけやたら白さが浮き出て、気持ちが良いのか悪いのか・・・
死ぬまで乗り続けられそうに思う自転車である。
近所の公園までぐるりと走ると、やはり軽快な自転車だと改めて思う。
雨にうたれてチェーンも錆だらけの自転車を見るにつけ、しっかり手入れすればいいのにと思うのは「もったいない世代」だからなのか?

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2019.07.12

梅雨の晴れ間

7月11日(木)久しぶりにパソコンの前に座って・・・

長い梅雨時も先が見えてきたが、この先に暑い暑い夏がやって来ると思うと、ぐずついた曇り空も捨てがたい。
梅雨の晴れ間は案外過ごしやすいし、予定した日が晴れていれば、ちょっと得した気分。
6月の「梅雨の晴れ間」に京都の洛北のお寺巡りのサイクリングに行ったし、毎年楽しみにしている尾張西枇杷島の祭りと花火も、雨が避けてくれた。
なんだかんだと忙しいような暇なような日が続き、あれよあれよという間に夏がもうそこまでやってきた。
しばらくパソコンから離れていたら、パソコンの調子が悪い。
Windows7の時代の代物をバージョンアップして使っているから、ずいぶんと物持ちがよいが、その分「起動」も遅いし、文字変換も遅い。
もっとも、文章を作るという作業から遠ざかって、頭を使うという論理的作業も遅々としている。
相変わらず「宇江佐真理」の小説を、これも遅々としているが文庫から単行本に移って読んでいる。その合間に浅田次郎なんかも読みながら。
あまり人に本を紹介することもないが、宇江佐真理の「髪結い伊三次捕物余話」の話をした方から、「読みましたよ、あなたと話をした後のような余韻があります」とメールをいただいたのが、なんとなくどんよりとした日々のなかの「晴れ間」のような心持となり、うれしいことだった。
まあ、小説から何を読み取るのかは人それぞれではあるが、この本はおもしろい!という読書レビューは頭に残っているもので、宇江佐真理という作家も、実は自分で見出したのではなく、Tさんという方の読書レビューがきっかけだったが...
小さな花壇のユリの花が咲きだした。紫陽花はもうとっくに咲いている。
アサガオのグリーンカーテンつくりは半分ほど成功し、半分は萎れてしまっている。
メダカは食欲旺盛で泳ぎ回り餌の時間には指先がふれるほどに近寄ってくる。
そういえば、小さなトノサマガエルの訪問があった、この梅雨の季節はいつもやって来る。
一日を充実した日になるようにと、洗濯や掃除や片付けや、花の世話や買い出しや・・・目新しいものは何もないけれど、生活のあれこれに勤しんで過ごす日々というのは、それはそれで幸せな日々といえる。

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2019.06.04

曇り富士

6月4日(火)日本平から富士山を眺めた話

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一週間ほど前の話を書いている。
もっとも三人目の孫が生まれ、娘と孫たちが実家帰りしていたので、ブログ更新も・・・何日ぶりだろうか。
で、5月の末に友人ら12人ほどで静岡県の「日本平」というお山と久能山東照宮、こちらは徳川家康が埋葬されているところだが、歴史のうんちくはどこかの本にでも書いてあるのでそちらを調べるとして・・・
「新緑のハイキング」の名目だったけど、新幹線、バス、ロープウエイと乗り継ぎ、ハイキングとうよりも「友だち旅」。
で日本平の頂上にある「夢テラス」という展望台から眼下に駿河湾と清水港があり、その景色の前方には雄大な富士山...
あいにくの曇り日でくっきりはっきりの富士ではなくぼんやりと。
デジカメでは富士の稜線すら撮れず以外なことにiPhoneのカメラでやっとどうにか写っていた。
古いデジカメだからかな、最近のスマホのカメラの優秀なこと。
しかし、富士山というのはとてつもなく雄大だと改めて思い、あの裾野の広がりはそんじょそこらのお山ではお目にかかれない。
眺めているだけでいいもので、たしかに神々しさとか存在感とか思う。
「お山」や「巨木」が信仰の対象たりえるのは、古来から変わらないその存在感にありそうだ。
不変、変わらないということの持つ意味だろうか。
人が創ることのできない自然の産物であり、何万年前からか知らないが日々流転しているような人間の暮らしとは比較できない存在。
「お山」信仰の神々しさってそういうことかなぁ~、神々が宿る富士山、ちょっとだけ納得してしまう。
そんな事を思いながらカシャとカメラで写したり、富士の絵を描いたりなんてのは、人間の勝手な行為でしかなくて、変わらないものは変わることなく、ただただそこにあるということかな。
日本一のお山とか、富士の根雪の白さが素敵だとか、稜線が素晴らしいとか・・・いろいろ説明しても、なんだかつまらない気がしてくるから不思議だなぁ。

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2019.05.18

庭とか花壇とか

5月18日(土)花の名札をつける

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【アサガオがぼちぼち咲き始めたので期待も大きいグリーンカーテン】

自宅の南側に花壇がある。
庭はというと駐車スペースに占領されて無い。
季節の花々は花壇植えされ、それでも足らないので植木鉢やプランターを置いて「土」を確保するしかない。
「もし広い庭があったら花も木も野菜も出来るのに・・・」と妻はいつも残念がっている。

娘がマンション暮らしから戸建て暮らしになった。
郊外の比較的土地もゆとりがあるので南東側と西側が庭になっている。
狭小の住宅住まいからすれば、燐家とは連ならない空間の広さは羨ましくなるほどだが、妻などは「庭があるなら花々をたくさん植えられるのに」と思っている。

住む地域や土地に制約されるのが暮らしというもので「住めば都」の例えのように、今ある環境に順応し季節の花を楽しんでいるのが現状だ。
「花がきれいですね」とときどき所用で訪れる方から褒められると「いやぁ~カミさんの花壇で自分は水やりの世話人ですから」と答えるが、近所は花壇のある家も多くないので、褒められれば「カミさんの花壇」ではあっても嬉しいものだ。
だから、せっかくの庭をコンクリートで固めてしまうのも、放置するのももったいないことだと・・・
しかし、いったい今の我が家にどんな花が植えられてるのか?正確に知らずに毎日水を撒いているので確認してみた。
端から、おもと、アロエ、こでまり、クレマチス、カサブランカ、牡丹、あじさい、ウノハナ、門柱前の花壇にはカーネーション、星桔梗、ラベンダー、日日草、ミヤコワスレ、南天などなど。
他にはジャスミン、スモークツリー、スイセン、シクラメン、ライラック。
今回確認のため妻に聞いて知った花というとイソトマ、ゼラニウム、サフィニア、スカビオサ、デルフィニウム、アッツザクラなどで、アサガオはグリーンカーテン仕様・・・

もう狭い花壇と植木鉢に押し込まれて、さながら都会の狭隘な住居で暮らす我が家に似ているので、ちょっと笑えてくる。
大輪の牡丹やクレマチスやあじさいの花(ガク)など大ぶりの花はそれなりに見応えがあるし、ジャスミン、ライラック、ラベンダーなどのほのかな甘い香りは季節を感じさせてくれる。
しかし小さな花壇と植木鉢では花も育ちにくいのかほどほどのサイズ、枝切や蔓切りしされて身の丈以下に収まっている。
数年前までは「花の名」は何も知らなかった。
せっせと花いじりする妻に「どこが楽しいのかな」と疑問の視線だったが、とにかく水枯れしないようにと日々世話を始めて知る花の名も少しずつ増えた。
そこで20種類ほどの花のつ一つに名前を書くことにした。せっかくだから名前も覚えて愛でるのも楽しいことだと。

植物の命を身近に知ると、人間のいろんな人工的な造作物とは違う自然の営み、枯れたり萎れたりふたたび意気揚々と輝いたりという、なんか人間の傲慢な暮らしぶりを顧みることができる。
使い古された言葉「コンクリートジャングル」の中にあっても自然と向き合う事はできるものだと教えられた気もする。
さて、娘の庭の話に戻すと、以前は畑地であったので雨の日にはミミズも蛙もやってくる。
肥えた地所ならでこその雑草も芝の中にのびる。
そこの地域は畑もまだ残る土地柄なので、マンションとは違い、蚊も蠅も蜂だってやってくる。
「虫は嫌いだ!」と嘆いているので「虫が嫌いな奴は中心街のマンションにでも住むべきで田舎暮らしは不似合いだ!」と、ついつい嫌味な言葉がでてしまうので反感を買う。
どうも反感を買う人生を反省せねば。
「せっかくの庭だからねぇ、虫も生きてるからねぇ、嫌わずに慣れるように努めないとねぇ」とでも優しく言うべきか。
とはいえ、人は自分の都合に合わない環境を嘆くが、その環境に合せて自分の住み方や暮らし方を変えて行くというのが自然との向き合い方だと思っている。
せっかくの「お庭」だから手入れをし、そこに命ある花とか食生活の一部になる野菜などを拵える。
そんな暮らし方ができたらいいなぁ~と常々語っているのが妻で、そこは価値観を共有出来るけど、不便な田舎には住みたくないとも。
やや矛盾してるが……

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