堀川 :橋のある風景

  • 19 堀端橋より名古屋城を
     名古屋の歴史を物語る「堀川」の現在を撮ってみた。  清流の戻る日が待ちどおしい。

堀川:桜のある風景

  • 74 庄内用水元杁樋門
     4月上旬の桜が満開となった休日  「堀川」端の桜のある風景を撮ってみました

2020.08.06

コロナの夏

8月6日 感染拡大が止まらない

長い梅雨が明けて8月になって連日日中は35度を超える気温。
昨日はちょっと頭痛もして、熱中症か?これはやばい!
もうエアコンが必須の夏になってしまった。
窓を開けると熱風が入り込むので、カーテンを閉め外気を遮断するしかない。
家庭内でも換気して感染リスクを抑えるというが、それどころではない。

新型コロナの感染者が連日千人を超え、東京だけでなくて地方にも拡大している。
「知ってます、ここでも数十人の感染者があるって?」と自分が住む区内状況を理髪店の店の人が教えてくれた。
もう、いつでもどこでもコロナの感染が浸透しているのだろう。

これほど毎日感染者が出ているのに、春先から「感染防止に努めて下さい」と同じことを繰り返すだけしか方策はないのか?
いや手洗いもマスクも消毒も三密を避けるのも重要な感染防止とは理解しているのですが・・・
人との接触を避けろと言い、お盆の帰省は大丈夫と言い、それでも国民は家族にうつしてはいけないからと自粛する。

「自己責任」にまかされたコロナ感染対策だけでは、これだけ蔓延傾向の感染拡大は止まらないのではと思う。
「医療機関はひっ迫していない、まだ緊急事態宣言をだす状態にない」というけれど・・・
もうPCR検査の抑制が巷では起こっている。

感染者が増えれば重症者も増え、死亡者も増えるのは目に見えている。
それでも何ら有効な手をうつ気配が感じられないのは、この先のインフルエンザ流行期を思うと絶望的になる。

感染拡大地域や社会的な機関、施設など、徹底してPCR検査をできないのか。
感染症の根本に立ち返れば、徹底した検査と陽性者の入院治療保護がまず不可欠なのに。
あれこれ感染防止の協力を!といいつつ、なぜかPCR検査の拡大と徹底という対策だけ、不思議と後ろ向きと思われる。
キャパがない、人がいない、予算がない・・・ないならばGOTOなんとかなどやってないで回せばいい。
死人が少なければそれは成功だ!免疫ができ抗体獲得できるからそれでいい、感染者の数など問題ない。
ウイズコロナの方針はそれだ!・・・などというのがあるだろうか?
穿った見方もしたくなる。

知人が「新型コロナとの向き合い方は、政治の問題なんですね」と言っていた。
すこぶる現実的で先鋭な考え方だと思う。
まともなコロナ感染対策がとられないなら、もう「感染症」という問題よりも「政治」の問題へと向かって行く。

PCR検査について、いろんな理屈が述べられている。
キャパがない、重症者や死者が諸外国より少ない、擬陽性がでる、強力な権利抑制ができない・・・
専門家も政治家もニューヨーク市を始め、感染抑制に成功しつつある外国の例になぜ学ばないのか。
「これが日本モデル」だと言うなら、爆発的な感染拡大の抑制の道筋を示してもらいたい。

もう、「いつでも、どこでも、誰でも、無料でPCR検査が受けられる」という方法しかないのだろう。
徹底的な検査と治療に転換するしかない・・・と思うのだけど。

家庭内の感染にびくびくしながら、孫にうつしてはいかんし、じっと家の中でおとなしくして。
ただただ息をひそめて、あの太平洋戦争末期のアメリカの空爆にじっと耐えるのに等しい。

「諦めモード」が支配的になる。
ああ、いやだ、いやだ。

 

 

2020.07.28

長梅雨もそろそろ終わりかなぁ

7月28日(火) 雨にも飽きる

こうも雨の日ばかり続くとさすがに飽きてきます。Photo_20200728221701
曇り空なので少し歩こうかと戸外に出たらポツポツと落ちてきます。
ほぼひと月ほど自転車を走らせることもない日々です。
ただ、この梅雨が植物の成長をもたらしているのはありがたい。
苦節3年目のグリーンカーテンのアサガオが「カーテン」らしくなってきました。
出来栄え、ほぼ70パーセントといったところです。
蔓のからませかたと芽の摘み方が出来栄えを決めるのだとわかりました。
自力で失敗しながら学ぶという楽しさです。
このところ、小さな二ホンアマガエルがアサガオの葉の上にいます。
二センチに満たない小さなカエルです。
じっくり観察すると呼吸をしているのも、周囲を警戒しているのもわかります。
なかなか可愛いもので、コロナ禍で右往左往している人間を傍目にしっかり生きている。
そんな生物の生態です。


 

2020.07.21

梅雨明けは・・・蝉が鳴きだした

7月21日(火)「はなし家たちの戦争」柏木新:著

例年よりも長い梅雨がまだ続いています。
それでも梅雨の間の日差しがでると、とても暑いです。
暑い夏が来るのだと思うと、思うだけでどっと疲れがでます。
歳のせいでしょうか。

朝、庭のライラックの樹からジジジ~とひと鳴きして蝉が飛びました。
今年も酷暑になるのでしょう。
温暖化で暑さも堪える、それに歳のほうが輪をかけるのていっそう堪えます。

「あと何年がんばれるか?」とネガティブな話をして、「10年かな?」と言いました。
「15年は大丈夫ですよ」と「ただし健康で過ごせる年齢は別ですが・・」
似通った世代の人たちとの会話も、まあこんなものです。

◆「はなし家たちの戦争」(本の泉社)という本を読みました。

図書館で予約して少し待ちました。Img_0003_20200721222501
戦前の日本が文化や芸術をどのようにして翼賛体制へと引き込んでいったのかがわかります。
落語は庶民の笑いの芸術ですが、その笑いまでも戦争へのプロパガンダと変質してゆく怖さです。
まず「禁演落語」という戦意高揚にはふさわしくない噺を葬ります。
落語家や協会が「自主的に」演目を決め、「噺塚」まで建てて禁演したといいます。

その後は、軍部の強い抑圧のもと「国策落語」が時流の落語演目になります。
戦意高揚を主眼に創作落語が次々と登場するのですね。
笑える庶民の娯楽も笑えない話になるのが、今ならば言えるブラックユーモア。
兵隊さんは頑張っている、銃後(戦地以外は銃後)の国民はおおいに戦争に協力しましょう。
そういう国民意識を「国策落語」のなかで話すのですね。
ごくごく普通の暮らしのなかに「銃後の暮らし方」が持ち込まれるのです。
「戦争への翼賛体制」の時代の落語がどのようなものであったかよくわかる一冊です。

昭和も遠くになりにけり ではないですが、幾つになっても学ぶことは多々あります。

2020.07.15

プロ野球とPCR検査

7月15日(水)徹底した検査体制の拡充に予算を

プロ野球も一部制限であるが有観客試合がはじまりました。
新型コロナの感染拡大が懸念されているおりです。

「GoToよくお考えを」と首都の首長が発していたが、感染の脅威は都市から広がり始めているように思われます。
プロ野球もJリーグも選手と関係者のPCR全員検査の上で開催の運びとなりました。

「経済か感染防止か」という二者択一論がコロナ禍の対応の焦点になっていますが・・・
もし市中感染か拡大傾向だとすると、徹底した抗原検査をして、無症状の感染者を隔離治療するしか方法はないと思うのです。

検査数が増えているから感染者が増えるというけれど、陽性率は下がってはいません。
つまり「徹底した検査」というよりも、依然として「クラスター」とその接触者の範囲が中心なのでしょう。

なぜ「検査数を増やしている」というのに、無症状の陽性者がいるという事実に目をむけないのでしょうか。
方法はよく分かりませんが、無症状感染者と感染していない人との洗い出しで検査するというところまでいかないのか、ほんとうによく分かりません。

「PCR検査を増やすから感染者が増える」とトランプ大統領が言ってましたが、本末転倒ですね。
徹底した検査を実施して感染者を隔離し入院や療養しないから、感染が感染を生んでいるのですよね。
子どもでも分かりそうなロジックですが、これと五十歩百歩の人が政治と経済を担っているのでしょう。

今年こそは万年Bクラスから脱却して欲しいドラゴンズですが、思うようになりません。
最下位にまでなりました。
テレビで観戦していても負けそうで、負けそうで、やっぱり負けてしまう。
贔屓の球団と選手がいると喜び3分、悔しさ7分の割合です、打率に比例します。
それでも応援をやめられないという宿命のようなストレスに付き合う訳です。
でも選手や球団関係者からコロナ感染がでていないのは救いです。

やはり、いろんな手を打って積極的に陽性者を隔離する、そして医療と療養に向けることが出来ないのでしょうか。
福祉の現場では手洗いや検温や換気や消毒や密を避け、あらゆる手をつくして感染防止に努めています。
医療の関係者や福祉現場の職員など、多くの人と接触する職場では、特に症状の有無にかかわらずPCR検査ができないかと思っています。

「コロナとともに・・・」というならば、まずJリーグやプロ野球のような徹底した検査を拡大する。
感染拡大の激しい首都からなのか、大都市部からなのか、よく分かりませんが、そういう抜本的な検査と隔離と治療の、戦略的といいますか、方向性が示されないことには、GoToキャンペーンも感染を広げることになりはしまいかと危惧されます。
まあ、そんなふうに思う訳です。

今日はメダカの鉢の底に大きなカエルが潜んでいました。
メダカが浮いてこないのでおかしいなと思っていたら、カエルの脅威に震えていたわけです。
捕まえて田んぼに逃がしてやりました。


2020.07.14

梅雨時なので自転車も自宅待機中

7月14日(火)今日の日誌

NHKのBS番組「こころ旅」が再開されました。
コロナ禍でマスクをし遠めでは顔もわからない火野正平さんです。
走りながらマスクを外すときは自転車の距離も空けるんだ~。
番組の制作も気を使っているのがよくわかります。
この番組を見ていつも思うのは70歳近くになっても、ひい~ふう~言いながら走っている姿、そこに元気づけられるのです。
「お仕事です」とは言うが、なかなかの健脚ペダルですね。
火野正平さんが自転車を走り続けるかぎり、自分も走り続けられるだろうと思うのです。

梅雨入りして雨の日が多いので、自転車も自宅待機中です。
玄関にポール掛けしている自転車の前輪の空気が抜けていました。
さっそく、チューブを出し桶の水につければ、空気がぶくぶく出ます。
数年は異常なくきたので、ここにきて原因は不明です。
経年劣化だろうと、形あるものは劣化するということか。
先日チェーンの油落としもしたし、タイヤのチューブも交換となりました。
梅雨明けが待ち遠しいが、一挙に暑い夏がやってくるのだろうなぁ。

2020.07.08

子ども

7月8日 つれづれに思うこと

親が子どもへのネグレクトの末に死亡させてしまうというニュースを知って、なんとも痛ましい。Img_1470-1
子どもへの暴力や虐待ほど心が痛む話はない。
小説にも悲惨な子どもの境遇の話がでるのも少なくはないが、切なくなる。

ときどき孫の世話で娘の家に出かける。
抱き上げると日々体重も増えて、動作や言葉や泣き方ですら成長している。
5才、3才、1才と同じ家庭に育っていても、それぞれ性格や嗜好も違う。
孫だから思うのか、自分の子らにはそこまでの記憶が薄い。

こうして孫の姿を見ていると、悲惨なニュースの子どもが重なってくる。
憤りすらおぼえ、やりきれない気持ちになる。
お腹もすいてただろう、喉もかわいてただろう、親を求めて泣いてただろう。
生活の貧しさ、心の貧しさ・・この社会は悲しみに溢れているように思えてくる。

そんなことを思うこの頃ではあるが、孫が成長する分、自分が老いて行く。
それもまた確かなこと。

2020.06.28

小説のなかの人生観

6月28日 読書日誌

少し前に読み終えた藤沢周平の小説藤沢周平のです。Img_0008_20200628213101  
「三屋清左衛門残日録」「麦屋町昼下がり」「闇の梯子」「海鳴り(上下)」
武家もの、市井もの、お店もの、に分類されるのですが、「海鳴り」二冊が面白かったです。

どれも人の人生を垣間見るようなものです。
すっぱりと前を向いた人生などなかなかありません。
道理にあわぬ人生や腑に落ちない人生。
そういった人の生き様を見させてくれるのも小説のおもしろさでしょうか。
たとえば・・・

 骨身をけずり、果てにむかえた四十の坂。残された日々は、ただ老い朽ちてゆくばかりなのか。
 ・・・・家は闇のように冷えている。心通じぬ妻と、放蕩息子の跡取りと。
 紙商・小野屋新兵衛は、やがて、薄幸の人妻丸子屋のおかみおこうに、果たせぬ想いをよせてゆく。(裏表紙より)

という物語です。
で、こんな思いの文章も出てきます。

 男はつねに、どこかに生涯の真の同伴者がいるのではないかと夢見る。
 そしてそれが結局は夢でしかなかったことを悟るころには、男はもはやどうあがきようもないほど老いてしまって、やがて死にむかって歩むのだ。
 ・・・・だが、おこうは・・・・。
 ひょっとしたら夢にみる同伴者かも知れないと新兵衛は思いはじめていた。

現実の実生活にあって目の前のことや、好きなことから、すこし意識を離して。
そこから、たぶんあり得ない人生を想像できるのも小説のよいところです。
新兵衛は妻と息子らの家を捨てて、人妻おこうと新たな逃避行の旅にでます。

単なる不倫や通俗小説とは違う、仄かな生きる希望というものが見えてくる小説でした。
読後感よかった。







2020.06.18

オンライン会議

6月18日 梅雨の季節はあじさいが似合う

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「自粛のあとはみなさん自己防衛を・・」とどこかの首長が言ってたが、自粛のあとはもう自己責任で・・と聞こえてしまいました。

雨の日が続いています。
梅雨時は紫陽花がやはり一番似合います。
今年は直植えから大きめの鉢に植え替えたので少ししか花(ガク)がつかないのが残念です。

ここしばらく予定の会議などが中止や延期になっていました。
それも少しづつ再開されつつあります。
あらためて人と直接会い会話することが新鮮に思えました。

会社や学校ではリモートワーク、オンライン会議が珍しくはなくなってきました。
それも一つの時代かなとは思います。
大学の講義などもオンラインで行っているようです。
先生によれば、授業ではおとなしい学生が、リモート画面では俄然はりきるといった一面もあるそうです。
合うあわないが人によって違うようです。
もっとも対面式ではないと、教室の全体の雰囲気がつかみにくいようですね。

どちらにしてもそういうご時世なのでしょう。
コロナ禍とはいえ、こういうオンラインでの授業や会議は今後、一定定着するのでしょう。
今関わっている福祉施設でも「スカイプ」とか「ZOOM」など、部分的には試行しているようです。
私にも「遠隔会議(リモート)ならば、自宅でできるのでしょうか?」と問われているのですが・・・
この歳になってパソコンに向かって会議をするのも、やはり慣れないことです。

人と面と向かい雰囲気を確かめながら行う会議のほうが、言葉に隠されたものを掴みやすいと思ってしまいます。
なんだかコロナ禍を契機に人と人との関係も大きく変わりそうです。

しかしリモートではできない職種もたくさんあります。
福祉などはまだまだ「現場」労働です。
会議などを除けば、直接人とふれあいながらする職種です。
直接人と関わって知る人生があり、そこから得たものも多々ありました。

朝から夜まで「人の暮らし」に向き合う仕事は、ある意味「泥臭い」わけで、溜息もたくさんつきました。
膨大な仕事量に追いまくられエンドレスの仕事に、きれいなオフィスでパソコンに向かった仕事環境が羨ましく思ったこともありました。
それもこれも、かっての事ですが。

コミュニケーションですね。
人とのコミュニケーションとオンラインやリーモートワークがどのように融合していくのでしょうか。
まあ、時代の流れのなかで、試行錯誤しながら進められるのでしょう。




2020.06.10

梅雨入りだから本でも読んで

6月10日 暇のつぶしかた

東海地方の梅雨入りにあわせたように昼前から雨が降り出しました。
これからひと月ほどはぐずついた日が続くのでしょう。

「年金暮らし」の身となり暇が増えました。
毎日ストレスと格闘していたような現役時代からはずいぶんと「のんびり」した日々です。
暇というのは「退屈」でもあるし「時間を持て余す」とも言えます。
実際に退職して「さて今日はどうしよう」と思う人いるでしょう。

だから「何かをしよう」と考える。
そのポジティブ志向もわからなくはないけれど、晴耕雨読の日々でもよいのでしょう。
小説を読みふけるというのも、よい「暇つぶし」なわけです。
その程度のものとして本を読むのが日々のライフワークになれば、この梅雨時は本物の「晴耕雨読」なわけです。

藤沢周平の時代小説を読んでいます。Img_0003_20200610232001
この作家の発表した小説は1970年代がもっとも脂ののった頃だと言われています。
日本が高度成長を続けていた時代です。

「冤罪」「竹光始末」「暗殺の年輪」「時雨のあと」そして「橋ものがたり」
この五冊を読み終え図書館に返却しました。
いまは次の五冊を読み始めています。
ブログに書くのは読書記録のようなものだとわかりました。

藤沢周平の本はたくさん図書館の本棚にあります。
当分は「日頃読む本」としては困りません。

藤沢周平の時代小説は「武家もの」が多いなかで「橋ものがたり」はめずらしく「市井もの」でした。
江戸にかかる橋にまつわる人の出会いと別れが10編の物語となっています。
人生という長い道のり中での男と女の出会いと別れ。
いろいろな愛情や想いが錯綜するのは、人生もようそのものです。

とても暗いといえば暗いし清々しいといえば清々しいのですね。
そういう論理だて出来ない、あるいはしにくい情緒を知るのですが・・・
「心のひだ」なんですね。

そういうものを一つ一つの橋になぞらえて物語に仕立てています。
なんだかタイプ化された感情とはちがう「心のひだ」に何をかを思うというところです。
時代小説というか市井ものの原型のような短編物語です。
1970年代だからこそ描けた、あるいは読者も感じたものがあったのでしょう。
今読んでもおもしろい時代小説でした。

2020.06.08

検査と数値

6月8日 「ヘモグロビン・エーシーワン」値

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【元気に泳ぐメダカが群れをなして指に寄ってきます】


糖尿病で薬を飲んでいます。
1~2ケ月に一度ほど検査をするのですが、検査値で重視されるのがこれです。
正常値5.9%以下、突然死のリスクは8.0%以上だそうです。
いつ倒れてもおかしくないと言われた時の数値は9.3%もありました。

それから服薬し、三食きちんと食べ、間食はやめて、散歩も欠かさず続けました。
もちろんアルコールなどは飲んでいません、というか飲酒習慣はありませんので。

地道に頑張って、8.7% →7.7% →6.1%と、あと一息です。
ただ、薬を飲んでこの検査値なので、糖尿病は持病といえるのでしょう。

まあ、よく頑張っているという自己評価です。
自己評価することで頑張ろうと言う気持ちにもなります。


毎日新型コロナの感染者と死亡者の数値が発表されます。
もはや慣れっことなったのですが、その数値は人の数です。
そこには一人一人の人生や暮らしがあって、辛いことや悲しいことがとりまいています。

数字の向こうにある一人一人の人生や生活に思いが至るのでしょうか。
感染によって生活苦になる方、愛すべき家族の命を奪われたかた・・・
悲しみがそこにあることを知るには想像力が必要ですね。

自粛が解除となり、それなりに人出も増えてきました。
無症状感染者の存在が指摘され、感染実態はよくわかりません。
「秋冬の第二波」が爆発的に発生したらと思うと、ぞっとします。

自粛が言われて人出も少なく、車の量も減り、店の経営は大変だとは思いますが。
それほど悪いことばかりだとは思いませんでした。
なんだか落ち着いた暮らしが少しだけ戻ってきたようにも思いました。
もっと「シンプル」に、もっと「スロー」に暮らすこともあっていいのだと。

ふだん行く近所のクリニックは受診者も少ないです。
感染のリスクを考えて近づかない?
治療の必要な人も受診を控えているのでしょうか。
街のクリニックの経営も手厚くしないとと思います。

「検査と隔離」が言われて、少しづつ増えてるのでしょうが、もっと大きな波が来たら・・・
きっとまた「キャパがない」「自己責任」で対応しろ!ということになるのでしょうね。
くわばら、くわばら。

 

2020.06.06

土の匂い

6月6日 田植えがはじまりました。

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田おこしの耕運機が入り、カラスが人を怖がることもなく掘り返された土の虫をとっていたのが数日前。
庄内川から引かれた用水の水が田の表を張り、田植えが始まりました。
賑やかな子どもたちが田に入り、いつものこの季節の風景です。
穏やかな風にのって、土の香りが届きます。
アスファルトばかりの地面の日常に、土の香は清涼感です。
子どもの頃は赤土ばかりの近所で、雨が降れば靴はすぐに土だらけの地方都市で育ちました。
それから、土のある風景など暮らしのなかには存在しなくなって、もう何年が過ぎたのだろうか。
田んぼの苗も子どもらしい植えかたで、ところどころに裸足の跡も残っています。
街の中に田んぼが残っているほうが不思議な時代になりました。

 

2020.05.30

足元の幸せ

5月30日 花の命は短いなぁ

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少し前に咲いた薔薇一輪です。
狭隘した花壇の一画でそれはそれは見事に咲きました。
まるで掃きだめに鶴のごときの薔薇です。
あまりにも見事だったのですが、そのあと散って、いまは次の蕾も花開きました。

今年のアサガオは順調に蔓をはわせています。
ネットの網目にそって芽を少しづつ矯正して、伸びすぎた芽は摘まみます。

ブログの記事など目新しい話題を載せようとしても、それほどありません。
無い方が日常の暮らしだと思います。
だから、ほんの些細な庭の薔薇の成長に、にっこりする。

足元の幸せを感じられる・・・という暮らしこそ幸せなのでしょう。
ブログの記事も、美味しそうな料理や自前の梅酒や手作りマスクや、そういう暮らしの記事を読むと安堵感を覚えます。
暮らしている足元の、なんでもない日常の一コマに、そこにコロナ禍という時代の背景を感じます。
ブログは日記なのでしょう。
人に見せるよりも自分に納得することに意味があって、だから「たかだか日記、されど日記」の良さがあると思います。

2020.05.28

縫製工場

5月28日 アベノマスクはどこに

スーパーに行ったらマスクが値崩れして大量に積まれていました。
別に期待もしていませんし、有難みも感じませんが、あのアベノマスクはどこにあるのでしょうか?
マスク不足で品薄のときならば、もうすこし「有難み」もあったかもしれません。
マスク2枚と10万円で国民の感謝と支持率があがると見込んだ見識不足にちょと呆れたのですが。
その10万円も今日明日の生活に困っている人には届いていない。
生活実感からかけ離れた施策は、ほんとうに大変な人の実態をつかめていない表れでしょうか。

ともあれ「縫製工場」です。
生活のお遊びのような話です。
おうちで片づけをコツコツしていて、タオルと固形石鹸がたくさんでてきました。
昔は冠婚葬祭のお返しといえばタオルや石鹸という時代でした。
それらがごっそり出てきて、今使っている物と取り換えたりしました。

固形石鹸も時代のなかでいつしかボディソープに変わり、石鹸は使わずしまわれてました。
この機会にボディソープを止めて固形石鹸に変えました。
タオルは雑巾に縫い直ししました。
ついでに昔の服を手直しして孫の服に変えました。

こういう作業はカミさんが一手に作業していましたが、さながら縫製工場のようにミシンが唸っていました。
まあ、言葉あそびですがプランター農園の次は「縫製工場」というわけです。
もちろん工場主は私で女工はカミさんです。
工賃はないので「搾取」という資本主義のもうけのしくみはありません。

雑巾ってのは少し使い古したタオルや布のほうが水を含みやすく使い勝手がよいです。
「農園」とか「工場」っていう言葉は手工業時代のイメージがあります。
近代化されIT全盛の時代です。
グローバルゼーションで資本が世界を駆け巡る時代です。
こういう時代を少し逆行して「古き時代」を感傷的に摑まえるのも言葉の遊びこころです。
言葉にも楽しみがあって良いのだと思います。

で、捨てるのは「勿体ない」ということで縫製工場を稼働していたのですが・・・
ふと、思いました。
物を捨てるときに「勿体ない」と思うのが普通です。
でも実は物を買う時に「勿体ない」と思うべきじゃないかと。
こんなものを買う必要があるのか?まだ同じものを幾つもあるのでは?買わなくても済むのでは。
買う時の動機はいろいろあるけれど、買うときにこそ考える「勿体ない」です。

大量消費時代に逆行するから消費社会にはそぐわない考え方です。
必要な物だけを買い、不要な物は買わないことを心に命じれば、物があふれた暮らしからオサラバできます。

「新しい生活様式」が言われていますが、3密とソーシャルデスタンスとに集約されています。
でもちょっと待てよ、それだけかと思います。
医療体制の崩壊の危惧や保健所機能のひっ迫などを思うと社会のインフラの拡充を「新しい社会の構造」として抜本的に拡充していく必要があるのではと思います。
大都市に集中した街のありかたも、もう限界点に達しているのだと思います。
グローバル経済といわれる物と人の経済のありかたも疑問です。

何を大切にして何をすてるのかという命題が頭にうかんできます。

2020.05.26

プランター農園の追加

5月26日 茗荷(みょうが)をいただきました

「プランター農園」などと名付けていささか可笑しいですが、遊びながら日常を楽しんでいるということです。
遊び心というのは、どこでも持てるので、面白いものです。Img_0003_20200526231201
その農園に友人から「茗荷」を一鉢もらって、農園の拡張です。
3年ほど前にももらいましたが絶えてしまい、今回が二度目です。

キュウリ、ナス、ミニトマト、茗荷の四品目栽培です。
ミニトマトはまだ青いのですが、小さな実がつきました。
次はネギを仕入れたいと思っていますが、こんな土もない都市の狭隘敷地ではいっぱいいっぱいです。
そこのところを、遊び心で補って、立派に収穫できれば、それこそ立派な農場主というわけです。
人生は楽しく生きなくては・・・楽しいと思って遊ぶのに「財力」は少しですみます。

図書館も一部再開して6月には全館オープンとなりそうです。
五冊ほど藤沢周平の小説を取り寄せしました。
また楽しみが持続できる喜びのようなものです。

つなぎに本棚の隅から引っ張り出して読んだのが吉本隆明と辺見康の対談集「夜と女と毛沢東」という一冊でした。
1990年代終盤に書かれた対談集です。
20年以上も前のもので、思想信条も自分とは異なるのですが、時代をどう見るかという視点には学ぶものがありました。
この時代にはオウム真理教の地下鉄サリン事件があり、そういう歴史の事実を見る視点はちょっと面白い。

本はいつも「なぜ」「本当は」と疑問をもちながら読むと見えてくるものがあります。
一つの事にも拘りながら批判的に読むと教科書的読書とは違う本の読み方になると思うのです。
さて、しばらくは「ふじさわしゅうへいわーるど」です。

2020.05.24

「菜の花の沖縄日記」を読んで

5月24日 図書館と新聞と・・・

図書館が自粛のため休館となる前に「取り寄せ本」で借りた本でした。Photo_20200524214201  
一月以上手元にあり予約している人が10人以上待ってるので、この記事を書いたら返却しようと思っています。
図書館は一部再開してるが、まだまだ全面開館には至っていません。

ずいぶん前に新聞の書評欄を読んでから予約してずいぶん待ちました。
十五歳の春に石川県から沖縄の「珊瑚舎スコーレ」という無認可の学校へ通いだしたのがこの著者の女の子です。
沖縄の学校での生活で学ぶことや地元の人々との交流で知る沖縄の文化と歴史への思いが綴られています。

太平洋戦争で本土防衛の名のもとに多くの島民が犠牲となり、そうしてアメリカからの返還をへて今も続くアメリカ軍の戦略的基地の島。
沖縄の歴史は一通り知っているつもりの自分でも、やはりどこか本土で暮らす者としての「他者」の心苦しさがあるものです。

著者の坂本菜の花さんは、そういうとまどいを持ちながらも沖縄での人々との交流のなかで成長して行くのですね。
沖縄の文化、沖縄の言葉、米軍基地の問題や少女暴行事件、辺野古への基地建設などに率直な自分の思いを綴っています。
普段自分たちの新聞の記事を通して、テレビのニュースを通して知る沖縄の現状を、そことは少し違う視点から生きた人の言葉として知る機会でもありました。

そういう感想とともにこの十代の若者が発信する感性というか、新鮮な社会を見つめる目、人との交流から学ぶという思いの清々しさが読後感として残り続けます。
ともあれ沖縄に暮らそうがあるいはどこで暮らそうが、この「沖縄の今」を自分事として考え直す、そういう見方を一人の若者の著書から十分に学ぶことが出来ます。

沖縄で学んだことは、多くの問題につながることです。意見の違う人とどう向き合うのか、非暴力の抵抗運動はどう続けれらるのか。じつは私たちの周りには小さな沖縄がいっぱいあります。(著書より)

ほんとうにそうだよね。沖縄にいようが日本の他の都市に暮らそうが、そこにある「小さな沖縄」と同じ問題に、老いも若きも向き合って考えてゆけたらいいよね!と彼女に伝えたいですね。

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