2012.02.01

がま口

2月1日(水) モノにこだわってみる

 といっても、有名ブランドとかには興味はない。
 実用品としての価格にネーム代が加算されて、なぜそんなに高い値段がつくのだと思うと、僕には関係ない世界だ。

 ジーパンを洗濯しようとしたら、小銭がじゃらじゃらとこぼれた。
 ついつい10円玉や100円玉をポケットにしまって、それっきりになる。
 半年ほど前やっぱりポケットから、1000円札が無造作に出てきて、なんだか儲かった気分になったこともあったが。

 世の主婦と言われる方々は、財布をカードや札や小銭や領収書でパンパンに膨らませていることが多いのだが、どうも、それは世のご婦人方の経済観念の強い表れなんだと思っている。
 友人に財布には札しか入れない、小銭は持たないという人がいた、けれど120円の缶コーヒーを買うこともあるだろうし、間違いなく毎日、やっぱりじゃらじゃらと小銭が溜まるに違いない。

 だから、ほとんどの人は財布には札と小銭、もしくは小さな小銭入れを持ってるのだろうと思う。
 その小銭入れと言えば、小さな菓子の缶を小銭入れとして使っている友人もいtが、バックの中で、ジャラジャラうるさいのではと、要らぬ心配をしてみるが、当の本人はそれで十分のようだ。

 物にこだわる人もいれば、物など実用という一点でしか興味のない人もいるものだ。
 しかし、どうせ「こだわる」ならば、有名ブランドのなになにとこだわるよりも、ちょっと面白いものを日頃から探してみる。
 それも大袈裟に言えば生きてる実感だと、たかがモノごときで大上段に言ってみる。

 自転車に乗る、散歩だから遠出をするわけでもないが、少しくらいはお金も持っていないと、缶コーヒーすらも飲めない。
 大きなバックをかつぐわけでもないので、カードや何やら入った財布など、自由気ままな自転車散歩には無用な代物ってわけだ。
 1000円札一枚あれば、ことは足りるけれどポケットに無造作に入れるのも、粋じゃない。
 使えば小銭が残って、またポケットにはジャラジャラと・・・

 
 さて、つまらぬ前置きを書きまくったが、数か月前から実に面白く、こじゃれた小銭入れを使っている。Img_0003

 小銭限定の「がま口」、ゴムのような樹脂でできた、500円玉を一回り大きく丸く膨らんでいる。
 もちろん、これはちょっと自転車散歩に出かけるときの小銭入れで、これ一つで用が足りる。
 ポケットから、出し入れもしやすいし、何よりも、ジャラジャラと洗濯機の中まで忘れて持ち込まれることもない。
 実におもしろくて、おかしなものだけれど、僕のようなモノグサ人間にはピッタリな代物だ。

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2012.01.31

時代を敏感に反映する映画

1月31日(火) 映画「真実一路」と「姉妹」を観る

 時代を遡るようにして、日本の戦後に作られた映画を録画で観ている。
 最近の映画、やたらテレビで囃し立てられているCMを見ても、なんだかつまらなさそう。

 モノクロの昔の映画をじっと見ている僕の姿は、家族には異質なもののように見えるらしい。
 「おもしろいの?」と聞かれるから、「おもしろい」と答えるのだが、さりとてじゃぁ観ようか、という気持ちはさらさらないようだ。

 なんだか、自分だけ時間をタイムスリップした世界で喜んでいるようで、ああ、ひょっとしたらもう今の時代にはついて行けなくなってしまったのかなと、心のどこかに違和感が忍び寄る(笑)

 いや、今の時代は流行るものが商品の主流になって、金儲けになるならば映画も出版物も、すべからず媚びた作品になってるのだと、ちょっと理屈をつけて、このモノクロ映画の世界にまた、どっぷりと浸かってみる。

 「真実一路」は1954年の川島雄三監督作品で山本有三の同名小説の映画化されたもの。「姉妹」は1955年の家城巳代治監督作品。
 二つ並べたのは、とりたてて意味はない。最近観た中では黒澤明監督の「生きる」と合わせていい映画だと思ったからだ。

 「真実一路」は若き日の淡島千景が、恋人に死なれ意に沿わない結婚をするが、子どもを捨てて愛人の元に走る「むつ子」の役を演じている。
 「女は誰でも子どもを産んで親になれるけど、母親をやりつづけるとは限らない」(ちょっと台詞はあいまい)と言うシーンがあった。
 直情的でおよそ良妻賢母の日本の妻とは言い難い「むつ子」が象徴するのは、昭和5年という映画の時代背景には早すぎる、一人の女性の生き方なんだろう。

 自我なんてものは、とりわけ日本の女性の生き方の歴史の中では「家庭に埋没させるべきもの」だった時代に、世間体で好きでもない夫と結婚したとはいえ、優しくいたわる夫を捨て、子どもを捨て、愛人の男の元に走る・・・その愛人の自殺によって自らも人生を終焉させるというもの。

 それが、むつ子の「真実一路」であったかも知れないが、そんな時代に逆らう女の生き方を描いた映画だった。
 道徳とか母性とか家庭とか、そういうものの時代の在り方に、一つの不条理な生き方を持ち出したものと言えるのではないかと思った。

 この映画を見ていたらNHKの連続ドラマの中の糸子と周防の恋(不倫)の描き方の物足らなさが気になった。
 が、そこまではドラマの意図するものではないにしても、戦後、まだまだ倫理と道徳に固まった時代だから、あの勝気な生き方そのものの糸子がどうするのか、複雑な心境ドラマの展開を密かな楽しみにしたが、あっさり終わった。(笑)

 話が横道にそれてしまった。
 「姉妹」はこの時代の貧しい暮らしの人々の中で、姉と妹が成長する過程が描かれている。
 貧しさを乗り越えようとする力が「新しい時代」を象徴する姿として、姉妹の家族や妹(中原ひとみ)の清らかさ明るさとして、ある意味、戦後民主主義の何たるかを描いた映画の一つかも知れないと思った。

 発電所で働く父親と若い労働者、村の人々、姉妹・・・貧しさを跳ね返すエネルギーが、それぞれの中でほとばしり出ている。
 それは仲間意識であったり、労働の素晴らしさであったり、人間の平等性であったり、ヒューマニズムであったり・・・
 登場する人々に具現化された、新しい価値観。そういう時代のこれも生き方を問うた映画だったと思う。
 僕はこういう映画は大好きなほうだ。

 映画というものが時代を敏感に反映しているとき、そこには僕たちの心を打つ何かがあると思っている。
 だから、21世紀の今日、こんな時代に生きる人々の揺れ動く心を鋭く描いた映画をもっともっと観たいと思っているのだが・・・
 
 しかし映画なんて、誰でも自分が思ったことを感じたことを勝手にお喋りするのが楽しい。
 そうして、繰り返しているうちに、何となく分かってくるものがあるのだと思う。
 映画批評のコラムを書くわけじゃあるまいから、自分が思ったこと以上のものは、どんなに頭をひねっても出てこないもので、それでいいし、そういう不純物が混ざった感じ方からしか、人は広がりを持つことが出来ないと思っている。
  

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2012.01.30

アダプターを求めて街に出る

1月30日(月) テレビが壊れる

 台所に小さなテレビが置いてあったが、突然画面が真っ黒になって・・・つまり電源がOFF状態になった。
 少し前から、電源アダプターがジリジリ音をたてていて、突然OFFを繰り返していたのが、完全に映らなくなった。

 この状況から、アダプターが壊れたに違いないと睨んでいる。
 捨てるにはもったいない液晶テレビ、ここは一つアダプターを新品に取り替えたらと、近所の電気屋さんに尋ねると、「10000円はしますから」との返事。
 もうはや液晶テレビも小さなサイズなら2万円前後で買える、しかも今はBSチューナーもついている。

 しかし、ここは一つ、大須の電気街で中古のアダプターを見つけてやろうと出かけた。

 台所のテレビが活躍するのは、朝の慌ただしい出かけ時の「時間表示」、娘らは「今日の運勢・星占い」、それと今年から見はじめた連続ドラマ「カーネーション」ってところだ。
 なければなくても十分だが、「やっぱり台所にはテレビが欲しい」というのが大勢だ。

 大須界隈も昔のような電気部品のリサイクル品を売る店も少なくなった、圧倒的に「衣料品の街」の雰囲気で、探せど数件あるほどで、それも、パソコン関係の部品が主で、もはや、たかだかテレビの部品など「商売外」の代物のようだ。

 「おじさん、テレビのアダプターの中古って置いてない?」と聞けど、愛想の悪いオヤジの返答は「どんな物、そんなのあんまり無いわ、形状は、現物持ってこいや」とつれない。

 中古アダプターはパソコン関係ばかりである。家電リサイクル法が出来て、あの膨大な中古テレビはどこに行ったのだろう?東南アジア?分解解体?それとも廃棄?まあ、どちらにしても、テレビは修理して使うものではなくなったことはたしか。

 このところテレビは映画を観るものになってきた。
 バラエティ番組のつまらなさ、貧しさ。録画ができればリアルタイムに見る必要もない。
 が、一人暮らしのお年寄り世帯など、複雑な録画機能など使えないだろう・・・BSチャンネルが増えたけれど、テレビショップや再放送で、やたら番組欄が埋められている。

 この先、テレビの世界はどんなふうに変わってゆくのだろう。新製品は若者がターゲット、シニアの世代は、この変化する情報社会に必死にくらいついている。
 そんな構図になっても、それでも外出できないお年寄りにとっては、小さな小さな社会とのつながりに他ならない。
 
 

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2012.01.28

疲れたときには・・・

1月28日(土) 「男はつらいよ」連日上映会?

 WOWOWで一挙上映放送をしていた「男はつらいよ」をDVDにして、このところ毎日一本は観ている。
 ほとんどが、以前に観たことがある作品ばかりだが、飽きることがない。
 このDVD映画を観る時間帯は夜の夕食前後と決まっている。

 なぜかソファーに腰かけて観てると、妻もやってきて一緒に鑑賞会になる。
 夕食の後片付けは、明日僕がやればいい、ちょっと笑いながら2時間ほどの個人的上映会ってわけだ。
 「男はつらいよ」と言えば、1969年の第一作から1995年の第48作までの26年間におよぶ映画だ。

 時々のマドンナ役は変われど、渥美清、倍賞千恵子らの役者は変わらない。
 変わったのは、おいちゃん役が森川信、松村達夫、下條正巳と変わり、満男役が中村はやとから吉岡秀隆に変わったくらいだ。
 そういえば、もう一つ変わったのは「とらや」の屋号が、第40作から「くるま菓子舗」となったが、訳は僕も知らない。

 ともあれ26年もの歳月は出演する俳優の面々も、歳を重ねるわけで、若かりし「さくら」もしっかりと「おばさん」になるし、なによりも「寅さん」自身が50を過ぎた満男の伯父さんになる。

 こういう俳優の人生と映画の役者人生が世の中の移り変わりとともに進行してゆく姿は、第一作から連続して観ていると、まるで「寅さん」「さくら」が本物で「渥美清」と「倍賞千恵子」が別名のように思えるから不思議だ。

 賠償千恵子が、街で「あっ、さくらさんだ」と呼ばれることに抵抗もあったと「男はつらいよ」の想い出で書いていた。
 そのとき、渥美清さんに「なぁ、役者が役名で呼ばれるほど素晴らしいことはないじゃないか」と言われたという。
 そういうふうに僕らのような「男はつらいよ」を観てきた者は、分かっているけど勘違いする。
 そこには、「男はつらいよ」という映画の中の暮らしぶりが、一つの世界となって定着した結果だと思う。

 寅さんの無軌道で自分勝手で呆れてしまう行動に、「やっぱり、こんな人が傍にいたらごめんだわ」と妻は言う。
 惚れたら手のひらを返したように態度を変える、自分の非は棚に上げて心配をかけまくる。
 厄介者だが憎めない、けれども現実社会だったら、こんな人はごめんだわ!というわけだ。

 映画だから、僕らはこういう「車寅次郎」という人物に拍手喝采をしてきたのだろうか、こんなにも惚れっぽくて、照れ屋で、いい加減でも、人が(ははは、この場合はマドンナが多い)辛い思いをしているときは、自分を置いてでも真っ先に心をよせる、その人情味の豊かさに、本来の人間関係の素晴らしさに心をうたれ、胸を熱くする。

 いや、映画と現実との境界のなくなった地平で、僕らは納得して映画を観てきたような気がする。
 そういう、時代を背景にして、なんだか「寅さん人生」を、素晴らしい世界と思い込んでいたと思う。

 世知辛い世の中になったものだと思う最近、こんな「寅さん人生」は世の中では、不合理で生産性の乏しい落伍者のような生き方に見えるのかも知れない。
 いわば、社会からのはみ出し者の物語である・・・と、そう見えてしまうほど、世の中が窮屈になり、競争社会の中での生き残りに四苦八苦しているのだろう。

 この窮屈な世相の社会にあっては、間違いやミスや失敗や「できの悪い」ことは、マイナス以外の何物でもないと、相互に思い込んでいるから、これほど生きにくい社会もない。
 疲れて休むことは、疲れることなど許さない社会では、とうてい理解されないことがらだ。

 人が後退することを「ダメな奴」と切って捨てることに慣らされてしまうならば、たとえば「人情」なんてものは、非合理的で不確かで、およそ落伍者同士の慰めあいのように見えてしまうだろう。

 嫌な世の中になったものだ、たて前と損得勘定と見栄と人よりも少しでも楽をしたいと思うのが当たり前の社会になったものだと、ちょっと嘆きたくもなる。
 いや、かってほとほと疲れて嘆いていた頃がある。

 知人に小児科医の女医さんがいて(女医さんってところがいいでしょう)、嘆いていた僕にこう言った。
 「世の中の醜いものばかりがたくさん見えてきて疲れたときは・・・そういうときはね、良いものをそれ以上にもっと見るといいのね、良かったこと、素晴らしいこと、事柄でも人でもね・・・そういう、良いものにたくさん触れると元気になるわ」

 毎日、映画「男はつらいよ」を観ていると、映画の中の良いものを、たくさん再発見できるのですね。
 映画ばかりじゃなくて、人もそうです。
 いろんな人の素晴らしさ、個性とか優しさとか暖かさとか強さとか・・・そういう姿に接することが、疲れてしまったときには一番いいと思う。
 
 

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2012.01.27

読了

1月27日(金) ちくま文学の森、全巻読み終える

 我ながらエライと思う(笑)
 足かけ一年ちょっとで筑摩書房の文庫「ちくま文学の森」10巻を読み終えた。
 10冊も読んだのがエライというわけじゃない。読み方が実に自分らしいと思っている。
 一巻おおむね20数編の短編小説が10冊だから200編ほど読んだことになる。

 小説好きな人にとっては、たいした数ではないだろう、いや数多く読めばエライというわけでもない。
 つまり、僕はこの短編集を夜寝る前のほんのちょっとした時間を費やして、ある時は毎日一編、ある時は1ページ、そうやって、雨の日も風の日も(家の中だから関係ないが)寝る前の読書の楽しみにして過ごしていたのがエライ!(ほんとは別にエラクもないが)ということにしておこう。

 200余編の短編を読んでみて、面白いと思うものや、まったくつまらないと思うものや、まぁさまざまあって、今回は「とりあえず全部読んでやれ」と。
 気分のよいときは気分よく、気分の悪いときはそれなりに・・・

 つまり、読書したから何か素晴らしく役にたったかというとそんなことは何もない。
 どこが面白いのか?テーマはいったい何だろう?ここは斬新な感覚かな?いろいろ考えながら、眠りの脳味噌の回路が閉じるまでの時間を使っていた。

 昔、職場の先輩が「ほんのちょっとだけでも本を読め、読めば必ず思考が働き続けるから」と言っていた。
 そんなものだろう。
 人は文字で思考する。だから論理的な考え方を保つには読書というのは、たしかに最適だとは思う。

 小説なんて架空の世界。
 架空の世界だからエッセイや歴史書や実録的な読み物とは、またちょっと違うわけで、受け身になって読むと、これほどつまらないものはないと思っている。
 ただし、逆に言うとこれほど自分の範疇を超えさせてくれるものはないと思っている。
 
 そうして読んだものを、あ~でもない、こ~でもないと言いあえる仲間がいれば、もっと素晴らしい。

 さて次は何を読んでみようか?と、探したら宮部みゆき・北村薫編の「名短編、ここにあり」ってなシリーズが、これも「ちくま文庫」から数冊出ていた。
 しばらくは、深い眠りの森に誘われる、ほんの少しの時間の短編小説読書を続けるつもりだ。
 なぜ短編か?長編小説は僕のような遅読で、ゆっくり読む輩には不向きなのだ、就眠前の読書には細切れになってしまい、やっぱり不向きなのだなぁ、これが。
 

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2012.01.25

とん汁の味

1月25日(水) 昼飯は残り物でも美味し

 昼飯は何を喰うか。
 昨夜の晩飯の「とん汁」が残っていたので、こいつに目玉焼きの一つもつけて立派なランチだ。
 妻に「義母は昼は何を食べてるのだろうか」と言うと「あの人は歳だからちょっとしか食べないし、残り物でしょ」と。

 働いていた頃は毎日500円の野菜中心の弁当を食べていたが、時間に余裕がある今は、自転車散歩して午後になっても、自宅で自分で作る昼飯が美味いと思うので、ほとんど外食などしなくなった。
 今日のように、昨晩の「とん汁」の残りがあれば、大根にもしっかりと味が沁みて、昨日より美味いほどだ。

 専業主婦と言われる人たちは何を昼食で食べてるのだろうか?若い方たちはママ友たちと、近所のランチを楽しんでいるのか・・・

 僕の母親は町の工場で働いていたから、昼の1時間の休憩は近所のスーパーで買い物をし、そのまま慌てて家に帰り、それこそご飯とみそ汁と余り物の昼食を食べて、また工場へと出かけていた。
 食事というにはいささか貧しい昼食だと思うのだが、当時はそんな程度でも昼食は昼食だった。

 「とん汁」には想い出がある。
 高校を卒業してすぐに就職した僕は夜学に通っていた。しかし営業という時間の決まらない仕事に学校に行くのも大変で、すぐに辞めてしまった。

 それからは、アルバイトで暮らしていたから、給料は家賃と学費と食料費と本代でほとんど消えてしまった。
 アルバイトの給料などたかが知れていたので、ガスも水道もない電気だけの3畳一間の離れ小屋を借りていた。
 水道なんて井戸水で手押しポンプで洗面してたぐらいだった。
 それでも、夜学の文学仲間の友人たちがいて、みな似たりよったりの暮らしで、夜中まで騒いであれこれの文学話などをしていたものだ。

 その頃、出費を抑える方法といえば、衣類は買わない、食べ物は最低限ってもので、近くの一膳食堂の「とん汁とどんぶり飯」か「ラーメン・ライス」、これに学食を加えてローテーションにしていた。
 昔々の話である。
 金はいつも持っていなかったが、楽しく愉快な時代だった。
 ある意味、貧しい暮らしの中でも、なんだか心だけは豊かだったような気もする。
 まあ、おかげで体重は増えることもなく、いつも痩せてたのだったが。

 そういう暮らしを若いときに経験すると、金など無ければなくて何とかなるという思いが心のどこかにあって、バブルの頃の飽食生活にはなかなか馴染めなかったし、美食とは縁遠い暮らしが普通になって、食べることへの意欲やこだわりは今でもあまりない。

 「とん汁」、大根、ニンジン、こんにゃく、サトイモ、ゴボウ、これだけの野菜類に豚肉が入っていれば、もう十分なもので、ましてや昨晩から一日経って、味もよくなって・・・
 娘が料理教室なんてところに通って、あれやこれや、ケーキやスイーツまでも習っているようだが、受講料もけっこう高い。
 僕は「そんなに立派なものを作らなくてもいいのに」と口には出さないが腹の中では思っている。
 どんな食事でも、しっかり食べられて、楽しい雰囲気があればいいんじゃないかと思うけれど、ちょっと世の中の食事風景とかけ離れているのだろうか。

 「今日の昼食は、あれを作ったとか、昨日の残りを食べた」といちいち妻に報告して、「金を使うこともなくなったなぁ~」と言うと、ちょっと嫌な顔をされる。
 僕としては別にガマンしているわけでもないし、「収入がないから慎ましい生活」をしているわけでもない。

 仕事に追われて、慌てて街の弁当売り場で買ったり、街の食堂で時間に追われて昼食を摂ったり、そういうサラリーマン暮らしの昼食よりも、はるかにご馳走に思えてならないわけだ。

 もう、飽食の時代は終わったと思う。
 
 

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2012.01.23

迷い路地

1月23日(月) 自転車散歩のおもしろさ

 「旅なんてもんは、行き先決めてなんてのはおもしろくないなぁ」と映画の中でふーてんの寅さんが言っている。
 あてどころなく行く旅、しかしその旅先の街の風景も、今ではどこも似たようなものばかりになってきたのだろう。
 自転車散歩も同じようなもの。
 庄内緑地に行くと家族には伝言して、行く道はいろいろ、気分しだいでぶらりと足を延ばしたりもする。
 ただ、あの庄内川の堤防道は、江戸川の柴又のそれによく似ているといつも思っているが、映画の時代は15年以上も前だから、果たして今はどうだろう・・・。

 公園のフユザクラがピンクに花をつけている。それほど見応えがあるわけじゃないが、この季節ちょっと寒さに耐えて咲いている、その姿がなんともいえない。
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 友人にめっぽう地理地形に強い人がいる。
 初めて訪れた旅先でも、行く先の検討をたいがいつけて、それがピタリと合ってるから、地図を見ても右往左往する僕らとは、どこかが違う。
 平面の地図と街並みを一致させるのさえ難しいのに、ああ、あれはきっと、いつも立体的に風景を想像する羨んしい能力に長けているのだと思う。

 詩人の萩原朔太郎に「猫町」という短編がある。彼が書いた唯一の小説だという。
 とある温泉街で、街に出た主人公が、別世界「猫町」に迷い込むという話。
 けれどもそれは、なんのことはない、同じ温泉街だったが、思い込みによって全く別世界に入り込んだ気持ちになってしまうというもの。
 
 この道をたしか左に曲がれば、もうすぐ駅が見えるはずだと思って進むと、駅どころかまったく反対の方向に歩いていたという経験は誰しも多少はある。
 この思い込みってやつは、知ってる街の路地あたりでも、ぜんぜん知らない街に見えてしまうから不思議だ。
 これは、方向や地図読解能力の低い者にのみ与えられた楽しみなんだと思う。

 庄内緑地公園から少し北の方向に寄り道して走ろうと住宅街に入ると、どこにでもある、建売住宅が並んでいた。
 つまらない風景だと思って細い路地に入ると行き止まり・・・と思ったら、直角に道が曲がっていて、ちよっと時代を遡ったような白壁土蔵の風景に出くわした。
 周りは、現代的な住宅街のはずなのに、こんなのところに、この一角だけまるで別世界のようだ。
 およそ2~30mも杉板塀が続くが、屋敷ではない。その向こうには白壁の土蔵が建っている。
 もう少し行くと、懐かしいホーローの郵便・切手・印紙の看板が下げられた、米屋さんだろうか、そんな風景に出くわした。
 現代的な住宅が建ちならぶ地域の一角に、こんな風景が存在していることが不思議である。

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 どこを、どう走ったのかわからない。もう一度行こうと思っても、おそらく行けないだろう。
 踏切を超えたはずはないのに、知らぬ間に線路の向こう側に出ていた。
 昼の時間だから太陽の方向が南だろうと見当をつけて走った。
 思わぬ距離を走って、しばらくしたら庄内川の堤防に出た。

 思いがけないものに出合うのも自転車散歩のおもしろさである。
 
 

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2012.01.20

映画三昧の日々

1月20日(金「) 黒澤明監督映画「生きる」

 このところ映画、と言ってもテレビのWOWOWとかBSプレミアムなどで、たくさん観ている。
 WOWOWでは「男はつらいよ」48作品の一挙放映中、DVDに保存しながら10作品くらい観ている。
 NHKのBSプレミアムでは「山田洋次監督が選ぶ・・・」で、「生きる」「紀の川」「暖流」「祇園の姉妹」「兄とその妹」などを放送していて、何か憑りつかれたように・・・(笑)

 「男はつらいよ」は私家版の「DVD作品集」がもうすぐ完成予定だ。(笑)
 今回は柴又の「とらや」の団らん風景をしっかり見た。
 家族団らんと言えば「男はつらいよ」と「サザエさん」が昭和の風景の典型。
 しかし、よく見ると「とらや」の家族の団らんって、ちょっと違うように思う。

 必ず騒動が起きる、その原因は寅さん。
 おいちゃんが「馬鹿野郎!出ていけ!」寅さんは「ああ~わかった、それを言っちゃあお終いよ」と、喧嘩別れになってトランクを提げて旅に出ようとする。

 かなり辛辣な言葉のやりとりで、映画じゃなかったら、もう二度と顔もあわさず口もきかないことになるだろう。
 さくらが慌てて「お兄ちゃん、ほんとうに辛いのはおいちゃんおばちゃんじゃない」と諭す。
 寅さん、しみじみ納得するが、黙ってとらやを後にする。
 おいちゃんは「なんてことを言ってしまったんだ俺は」と後悔さきに立たず悔やむ。

 パターン化された寅さんの旅立ちのシーンである。
 僕はこのシーンを見ていて、ほんとうは言葉なんてたいしたものではないんじゃないかと思った。
 言葉や文字に頼りすぎて人間関係を推しはかろうとすれば、見えるものも見えなくなるのじゃないかと。
 今という社会は、いや家族だって言葉のあれこれに一喜一憂し過ぎて、イライラしているのかも知れないと思った。
 この思いは、いまの僕にはちょっと安らぎかな。

 そういえば映画じゃなくてドラマで「開拓者」(BSプレミアム)も連続放送している。
 これは満州開拓団の歴史を証言をもとに構成されていて、これも毎回観ている。
 非現実的な映画の中に、忘れられたものや尊いものを見出すたびに、ある意味励まされる心持になる。
 そんな映画のなかで、黒澤明監督の「生きる」は、志村喬の迫力ある演技もあって、心にじ~んと来る作品だった。

 市役所の市民課長(志村喬)はガンに冒され余命の少ないことを知る。息子とその妻は冷たく、自分がガンであることも打ち明けられない。
 誰にも言えない孤独と淋しさで自暴自棄になるのだが、元の部下であった若い女性と食事をしたり遊園地で遊ぶことで、苦しい胸の内に何か温かいものを感じるようになる。
 この若い元部下の女性は、よく食べ、物おじしない明るい性格。そういう活気な若い子と一緒にいるだけで彼は、刹那的で生きる気持ちを失いかけた自分を堪えていたのだった。

 若い彼女に自分はガンでもうすぐ死ぬのだと告げて言う。
 「君をみてるとここ(気持ち)があたたかくなる。君は若く健康でこうして活気がある、私はうらやましい。死ぬまでに(それが)何か知りたい・・・」志村喬の迫真の演技が光る。
 「ただ、わたし働いて食べているだけよ、それだけよ。こんなもの(兎のおもちゃ)作ってるだけよ、こんな物でも日本中の赤ちゃんと仲よくなった気持ちになれる・・・課長さんも何かつくったらいいのよ」
 そして彼は気が付く「自分にも何かできるかもしれない、何かしようと思えばできるんだ」と。

 市役所の市民課長に戻った彼は、何十年も無気力で過ごしてきた仕事を、意欲的に精力的に解決しようとする。
 それまで、たらいまわしにされていた不衛生で児童公園を作って欲しいという陳情に応えようとする。
 その努力の結果、児童公園が完成する。しかし彼は完成したその公園のブランコに揺られゴンドラの唄を歌いながら息絶えてしまう。

 ♩命短し恋する乙女~
 ほっとした安堵の顔、寂しくも納得したブランコに揺れるシーンだった。

 一昔前のお役所勤めは「休まず遅刻せず働かず」とよく言われていた。
 働く意欲も失い、ただ一日を過ごしていた彼は、自分の命がわずかと知り、若い女性の活気ある姿から、生きる力を取り戻し、そして死んでいった。
 人は多くの人に支えられているというが、生き生きと暮らす彼女の姿こそ大きな支えだった、支えとはそういう人に出会うことかも知れない。
 「ただ働いて食べているだけよ」という普通の仕事と暮らしに戻ることが、彼の死期迫るなかで気づいた生きる意味。
 
 いい映画だった。暗い物語の中に普遍的なテーマを盛り込んだ名作映画。
 古い時代の映画を見ることは、昔を懐かしむだけじゃなくて、今という時代知ることに他ならないと思う。やはり、現代人は忙しすぎるのだろう。
 次から次に情報がもたらされ、一つのものごとを、じっくりと考えることが少なくなった気がする。

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「男はつらいよ」私家版DVDを作ってみた。


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2012.01.19

日暮れて道遠しだなぁ

1月18日(水) 何事もなかったようにまた始める日記です

 双六のごときふりだし戻りたし (by一休み)

 人生のリセットなど望まないし、リセットできたところで何の意味もないが、部分的には後悔先に立たずということはよくあるものだ。
 ことが上手く運ばないとき、人はしきりに悔やむもので、悔やんでもどうしようもないことほど、これまた悔やむわけだが、そういうことも人生の「一ページさ!」と、言えるならば最初から悩みなどしないものだ。

 図書館の返却日が迫っていたので自転車で出かけた。
 いつもは通らない裏路地をことさら選んで走ると、名古屋という街はまだまだ古い民家も残り新旧混在した、おかしな街だと思う。
 杉板が壊れかけ土壁が露出した老朽化した民家など、ビルとビルの間にあったりして、風情があると思うが、住むとなると、きっと現代風の戸建てにしたいと思ってしまうのかも知れない。
 正月を挟んで図書の貸出期間は多めにあったが、二冊ほど読み切れなかった。本も気分で読むもので、借りた本よりも、ちょっと可笑しな小説などを読みたく思うこともある。
 今日は18日なので図書館に寄ったあと、大須観音で開かれている「骨董市」に行くことにした。
 二回目でもあり、じっくりと見て回った。
 つまらぬガラクタ(と思うような)に、結構な値段がついている。
 実は「天保水滸伝」のVHSビデオが出てないかと探してみたが、探し物が見つかるほど甘くはないのが骨董市。
 骨董市はやはり目利きが勝負だと痛感する。目利きさえあれば僕だって、古物商の許可をとって、こういう市に出店してみたいものだと、おもしろくて止められないに違いない。
 映画のポスターが売られていたので、松竹映画の「男はつらいよ」シリーズがあるか探したら数枚あった。
 浅丘ルリ子の「リリー」が出演する映画のポスターが断然人気があるそうだ。人気のものは値段が高い。
 第18作の「寅次郎純情詩集」と第45作の「寅次郎の青春」の2枚を買う。
 たかが映画ポスターでも1000円前後の値段、それが高いか安いか・・・ちなみに、それを買ったと知った娘は「高い!」と言うが、僕はけっして高いとは思わない。(パソコン部屋の壁に貼った)
 大須観音の近くの古本店に寄る。
 古書といえば「ブックオフ」が市内のあちこちにあるけれど、ここは昔気質の古書店なので、作家名順などといった整理などされていない。
  文庫本から単行本、雑誌まで雑然と積まれている。探すのはとても面倒だ。仏教書が多いところを見ると、その関係の古書に強い店なのだろう。
 探すのを楽しみにする僕のような人間は、こういう古書店のほうがずっと楽しいと思う。
 じっくり見ていると、掘り出しものもある。100円コーナーと50円の2冊の杉本苑子の時代小説を見つけた。
 「二条院ノ讃岐」「孔雀茶屋心中」、ブックオフでは、もう見かけない本なので掘り出しものである。
 けっこう優雅な一日だったと思う。
 好きな事に時間を費やし、楽しいことにちょっと熱を入れる。
 ポスターをブレーキのワイヤーに挟んで走っていたら、落ちそうになって、あわてたら久しぶりに転倒。
 交差点の出来事で、運転手も通行人も「可笑しな奴」って笑っていたが、ポスターが破れなかったのが幸いであった。
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2012.01.05

ちょっと一休み

1月5日(木) 記念写真

 部屋のパソコンの前の壁に、サイクリングや飲み会などで撮った記念写真を、CDケースごとに何枚か飾ってみた。
 みんなとてもいい笑顔で写っています。
 年頭に「笑門来福」と書いたけれど、なかなか笑顔の暮らしもままならないものです。
 別段、言わなくてもよいのですが、せっかく訪問されても更新されてないと申し訳ないので・・・
 ちょっと一休みさんはちょっと一休みいたします。

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