2017.11.23

ジョージ・オーエルの本

11月23日(木)「1984年」「動物農場」

ジョージ・オーエルの小説2冊を読み終えた。

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図書館の書棚から一冊、もう一冊は取り寄せしたが、なぜジョージ・オーエルを読もうとしたのか、自分でも動機がよく分からない。

「1984年」は発行当時から30数年の後の1984年というから未来小説であった。
独裁体制下の全体主義国家における「反逆者」の洗脳の恐怖が描かれている。

他方「動物農場」は一種の寓話物語で、人間の営む農場から動物たちが人間を追い出し動物たち自身で農場という「楽園」を作って行くが、そこが自身の楽園になりえたのか・・・

一つの政治権力が創り出す世界。

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当時としてはスターリン体制下のソ連を想起させるものであろうが、この二作品は同じモチーフの異なる作品といえる。

政治権力が生み出す権力の構造と人間(動物)支配の物語は、今日のそうした独裁国家のとる政治手法と基本的には同じものといえるが、はたして「独裁国家」にのみ共通するものかといえば、そうとだけは言えまい。

「平和の名のもとに軍事体制の拡大」「繁栄を吹聴する裏で差別社会の拡大」「民主主義の仮面をかぶった独裁」、そうしたおかしなことをまことしやかな社会と描くには「嘘」と「監視」がつきものである。

実に読後感の悪さが残る本であるのは、小説の世界を微妙に現実社会と対比させてしまう自分のほうに根拠がある。

政治権力のおぞましさ、嘘と虚構を体制維持の方法とし暴力で洗脳する。
マインドコントロールの方法は知らず知らずに自分自身をその圧政の側の信望者と化して行く恐ろしさであり、何も他人から無理強いされているばかりではない・・・自発的にその「虚」を「真実」と思いこむところに恐怖がある。
本当のことを見抜く力を自分は養えるのか、という不安でもある。

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2017.11.19

小さな旅の自転車(ブロンプトン)

11月19日 輪行すればけっこう遠くまで行ける

週末の18日(土曜日)は琵琶湖方面へのサイクリングの予定だったが天気予報は雨。
雨を見こして事前に中止となったが、皮肉にも前後の日は晴れだった。
今年は雨や台風や仕事などで計画が中止となる一年で、週末ごとに雨の日も多かった気がする。

晴れの日は、晴れているだけで嬉しいものだ。自転車など晴れていてこそだから。
雨を避けて金曜日に名古屋から瀬戸市まで35キロほどを走った。
兄らが住む瀬戸市は名古屋からは緩やかな上りとなる。
広い濃尾平野は起伏が少なく平たんな地形とはいえ、やはり東部方面に向かうと「上り」となる。
列車や自動車で行き来すると気にもしないが、自転車ではよくわかる。

庄内川の右岸にそって北上し、西区、北区と進み、守山区からはいわゆる「龍泉寺街道」を志段味方面に進む。
昔は一車線の道路も整備され今は町並みがすっかり変貌している。
志段味中学校付近から尾張旭・瀬戸方面に進むと紅葉の木々が道の両側をおおい、愛知県森林公園に続く。

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【森林公園でちょっと一休み】


昼飯はどこかの店に入るつもりが、自転車の鍵を忘れたので、途中のコンビニで「おにぎり」を買い、森林公園でちょっと淋しいが、秋の空を眺めながら昼飯となる。
今日は兄宅に資料を届ける予定もあったが、電話すると不在とのことで、ポストに投函する。
マイカーならば一時間ほどで着くところを、3時間ほどかけて、のんびり来たわけだ。
晴れた日だからこその「一人自転車サイクリング」で、申し分のない一日。

帰りは名鉄瀬戸線に自転車を担いで「輪行」する。
平日の学生さんたちがぼつぼつ下校する時間でもあったが、電車は空いており座席の横に自転車を置く。
折り畳み自転車の面目躍如である。

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【こんなに小さく畳むと自転車とは思えないなぁ】

35キロを半径で円周を描けば、名古屋から北は岐阜市、西は桑名市、南は半田市あたりまでの直線距離となる。
ずいぶん遠くまで行ける距離になる。
しかし思ったのは行きの上り道を電車の輪行にして、帰りの下り道を自転車にしたら、もう少し楽なサイクリングになったかも知れないと。

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2017.11.16

歳時記カレンダー

11月16日(木) 恒例の・・・

今年もあとひと月半ほどで終わろうとし、喪中葉書がぼつぼつ届き始めた。

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こうして、何やら「来年」のことが話題になりはじめ、あっと言う間に一年が過ぎ去っていく。
なんとまあ過ぎ去る日々の早いことか。
カレンダーも今月を含めあと二枚になった。文具店にはしっかりと来年のカレンダーが陳列されている。
もう何年も同じカレンダーを使い続けているのが、この「歳時記カレンダー」で、数枚飾られる他のカレンダーは貰い物ばかりだ。
二十四節気七十二候の暦の表示に季節を感じ、月の満ち欠けに日々を思う。
11月19日は「一茶忌」のようだが、そうした故人の日を見て何かを思う。
たかだかカレンダーだけど、一年のうつろいの日々と照らし合わせながら見るカレンダーとして、すっかり定着した。
もっともカレンダーに限らず、日記とかスケジュール手帳とか、毎年これという同じものを使い続ける人も少なくない。
新しいものが世にでて、日々革新される日常のあれこれ、感動や発見やこころ踊る出来事も楽しいものだが、「変わらないこと」というのもいいものだと思う。

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2017.11.15

和太鼓の響き

11月15日(水) シンプルな音がいいです

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【右端がNさんとTさんの打つ姿、ほれぼれするなぁ~】

過っての福祉職場の友人Nさんから和太鼓の演奏会の案内をいただいてカミさんと出かけた。
和太鼓の打ち下ろす響き、笛や三味線や、そうしたシンプルな音色が伝わってくる。
バチを打つNさんとTさんとは、いろいろあった仕事仲間の時代に、お世話にもなった。
あれから何年経ったのか。和太鼓の練習をしていると聞いた頃に見た姿とはずいぶん違って、太鼓を打つ姿も堂々として、力強さも感じる。
子育てしながら練習に励んできた成果は、素人感覚の自分にも十分伝わってきた。
「一生懸命」ということの素晴らしさに、なんとなくほっこりする日だった。
・・・と三日遅れのブログなので、日曜日の話である。
特に決まったテーマもなく、日々の事柄を綴り、それも遅れがちに、ときどき更新になり、それでも続いていることの意味は。
SNSはTwitterやfacebookや、最近はInstagramといろいろあるが、最新のリアルタイムな情報を欲することもなく、誰かとのネットの会話に楽しみをもつこともないので、時々の今を綴ると言う意味では、やはり「日記」の部類なのだろう。
そういうところが「ブログ」にちょうどいい立ち位置になっている。
つまらぬことを書いて、まあ、これって「今を生きてる」存在証明ほどでしか過ぎないが、「SNS疲れ」が言われる現代では、一人自分に向かって書くのもいいものだと思っている。


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2017.11.11

とある土曜日

11月11日(土) 風邪か?健忘症か?

なんとなく咳がでて、風邪の兆候かと思うが、こういう時はちょっと寒い戸外を自転車で走る。11月ともなれば陽の落ちるのもはやくなり、4時をまわれば帳も降り始める。
まだ少し閉館時間には間に合うと図書館に向かう。
3冊ほど物色する、どうしても借りたいと思ってた一冊はみあたらないが、まっいいか。
さてとカウンターに行きかけて「しまった!貸出カードを忘れてしまった」と気が付く。
抜き出した本棚の元の場所に戻し、そそくさと図書館を後にするのも虚しい。
昨日まで娘と孫たちが三泊していた。自転車に乗るのも三日ぶり。
孫の時間に日常がセットされ、異次元のような日々になると新聞もテレビのニュースもおちおち見たり読んだりできないから、なんとなく甲高い泣き声や話し声が部屋中を駆けめぐる。
そういうものも、今だけだと思えばアリガタイことだと思う。
さて風邪かと思った体調も帰宅したら何ともない・・・
「スーパーで駅弁売ってたから『飛騨牛弁当』これ夕食」、作る手が抜けたと喜ぶ妻、まあどうということもない土曜日、寒さも増してきた。

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2017.11.06

自転車で写真遊び

11月6日(月) 楽しくなければ遊びじゃない!

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趣味というよりもスポーツというよりも健康増進というよりも、自転車は遊びの世界だと思うのですね。
その自転車に乗って「小さな秋」はないもんじゃろか?とか、果たしてこの道はどこに通じてるのかとか、つまらんことを思いながら、近頃やっと青い空の日が続く短い秋の日を堪能する。
モノを買うこともないので、清貧を余儀なくされている(笑)わが身には、出費もすくない。

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東西南北。西側には庄内川や新川といった川があり、どうも走る機会が少ないので、どうしても地形に疎くなる。
ということは、知らない路地とか、まだ「未開の道」とか市街地から外れるほど、けっこう興味心をくすぐるものがある。

昨日は自宅からそれほど離れていない小さな公園を走っていたら、木々の色づいた風景にちょっと一休み。
紅葉など「たんなる枯れ葉じゃん!」と言ってた〇〇ちゃんを思い出す風景。
秋の色がこんな、なんでもない公園にもあるというごくごく普通のことに嬉しくなる。

そういう下準備があって、今日は掃除に洗濯に家事労働を早めに済まし、暖かい緑茶を水筒に詰め、いざ出陣ってわけで・・・

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旧美濃路街道から清須城へ、もっともこれは展示館だから現存する城ではないが、やはり織田信長の「清州」なのだと、まあ、そんなことを思いながら走る。
新川沿いを南下してみた。
過っての津島街道の分岐点の道標などもあった。きれいに整備されてはいるが、道標そのものは天明八年(1788年)当時のものだろうが、風雪に耐えたとはいえ文字は判読しがたい。
こういうものにちょっと立ち止まるのがおもしろい。

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川沿いの道というのは、どこまでも、どこまでも走り続けたくなるもので、途中に萱津神社などもあり、新旧交ざった民家があるのも、なかなかおもしろい。
白壁の土蔵と古い民家ばかりであれば、現代では「町並み保存地区」間違いないだろうが、そんな都合のよい町ばかりあるはずがない。

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新しくもあり古くもあり、さまざまに混在するのが現代の町なんだろうと、遠くに見える名古屋駅前の高層ビル群を眺めながら思う。
自転車に乗って走るというのは、歩くのとも車で眺めるのとも違った「別の」ものが見られるということなんだなぁと、そう思う。

次はもう少し先まで、知らない路地や知らない民家の立ち並ぶ道を走ってみようと思った今日である。25キロ走ったが、時速10キロ前後のゆるゆる自転車の日だった。

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2017.11.02

恋情

11月2日(木) 読書の秋ですから・・・

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「読書の秋」というが、先日何かで「活字を読むことが苦痛だ!」という言葉に出会い、たしかに視覚や聴覚よりも「色気」がないものだと変な納得をする。

「活字」が勉強の延長にあり、「知識」を得ようと頑張ると堅苦しく、こりゃあ辛いものだ。

小説は「人間の感情」のあれこれを体験するもの。
人の感性とでもいうか、心のいろいろを享受するものだと思えば、知識にならない知識として、実は自分自身を豊かにしてくれるものだと、そんなふうに思っている秋の夜長。

NHKの連続テレビ小説「わろてんか」の中で、純情一筋のてんちゃんが夢は何?と聞かれ「お慕いしている人と墓場に入るまで添い遂げること」という意味のことを言っていた。

愛しい人と一緒になり、一生を添い遂げるという、きっと現代でも結婚する彼や彼女が最初は持つだろう、永遠の愛情の姿ではある。

一方、夫唱婦随で人生を送った夫婦の夫が亡くなる。
いよいよ残された妻が死の間際に、最期のお願いとして「私の骨は夫と一緒の墓には入れないで欲しい」と遺言する。

渡辺淳一の小説だったと思ったが、いやはや怖ろしい。
実に人間の感情の表裏や複雑さをそうしたものから垣間見ることができる。
「活字」であるがゆえに、じっくりと感覚に伝わってくるのである。

さて、このところは松本清張の短編小説を好んで読んでいる。
芥川賞を受賞した作品とか、よく知られた作品とか、文庫本の短編集にいくつも収録されている。

「恋情」という初期の短編があるが、ここで語られている「愛する」ことの複雑さは何ともいえない読後感だ。

簡単に物語を言えば、時代は明治初期。
華族に生まれた主人公は幼い頃の許嫁の律子に恋心をいだくが、その律子は彼がイギリスに渡航してる間に、宮家のもとに婚姻させられてしまう。
絶望の淵へと落ちた彼は放蕩暮らしの三年後に帰国する。

帰国し彼が知るのは、宮家に嫁いだものの、幸せな暮らしを送っていない律子の姿だった。
だが、彼は律子が発表する詩歌のなかに、自分との思いが綴られていることを知る。
当時の社会は宮家からの離脱は夫の死をもっての他はありえない。

悶々とする歳月が過ぎ、ますます律子への思いを確信するがどうすることも出来ない。
そして彼は待つことを選ぶ。白髪の生える歳になろうとも、彼は待ち続けることに愛を確信する。だが、その思いは叶うことなく・・・

人はそれまでして愛する人を待ち続けられるのだろうか。
そこには、純愛と言葉で言い尽くせない、愛することの奥深さを見ることができる。
明治期はポジティブな維新ものなどが多い。その対比的主人公を描く、松本清張にもこういう作品があったのだ。

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2017.11.01

秋らしい日々

11月1日(水) 紅葉も少しづつ山から里へと下りて来る

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【庄内緑地公園のサイクリングコースにて】

自転車で庄内川の堤防をのんびり走り、およそ5キロほど離れた庄内緑地公園に向かったのが昨日。
昨日も今日も雲一つない青空が広がり秋らしい日だが、すぐに冬将軍がやって来るという。

いつものように、IPODのフォークソングを聞きながら、何をするわけでもなく、ただただ一人でのんびり走っていると、遠くの山並みが見えたり、台風で増水した庄内川が、それでも穏やかに流れている。
変わり映えのしない景色だからこそ感じる安堵感。変化しないことの平穏さ。

公園のさくらの葉もすこしづつ色づき、濃尾平野のここまで、秋の色がやって来ている。
どことなく寂し気な心持になるのは、若かりし頃に聞いたフォークソングの歌詞のせいか、一人で自転車を友に走っているからなのか。

やはり、秋という季節がそうさせるのか。
どちらにしても、こういう雰囲気のなかを誰と話すこともなく、ただ、のんびりと走り、ただ、昔のことを思い出したり、人生は傷つきやすいものだとか、いやいや、人生は多様性に満ち溢れているとか・・・
つまり、今を生きていることを無条件で受け入れることができる穏やかさともいえる。

自転車というものがもたらしてくれる、ある意味「至福」な時なのですね。

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2017.10.29

雨中の宮参り

10月29日(日) 初宮参りと七五三

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二週続けて季節遅れの台風となった週末。〇歳と三歳の孫の初宮参りと七五三で出かけた。

雨の高速道路、名古屋高速道路と知多半島道路を乗り継ぎ目的の神社に向かう。
雨の日の運転は辛い。視界が効かないのでスピードも控えめになる。
神社に着く頃には空もようも少し小止みになって、せっかくの晴れ着がと心配したが、ラッキーである。

〇歳の下の孫は無垢のドレスにくるまれ、上の孫は晴れ着に花飾りの髪が可愛い。
昔からの風習。正確には初宮参りは生後30日くらい、七五三は11月と言われてるから、二人の祝いを一気にしてしまおうという、合理的な方法で、それも現代。

神事、風習といったものも文化として考えれば、神も仏も信じない自分などは、ただただ無事に成長してくれれば何も言うことはない。
「老いては子に従え」とはよく言ったもので、子に孫が生まれ、そうして社会生活を始めたら、親面はどこかで引っ込め、ニコニコしていればいい・・・。

子どもが無事に成長しにくかった昔、童謡にある「この子の七つのお祝いに・・・」とあるのは、七歳になって初めて人の社会に加わることを祝う意味だったが、それも現代からすれば、ちょっと不思議なことだろう。

しかし、女の子というのは綺麗な晴れ着を身にまとうと、ぱっと華やかになる。何枚か写真を撮ると、そんな華やかな上の子ばかりになってしまう。
1人目の子は写真もいっぱい、オモチャもいっぱい、周囲もいっぱい目をかけられるのに比べると、下の子は親の子育て経験値も増え、ほどほど感もでてくるなかで育つ。
どちらが良いと言うわけでもないが、それぞれの環境のなかで、それぞれ歩んで行くのだろう。

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2017.10.25

冬の兆し

10月25日(水) めだかの養子縁組

一昨日の23日は暦でいう二十四節気「霜降」の日だった。「秋気が去って冬の兆しあり」という。
暦は季節を先取りするものだったが、もう秋の季節が短くなって、あっという間に冬がやってくる。暦どおりではダメでしょう。

台風と総選挙が日本列島を駆け抜けて行った。政党政治の劣化というか政治そのものが、どこか庶民と違うところで数の論理ばかりが先行するように思う。
日本国民の半数近くの人が「政治」が身近なものでない現実。数字というのはマジックだと思えてならないが・・・。

台風と選挙で一色に染まる日本列島だったが、庶民は庶民で小さな我がごとに日々を過ごしている。
めだかが二匹になったと思ってた先日、四匹がいるのを確認できた。
鉢の底に深く潜行して晴れる日を待ち望んでいたのか?政治に対する日本国民の意識と同じような気もするが、それはさて置き、六匹ほど妻が知人からめだかをもらい受けたので十匹ほどになった。

もう産卵期は過ぎて、さてこの冬を無事過ごせるかである。「冬来たらずば春遠からず・・・」ふむ、ちょっと早い言い回しだ。

10日ほどブログも更新しない間に、雨と風を避けながら北側のワンルームの建築が進んでいる。
基礎にひと月、構造体にひと月、早いものでその変化が面白い。工場で作った造作物をあっという間に現場で組み立てる。昔の湿式の現場作業と雲泥の違いがある。

もっかの自分の関心事はその「壁のパネルの色」である。
願わくば「明るい色」にして欲しい、反射光で部屋の明るさが違ってくる、がとやかく言う立場でもない。

考えてみれば、建築主は思い思いに建築物を建てる。ピンクのド派手な壁の色や蛍光色の壁の色、いろいろな思いで建てるがその地域性みたいなものに溶け込む・・・ということは別問題のようだ。
もっとも住宅会社の均一な家が良いともおもわないが、要は自分の家であり地域の景観であり、家はその住む人の思想が全面的に表れるのだろう。

さて、そんなここ何日間といえば「孫の守」に出かけたりする合間をみて、「めだか鉢」の防寒防雨の鉢蓋つくりに四苦八苦して、透明のプラ板を二重構造にしたものを作り上げた。
なかなかの出来だと自画自賛するのは誰も褒めてくれないから(笑)

自転車のバックのショルダーベルトの変更、プラスチックを外し「Dカン」を取り付け、脱着を容易にするもの。「Dカン」は380円、ネットで注文し、これもなかなかの出来になった。
まあ、こういうマニアックなことは写真でも撮れば説明の必要もないが・・・。

なかなか天候が不順だと晴れた日には用事があり、雨の日は暇になるなど、思いどうりにはならないものである。
思いどうりならないと言えばカープファンにとっては残念なCS結果となった。ぶっちぎりのペナントレースの勝利が短期決戦のCSで・・・、なんとなく寂しい秋の暮れである。

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2017.10.15

歩く

10月15日(日) 三日坊主でいいじゃない

夕食のヒレカツとキャベツのサラダとスープをゆっくり食べ終わる頃に窓の外の雨もほとんど降りやんだ。

「糖尿病なので歩こうか!」と、いや正確には「糖尿病予備軍なので」だが、すこし秋も暮れかけた戸外歩きをする。3キロほど。

昨日も同じように「さあ糖尿病なので・・・」とカミさんと連れだって5キロほどの道を歩いた。
キンモクセイの甘い香りがしてくるが暗くて花の香の所在がわからない。
昼間なら気にもならない工場に灯がともり、工場の中の機械類や車などが目にはいる。

先週は所用もあって2時間半ほどの距離を歩いている。
もっとも休憩なしに歩き詰めると、さすがに足も痛くなったが・・・

自転車一辺倒の暮らしに「敬老パス」のおかげで、地下鉄、JR、名鉄、あおなみ線と電車に乗る機会も増えた。
列車だけでなく市バスも一時間に1~2本と少ない時刻表にあわせて利用するようになった。

昼間の利用者はお年寄りが多い。「敬老パス」を改札にタッチするとランプが点く。
少し気恥ずかしさがあったが近頃ではやっと慣れた。
そして「歩く」ことも以前よりは増えた・・・「糖尿病だから」というのが口癖になっている昨日今日である。(笑)

明日も歩けば三日目になるが、あいにく雨模様となりそうで、そのまま休憩になるのか・・・。
カミさんに「三日坊主どころか二日坊主だなぁ~」と言えば、「三日坊主でいいじゃない、三日で休んで、また始めて、また三日坊主でも」と。

ほどほどに力を抜いて、焦りもせず、ストイックにもならず、そうして知らぬ間にじわじわと「糖尿病対策」になればいいってことか。

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2017.10.10

生活習慣病

10月10日(火) 糖尿病検査と注射

7月に受けた人間ドックで「糖尿病の疑い」の結果がでて、10月初旬に再検査をした。
糖分たっぷりの飲み物を飲み、一定時間経過後の血液検査で、4回もの採血をした。
つまり4回も注射を打たれ「ちょっとチクッとしますからね~」と優しく針を刺してくれたが、どうみても注射は痛い。

ブスリと腕に刺す瞬間は見ないことにしてるが、「私はしっかり見るわ」と妻が言う。
もっとも、そういう気丈な患者には看護師さんも緊張するらしいというが、本当か。

血糖値の数値が良くない結果がでてから、足がしびれるような気が、眼圧が上がって視力異常が出た気が、食後の気怠さが半端ない・・・と。
あれもこれも「糖尿病」の症状だと言い続けていたら「まったくもう、暗示にかかりやすいんだから~」と笑われる。

自分の体の症状についてはほとんど自信もなければ自覚に乏しい。
それをして「暗示にかかりやすい」ということらしい。
若い頃献血をした時、なぜかふと針が血管を突き破り全身大量出血して失血死するんじゃないかと妄想した挙句、くらくらとめまいがしたことがあるが、あれからどうもトラウマのようだ。

暗示にかかり易いから「癌の告知はされない方が身のためだ」と本気で思っている。
もっとも「暗示」といっても政治とか宗教とかそうしたものの「暗示」には滅法強い自信はある。

さて、その再検査の結果を聞くために今日は通院をした。
血糖値は標準より高い。血糖値を下げるための肝臓からのインスリンはそれなりに分泌されているが、血糖値が下がるのが緩やか。
肝臓も一生懸命頑張って仕事をしているが、いかんせん緩やか。

つまり100%の糖尿病予備軍には違いないが服薬治療するほどではないらしい。
血糖値が上がらないように食事量と摂り方の改善が必要、筋力を増やす運動も必要、年に数回は血液検査をすべし。

「糖尿病の要観察者」ということになるが、高血圧、糖尿病といった成人病とは無縁な人生だっただけに、いやはやなんとも。
そういえばこの春から夏にかけて自転車に乗ることも減り、やはり運動量そのものが落ちてきたから・・・ここは一念発起して!!清く正しい一票とともに、清く正しく健全な生活習慣を作らねば。(笑)

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2017.10.04

あ~ぁ壊滅!

10月4日(水) 月見上げれば十五夜の輝き

今日は十五夜だったわねぇ~運転してて見られなかったわぁ~と妻。
月を見上げて何かを思うなど、暮らしの中から遠のいた。
ススキと月見団子も。

気が滅入ってしまう。あ~ぁ、とため息が漏れてくる。
20匹以上が泳いでいためだかの稚魚が3匹まで激減した。

数ミリほどだから鉢底に横たえてしまったのだろう見当たらない。そればかりか成魚も今朝5匹までになって、壊滅的なめだかの生育状態になってしまった。

きっと孫に話したら「めだかさんお空に行ったんだよね」と言うだろう。
今夜の十五夜はとてもきれいだから、丸い月でゆったり泳いで遊んでるのだろうか。

一昨日は激しい雨が降り、急激に気温も低下した。
厳しい環境下で体調も壊したのか、それとも飼育方法にどこか間違いがあったのか・・・

「自然淘汰、サバイバルに生き残らなければ・・・、我が家のアロエは大雪にも耐えて今があるのよ。めだかも強くなけりゃだめよ」
いやはやごもっとも!などと滅法強気な妻だが、そのくせ自分の仕事では弱音を吐いている。

ホームセンターやペットショップで売られているめだかだから、清流の川底などで強く生き抜いていためだかとは違うのか・・・

成魚も稚魚も強いのから弱いものまで、個体の違いはあろうが全部来春まで生かそうと。
一匹たりとも死なせるまいと、意気込んだはずがこの様なので、めだかも産卵して自然に死ぬのは致し方ないとしても、やっぱり、あ~ぁ!なのである。

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2017.10.01

自転車専用レーン

10月1日(日) シンプルで安上がりで、なかなかベターだと思う!

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今日は用事で区役所まで行く、もちろん自転車で。
役所の「日曜窓口」の日だったので、普段は窓口も混むが、ほとんど待ち時間がなかった。

本来は平日に来れない市民のための「窓口」だから、平日に行ける自分などは「おまけのサービス」のようなものだ。
経済の活性化?あらゆるものが24時間365日の不夜城と化す傾向にある。

しかし、そこで働く人は健康で文化的に暮らす環境から、家族生活もバラバラの時間になり、「一家団らん」も遠のき、健康的でいられるのか・・・。
便利さを追い求めるのはいいが、結局自分の首をしめることにならないだろうか?

そんな訳で区役所を後に、少し遠回りをして自転車を走らせていたら、自転車専用レーンを発見した。
これはいい、シンプルな自転車専用レーン。以前はなかったのでいつ作られたのかと思う。

市内の伏見あたりある幹線道路の「自転車道」は柵に囲まれた立派なものだし、高架が走る江川線道路の「自転車道」は歩道を整備し、そこにを「自転車道」としている。

こうした歩道上の「自転車道」や車道に鉄柵で分離した「自転車道」はものすごく立派で費用もかかっていそうだが、この写真の自転車専用レーンは車道にペンキで記しただけのものなので、経費の節約になっている。

自転車レーンは多大な税金をつぎ込み立派でなくとも、公道をペンキで表示し、車と自転車をすみ分けシェアするという、至ってシンプルなものでいいと思う。
自転車マークと矢印で右側通行の違反自転車との接触もなさそうだ。
車の違法駐車の防止にも役に立ちそうだ(事実、この先のレーンのないところでは車が違法駐車していた)。

ただ残念なのはレーン自体が数百メートルで終わってしまうことだ。
この道が比較的車道幅があるために設置したという意図はわかるが、市街地であっても、こうした公道の自転車と車の「すみ分け」の発想が基本じゃないかと思う。
費用(税金)をかけない自転車の走る道(レーン)ならば、もっと増やすこともできるのではと思うのだなぁ。

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2017.09.29

推理小説

9月29日(金) 松本清張「黒い画集」

図書館で貸出延長していた松本清張の「黒い画集」を読み終えた。

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昭和30年代に発表された推理小説の古典とでもいうか・・・
7作品700ページの文庫本で読み応えがあった(時間的にだが)

これまで推理小説というジャンルはほとんど読んでこなかったが、謎解き小説のおもしろさはたしかにある。
全編ほとんどが殺人事件であり、おもしろいのはその動機が男と女の愛憎で、今日的に言えば「不倫」がその動機付けであり、今も昔もそこらあたりに潜むのは暗いイメージであり、あるいは反社会的な行為の背景にある満たされない生活からくる情念のようなもの。

肯定はしないけど、人はそこまで思い込むことが出来る!というあたりは、情感として理解できてしまうので・・・これはヤバイ(笑)

一人の作家にとりかかると、その作家の作品を出来るだけ読もうとしてしまうのは性癖なのかも知れない。
たくさん読むと、つまらないと思うものにも遭遇するが、その作家の世界観のようなものが見えてくる。

代表作や知られた作品だけでは、何かしら「まだ知らない部分」があるのではと思えてくる。
そうしたものがあればあるほど、もう少し読んでみようかとなる。なければ、まあこの数冊でお終いだな、となる。

小説を読みながら、この作家が何を世に問うているのか?と、そういうことも考えてしまうので、ある意味「不純」な小説の読み方なのかも知れないと思う。

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