2017.09.21

自転車の保険

9月21日(木) 名古屋市で自転車保険の義務化

高齢の義母から自転車保険に加入しないとダメらしいと連絡が入る。

この10月1日から市の条例で自転車に乗る人は損害賠償保険に加入することが義務化された。
近年、自転車の交通事故が増え、損害賠償額も大きなものになるケースがあり、まあそういう危惧から、保険加入を義務化する条例らしい。

この話は以前から聞き知っていた。ちなみに私自身は加入していないし自動車の保険の特約事項にもないが、幸いにも妻の加入する自動車保険の人身保険特約が自転車事故保険を対象としており、家族も対象になっているので問題なし。

自動車を運転しない義母は「はてさてどうしたものか?」というわけだ。
ちなみに市外在住者であっても市内で自転車に乗る場合はこの条令が適用されるという。
ただし・・・、ただしこの条例では「罰則規程」はないので、義務化というが罰則のない義務化という、ちょっと不思議な関係にある。

もっとも日頃自転車をよく利用する義母や我が家のように気にかけている人にとっては、「健全な市民生活」を忠実に守ろうと気にするが、全般的には認知度は低いだろう。
「今度、名古屋市は自転車保険義務化の条例ができたので・・・ほれ、これですよ!ついてはおばあさん安い保険がありますから~ひひひ」なんて「自転車保険詐欺」など発生しなければいいが。

自動車に自賠責保険が強制されているように、軽車両の自転車も保険に加入することは不思議ではないとは思う。条例ではヘルメット着用や安全運転注意なども努力義務としている。

こういう自転車の安全にかかわる条例は、それなりに意義あることと思う。
が、相も変らぬ右側走行やスマホ片手にや猛スピードの歩道走行など、条例の趣旨を生かす自転車ライフが遅々として進まない現状。

実際の危険運転の防止にあわせて、道路の自動車と自転車のシェアという概念すら少ない道路交通政策、自転車レーンの設置(あの歩道にラインを引いて自転車を!じゃなくて)など、文字通り「自転車先進都市」名古屋への抜本的な議論が必要じゃないかと思うのだけれど・・・

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2017.09.20

近頃おもしろかった記事

9月20日(水) 本能寺の変

ボランティアの会議で午前中は慌てて出かける。日常の時間のリズムとは違うので、けっこう疲れたりするが、真面目に向き合う人の輪のなかで、これも日頃とは違う脳の使い方となる。

「恋々としがみつく・・・」社会的な地位や功績など、他者の評価を得てきた人ほど「去りぎわ」が難しいと思う。
「自分が自分が」と自分のことだけで精一杯になってしまうと見えるものも見えなくなる。

そういう立場にない自分は来いと言われれば行き、来なくて良いとなれば、また元の場所にもどるだけだけれど。

などと思うと、あの織田信長という人物は「自らを去る」などということは意識のなかにこれっぽっちもなかったのだろうな、権力者の常として。
今日の新聞に室町時代の水墨画家「雪舟」の作品が何十年ぶりかに再発見という記事があった。よく知らない画家で、そこにはあまり興味もないが、時代を超えて作品が残っているということのほうに興味を持つ。

発見といえば、こちらの方が興味深い話題で、本能寺の変ののちに明智光秀の書状が見つかったという記事。
信長に反旗を翻した光秀の「動機」については「権力欲説」「信長への私怨説」「足利義昭との密通説」、説はいろいろあるが、義昭との内通説を補完する書状なのか・・・

もっとも、歴史は英雄で語りつくせない。英雄史観の背景には、その時代々々には名もなく貧しい庶民の暮らしがある。

ただ、歴史を知り得るには「貴重な資料」なのだと思うと、たとえば「信長公記」のように、その権力を得た側が作り上げる英雄や史実というものがあるが、知られざる真実というものが掘り起こされるのは、現代から遡及しても価値があると・・・

昭和史、戦争の歴史、まだまだ隠された事実があると思うと、文書や文字による歴史的資料は探しても探したりないことはないと思う。

人は忘れやすい生き物で、白いものも黒いと言い続ければ黒くなるとは、かのヒットラーの言葉だし、自分の経験した事柄であっても記憶がおぼろげになるのであって、事実を事実として知ること、残すことの大切さだと思うのであります。

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2017.09.18

台風去りて

9月18日(月) 松本清張の短編集を読む台風の日

久しぶりに暴風の強い台風だった。通風孔からゴォーと風の音が聞こえるたびに、十数匹まで増殖した、めだかは生きてるかと窓から鉢を確認する。

「めだか、めだか」と毎日言ってると「何がそんなに・・・」と妻が言う。
あることに執念を持つ、別な言い方では「拘り」。そういう種族は概ね「変人」と言っていい。
「変人」というのも人を表す「属性」の一つである。

芸術というのも一つの属性に違いはないが、そうした「属性」を取り払ったときに残るのが人間の「本性」で、それが豊かなものかどうか?
「肩書」ほど人の本性を見誤らせるものはないが、それでも人はいろんな属性を好み、時には没頭し、命を懸け、人生をかける・・・

というわけで、台風を前後した二日間。松本清張の短編集を読む日々となった。

Img20170918_04410年ほど前に発行の文庫本なので赤茶けて活字が小さい。最近は小さい活字が読み辛くなった。

12編ほどの短編が収録されてる。その多くが学芸を職業とする・・・つまり学問と芸術を「生きる」主人公の物語といえる。

民俗学、考古学、詩歌、絵画、そうしたものに生活の全てをかける人が、現実社会から疎外され、あるいは受け入れられない「才能」に苦悩するという、いわば「不幸」を登場人物から知る。

現実から乖離する暮らしを支える「女性」が彼らを、かろうじて「実生活」に引き戻すあたりは、なんとも男女参画共同社会の今日からすると古い時代背景があるが。

学問・芸術はいつの時代も暮らしとの浸透性が少ないものであるが、そういう学芸という属性を引き剥がされて残る人間性がどんなものか?あまりにも薄っぺらなものだけが残るとしたら、はたして学芸そのものに、「人間」に迫る「才能」が本当にあるのだろうか。

・・・と、まあそんなことを思いながら、雨と風の台風の日を過ごしていた。
めだかは、成魚も稚魚も流されることなく台風一過のちょっと暑さの戻った秋晴れの空の下で元気に泳いでいた。
めだかはめだかであって、修飾はなくてもいいじゃないか。

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2017.09.15

竹とシュロ

9月15日(金) あれやこれやの暮らしの一コマ

「日程が違うのでは?」とメールが入る。
そんなはずじゃないと確認すると「9月23日(日曜日)」とある、あっちゃ~!土曜日だった。
予定変更の連絡を慌てて数件入れる。
日付けや曜日の感覚もズレが生じる退職後の人生なりぃ~(笑)

週末には台風が日本列島を縦断するという。家の窓側に張ってあるシェードを外す。もう真夏の強い日差しもなくなって、そろそろ遅れ気味な「秋支度」という季節感。

台風といえば、めだかの雨風対策用に、京都産のなんとか竹四本とシュロで編んだ紐をホームセンターで購入。合わせて1000円もしないので小遣いの範囲。

Img_000130センチと40センチほどに竹を切り、シュロの紐でつないで・・・睡蓮鉢の竹蓋の完成。

重さもあるので少々の風と雨ならは防げるだろう。
屋内に退避させればよいが、なかなかの重量で寄る年波の腰痛が怖い。(笑)

重量といえば、孫の三歳児検診があるので来て欲しいと。
来いと言われればホイホイと返答する退職後のわが身。

大ちびちゃんと小ちびちゃん。三か月の小ちびちゃんも重くなった、抱いてて寝ると途端に重くなるのは何故だろうなあ~(全身の力が抜けるからか)

で、大ちびちゃんが帰りがけに「おじいちゃん名古屋に帰ってダメ~」と大泣きして何度も連れ戻そうとする。「良かったねぇ~」と娘が笑いながら言う。
そういう世界を経験できる幸せなのだろう。もっとも3歳児の記憶には残らないだろうが(笑)

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2017.09.13

堤防道には秋の風が・・・

9月13日(水) 行ってみたらコスモスの季節だった

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夏草が背丈ほど伸び、庄内川の堤防道をおおう程だったが、普段なら見えない川面が見えるのは、昨日の雨で増水しているからだろう。

堤防道を自転車で走ると秋の風が心地よい。ビルの合間のアスファルト道では、この風は感じることができない。

自転車はある種の瞑想の時間のような気もする。日常のリズムからたしかに切り離された時間。
人はときどき「人社会」からほんの少しかけ離れた時間も必要だと、一人サドルの上で沈思黙考すると、子どもの頃や仕事に追われていた頃や・・・特に今思考する必要もないあれこれが、流れるように思い出されるのも、それも必要なことかも。

都会の街中ではやはり得られないのだと思う庄内川の堤防道。一本のヒコーキ雲がどんどんと伸びて、秋の空に映えていた。

庄内緑地公園のコスモスが風に揺れていた。繊細な見かけよりもずっと強い花。
その向こうには季節を終え枯れた向日葵が寂しそうにうつむいている。
やはり季節の変わり目なのだと。あの伸びた夏草ももうすぐ刈り取られ、曼殊沙華の紅い花も咲き始めるだろう。

自転車がパンクしたと思った昨日。よくよく調べるとタイヤチューブの仏式バルブのネジが緩み空気抜けしていただけだった。
自転車もしばらく乗っていないとバランス感覚が悪くなる。

ドカッとサドルに腰をおろして、やや大股で膝を曲げてペダルをこぐ・・・あのママチャリスタイルでは乗れないし、逆に危ないので、ペダルとサドルとハンドルに体重を分散して、しっかりと顎をあげて前方を見る。

自転車に乗ることが「老い」に抗しているようにも見え、可笑しく思える。
20キロほど走った。途中で缶コーヒーを買い、しばしベンチでぼんやりとする。
「意味」を求めれば答えもなく、「暇人」といえば言えなくもない20キロ。
何も求めないところに穏やかな自転車ライフがある。

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2017.09.12

今日の出来事

9月12日(火) 雨のち曇りのち晴れ、湿度高し・・・

雨降りなので自宅裏の工事は一休み、窓から眺めると掘り起こされた土に重機のキャタピラー跡が残り水溜りになっている。
何気ない土模様だが、普段はコンクリートばかりで「土」の顔が見えたような気がした。

朝方はけっこう激しく降った。三つほどある睡蓮鉢の一つは満杯の水が溢れている。
幸いにも「めだか鉢」はすだれを掛けてあり余裕があったので大丈夫だった。

稚魚が5匹いるが大雨だと流されそうだ。ビニールシートをかけてみたが、どことなく風情がないし、真っ暗な鉢の中ではめだかも辛かろう。
情緒ある秋のめだかの演出にあれこれ無い知恵をしぼるが・・・知恵も出ない。

夏の暑さ対策はなんとなく分かった。大雨ましてや台風時の対策は試行錯誤中である。そうして、数か月も過ぎれば雪や凍てつく水温の対策も必要になるだろう。
「めだかと暮らす」とはこういうことだと肌身で実感する。

雨あがり。ビニールシートを外すと、黒と赤のめだかたちが元気に泳ぎだした。
めだかが元気だと、その元気さに共振するわが心ってわけだ。
・・・またまためだかの話題で恐縮だが、なんとしても来年の春先まで成魚9匹と稚魚5匹を死なすわけにはいかないと、けっこう本気モードなのである。

というわけで、雨対策のよい方法はないか?と「100均の店」で物色しようと自転車を出したら、なんともまあ前輪がパンクしていた。やれやれ明日はパンク修理しなければ。

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2017.09.09

めだかと蛙と本の秋

9月9日(土) 生き物と一緒に暮らしているという安らぎ

まずは蛙の話から。めだか鉢に蛙が入り込み、これで2度目になる。
水草の鉢は他にあるが、好んでめだかの棲む鉢ばかり入り込む。

蛙はめだかを捕食するのか?昆虫などを餌にするのが常だが、どうも喰うらしい。
数匹の成魚の失踪の原因は、この蛙かもしれない。捕まえようとするとぴょんぴょん逃げる。

タイヤの下で一休みし、またぴょんぴょんと跳ねる。蛙の冒険もよいがめだか鉢はご遠慮願いたいと、田んぼに逃がしてやった。
余談だけど水上勉の小説「ブンナよ木から降りてこい」が思い出される。

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【蛙の眼のなんとも言えぬ可愛さ (笑)】

さて、そのめだかだが、このひと夏で成魚は四匹まで激減し、数ミリだった稚魚は一匹を除いて全滅してしまった。
生存しにくい生物は多産だと事実を持って知った。たかだかめだかといえど生きるというのはしんどいものである。

めだかの産卵期は春から初秋の頃のようだ。秋にしっかり栄養を蓄えて冬はじっと水底で動かず冬を越す。
4匹の性別不明の個体から、新たに数匹稚魚が生まれた。鉢も大きくしたのでもう少し個体数も増やして、成魚、稚魚とも秋の風情を親しんで越冬して欲しいとの思いだ。

先日、黒めだかを5匹買った。あわせて600円であった。もっか9匹である。稚魚が4匹ほど泳いでいる。
最近はめだかと格闘しているといっても不思議じゃない。(笑)

犬も猫も蛙もめだかも生き物が好きだ。生き物が暮らしやすい環境は人も暮らしやすい環境だと思うと、子どもの頃に蟻と遊び蛇や蛙や鳩や・・・そうした生き物が身近な環境から、大人になり多忙になって「世話ができない」暮らしとなり、身の回りの生き物は「人間ばかり」になって、どことなく窒息しそうな現代社会。
なんとまあ、バランスの欠いた生活環境ではないかと・・・

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【めだかが元気、自分も元気!ながめるだけで元気に!】

使い古された言葉だけど、どことなく季節の味わいの残る言葉「読書の秋」。
恒例の図書館通いの日。松本清張の文庫本を四冊と新刊本一冊を衝動借りした(買いではない、笑)

ここ何年かは本は借りるものか古本屋で100円均一がほとんどになった。
小説もペーパーからWEBで読む時代になり、本が売れないのはそんなところにも一因があるのか。
活字とくに「ぐだぐだ」と字ずらが並ぶ本ってのは、超スピード社会では「めんどくさい」のだろう・・・論理的に考えるよりも感覚的・視覚的に入るものが好まれるのも一理あるかな。

良い文章に出会って「ハッとする」ことや、知らない世界に入って四苦八苦しながら読み進めることの面白さが本の醍醐味だとしたら、これって実は人間が日常生活のなかでの喜怒哀楽の心の動き方や理屈っぽく考えたりするのと同じ構造のもの。

つまり、人の思考は文字を介在して頭の中で再構成する・・・想像力なんてものは、思い付きや直感とか感性などという「不確かな力」が原動力とは思えない。文章が読めなくなるというのは、文字が苦手になるのじゃなくて、頭の方が文章のリズムに合わなくなるってことか。

思考力が低下しているときは、その低下に応じた表現しかできない。
どこかで人知れずコツコツと「豊かさ」を学んでいる人、誰に伝えるわけでもなく、コツコツと頭の体操を続けている人。
そういう人が何気なく話す言葉の端々から豊かさが滲み出る・・・人間味。

なかなかなれないけど、そんな人もいる。だから、そんな思いを持って、たいして「役にもたたない」小説などを読み耽る秋!

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【なんでもよいから活字を読め!先輩の矜持だったなぁ】

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2017.09.07

神々の国

9月7日(木) 気晴らし読書

この夏はまともに読書ということも少なかった。

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子どもむけの絵本を読み聞かせ・・・、というよりも、適当に登場人物などを作って、話も超短縮して孫に読むと、意外と「受ける」のもわかったが、それにしても今年は活字から遠のいた夏だった。

前回の8月、図書館で借りた四冊のうちの2冊がこの聖書物語(旧約・新約)。

アダムとイブから始まる人間と神の物語が旧約ならば、新約はイエス・キリストの生誕から始まる物語だ。

気晴らしでほどほどに読んでいたが、挿絵の宗教画がおもしろい。古典の文書に沿って忠実に描いたのだろうが、そのエネルギーには「聖書」には縁遠い僕など、やはり面白いのである。

神々の国の歴史という「文化」としては、物語性のおもしろさ。人間が創り出す人間に似た「神」の姿を想像する楽しさといったら、キリスト教関係者に失礼だろうか。

まあ、日本に根付いた信仰心が、自然界に生きとし生けるあらゆる生命を根源としているとするならば、その自然観の違いが、その違和感としてあるのだろうが・・・

ほどほどに気晴らしに読む「神々の国」の物語としては、おもしろかった。
さて「読書の秋」もやってきたので、さしずめ松本清張の続きから始めようか・・・よく知られているがまだ読んだことの無い作品たち、こういうものの中からお宝発見と行きたいなぁ。

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2017.09.03

ライラックの樹の下に・・・

9月3日(日) めだか鉢の棲家

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【ペンキ塗りたて中】


やっと朝晩が過ごしやすくなり、空は秋模様の季節になりました。
ちょっと日陰に入れば涼しさも感じ、自転車を走らせれば心地よいです。

孫たちのプチ実家帰りがあると、途端に家中が賑やかになり、子どもを中心の日常になって、なかなか落ち着いて「ものを考える」時間もなくなります。

子そだて世代の方々が「生活に追われる」というのは、こういうことなのでしょうね。
「少子化」が云々されてるが、子育て環境が改善されることが大きな問題だと。

睡蓮鉢でメダカを飼っているが、10号サイズではちょっと不自由そうで、おもいきって14号のものに買い替えました。そこにホテイアオイと名前の知らない水草を入れました。
カーポートの隅に排気ガスにまみれているので、この睡蓮鉢の置き場をあれこれ考えて・・・

玄関前のライラックを挟んで、その下を「棲家」にしました。
狭い敷地をなんとか工夫して、ときには葉陰ができるように、ときには陽も当たるようにと、努力するほどに、卵の孵化がうまくゆきません。

余っていた「2×4材」の端材と新品一本でメダカ鉢置き場が出来上がりました。14号の鉢の直径はおよそ40センチ、水も16Lは入るでしょう。
以前よりもはるかに、のびのびと泳いでいるのを見ると、とても可愛いものです。

夏の暑い時期が過ぎ、秋の過ごしやすさは人間もメダカも同じようですが、順調にこのまま冬を越せるのだろうか、稚魚も生まれるのだろうか・・・
思うに動物も植物もその命を大切にし、人との生活環境で共存するには、それなりに努力が必要なのでしょう。これも人の側の「人生哲学みたいなもの」なんでしょうね。

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2017.08.27

プチ ビフォア・アフター

8月27日(日)週末DIYでペンキまみれ

暑さが少しだけやわらぎ、曇り空も広がった土曜日、さっそく購入したペンキでラティスフェンスの塗装をした。さしずめ「化粧直し」ってところ。
しかし7~8年前にホームセンターで買い、ほとんど何も手入れをしなかったラティスフェンス。

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痛みと老朽化が激しく、木のぬくもりどころか、汚れで黒ずんでいるから、たわし程度では落ちない。
高圧洗浄機を持ち出すのもめんどくさいので、「まっ、いいや」とズボラ精神を発揮する。

しかし、北側の日当たりが少なく、普段はほとんど気にもかけないところなので、まあよく持ったほうだと思う。
何事もメンテナンスを怠るとこういう結末を招くのは、人体も同じことなんだろう。

「ちょっとグラッとくるぐらいが、泥棒も乗り越える気にならないからいいのよ」と妻はいうが、見るからにボロボロで、想像以上に劣化しているのである。
気を取り直してとりかかる。

全部で8枚ほどのラティスを元々のアルミフェンスに括り付けて目隠し程度の意味合いだったが、この網の目のような構造物のペンキ塗りは、思った以上に手間がかる。
板塀のほうがよほど楽であり、まあ、言い出した手前放り出すわけにもいかない。

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土曜日に一日かけて半分ほど処理したところで、ペンキ0.7Lを使い切る。
あわてて買い足して、翌日曜日に後半戦の段取り。

プロのペンキ塗りの仕上がりの綺麗さにくらべると格段に雑である。もう疲れてくると「色が付いてればいいや~」と妥協する。

何も芸術的ペンキ塗りを求めてるわけではなく、ただのペンキ塗りなので・・・というわけで、処分寸前のTシャツと短パンの職人もどきのスタイルで、今日はペンキ塗りの日曜日となった。

しかし終えてみて、けっこう雰囲気が一変した。明るくなったし、ボロボロ観がなくなった・・・のは内側で、はてさて外側から見れば「汚いフェンス」には変わりないってことだが。

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2017.08.24

風と光と土と

8月24日(木) 猛暑で熱中症になりそうな日

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熱中症になりそうな場所はトイレ、なにせエアコンがない。トイレのドアを少し開けて部屋からの空気を取り込むが、気を遣う人がいればそうもできない。(笑)

住居の北側の駐車場が撤去されて、ワンルームマンションを建築すると挨拶があった。
密集する住宅事情、いよいよ道に面した南側以外は住宅に取り囲まれる。
都市の住宅事情とはいえ、この更地となった空間が名残惜しい。

芭蕉の「住居は夏を旨とすべき」という言葉に従って、制限ある条件のなかでも窓を広くとり採光を気にした。風の通り道を確保して大きな窓をつけ、一つの部屋には二つの窓をとった。

夏の暑さ、湿気の多さが厳しい日本の気候だから「夏を考えて」というのが芭蕉の言うところだ。
土地を見つけ、マンションの日差しの長さがどれほど及ぶのか、隣地との空間は「うなぎの寝床」とはならないか、概ねそういうふうに自宅の位置や間取りを考え、素人の自宅設計図を何枚も書き、住宅会社にお願いした。

予定通りの家が建ち、近くの田んぼは季節の生き物が生息し、そこそこの隣家との空間も確保し、風が抜けるから、エアコンもさほど使うこともなかったが・・・

田んぼの半分はマンションになり、北側の駐車場空間も消滅し、何よりも思うのは、都市全体のヒートアイランド化。
窓を開けても熱風が入り込む。もう広い敷地を確保するか、遠く田舎暮らしをしなければ、住宅事情というのは好転しないのだろう。

とは言え、住めば都、住めば故郷なのである。
密集していても、お隣さんの外壁が明るい色に塗り替われば、我が家も明るくなる。
シェードを張れば夏の日差しもやわらぐ。狭い玄関先でも植物があれば・・・最近は「めだかが居れば」だが、そこには、無機質でただ「住所地」という住居も、どことなく穏やかになるのである。

家は自分が住むところであり、家族が生活する場所であると、庶民の私は考えているので、ここが「終の棲家」となるだろう。

余談だが何十年ぶりに学校時代の同級生から連絡があった。彼いわく「断捨離」を実行して、身の回りの物を全て処分したと。
もうそういう歳になったのだと、「終」に向かって生活そのものを再構成する時期に入ったということだろうか・・・(ははは、何もしないということじゃない)

さて今日は久しぶりに「100均ショップ」でペンキ用のバケツと汚れ落としのための亀の子たわしを買う。その足でホームセンタに行き、アイボリー色の水性ペンキを購入する。

で、何をしようとしてるのか。
北側の更地となった境界に立てたラティスフェンスの内側だけ塗装するためで、これは暗くなりがちな北側の窓から、太陽光の反射で採光を良くするため。
もっとも年季の入ったラティスなので、失敗しても惜しくないというわけだ。

都市部の住居環境は年々厳しくなって来てると実感する。
その厳しさの中のほんの少しの隙間を見つけ、ああでもない、こうでもないと、季節感を取り込もう、暮らしている実感を感じようと。
なによりも、こうした住宅事情であっても、住めば都で住めば故郷にしよう、と健気な努力をしていること・・・それ自体が自分は楽しいのである。

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2017.08.21

ビオトープ

8月21日(月) ホテイアオイの花が咲いた

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めだか鉢の水草(ホテイアオイ)に花が咲いた。なにか幸運が訪れるような・・・
水にふわふわ浮いて、この暑さのせいか、めだかもじっと根元に潜んでいる。

「ビオトープを楽しむ」という言葉に出会ったので、妻に「なに、これ?」と聞いたが「さてなんでしょ」と。

さっそく調べると「生物の生息空間」ということらしい。
つまり命ある生物が自然な環境で生育することってわけで、玄関先の花壇のそばの睡蓮鉢にホテイアオイが浮かびめだかがときどき顔を出して、小さな魚と植物に限られてはいるが生息環境を保持している。

ありのままの自然環境ということでもある。これは小さなビオトープ。
我が家の近所の田んぼには蛙もザリガニもアメンボも生息し、近頃はトンボの姿も見かけるようになったが、田んぼや小川などもビオトープの一つだろう。

都市部では自然環境も限られて、本当の手を加えない自然などなくなったが、人の手で生物の生息環境を大切にするのもビオトープ。

ある意味、人工的な生息環境の再構成であるが、田んぼも小川も池も都市部では宅地化され消えてしまう運命にあるならば、たった小さな睡蓮鉢であっても、そこに生物が息づく姿を見るのは、とても心地よいものだと思う。

そう言えば、もう稚魚は生まれない「めだかの女学校」になったと思っていたら、ホテイアオイの根に卵が産みつけられ、1ミリあるかどうかほどの稚魚が3匹泳いでいるのを発見。

大きな睡蓮鉢を増やし、めだかが夏から秋、秋から冬を越せるのか・・・どうやら、妻はこうしたビオトープ環境つくりには反対しないようなので、ほんの小さなめだかの生息環境つくりを勉強してみようかと・・・

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2017.08.20

ペンキを塗る

8月20日(日) 屋外収納ボックスの再生

晴れの日曜日、めだか鉢の水替えをしようとしたら、なんと大きなトノサマ蛙が潜んでいた。
めだかが喰われたかと数えてみたら大丈夫。蛙をつかまえて田んぼに戻そうとするも逃げられた。久しぶりにきれいな緑色のトノサマガエルを見たので、何か幸運がやってきそうだ。

ホームセンターにペンキと刷毛を買いに行く。処理のしやすい水性塗料で色はホワイトとダークブラウンの二色。

10年近く屋外で使ってた樹脂製の収納ボックスが雨風で劣化し、廃棄処分するか迷ったあげく、塗装して再生しようとする試み。

外壁の色に合うようにシンプルなツートンとしたが、樹脂と水性の相性は良くないという問題もある。その上ボックスの表面の劣化も激しいので、普通ならば十中八九家庭ごみとなり買い替える代物だ。

ペンキ塗りも難しい、塗りむらも気になるし、色あいも気になるところだが、水性塗料の手軽さは塗っていておもしろい。
これならばラティスフェンスもいけるし、カーポートの白線も塗れそうだ。なんでもかんでも塗りたくなる衝動にかられるが、明日は二度塗りして仕上げたい。

こういう実用的な行為が自分は面白い。
同じ時間に妻は布を型どりして何かを作っていたが、実用品ではなさそうだ。
人の趣味や嗜好はいろいろある。この「実用」ということに自分などは「楽しみ」を持つ。

「モノ」は必要から始まるという頑固な思いがあり、生活に密着した「モノ」にこそ、「モノ」の原点があると、まあ、人の嗜好は多様である。
ツートンの収納ボックスには文字も絵も描かない。「世界平和」とか「核軍縮」とか「笑福来門」とかそういうプロパガンダ的な文字に、ほんの少しだけその気になりはするが、やはり白い色と濃い茶色のツートンという、変化に乏しく目立たないのが、最上なのだと思う。
なにせ植木鉢や腐葉土やそうした園芸用品が収まるものには、それに似合った色具合が妥当なのだと思う日曜DIYの日。

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2017.08.17

みょうがとメダカ

8月17日(木)それぞれの顛末

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■茗荷(みょうが)を収穫した話
Kさんから分けてもらった茗荷の根っ子を大きめの鉢に植えた話は以前書いた。
その茎の根もとから出ました~♪、実はこれ二つ目で初収穫したのは二週間ほど前。
もちろん、素麺の汁の薬味としてすぐ食べてみたが、やっぱり「茗荷」の味がしたって・・・当たり前か。
この茎頂つくのが花序で、これを「茗荷の子」と「俳句歳時記」に載ってましたが、もちろん夏の季語。
たがだか一つ二つの茗荷の話で恐縮だけど、小さな植木鉢でも収穫出来るのかと感心したついでに、これも立派な「鉢の畑」ってことか。

■めだかを死なせてしまった話
めだかを10匹ほど買って、そのめだかから卵がかえり数ミリほどのめだかの子が生まれたことは、これも前に書いた。
しばらくして成魚は睡蓮鉢もどし、ちっちゃな子めだかだけ水槽に入れて孫に「メダカの赤ちゃんだよ」と喜んで見せていた。成長は早いものでひと月ほどで2~3倍の大きさになり、順調に育っていたと思ってたら、何が原因か1匹を除いて一夜にして死んでしまった。
「めだかがお空に行ったんだよね~」と孫が言うが、生き物を「育てる」っていうのは難しい。
生き残った1匹は睡蓮鉢に戻し、成魚の仲間入りとなり、現在は7匹が水草の陰に身を隠している。
卵がつかないようなので、オスメスのバランスが悪いのか「これ以上殺されたらたまらん」とでも思っているのか、はたまたメスばかりの「めだかの女学校」となってるのか・・・
教訓、めだかには水槽よりも睡蓮鉢(めだか鉢)のほうが暮らしやすそうだ。


茗荷の子もめだかも俳句で言えば夏の季語だ。もう立秋もすぎ暦の上では秋なので、こういう記事は暑い暑い夏に書くと風情があるのだろう。
ふと朝の4時すぎに目が覚め何気に近所を散歩してたら「農地(畑)貸します」という手書きの張り紙に目が留まった。
少し心を惹かれ「畑かぁ~」、茗荷もいっぱい出来るし、ナスや野菜類だって。
とはいうもの野菜の知識はないし、めだかも死なせてしまうぐらいだからなぁ~、いや勉強すれば立派な畑が作れるか、そもそも借地料はいくらぐらいだろう・・・
などと勝手に妄想するのは農民だった親のDNAのなせるところか (笑)

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2017.08.15

残暑見舞い

8月15日(火) 敗戦の日

毎年、この日になると「終戦の日」の特集番組が組まれる。NHKで日本軍の「インパール作戦」について放送があった。多くの兵士の死体で埋まった「白骨街道」と言われる戦地。
妻と見ながら「軍の上層部はいち早く退却し、いつも凄惨な目に遭うのは下の兵隊たち、戦の本質は同じだなぁ~」などと話す。

父母の満州(現中国)・シベリアからの引き揚げ復員とて本質は同じこと。厚生労働省への資料請求の話は後日述べるとして、公文書によって、引揚の日時や死亡時、あるいは当時の開拓団の所在地などが正確に判明した。

戦争体験者が少なくなり、聞き語りの内容も記憶だけでは曖昧なものになりがちなのが、72年前の戦争の事実だと思う。
戦後生まれの自分たちにとって、あの「戦争」が何をもたらしたのか?、その事実を知り、より深く心に刻むことなのだろう。戦争によって何百万人もの死がもたらされた・・・と知ることはできるが、その死んだ人にはそれぞれ生きて来た人生があり、親子兄弟家族友人がいた。
ひとくくりに「多数の戦死」としてだけで歴史をみてはダメだろう。

さて、久しぶりに「普段の日常」に戻り、少し糖尿の疑いもあると言われ、何十年も生きて来た自分の健康にも留意せねば・・・と、庄内緑地公園一帯の自転車キコキコ。
ほどほどに元気だと、自撮り写真を載せてみた。
自分の写真を載せて何になると常々思っているが、年に一枚か二枚の「安否確認」報告ってことだと思っている。年に数枚の・・・(笑)

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【8月14日庄内緑地公園、お気に入りのベンチ前にて自撮り】



 

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